の読書環境がどのように生まれ、変化してきたのか、このような諸問題を総合的に表現する言葉は従来存在しない。 それゆえ、和田教授は上記の著書で「リテラシー史」と言う新語を創造した。 こうした観点から、米国に於ける日本語書物とその読者の「日米関係史」を米国の各地在の国・公立図書館や学術機関に見られる記録史料を基に調査・研究された成果が上記の御高著である。 今回その調査範囲を当国カナダに広げられたのは、将来の新版の「日加関係史」、あるいは改定総合版の「北米関係史」に備えての事と思われる。 

 太平洋戦争が1941年12月7日に勃発した際に米国国防省および国務省は敵国日本の国情や民情を知るための日本語書籍を所蔵する米国の機関とそれを読む能力のある米国人の深刻なる欠乏状況に驚き、これは米国家安全保障に関わる大きな問題であることを認識した。 そこで、陸・海軍に早速日本語学校を開校して、全米の大学より優秀なる学生を好条件で募集し、日本語情報将校として速成し、戦場での捕虜の尋問や捕獲日本語資料の分析に当たらせた。 これらの言語士官が戦後には民生移転して、各地の大学では政府助成金による日本学研究が盛んになり、その結果日本語蔵書も次第に大きく構築されて行った。 今日では、中近東紛争の影響で、これと似た状況がアラビア語に関して見られる。 米国のアラビア語専攻の大学生には高額の奨学金が与えられ、即戦力のこれら卒業生は軍と民間の軍事関係機関よりこれまた高給で引っ張り凧の現況だそうである。 

2)訪問記:

 さて、和田教授はカナダ実地調査の第一番目としてUBC図書館を訪問された。 調査初日の2月6日には、元アジア図書館日本司書の小生権並恒治と元アジア学科日本学コースのジャン・F.ハウズ(John F. Howes)教授が応対した。 午前中には、UBC内のアジア学研究施設のアジア・センター(1970年大阪万博の三洋電機館)、新渡戸紀念日本庭園、アジア図書館日本語コレクション、アジア研究所などを筆者が案内・説明した。その後はハウズ教授と大学センター内のレストランで落ち合い、3人で昼食を取りながら、主として教授よりUBCでのアジア学や日本学コースの始まりについて説明があった。 元UBC総長の故ノーマン・マッケンジー(Norman MacKenzie, 1894-1986)教授(法学)はそれらの講座の奨励者の一人で、1920年代にジュネーブ在の国際連盟にて事務次長の新渡戸稲造博士(農博・法博)と懇意なる同僚であった。その後両人はそれぞれ母国に帰るが交友は続き、新渡戸は戦前期の非政府系国際平和団体(NGO)として有名な「Institute of Pacific Relations: IPR(太平洋問題調査会)」の日本支部長に任命され、1929年に開催されたその京都会議の議長をも務めた。 さらに、1933年にはカナダ・バンフでのIPR会議に参加し、その帰途病魔に見舞われ、惜しくもB.C.州の首都ビクトリアで客死した。 当時トロント大学法学部で教壇に立っていたマッケンジー教授は欧米在のかっての新渡戸博士の知人や友人達より浄財を集め、四メートル程にものぼる大きな石灯籠を日本へ特注して、それに[ Nitobe Inazo (1962-1933).  Apostle of Goodwill Among Nations.  Erected by Friends.]と言う友人一同の建立による“諸国民の善意の使徒”の銘版をつけて故人を賞賛すると供に偲ぶよすがとしている。 今日この大石灯篭は新渡戸庭園のなかに大切に保存されており、多くの庭園見学者へ感銘を与えている。 午後には会談場所を日本研究センターヘ移動して、和田教授とハウズ教授との間にUBCに於ける日本研究講座についての質疑・応討が活発に行われた。 ハウズ教授は、米海軍日本語学校出身の元情報将校で、戦後には占領軍のGHQに軍属(Civilian)として数年間勤務後米国へ帰国し、コロンビア大学大学院へ入学した。 そこで日本史をSir George Sansom教授、また日本文学を角田柳作教授に学び、その後日本へ留学し、東京大学や京都大学で明治期日本キリスト教史を研究した。 博士論文:『内村鑑三』を書き上げて、母校コロンビア大学より学位を得られた。 作家三島由紀夫が始めて1957年に渡米した際には、当時のハウズ大学院生がニューヨーク市内を案内したことが、中公文庫の『三島由紀夫未発表書簡:ドナルド・キーン氏宛の97通』(東京:中央公論新社、2001)に記述 (p.29.33)されているのが見られる。

 訪問二日目の2月7日には、午前中より午後5時まで、新築のIrving K. Barber Learning Centre (I.K.B.L.C.:前UBC図書館中央館)のUniversity Archiveで大学図書館やアジア図書館の歴史的史料の調査に当たられ、特殊資料や大コレクションの購入経過や特別予算、専門司書の人事記録など、多くの収穫を得られた様子でした。 その夜は大学近くの日本レストランで夕食を供にしながら、筆者がUBC支部図書館に散在する下記の各種日本語蔵書の史的概要(1959-2002)を説明する: すなわち ア) アジア図書館日本文庫、イ) 法律図書館 (日本法学書)、ウ) 教育図書館(日本教科書)、エ) I.K.B.L.C美術部 (日本美術書)、オ) I.K.B.L.C.特殊資料室(日本古地図)、カ) 同特殊資料室 (日系人史料)等々。本紙の紙幅の関係上これら全ての日本語蔵書についてここで述べることは出来ないので、関心のある読者は筆者の“ブリテイッシュ・コロンビア大学図書館日本語蔵書回顧概観(1959-2002)” 『大学図書館研究』No. 79(Mar. 2007) pp. 53-61を参照願いたい。 UBC日本文庫は、1959年に“日本政府刊行物” (約300冊)の国際受託図書館に指定された時に始まり、1960年にはそれぞれ英国とカナダの名外交官であり、また著名な日本研究学者でもあったジョージ・サンソム卿(Sir George Sansom, 1883-1965)(約300冊) と ハーバート・ノーマン博士(Dr. Herbert Norman, 1909-1957)(約400冊)の個人日本蔵書が日本文庫へ寄贈された。 さらに1961年には、前述のNGOたるIPR (太平洋問題調査会)が米国よりUBCへ移転した際にその日本語蔵書(約400冊)が日本文庫へ追加された。  創設期の日本文庫は上記の日本語書籍 総計約1400冊をもって発足し、今日ではその100倍の14万冊を所蔵するまでに成長し、人文・社会科学の各分野のUBC学部および大学院における日本学研究を支援している。

司書の任務は蔵書構築、整理作業、参考事務と言う図書館の基本的業務に加えて、資料保存プロジェクトや学際シンポジウムへの参加なども含まれる。 1999年4月28日、筆者はサイモン・フレーザ大学日本文化講座の一環として開催されたカナダの生んだ名外交官であり、また日本学者としても著名な故ハーバート・ノーマン博士の悲劇的な生涯に関するドキュメンタリ映画:The Man Who Might Have Been: An Inquiry into the Life and Death of Herbert Normanの試写会を兼ねた講演会に招かれ、日本文庫所蔵のノーマン個人蔵書について報告する機会を得た。 ノーマンは1948年の慶応義塾大学の講演で、『世界は「戦争」と「力」の抑圧に疲れ果てた。 世界が真に進歩するためには、「説得」と「理性」による問題解決に「力」は道を譲るべきだ。』と述べている。 アフガニスタン、イラク、イスラエルなどで現在起きている数々の国際紛争を目撃するにつけ、60年前と世界情勢は少しも変わっていないことを実感する今日、我々は改めてこうした真の「知性」のあり方を問い直す必要がある。 多文化主義と多元国家主義に基づく多民族共存共栄の新秩序によって成立する普遍的統治概念が地球規模的に広がるのを、世界よりの移民国カナダの人々は強く希求している。 人間の知的創造活動の成果たる書物の収集、保存、提供に日夜努力している世界中の図書館人の基本的視座も、「知」の普及と「言論」の自由を通して、平和的共存社会への貢献とその恒久的確立にあるものと、筆者は確信する。 

UBC最終日の2月8日も和田教授は朝から夕刻5時まで大学史料室で図書館の過去の史料類を調査し続けられた。しかし訪問時間切れにて、予定していた特殊資料室での「日系カナダ人関係史料」と「江戸期刊行の日本古地図類」は残念ながら今回は見落とされる結果となった。次回の機会に延期するとともに、その際には日系センター、日本語学校、旧日本人街なども訪れたいとのことや、またその第二次調査の時には、東部のオンタリオ州やケベック州へ是非行きたいとの希望を述べられた。 そこで筆者はマックギル大で日本史を長らく教えている太田雄三教授や、かって東京の国会図書館よりフランス語系のモントリオール大の東アジア研究所へ派遣されて、そこで日本語蔵書の構築に当たった加藤典洋教授(現早大)などへ、早速紹介の労を取った。 加藤教授は現在『朝日新聞』の「文芸時評」も担当されている。

3)おわりに:

和田教授の論を総括すると、“リテラシー”の定義とは、本の読み方と言ってよい。 書物を読む方法とは、読者によって千差万別で、これでなければならないと言うスタンダードがあるわけではない。小説家の平野啓一郎氏は一昨年『本の読み方:スローリーデイングの実践』(東京:PHP研究所、2006)を上梓し、時間をかけてゆっくりと、しかし深く精読する本の読み方を提唱し、古今の名作の真の活きた知識をそれらの本から感得する実践的な方法を紹介している。 恐らくこの本を読んだ読者は、またそこからそれぞれ独自な読み方を見つけることであろう。 このことが、和田教授の言う“リテラシー史”になるわけであると、筆者は解釈する。

江戸時代には、日本の庶民は寺小屋で“読み、書き、そろばん”の初等教育を受け、巷には“絵入り源氏本、黄表紙、各種草紙類”などが溢れ、それらを扱う貸本屋は大変繁盛したそうである。江戸期初期の鎖国以前に日本へ布教にやって来たキリスト教宣教師や長崎出島のオランダ商館人は、日本人の“リテラシー(識字率)”の高さに驚き、当時の世界水準をはるかに越えていたことが、彼らが記したバチカンへの報告や商館日記に見られる。これが明治維新後の近代日本の形成が急速に進んだ要因の一つと言われるゆえんである。 最近では、文学とメデイア・アートの合作による新しい小説作品も見られる。 そこでは、文章を読むだけではなく、そこに描かれた挿絵や添えられた映像(動画、写真、グラフイクス等)を同時に鑑賞すると言う“リテラシー史”の革新が起きている。 しかし考えてみると、上記の江戸絵草紙が正にその魁で、現代のこの新しい傾向は“リテラシー史”に於ける“革新”と言うより“リバイバル”と言うべきか?

戦時中の敵国情報収集の時代には、書物対読者の関係は極限状況にあり、読み手は捕獲資料を100%読み解く責務を課せられ、読み手の個人的趣向は完全に無視された。 平時にあっては、新しい書物が世に出された際には、その読者は自分の好みによりそれを選択できるし、全て読みきらなくても良い。 戦時と平和時では“リテラシー史”上において大きな相違が存在する。 しかし、平時においても、書物と読み手の間の関係:professional readingと pleasure readingは、例えば図書館司書と利用者との関係に見られる如くに、職業上の責務の伴う読み方と完全に自由なる読みとに二分できうる。 今日、書物対読者の関係は情報通信の発達により寸時に国境を越えるボーダレス、globalizationの時代であり、ここに“リテラシー史”の実践としての“書物の各国間関係”論が成立する根拠がある。

和田敦彦早大研究室では、今年1月に新雑誌『リテラシー史研究:Journal of Literacy History』を創刊されたばかりである。 “リテラシー史研究”の定義とは、人間の創造活動の成果たる“書物”がいかに形作られ、それが読み手に如何に受容され、グローバルに伝達されるか、“リテラシーの歴史”に関連する多様な問題: 出版、メデイア、言語教育、書物の文化史、読書環境、情報の流通 等々 従来の文学、歴史、社会学などの立て割り分野を越えて、それらを横断・総合化して“読み解き”そこから新たな“知の発見”をする創造行為と、筆者は理解するが、これで宜しいか否か、創始者の和田教授にお尋ね致した。(答えは、“「リテラシー史研究」の説明としては過不足のないものと存じます“ であった。)

また“海外に存在する日本語蔵書”の意義とは、一言で言えば“書物を通して日本を知らせる”ことにつきると思われる。 筆者は図書館での実働40年の経歴を有する元図書館人として、教授の提唱される“リテラシー史”上において“書物を通して日本を知らせる”ご努力が今後更に新たな実を結ぶことで、多民族共生による世界の平和的社会の確立へ貢献されんことを切に祈念申し上げるものである。
早稲田大学和田敦彦教授UBC図書館訪問記

権並恒治 (ごんなみ・つねはる)UBC日本研究センター研究員報告

1)はじめに:

 昨年『書物の日米関係:リテラシー史にむけて - The Japan-US Relationship Viewed from Book Circulation: Toward the Literacy History ― 』(東京:新曜社)を上梓され2007年度図書館情報学会賞を受賞された早稲田大学教育学部の和田敦彦教授が、この度はカナダに於ける日本語蔵書の調査に2008年2月6日来加された。日本語で書かれた書籍が海外で、いつ、なぜ、どのような経路で収集され、整理され、蔵書として構築され、またそれらの日本語書物を読む能力のある利用者やそ