早稲田ラテンの杜
研究日誌
読書メモ
読んだ本の印象的な部分を抜き書きしていく、ただそれだけのささやかな試みです。しかし願わくば、永田町界隈の空疎な「ワンフレーズ政治」よりはましな「ワンフレーズ学問」であれと(太字強調後藤[赤太字は特に強調]。青字コメント後藤)。 注)項数はあえて記しません。関心があったら読んで探してみてください。
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【あ行】
- 井筒和幸「インタビュー」『パッチギ!』(井筒和幸監督、2005年)パンフレット【2005.04.13】
・「自分の物語だけを語るのではなく、相手の物語も知らんとアカンやろ。……自分の物語を分かってもらうために、……相手の物語に耳を傾けてるわけだよね。もちろん現実はそうそう簡単やない。友だち[注:在日朝鮮人]の葬儀で年輩のアボジから「お前ら日本人は何も知らんやないか」と言われても、彼[注:主人公の日本人]にはまったくなす術がない。そうやって自分の無知に傷つき痛みを感じた人間が、どうやってそれを乗り越えて「みんなの物語」を歌おうとするか。それがこの映画のキモだと思うんですよ。今の日本って自分の物語ばかりやないですか」
◎映画『パッチギ!』について簡単なコメントを。1968年は京都の、在日朝鮮人と日本人の若者の青春群像を描いた作品。ある意味できわめて定型的なプロット(『ロミオとジュリエット』か、はたまた『ウェストサイド・ストーリー』か)で、暴力シーン──それが井筒作品の「お約束」であれ──には個人的に辟易とさせられたが、映画を観て不覚にも涙したのも久しぶり。ラジオから流れる主人公歌う「イムジン河」を、ヒロインが葬儀中の皆に聴かせるシーンでのこと。「イムジン河」をはじめ、ザ・フォーク・クルセダーズの歌が効果的に配置されている。いわゆる「フォークソング」を「懐メロ」として後天的に聴いた世代に属する自分にとって、「あの素晴らしい愛をもう一度」などはあらかじめ「定番中の定番」に過ぎてどこか陳腐な印象があるのだが、こんなふうに新鮮な響きをもって聴けたのはたぶんこれがはじめてではないか。ちなみに、オダギリジョーが、バイプレーヤーとしてなかなかいい味出してます(笑)。彼の歌う「悲しくてやりきれない」は、へたするとオリジナルを越えてしまっているかも。
- 伊豫谷登士翁『グローバリゼーションとは何か──液状化する世界を読み解く──』(平凡社新書、2002年)【2005.03.11】
・「商品は、ひとたび境界を越えれば国籍を問われることはなく、資本もナショナルな刻印を脱して世界中を駆けめぐることになります。それに対して、労働力である人間が境界を越えることは命がけの飛躍であり、越境した後においても、自覚的あるいは無自覚に、さらには自主的にあるいは他律的に、ナショナルな刻印を追い続けることになるのです。ナショナルな境界の持つ意味の差異は、商品や資本の移動と人の移動を分かつ最も主要な特質の一つであり、それゆえに移民への関心は社会科学をナショナルな枠組みの限界から解き放ちうる道を示すのではないか……」
- 大塚英志『憲法力──いかに政治のことばを取り戻すか──』(角川書店<角川ONEテーマ21>、2005年)【2005.08.11】【2005.08.18追加】
・「今われわれに欠けている「力」は何なのかと冷静に考えてみた時に、一番問題になってくるのは、子供たちの学力の低下よりも、むしろ、ぼくたち大人の側の「憲法力」という有権者としての基本的な能力ではないのかな、という気がするのです。子供たちに声に出して日本語を読ませたり、百升計算をさせたりして、自分たちが何かを回復したかのように思うのはとんでもない勘違いで、「声に出す」とか「百升」ぐらいでなんとかなってしまうという発想そのものが、そもそも自分たちが一体何を失い、あるいは身につけないままここまで来てしまったかについて自覚のない証拠です。回復すべきなのは計算能力の類ではなく、むしろ社会的な力で、それもぼくたちが憲法下でいかにふるまうか、そのための能力です」
・「ぼくの憲法に対する立場を申し上げるなら「護憲」です。……今の憲法を変える前に、もう少しこの憲法を徹底して生きた方がいい、とぼくが考えるからです。少年犯罪が増えたのは戦後憲法のせいだという議論をしばしば耳にしますが、しかし、ぼくたちの社会の問題が憲法に起因するというのなら、この憲法が存在するからなのか、それともこの憲法をぼくたちが全うしなかったからなのか、については冷静に考える必要があります」
・「「第九条」をただの建前として自衛隊という実質的な「武力」を持つことで、その意味でも「憲法」という「ことば」を裏切り、そして裏切った現実に則した形に「ことば」を書き換えて辻褄(つじつま)を合わせようとするのが、「改憲論」です。ここまで「ことば」を裏切ったぼくたちがなすべきなのは「他者」との交渉術としての「ことば」の回復です」
・「だから今こそぼくたちは自分たちの「ことば」の立て直しの根拠を第九条においてみるべきなのです。第九条を前提に外交を行うという理想主義をもう一回復興する選択肢が、実は戦後の日本社会の最後の選択肢としてあるということを考えた上で、第九条を否定する改憲論に臨むべきだと思います」
・「戦後の政治運動の中に相応にあった「護憲」運動というのは、ことばと現実の矛盾を修正しろ、その場合に、理念ではなくて現実の方をきちんと修正しろ、つまり、憲法第九条の理念に対する徹底的な原理主義は非武装中立しかないだろう、と見直してもいいと思うのです。……今「非武装中立」なんて言うと頭がおかしいと思われてしまいますが、そういうことは誰かが言わないといけない。だから僕が言います」
◎遅きに失したというべきか、いいじゃないですか、大塚英志! 不覚にも私は、大塚が「自分で憲法の前文を書いてみる」という取り組み・訴えかけをしてきたことに、これまであまり関心を払ってこなかった。「改憲」の雰囲気がますます醸成されるなかで、本書は必読の書といえる。「郵政解散」によってもたらされた来る総選挙(05年9月11日)において、われわれはむしろ憲法問題という争点を際立たせ、「改憲」の是非を問うべきではないか。それこそが、大塚のいう「憲法力」、すなわち「有権者としての基本的な能力」なのではないか。
【か行】
- 姜尚中(かん・さんじゅん)、テッサ・モーリス−スズキ『デモクラシーの冒険』(集英社新書、2004年)【2005.02.10】
・姜「僕自身、どうして政治学者になったかというと、それが、投票権も被選挙権もない自分にできる、もっとも有効な政治参加に思えたからなんですね」
- 姜信子(きょう・のぶこ)・大熊ワタル「対談=歌の旅/記憶の旅」(『週刊読書人』2632号、2006年4月7日)【2006.04.06】
・姜「人間って自分で思想とか言葉とか選び取って使っているように思っているけど、……きっと、その当時流行っていた言葉に捕まっていたんだろうな、自分が掴んだんじゃなくて、捕まっていただけで、うまく捕まえられた人と捕まえられ損ねた人たちがいて、それぞれに幸せと不幸があるんだろうなと思ったんですね」
◎耳が痛く、そしてとても怖ーい指摘。自分で言葉を掴んで幸せ/不幸、言葉に捕まえられて幸せ/不幸、言葉に捕まえられもせず幸せ/不幸──さまざまなる組み合わせが考えられる。私(たち)はいったいどれ?
- 小坂井敏晶『異邦人のまなざし──在パリ社会心理学者の遊学記──』(現代書館、2003年)【2005.02.10】
・「新しい知識の獲得は空の箱にものを詰めるイメージで捉えてはならない。知識が蓄積される記憶という場所はすでに何らかの構造化がなされている。そしてその構造に合わない知識は歪められるか拒否されてしまう。いわばすでにいっぱいに詰まった箱に対して、その中を他のやり方で整理しながら新しい要素を組み込むのであり、そのためには既成の情報を捨て去ることも必要になる。大切なことは、様々な知識を解釈する認識自体をどうやって変更してゆくかにある」
・「自然科学と違って、人文・社会科学ではテーマが日常生活と密接に連なっている。そのために、研究の訓練を受けていない人でも多くの知識を持っている。……恋愛とか責任などというテーマになると、常識が邪魔して論理的な思考展開がかえって難しい。……考察対象と常識との距離がより近いので、常識という名の偏見がよけいに邪魔になり易い」
【さ行】
- 斎藤貴男『機会不平等』(文春文庫、2004年)【2005.05.16】
・「リーダーを自任している人々が他者を露骨に見下して躊躇いがない、それでも許されてしまう空気が社会を覆い尽くした時、戦争というのは始まるものなのではなかろうか。……要は敵味方、戦闘員か否かにかかわらず、自らの意思と無関係に殺させられたり殺されたりの運命を強いられる人間に対する想像力の決定的な欠損、ありていに言えば差別の眼差しが底流に存在しなければ、誰にも戦争など決断できるはずがない」
◎「斎藤貴男の著作のなかで、ベストは何かと問われたら、この『機会不平等』を挙げたい。私がこの10年間に読んできた無数の本のなかでも、ベスト3には確実に入るだろう」と、本書の解説で森永卓郎は述べている。私は斎藤の著書をすべて読んでいるわけではないが、森永と同様の感触を持つ。ぜひ一読をお勧めする。そして、著者の「怒り」を共有したい。第4章「市場化される老人と子供」は、内容の圧巻さもさることながら、末尾の展開には虚をつかれ、胸に迫る。
- 斎藤美奈子『冠婚葬祭のひみつ』(岩波新書、2006年)【2006.06.17】
・「冠婚葬祭マニュアルは、儀式の型を学ぶためのマナーブックだと私たちは思っている。しかし、セックス、迷信、優生思想に彩られた戦前のマニュアルは、重要な事実を教えてくれる。「しきたり」「常識」「心得」といった口当たりのいい言葉の裏に、看過できない差別思想がじつは隠れているかもしれない、ということである。役に立たないだけならまだいい。有害な思想をそれらが撒き散らかしていたとしたら、責任は誰が取るのだろう。/こうなる[マニュアルがどれも似たり寄ったりのものになる]理由はけっこう単純で、マニュアルの書き手は既存のマニュアルを参考にするからだ。この連鎖を断ちきるのは容易ではない。もしあなたが冠婚葬祭マニュアルを書けといわれたらどうします? 自信がないから既存の類書を絶対見るでしょう? 一〇冊が一〇冊同じことを書いていたら、それが常識だと思うでしょう? それですよそれ」
◎これはなにも「冠婚葬祭マニュアル」に限られたことではない。個人のウェッブサイト(あるいはブログ)しかり、学生のレポートしかり、である。あるサイトが別のサイトの「紋切り型」の「常識」を無邪気に参照する。そんなサイトの「紋切り型」を引用した(カット&ペーストした)レポートが提出される。かくして「紋切り型」は再生産・増殖を続ける……これですよこれ!
- 斎藤美奈子「今こそ立ち止まるレッスンを」<秋の読書特集>『朝日新聞』(2005年10月27日朝刊)【2005.10.31】
・「9月の総選挙後、強調されたのは「小泉劇場の作戦勝ち」という分析だった。対抗するには野党も「小泉的手法」に学ぶべきだと。しかし、ほんとにそうなのか。政治宣伝がなべて「劇場」に近づくのだとすれば、識者と呼ばれる人々の役目は「民主党も自民党に学べ」とあおることではなく「人々よ、宣伝に踊らされるな」と説くことじゃねーの?/みんなが火に油を注ごうとし、われもわれもと火に飛び込みたがる時代、本になにがしかの存在意義があるとしたら、熱冷ましの効果である。立ち止まって火を消すための読書」
◎斎藤美奈子の歯切れの良さは相変わらず読んでいてスカッとする。無論、批評の的確さは言うまでもない。見習いたいものだ。
- 管啓次郎『オムニフォン──<世界の響き>の詩学──』(岩波書店、2005年)【2005.03.02】
・「今日のグローバル化した経済にいたる、「全体」すなわち「すべて」……。この全体を見わたすことは誰にもできず、人はそれを想像的に相手どるしかない。全体を想像すること、それは全体をたしかに編みなしている種々の力が、いまここで局地的に露出している、そのようすを見抜くことだ。ここにはどのような「関係」群が作用しているのかを認識し、その認識を「共有場」(つまり「決まり文句」でもある)へと育ててゆくこと」(下線[原文実際には傍点]強調は著者自身。「共有場」、「決まり文句」にはそれぞれ「リュー・コマン」のルビ有り)
【た行】
- 高橋哲哉『靖国問題』(ちくま新書、2005年)【2005.06.07】
・「靖国信仰から逃れるためには、必ずしも複雑な論理を必要としない……。悲しいのに嬉しいと言わないこと。それだけで十分なのだ。まずは家族の戦死を、最も自然な感情にしたがって悲しむだけ悲しむこと。十分に悲しむこと。本当は悲しいのに、無理して喜ぶことをしないこと。悲しさやむなしさやわりきれなさを埋めるために、国家の物語、国家の意味づけを決して受け入れないことである。「喪の作業」を性急に終わらせようとしないこと。とりわけ国家が提供する物語、意味づけによって「喪」の状態を終わらせようとしないこと」(太字強調は著者自身)
◎高橋は本書の別の箇所で、「戦死者が顕彰され、遺族がそれを喜ぶことによって、他の国民が自ら進んで国家のために命を捧げようと希望することになる」ありさまを「感情の錬金術」と命名しているが、これに対抗するものとして、シンプルかつ明瞭に提示されたのがこの「悲しいのに嬉しいと言わないこと」である。高橋に学びて私たちは、「(じつのところ)哀悼の気持ちなどないのにそうとは言わないこと」にしている日本の為政者たちの、狡猾で醜悪な姿もぜひ見透かしたい。
【は行】
- 遙洋子『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』 (ちくま文庫、2004年)【2005.02.27】
・「社会学をやり始めてから、言葉が違う形で私に届く。いままでなんの違和感もなく理解できたつもりの言葉が急にわからなくなる。/言葉に癒着する雑音に敏感になる。その雑音に無頓着に人は言葉を操る。/雑音にこそ無数のメッセージがある」
- 保苅実『ラディカル・オーラル・ヒストリー──オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践──』(お茶の水書房、2004年)【2005.04.13】
・「[ホロコーストや南京虐殺を否定する歴史]修正主義については、いろいろと言いたいことがあるっちゃあるんですが、とはいえ正直言ってこんなアホみたいな話につきあいたくないんですよ。歴史学者として、もっとほかにやらなきやいけないことがたくさんあるのに、修正主義の相手をせざるをえないがために、今一番必要とされているかもしれない歴史時空の多元性に向けた歴史研究が十分に展開できないでいるっていう、そんなもどかしさをすごく感じています」
◎保苅は、自著の刊行を見届けることなく、2004年5月に癌のため他界している。
【ま行】
モーリス-スズキ,テッサ『北朝鮮へのエクソダス──「帰国事業」の影をたどる』(朝日新聞、2007年)【2008.01.09】
・「歴史を研究する者にとって"始まり"は極めて重要だ。しかしいつもそれがはっきりしない。歴史においては、どんなことにもほんとうの始まりはないし、ほんとうの終わりもない。ひとつひとつの出来事が、前にあったなにかの所産である。大事なことは、不可欠な要素がもれなく網羅され、余計な背景情報の毒気にあたっていない、そういう始点を見つけることである。しかしそれは細心の注意を要する仕事だ。始点の選定がそのあとにくる物語全体を決定してしまうからだ」
- モーリス−スズキ,テッサ「冷戦と戦後入管体制の形成」(『前夜』第1期3号、2005年)【2005.06.29】
・「日本の入管制度の見直しは、連合国の占領政策の中でもっとも遅れて実施され、もっとも議論される機会が少なかったもののひとつである。その他の占領政策(もっとも有名なものが戦後憲法、さらに農地改革や教育改革など)はこれまで、激しい議論や綿密な研究の対象となってきた。これらの戦後改革は、それを批判する側から、占領当局から日本に押しつけられたものとされる場合が多く、その結果、本当の意味で「自主的なもの」に変更すべきであるなどと論じられてきた。だが、不思議なことに、そうした批判が、日本の戦後の入管・国境管理制度に向けられることは稀であった」
◎このモーリス−スズキの視点を、「歴史への独創的な問いかけ」と「現状への鋭い批判精神」の見事な結託といわずしてなんといおう。憲法を「自主的なもの」にと改憲を訴える一方で、じつは「押しつけられた」入管制度の上にふんぞり返って排外主義を唱えている政治家の、なんと愚かなご都合主義ぶり!
- 本橋哲也『ポストコロニアリズム』(岩波新書、2005年)【2005.02.10】
・「ひとが人種や性差、国民性のような本質に頼りたがるのは、それが自分の利害関係や既得権益を保証し、自分が強者であることを証明してくれることを期待するからだ。脱構築はそのような本質を絶対的なものではなく、ときどきの社会的な力関係に支えられた相対的な構築物にすぎないことを暴露する。こうして脱構築は既成の権力構造を掘り崩す。批判や変革がもっともラディカルになるのはどんなときだろうか。それはおそらく、批判や変革の対象が、自分がそこに安住したいと欲するものであるときだろう」
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