1954年、兵庫県生まれ。東京大学経済学部卒業。同大学大学院経済学研究科博士課程修了。経済学博士。1989年より一橋大学に勤務。2000年12月4日、不慮の出来事(傷害致死を疑われる交通事件)により急逝。享年46歳。
【2011.12.07】ペルーの首都リマにてこの文を綴っています。今年は特別研究期間により本来こうしてペルー在外研究中の身ですが、諸般の事情で2ヶ月ほど一時帰国することとなり、図らずも晩秋の時期まで東京にいました。これもいい機会と思い、一念発起してお墓参りに行ってきました。ただし、再出発の日程がちょうど命日の日だったため、数日前倒しでの訪問となりました。墓石の前に立ったとき、ついに私は辻内さんの年齢を超えてしまったのであると、その不可思議さをあらためて実感させられました。
さて、今年は3.11に未曾有の大震災・津波が東日本を襲い、政府公式見解とは裏腹に、福島原発事故がもたらした放射能汚染はおよそ収束不可能なのではないかと疑わざるをえません。それにもかかわらず、日本の政官財界は脱原発へと向かうことなく、あまつさえ、海外へと原子炉輸出を企てようとさえしています(受け入れるほうもどうかと思いますが)。およそ信じがたいことですが、残念ながらこれが日本の現実です。この絶望的状況は、辻内さんの目にはどう映ったことでしょうか。
しかし一方で、これを押しとどめ、脱原発へと方向転換させようとする運動も高まり、多くの人々が街頭へと繰り出すようになりました。1970年前後を堺として退潮してきた大衆行動が、30年以上の時を経て甦ろうとしています。辻内さんが19世紀米国再建期の奴隷解放政策(の挫折)にそもそも取り組んだきっかけが、1970年代の日本においてなぜ革新的運動は退潮していかなければならなかったのかという問題関心が根底にあったと聞いたことがあります。日本を脱原発へと向かわせようとしている今回の運動(の復活)が今後どう展開していくのか、それは学究的な対象である以上に、自分自身のまさに立ち位置(positionality)が問われる問題であり、この動きをふたたび退潮させてはならじと、一研究者であることを超えて強く心に期する次第です。
【2010.12.27】期せずして、昨年と同じ日の更新となりました。この1年のときを経ての最大の変化は、とうとう辻内さんの年齢に追いついてしまったということです。いつかは来るとわかっていたことですが、やはり複雑な心境です。いや、「いつかは来る」などと、未来について確信を持って言うことができないかもしれないということを、私たちは辻内さんの身に降りかかった災禍によって思い知ったはずでした。あれから10年、自分がこうして生きながらえているのは、本当にありがたいことなのかもしれません。これから私は、辻内さんを追い越して年を重ねてゆくことになります。それはじつに納得のいかない、不可思議なことに思えます。しかし、こうしてまだ時間が与えられているあいだに(いつまでかはわかりませんが)、私は永遠に46歳のままの辻内さんを時折振り返りつつ、それでも前に向かって歩んでいかなければならないのでしょう。来年は折しも、在外研究の機会を与えられて、かつての留学の地・ペルーで研究に専念できることになっています。願わくは「同い年」であるこの1年のあいだにも、もう少し学業的な差を詰めたいものです。10年の節目に、あらためてご冥福をお祈りします。
【2009.12.27】なにかと慌ただしくて告知している余裕もなかったのですが、今年も命日の4日には事件現場に行っています。日中は授業が入っていたため、夜間に訪れました。これまででもっとも事件時刻に近い訪問だったかもしれません。そして今日27日は、いまはなき青山学院大学厚木キャンパス(日産に売却。今回そばを車で通りましたが、さすがにチャペルもすでに撤去され、すっかり日産の施設になっていました)勤務時代に馴染みになった、厚木市の七沢温泉郷に宿泊する機会があり、久しぶりに相模原にあるお墓参りにも行ってきました。墓石に彫られた「享年46才」の文字を目にするとき、早すぎたその死があらためて残念に思われます。そして、自分もついにその一歩手前の年齢になったことに感慨を覚えます。今年は3月に、初の単著を刊行することができました。研究書ではなく一般書であったため、特に家族に伝えることもなく過ごしていたところ、9月になって突然の死が私の父を襲いました。脳梗塞でした。私は二度と父に自分の本を読んでもらうことができなくなってしまいました。無念です。この年の瀬に、辻内さんと並んで、父・新市(享年76才)の冥福を祈ります。そして、父が好きだった歌の一節を以下に記すことを、どうかお許しください。
岩尾別旅情 さとう宗幸(作詞・作曲・歌)
別れてゆく知床の 霧にけむる道で
手をふる君の姿は 花のかげに消えた
いつの日かまた会えると 笑顔で別れてきた
君の声が今もきこえる その日までさようなら
君の声が今もきこえる その日までさようなら……
【2008.12.08】今年もなんとか時間をやりくりして、命日の4日に国立・国分寺界隈を訪れました。かつて学び暮していたこの辺りの晩秋の風景が美しいことに、いまさらのように気づかされました。例年この時期にはすでにおこなわれている、国立駅前の大学通りの樹木のライトアップはされていませんでした。温暖化に配慮してのことのようです。
ときに掲載が遅れましたが、この文章は京都で書いています。翌5日から6日かけて開催された、京都大学主催の国際シンポジウム「変化する人種イメージ──表象からさぐる」に参加していたためです。内容からいって、辻内さんも当然興味を示されたであろうことはまちがいありません。あるいは、そもそもメンバーとして企画にかかわり、それこそ発表をされていたかもしれません。「米国初の黒人大統領」(事実としては、黒人と白人の「混血」と称されるべきですが)としてバラク・オバマのことも話題に上りました。辻内さんの不在は、つくづくも口惜しいことです。
数ある報告のなかで、ヒトゲノムの解析にかかわる加藤和人氏(京大)の報告が私にはとりわけ興味深かったです。氏は、人種問題克服のために自然科学と人文社会科学の共同作業が必要であることを説いていましたが、コメンテータの松田素二氏(京大)の問いかけ、および「万が一ゲノムの解析が有意な人種差の存在を証明してしまったと仮定する場合、私たちはどうすべきなのか?」というフロアからの質問票(じつは、この質問は私が書いたものでした)に対して、自然科学は対象についての「理解を進める」ことはできるが、その理解を「どう生かすか」は人文社会科学がイニシャティブを持つべきことであると応答しました。現状においては、あまたの自然科学研究が人種差の根拠を否定しているにもかかわらず、歴史的社会的通念が人種主義を執拗に再生産し、それを人文社会科学が覆しえない(あるいは、ときに再生産に加担してさえいる)事実を思うとき、人文社会諸科学の責任は今後なおいっそう重いと痛感せずにはいられませんでした。
国立・国分寺界隈にも増して、晩秋の京都市内はなおいっそう美しかったです。シンポ2日目の早朝には、きりりと冷え込んだ空気のなか、南禅寺から銀閣寺まで哲学の道を散策し、昼休みの短い合間を縫っては、京大脇の吉田山に登って紅葉を満喫しました。叶わぬことではありますが、この晩秋の京都の美しさを、辻内さんにもお見せしたかったです。
【2007.12.04】今年もわずかな時間ではありましたが、国立まで足を伸ばし、事故現場でしばし黙祷を捧げてきました。晩秋の国立・一橋大界隈は相も変わらず銀杏並木の彩りがみごとです。そんな美しい季節に辻内さんは逝ってしまって、返す返すも残念でなりません。私は今年、43歳になりました(なってしまいました)。辻内さんの年齢にますます近づいてきています。それなのにはかばかしい成果を上げられない自分に、焦りを覚える今日この頃です。
【2006.12.04】授業のなかった午前中を利用して、事件現場を訪れました。新築の一戸建て住居が完成間近でした。あらためてときの流れを感じさせます。その足で一橋のキャンパスにも向かいました。キャンパス構内はしかし、変わらぬ美しさと静謐さを湛えているように思えました。失われてもう二度と取り戻すことのできないものと、あたかも不変のごとくそこにあるものとのコントラストがあまりにも著しい、晩秋の国立でした(そういえば、駅の赤い三角屋根はニュースで聞いていたとおりに撤去されていましたが)。
在学時代にときどき通った大学通り沿いのコーヒー店に入り、3階の窓際の席に座ってコーヒーを啜りながら、午後の授業(ゼミ)で使う文献に再度目を通しました。その文献とはシェルビー・スティール『黒い憂鬱』(五月書房)、原書はShelby
Steele, The Contents of Our Culture: New Vision of Race in
America (New York: St. Martin's Press, 1990)、そう、辻内ゼミで読んだことのあるものです。米国留学から帰ってきたゼミ生が人種問題に興味を持ち、相談を受けて読むことを薦めました。私はといえばラテンアメリカの研究者、本来米国研究の指導などできるはずもありませんでしたが、幸いにして辻内さんのゼミに在籍していたため、人種・民族問題という接点で米国研究に触れていたことから、まがりなりにも指導が可能になっていると言えます。
私が所属する早稲田大学教育学部「外国語科」は、来年2007年4月より、新たに学生定員の付いた「複合文化学科」に生まれ変わります。英語以外の外国語を習得させると同時に、さまざまな文化・社会現象を多面的・複合的に分析・考察させることを目指しています。制度上、取り組むテーマは選択言語と必ずしも結びつける必要がありません。つまり、スペイン語を選択した学生が、ラテンアメリカを専門的に勉強するとは限りません。人種・民族問題という枠にもあるいは収まらないかもしれません。そんな新しい環境のなかで、私にできることはなにか。それは、人種・民族問題に端的に示される差異化・差別化の力、すなわちracialization/essentializationの力が、日常生活のさまざまな場面においてもじつは作動していることを、学生に理解してもらうことです。同時にそれは、学問という枠を越えて、広く社会において「公正」さを求めることにもつながるでしょう。じつは「公正」さとは、私が辻内さんから受け取った最大のメッセージであると思っています。そうではなかったですか、辻内さん。いまとなっては確かめようもないのだけれど。
【2005.12.04】今年は11月のうちに事件現場を訪ねました。現場脇の更地は本格的に売り地となっていました。花を手向けることは近隣住民の迷惑になるかと思い、控えることとしました。今回はその足で、思い立って久しぶりに小平キャンパスを訪ねました。国立へのキャンパス統合以降、小平キャンパスを訪ねるのははじめてのことです。他大学の学部出身の私は小平キャンパスで学んだことはありませんが、博士課程時代の一時期、小平市喜平町に住んでいたころ、図書館はよく利用しました(辻内さんも、かつては小平キャンパスの官舎にお住まいでしたね)。すでに夕暮れが迫っていたとはいえ、そのキャンパスの変貌ぶり、それも諸施設の集合体となった充実ぶりには驚かされました。これも私にとっての大きな変化のひとつです。いろいろなことが過ぎゆき、そして変わっていきます。私はといえば、この5年間になにが変わったのでしょうか。変わるべきこと、変われなかったこと、変わらずに残したいこと、さまざまな思いが暗闇に浮かぶキャンパスのなかで交錯しました。辻内さん、辻内さんがいまいらしたらどう変わられていましたか。その姿を見ることができないのが、なんとも残念でなりません。
【2004.12.04】今日また、あの場所を訪ねました。すでに花束がふたつ、手向けられていました。直接会うことはなくとも、それぞれのさまざまな思いはここに寄り集うのでしょう。私はといえば、はじめてお会いしたときの辻内さんの年齢をついに超えてしまいました。研究者・教育者として相変わらず至らなさを感じつつ、しかし少しでも辻内さんに近づけることをあらためて願い、現場をあとにしました。
【2003.12.04】辻内さん、早いものであれからもう3年になります。辻内さんはあのときのままなのに、私たちは歳を重ね、そして私個人は、ついに辻内さんにはじめてお会いしたときの年齢に達しました。今日、事件現場を訪ねました。現場脇の家屋のあった場所は更地となり、あの忌まわしい擦過痕の残るブロック塀もなくなっていることをはじめて知りました。ときは確実に流れています。
そしてこの間、世の中は徐々に悪いほうへと向かっているように思えてなりません。辻内さんは、南北戦争後の米国社会の再建とその挫折というテーマを選ぶにあたって、七〇年代日本の革新自治体の誕生とその衰退という問題関心が背景としてあるというようなことを、確かおっしゃっていましたね。革新勢力といえば、小選挙区制が導入されたときからわかってはいたことですが、先の総選挙では「二大政党による政権選択」の構図が全面に押し出されたため、もはや風前のともしびになってしまったかのようです。かたや世界に目を転じれば、イラクへの大義なき侵攻・占領を強行した米国は、反対勢力による執拗な抵抗を受け、ベトナム戦争時の泥沼化を彷彿とさせます。そして、あろうことか、日本はこの米国に盲従し、「テロには断じて屈しない」とただ繰り返すのみで、いままさに自衛隊を派遣しようとしています。
「二大政党による政権選択」にしても「テロには断じて屈しない」にしても、いったいなんのための政権選択なのか、そもそもなぜテロはなくならないのかといったことを問う、真摯な姿勢がおよそ欠落しています。目的と手段とが転倒し、思考が停止している状況です。そのような世界を、私たちは生きています。辻内さん、辻内さんならどう考えるでしょうか。9.11事件直後も、そしていまも、辻内さんの意見をぜひ聞きたいと思いました。残念ながら、それはけっして叶わないことですが。
今日の東京は晴れ、国立・国分寺界隈を歩けば紅葉も美しく、きりりと澄み切った空気に身は引き締まり、そして博士課程時代のことが懐かしく思い出されます。しかし、あの日を境に、以前のような単純な懐かしさではありえないのも、また確かなことです。
【2002.12.04】被告の死によって真相究明の道が絶たれてしまったことに対するもどかしさの気持ちはどこにもやり場がなく、9月には箱根でのゼミ合宿の帰途に一人墓参りをし、そして今日、亡くなられて2年目の日を迎えました。特別な行事もないということで、ごくありふれた一日を過ごしました。そのことの有り難さをかみしめつつ。
【2002.07.01】事件の被告が、6月30日未明、東京拘置所で自殺しました。ご冥福を祈ると同時に、事件の真相究明が困難になったことを心底残念に思います。詳しくは中野聡さんのページをご覧ください。
【2002.06.21】控訴審が7月10日より東京高等裁判所で開始されることになりました。詳しくは中野聡さんのページをご覧ください。
【2002.04.09】辻内さんの生前の業績が収められた『概説アメリカ文化史』が4月5日付で刊行されました(下段「業績」欄参照)。これは遺稿集『アメリカの政治文化』には収録されていません。同書は私の前職場である青山学院大学の教員を中心に編集されたものですが、編者の求めに応じて辻内さんをご紹介した経緯があります。
【2001.12.04】
辻内さんが亡くなられて1年になります。12月2日には「辻内鏡人さんをしのぶ集い」が開かれ、その折に、遺稿集『現代アメリカの政治文化』と『言葉──辻内鏡人追悼文集──』(私家版/入手方法はこちら)が私たちの手元に届けられました。この日の実現のためにご尽力されたすべての皆様に感謝いたします。
この1年辻内さんと関わりのある方々との交流のなかで、また「しのぶ集い」の席上で、そして追悼文集を読むことで、一個人レベルでは到底知り得ない、辻内さんの生前のさまざまなエピソードに触れることができました。馴染み深い横顔もあれば、意外な一面を知らされたりもしましたが、そうしたエピソードの数々が織りなす全体像からうかがえるのは、だれもが辻内さんに全幅の信頼を寄せていたということなのだろうと思います。そのような人と知り合えたことはじつに光栄であると同時に、いまこの世にいらっしゃらないという事実を前にしての喪失感もまた限りなく深いものとならざるをえません。
およそある人の全体像が知られるとは、その人が歴史の一頁に加わってしまったことを意味します。辻内さんの「全体像」なんて本当はまだ知りたくありませんでした。歴史の一部になってしまうのはあまりにも早すぎる。これから辻内さんご自身が、さらに歴史叙述を深めていこうとしていたそのときに。
辻内さんの命を奪った事件の刑事裁判はまだ終わっていません。この間の経過から予想されるのは、なぜこのような事件が起きてしまったのかというそもそものことの発端は、残念ながら明らかにされないかもしれないということです。しかるべき妥当な判決が下されることもさることながら、この真実の在処こそ、私たちが欲してやまないところのものです。遠く離れたアメリカ大陸の、過去の歴史を研究する者の端くれとして、身近で起こった親愛なる人の重大事の真相さえ明らかにできないのは、本当に、本当にはがゆいかぎりです。私たちはここに、歴史研究の困難さを教訓として学ばなければならないのでしょうか。だとすれば、辻内さんが個人的に払った代償はあまりにも大き過ぎます。
辻内さんの共著『キング牧師』をあらためて紐解くとき、私たちは次のキング牧師暗殺の場面の記述に突き当たります。「……医師たちの努力もむなしく、キング牧師は、ひとことも発することなく、ついに最後の息を引き取りました。/このとき、彼の頭のなかを去来したものは、何だったのでしょうか。彼には、みんなに言い残したかったことが、必ずあったはずです。それなのに、ひとことも発することなく息をひきとらねばならなかった無念さは、どんなものだったでしょうか。私たちは、いま、キングが伝えたかったことを、考えてみなければなりません」(6頁)。キング牧師を辻内さんに置き換えるとき、私たちの胸は激しく締めつけられます。
私たちにできること、それは、辻内さんが「みんなに言い残したかったこと」「伝えたかったこと」を、各々が確かな「言葉」として受け止めてゆくことにほかなりません。命日の今日、あらためて心からご冥福をお祈りいたします。
[追記]
追悼文集に詳細な「研究履歴・年譜」が付されているため、本ページの「業績」欄は著書と論文に限定することとして修正・削除を施した。
【2001.03.31】拙稿を含む『ニューヨーク──<周縁>が織りなす都市文化──』が刊行されました。これは私の前職場である青山学院大学の総合研究所プロジェクトの成果ですが、じつはプロジェクトの過程で、外部講師として辻内さんをお招きして報告をしていただいたことがありました。辻内さんの突然の訃報は刊行準備も押し迫ったころでしたが、編者の配慮によりご冥福を祈る旨を「あとがき」に加えていただいたので、ここに紹介させていただきます。
【2001.02.22】私の博士課程時代の指導教員である一橋大学大学院社会学研究科教授・辻内鏡人(まこと)さんが、2000年12月4日に急逝されました。享年46才でした。あまりに無念でならないのは、単に夭折されたことのみならず、その死が交通傷害致死[を疑われる]事件によってもたらされたという痛ましい事実によります。ご家族の心中は察するに余りあります。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
ゼミでの慣行にしたがい、「辻内先生」ではなく、ここでも「辻内さん」と呼ばせていただきますが、このことがなによりも辻内さんの人柄を物語っています。教員と学生のあいだの権威主義的関係を解消するために、学生に「先生」と呼ばせない例は少なくないと思いますが、権威主義というものとおよそ無縁であった辻内さんにとって、それはじつに自然なことであり、私たちもごく自然に「辻内さん」と呼んだのでした。
辻内さんと私はちょうど十歳ちがいです。初めてお会いしたのは、辻内さんが39歳になる1993年のことでした。それ以来私は、39歳という年齢を、自らの到達度を見定めるための計測点としてどこかで意識してきました。39歳の自分はなにをなしえているだろう、それは辻内さんと比してどうであろうか、と。39歳という年齢は思ったより早く近づいてきて、才気豊かな師と自分を比べることの無謀さに気づき、計測年齢を上方に修正せざるを得ないと思っていた矢先、辻内さんの突然の訃報は届きました。私たちは心より敬愛し尊敬する人を永遠に失ってしまいました。そしていま私は、到達目標の設定が46歳を越えてはできないことの持つ意味を、考えないわけにはいかないのです。
今後辻内さんのご家族を支援していくことを目的として、「辻内鏡人さんをしのぶ会」が作られました。遺稿集・追悼集の出版も計画されています。「しのぶ会」のこと、及び事件の詳細・裁判の経過については、下記のリンク先をご参照ください。私も引き続きコメントを書き綴っていきたいと思います。
(著書)


2001 『現代アメリカの政治文化──多文化主義とポストコロニアリズムの交錯──』ミネルヴァ書房
1997 『アメリカの奴隷制と自由主義』東京大学出版会
(共著)
1993 辻内鏡人、中條献『キング牧師──人種の平等と人間愛を求めて──』<岩波ジュニア新書・221>岩波書店
(論文)


2002 「マルチカルチュラリズム」笹田直人、
堀真理子、外岡尚美編『概説アメリカ文化史』ミネルヴァ書房
1999 「多文化パラダイムの展望」油井大三郎、遠藤泰生編『多文化主義のアメリカ──揺らぐナショナル・アイデンティティ──』東京大学出版会
1999 「人種・民族の問題と国家──アメリカ人とはだれのことか──」内藤正典編『うちとそと』<地球人の地理講座・6>大月書店
1998 "Historical Context of Black Studies
in Japan", Hitotsubashi Journal of Social Studies,
Vol.30, No.2.
1998 「米国における国民的アイデンティティの形成と人種」『歴史学研究』716号
1997 「アイデンティティと差異をめぐるポストコロニアルの投企」唯物論研究協会編『相対主義と現代世界――文化・社会・科学──』<唯物論研究年誌・2>青木書店
1996 "National Identity in the United States
and Japan", Hitotsubashi Journal of Social Studies,
Vol.28, No.2.
1996 「多文化主義をめぐる問題領域の構図」『アメリカ史研究』19号
1996 「批評理論としての多文化主義」文部省特定研究報告書『地域社会の国際化』一橋大学社会部
1995 "Creating the Self And Others Through
Mutual Recognition: The Essence of Multiculturalism", Hitotsubashi
Journal of Social Studies,Vol.27, Special Issue.
1995 「脱「人種」言説のアポリア──エセンシャリズムとポストコロニアルの相克──」『思想』854号
1995 「第二次アメリカ革命──国民的経験としての南北戦争──」歴史学研究会編『講座世界史3・民族と国家──自覚と抵抗──』東京大学出版会
1995 「多文化時代のアメリカにおける正義の公準と自己理解の倫理」上廣倫理財団『研究助成報告論文集』第6回
1994 「多文化主義の思想史的文脈──現代アメリカの政治文化──」『思想』843号
1990 「アメリカ合衆国における奴隷制廃止後の南部社会の再編過程」東京大学大学院経済学研究科博士学位論文
1989 「「奴隷主−黒人奴隷」関係の再編過程──解放民局の労働政策の展開──」本田創造編『アメリカ社会史の世界』三省堂
1988 「南北戦争後の解放黒人をめぐる法──労働体系としてのブラック・コード──」『桜美林論集』15号
1987 「南部再建の一局面──解放民局法の更新から廃止まで──」『アメリカ史研究』10号
1987 「解放民局の成立過程──議会動向を中心に──」『歴史評論』448号
1985 「国法銀行制度下の銀行信用」『経済学研究』(東京大学)28号
1984 「解放民銀行の破産──アメリカ南部「再建」に関する一考察──」『歴史学研究』533号