【2005.11.30】11月22日に発生した広島女児殺害事件は、本日30日未明に「日系ペルー人」男性が容疑者として逮捕されるという展開を見せた。真相の解明は今後の捜査に委ねられなければならないが、報道で気になったことをいくつか。
読売新聞では容疑者名を姓ではなく名で報じている(ちなみに、朝日新聞・毎日新聞は姓で報道。NHKは朝のテレビ報道番組では名で報道していたが、その後ウェッブ版では姓に修正されている)。報道初期において外国人の姓名の判断ができなかったのであれば致し方ないが、日本人容疑者と場合と同等に、姓に早急に切り替えられるべきであろう。
さらに気になるのが、「カルロス容疑者、日本語できず「孤立した日系定住者」」と題された記事における、「地域の住民は、逮捕の知らせに安堵(あんど)の表情を浮かべながらも、「容疑者が日系人」という新たな事実に、やり場のない怒りを募らせた」というくだりである[太字強調は後藤]。地域住民を取材した記者の率直な印象だとして、これはいったいなにを意味しているのだろう。いささか穿った見方をすれば、地域住民はまず、容疑者が「外国人」である、つまり、犯罪がわれわれ「日本人」の「外部」からもたらされたことに対してより憤ったのか(そして一方で、胸を撫で下ろしたのか)。次いで、容疑者が外国人は外国人でも、「日系人」という「日本人」の「外部」とも「内部」ともつかない存在であることを知るに及び、「外部」に向けられたはずの怒りの「やり場」がなくなってしまった(それはわれわれ「内部」の問題でもあったのだ!)ということなのか。
このような「日本人」=「内部」/「外国人」=「外部」という差異化・差別化が、今回の事件をめぐる地域住民の感情もしくは取材した記者の視点のなかに含まれているとすれば、それはたいへん残念なことである。容疑者は、日本において「外国人」であることからくるさまざまな影響により、あるいは犯罪に至ったのかもしれない(それはまだわからないことである)。しかしここで取り沙汰されるべきは、純粋に人間の人間に対する罪の問題である。「日本人」か「外国人」かにかかわらず、犠牲者について悲しみ、そして犯人は糾弾されるべきである。ゆえに、容疑者が「外国人」だからという理由で、殊更過剰に反応する必要もないのである。
むしろわれわれは、同胞による犯罪に対してもっともっと怒るべきではないのか。巷に横行する「おれおれ詐欺」・「振り込め詐欺」などは、それこそ流暢な日本語を駆使しなければできない、「日本人」の「日本人」に対する犯罪の最たるものではないか。
【2005.09.26】「商学部棟建設問題に関して大学本部を批判する」(2005.07.03)および「続・商学部棟建設問題に関して大学本部を批判する」(2005.07.29)において、商学部棟建設にあたり教育学部棟16号館脇を工事車両搬入路とする大学本部(総合企画部)の姿勢を批判してきたが、すでに伝えたとおり、決定は下り、工事が開始されてしまった。誠に遺憾である。16号館周辺は無惨な姿となった。このことを記憶に留めるべく、以下に写真を掲載する。
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【2005.09.12】数日前、都内の某大通りを通りかかったら、バイクの若者が大音量で音楽をかけながら走っていた。相当にうるさかった。ちょうど信号で止まったら、たまたまそこは交番の前だった。交番から警官が飛び出してきて、若者を注意・叱責した。それはそれでいいのだが、この警官は、いわゆる「街頭宣伝車」がたまたま交番の前に止まったときも、はたしてこのように注意・叱責してくれるのだろうか。閑話休題。総選挙から明けて翌日。結果は自民党の「歴史的大勝」。とりあえず作家・吉永みち子のコメントが目に止まった:「私たちは自民党に「おまかせコース」を注文した。前菜だけは選んだが、次は激辛料理が来ても食べなければならない。後で泣くのか笑うのか。でもこれが民意だ」(『毎日新聞』9月12日)。「郵政民営化」という「前菜」のあと、これから「激辛料理」が次から次へと出てくると思っていないのか、それとも、望んで「激辛料理」を食べようとしているのか。「激辛料理」にもいろいろあるが、個人的には、「憲法改悪」という究極の一品だけは食べたくないのだ。
【2005.08.04】8月1日付朝日新聞に「「原爆の図」展示 丸木美術館が存続の危機」と題した記事が掲載されました。丸木美術館(1967年設立)は広島出身の画家丸木位里・丸木俊夫妻が共同制作した「原爆の図」ほかを常設する美術館で、私の実家がある市町村に近接した埼玉県東松山市にあります(けっして交通の便がいいとはいえません)。「原爆の図」は衝撃的な作品です。しかしこの衝撃は、未来永劫引き継がれるべきものだと考えます。ぜひ「原爆の図丸木美術館存続への支援のお願い」をご覧いただき、ご支援をご検討いただければ幸いです。そしてなによりも、一度足を運んでいただければと思います。
7月3日付で「商学部棟建設問題に関して大学本部を批判する」と題して大学本部(総合企画部)の姿勢を批判してきたが、残念ながら、商学部棟建設に向けて大学本部は
「西門通路を横断し、教育学部棟16号館と社会科学部棟14号館(および共通教室棟15号館)のあいだを工事車両搬入路とし(地図参照)、突き当たりの外壁を撤去して(注:そこには本来出入口がない)、中央図書館前の通り(グランド坂)へと抜ける」
ことを最終決定した旨、7月26日の教授会で報告を受けた。予想通りといえば予想通りだが、やはり無力感をおぼえざるをえない。私はまたひとつ、みずから働く早稲田大学に失望することになった。本当に残念である。
総合企画部は、教授会直前に7月22日付で「C棟(仮称)建設に伴う工事用進入路建設工事について」と題する文書を配布したが、教授会にやってきて説明をすることはしなかった。この文書は、1.「西早稲田キャンパス内の「人のサーキュレーション」調査について」および、2.「第3西門を進入路とした場合の工事見積もりについて」の2点について回答している。以下、その内容を検討・批判したい。
1.「西早稲田キャンパス内の「人のサーキュレーション」調査について」は、1996年6月27日の「人のサーキュレーション」調査が「現14号館建設前で、現状にはそぐわない」との批判(具体的には、私がおこなった批判)に対する回答となっている。しかしそこからは、新たに調査をしなくても「南門から北門に抜けるルートが西早稲田キャンパス内のメイン動線であることが変わることは無い」と、予断によって計画案を策定したことがあらためて露見すると同時に、「この妥当性を検証するために、2005年7月15日午前10:30〜12:30に北門・西門・南門・正門の通行量調査を実施」するという、批判を受けて渋々調査に乗り出したと言われても致し方のない姿勢が浮かび上がった(ちなみに、西門の通行量調査とはどのようなものだったのか。他の門と異なり、西門は複数ある。すべての門に調査者を置いて集計したのか、はたまた……?)。新たな調査は確かに、西門の通行量の相対的少なさを裏付けた。それをもって総合企画部は、「南門から北門に抜けるルートがメイン動線と考えられる」と結論づけている。しかし、私(たち)が本当に知りたいのは、「「南門から北門に抜けるルートがメイン動線と考えられる」にもかかわらず、法学部棟8号館建設時には南門は閉鎖されていた。なぜ今回は南門を閉鎖することができないのか」ということに尽きる。この点について、総合企画部は明確な回答を徹底的に避けている。
2.「第3西門を進入路とした場合の工事見積もりについて」は、私自身、第3西門を進入路とすることを非現実的と考えているので特に関心はないが、この回答のなかで別途注目すべきは、「第3西門の場合の工事金額は概算で346,500,000円となり、現在の計画案の約2.2倍に相当」との記述である。これはすなわち、現計画にもじつに1億6千万円(!)近い工事金額がかかることを意味している。なぜそこまで費用をかけて「道なきところに道を通す」必要があるのだろうか。そんな費用などかけずに、工事用進入路を確保する選択肢はあるではないか。この点がなんとも解せないのである。
先の批判文のなかでも具体的に提案したのだが、私の案は
というものである。繰り返すが、私が思いつく限り、これが既存の通路を利用したもっとも最短で合理的なルートである。しかも、一部学部(この場合、特に教育学部)に「部分的」にしわ寄せを与えるのではなく(現計画では、当該学部生のあいだに必ずや情緒的不公平感・不満を生むだろう)、まさに南門が「メイン動線」であるがゆえに、全学を挙げて「平均的」に不便りさを甘受することができる(不公平感は生まれないだろう)。この案の場合、8号館自体あるいは9・10号館へのアクセスが問題とされるかもしれないが(地図参照)、工事用進入路に平行して「8号館東側出入口に接続する仮設通路を設ける」だけで解決する(幸いにして、南門通路は十分に広い)。8号館へはこの仮設通路より入る。9・10号館へは、8号館内を通り抜けていけばよいのである(車椅子でなければ、9・10号館へは第3西門を利用してもよい)。それでは他の号館への移動はもっぱら正門を利用することになり、迂回がはなはだしいと言われるかもしれない。しかし現計画では、とりわけ教育学部学生だけが、他の号館へは常に仮設ブリッジを使わなければならなくなるのである。そのことはどうお考えか。
この案については、11・12号館への進入路が大隈侯銅像にかかるという指摘もあるのだが、百歩譲って大隈侯銅像は動かせないとしても、8号館東側の植え込みを削れば十分に進入路は確保できる(しかも、木を切り倒す必要もないだろう。参考までに、現計画では西門通路の桜が何本も抜かれるのである)。総合企画部は本当に計測をしたことがあるのだろうか。ぜひこの案について、合理的・論理的反論をしてもらいたいものだ。
しかしながら、そもそもなぜに南門や正門を進入路とする案は事前に選択肢から外れ、また私(たち)の側から提案しても、真っ正面から検討され、回答されることがないのだろうか。たとえば、入試業務に差し障るとでも言うのなら、それなりに納得もできるというものだ。なにか合理的・論理的には説明できない理由があるのではないかと、つい考えたくもなってしまう。法学部の強い意向なのか(そうであるなら、教育学部の意向はどうでもいいということか?)、あるいは、2007年に控えた創立125周年記念事業の際に、大隈侯銅像周辺が工事とあっては見栄えが悪いからか……(もしそれが本音ならば、負のつけは見えないところに押しつけるという、最悪の差別思想だ)。
聞くところによれば、7号館(地図参照)も先々建て替え(取り壊し?)の予定があるとのこと。そのとき工事用進入路はどうするつもりなのか? よもや「既存の通路を利用したもっとも最短で合理的なルート」である南門からではあるまい? もし万が一、南門を進入路とする提案が出されたとしても、私個人は、南門は「メイン動線」であるという理由で反対せざるをえないだろう。
以下、学内の内輪な話題となることをお許しいただきたい。これは本学教育学部および社会科学部の学生・教職員にもっとも深く関わるが、しかし広く全学の学生・教職員にもぜひ知ってもらいたいことであるし、もしよろしければ、学外の方にも耳を傾けていただきたいのである。
本学では今年2005年夏に、商学部棟の建て替えが始まろうとしている。商学部棟11・12号館はキャンパスのほぼ中央部に位置しているため(地図参照)、キャンパス外からどのルートで工事車両を入れるかが大きな問題となる。大学本部(総合企画室)から提案された計画は、
「西門通路を横断し、教育学部棟16号館と社会科学部棟14号館(および共通教室棟15号館)のあいだを工事車両搬入路とし(地図参照)、突き当たりの外壁を撤去して(注:そこには本来出入口がない)、中央図書館前の通り(グランド坂)へと抜ける」
というものである。これに伴い──地図からはわかりにくいことだが──、教育学部前の広場はかなり削られ、「西門」からキャンパス中央への通路も穿って寸断されるため、仮設ブリッジが渡されることになる。そしてこの状態は、2009年の工事完成まで続くのだという。一見してこの計画が、教育学部・社会科学部の日常に多大なる影響を与えるであろうことは、容易に想像がつくだろう。
学内の建設作業によってなんらかの負の影響が出るのは、これは避けがたいことである。よって、それを「どこか」が一時的にかぶらなければならないのも、これもまた仕方のないことである。しかしながら、その「どこか」の決定にあたっては、さまざまな要素を慎重に勘案した上で、キャンパス生活への影響が総じてもっとも少ない箇所が合理的に選ばれるべきであると、私は考える。それが避けがたく上記計画であるならば、私は当然受け入れることであろう。それが大学の、ひいては組織の一員であることの責務だといえる。しかし、たいへん残念なことに、上記計画をひたすら押し通そうとする大学本部のこれまでの姿勢は、納得のいくものとは到底いいがたい。いわば「道なきところに道を通す」という荒唐無稽とも思えるこの計画が、なぜに最善なのか。少なくとも私には、どうにも理解ができないのである。
私が把握するかぎり、ことの経緯は以下の通りである。上記計画が存在することは前年2004年度の学術院教授会でも紹介されていたが、年度変わって今年2005年の4月19日、本年度第1回教授会に、大学本部が計画の説明にやってきた。その際には、(a)「計画実施を前提とした細部への質問」もなされたが、それ以前に、「そもそもなぜこの計画でなければならないのか」という疑義が当然ながら噴出した。そして、(b)「この計画を最善とする根拠あるいはデータを提示せよとの要望」も挙がっていたことは、あらためて確認されなければならない。大学本部は出された質問・要望に回答することを約束して説明を終えたが、後日配布された回答は、上記(a)に答えるのみで(b)については一顧だにしない、誠に不誠実極まりないものであった(2005年4月26日付、総合企画部「2005.4.19教育学部教授会における質問事項に対する回答」)。
そして最近の6月21日、大学本部はふたたび教授会を訪れ、あくまでも計画実施を大前提とした説明を繰り返した。その際、机上に配布されていたのが資料「サーキュレーションおよび安全と避難」全4頁である(1・2・3・4頁)。しかしながら、この資料の取り扱いおよびその内容たるやじつに杜撰なものであった(仮にこれが学生のレポートであれば、たぶん「不可」であろう)。以下にそれを詳述したい。
まずはじめに、この文書が上記(b)の要望に対するなんらかの回答であることは、もちろんわからないではなかった。しかしながら大学本部は、求められるまで(具体的には、私が質問するまで)、この資料を使ってなにをか説明しようとする気配もなければ、そもそもこの資料に言及さえしなかった。つまり、資料は儀礼的に、あるいはアリバイ的に配布されたに過ぎなかったのである。繰り返しになるが、良識ある教員ならば、この計画が避けがたいと道理をもって説得してくれるならば、それを受け入れる準備があるのである。にもかかわらず、みずから配布した資料の扱いがこうでは、やはり大学本部の誠意を疑わざるをえない。
さて、肝心の資料であるが、これは「有効なキャンパス空間の計画・設計を抽出する」ため「学生の移動経路の実態を把握」すべく西早稲田キャンパスで実施された、アンケート調査の結果である。大学本部としては、この結果からわかる「学生の移動経路の実態」をもって、社会科学部棟14号館・教育学部棟16号館周辺が相対的にもっとも工事の影響が少ないと結論づけたいようだが、よくよく内容を検討すると、必ずしもそのようには解釈できない代物なのである。以下に問題点(5点)を列挙する:
(1)配布資料は別途存在する大部の資料の一部だとわかるが、その大部の資料名は説明がなかったのでわからない。
(2)このアンケート調査は「1996年6月」、すなわち、いまを遡ることじつに10年近く前に実施されたものである。引っぱり出してきたこの資料の古さ自体にも問題があるが(このことが以下に述べる致命的な問題を招く)、そもそも、今回の計画立案にあたってはなんら新たな調査が実施されなかったことが明白になった。
(3)資料の1頁には、アンケート調査において学生がキャンパス内の「移動経路」を書き込むための「調査シート」(図3-6-2)と、その「結果のサンプル」(図3-6-1)と称されるものが掲載されているが、これが実際に当時のサンプルなのかは疑わしい。なぜなら、「結果のサンプル」のキャンパス図は「調査シート」のそれとは明らかに異なるからである。これはどういうことなのか。「結果のサンプル」はまた、移動経路が社会科学部棟14号館・教育学部棟16号館にまったくかからないものが選ばれており、あたかもそれ以外の場所のほうが学生の移動が多いと、殊更強調しているかのようである。これは本当にたまたまなのだろうかと、穿った見方もしたくなる。
(4)これが致命的な問題なのであるが、資料の3頁「学部別にみる特徴」には、社会科学部学生の移動パターンの分析も紹介されている。しかしながらここに示されているのは、1996年当時の、すなわち、現・社会科学部棟14号館が建設中で、社会科学部学生が1号館(政治経済学部棟)を仮使用していた頃のデータなのである。これはなにを物語るのか。社会科学部学生は現在は14号館を使用している。同3頁の教育学部学生の移動パターンの分析と合わせれば、当然のことながら、14号館・教育学部棟16号館周辺の学生の移動の現状は資料が想定している以上のものとなるはずである。よって、この古い資料を根拠として提示する大学本部は、本来の現状をまったく踏まえずに計画を策定したことになる。これではまったく説明にならない。
(5)資料中、大学がもっとも重視していると思われるのは、2頁の「最小街区単位の利用頻度図」(図3-6-3)である。これは確かに、「南門」から「北門」に連なる通路の学生移動がもっとも多く、計画の策定にあたってはこれらの主要通路を寸断することは望ましくないことを示唆する。しかしながら、それにもかかわらず、今年4月に新・法学部棟8号館が完成するまでの数年のあいだ、「南門」から入る8号館脇の通路が工事車両搬入路として閉鎖されていたことを、私たちのだれもが知っている(地図参照。なお、地図中ではいまだ「工事中」となっている)。説明会中、そのことを指摘すると、大学本部は、「別通路を確保することで影響を少なくすることができた」と答えた。つまり、大学みずから、主要通路だからといって計画策定を妨げるものではないことを、認めたようなものである。
私の個人的な考えでは、別箇所でより合理的な計画策定が可能である。そのひとつは、「法学部棟8号館脇の南門通路を再度工事車両搬入路とし、商学部棟11・12号館へ至る」というものである。これは、既存の通路を利用した、しかももっとも最短で合理的なルートである。この可能性について大学本部は検討に値しないと考えているが、その理由として挙げるのは、上記(5)および「搬入路に大隈侯銅像がかかる」ということらしい。前者については計画策定の妨げにならないことはすでに述べたとおりだが(現にここ数年実施されてさえいたのだから)、後者については、あえていうならナンセンスな理由づけである。大隈侯銅像が大学のたいへん重要なシンボルであることは百も承知しているが、それが、銅像を一時的に移動することさえできないほどの理由であるとは、私には思えない。このような場合、現にいまを生きる学生と、死せる、というより、そもそも無機物に過ぎない銅像と、どちらを重視すべきだろうか(蛇足ながら、銅像の一時的移動はニュース的価値も生み、世間の注目を浴びるにちがいない。大学にとって、むしろいいことなのではないか)。
上記私案は、確かにより「多くの」学生・教職員に影響を与えるかもしれない。しかしながら、繰り返すが、それに類したことは現にここ数年実施されてきたのであり、それを私たちは「平均的」に甘受することで乗り越えてきた。今回の大学本部提案がある意味でもっとも問題なのは、「一部の学部学生だけにしわ寄せを与える」ような印象が、どうにも拭いがたい点である。このことを大学本部はどう考えているのか。現提案をどうしても挙行するのであれば、そうした思いを抱くであろう学生たちに、十分に納得のいく説明をしなければならない。それはここに紹介した説明だけでは、まったくもって不十分であるにちがいない。
【2005.04.17】はや旧聞に属するかもしれないが、4月6日は首都大学東京の最初の学生を迎えての入学式であった。6日付の朝日新聞によれば、東京都知事・石原慎太郎は祝辞のなかで、「社会が本当に期待するのは強い個性をもった人間だ」と述べたという(実際私も、テレビ報道のなかでそう聞いた)。石原都政下の東京都教育委員会は学校行事における日の丸・君が代の強制および不服従者への処分を年々強めている。そうした画一的強制=思想的統制と「強い個性をもった人間」への石原の期待がどうして整合性を持てるのか、私にはどうしても理解できないのである。
【2005.02.25】引き続き不愉快である。またまたライブドアのニッポン放送株取得問題をめぐってである。先に引用した森喜朗発言にはじつは続きがある:「放送会社が売り買いの対象になると、外国資本に完全に支配されてもいいのかということが出てくる」。荒唐無稽な教育議論を引き継ぐ輩がとりあえずいないのは幸いだが(さすがにだれもついてこれなかったのか?)、「外国資本によるメディア支配」という論調は日増しに強まっている。ライブドアが海外証券会社から資金調達をしていることをとらえてのものだ。
よろしい、百歩譲って「外国資本によるメディア支配」には問題があるとしよう。しかし、ここで注意しなければならないのだが、では、そうでないならまったく問題はないのか。「外国」でなければいいのか、はたまた「資本」でなければいいのか。つまり、たとえば、「国内」の「政治」による干渉はどうなのか、ということなのである。これこそ、安倍晋三や中川昭一らの自民党議員が疑われている「NHK番組改ざん問題」への関与ではないか。
ライブドア問題においてメディア支配のあり方が真に問われているのであれば、「NHK番組改ざん問題」が引き合いに出されてもおかしくないはずだ。しかし、大変残念なことに、そのような論調は皆無のようである。巷で喧伝されているメディア支配への懸念は、ただ「外国」勢力によるという一点(の口実)において問題化されているに過ぎない。そして、日本の政財界(加えてスポーツ界?)にとっておよそ「外国人」のごとき存在である堀江貴文は、またもや排除の憂き目に遭うのである(もっとも、堀江のビジネス手法は手法で、特に支持するものではないが)。
外国資本がメディアにどのような影響を及ぼすかは、当然のことながら、個々のケースにおいて慎重に検証されるべきである。そして、それと同じ意味合いで、メディアへの干渉がただ単に「国内」勢力だからという理由で免罪されようはずもないのは、これもまた当然のことであろう。
【2005.02.19】プロ野球新規参入問題で一躍有名になった堀江貴文率いるライブドア社のニッポン放送株取得をめぐる議論が喧しい。私は株取引のなんたるかもわからないのでこの問題を論じる資格などない。しかし、別の意味で資格なき人々が、ここぞとばかり見当はずれの批判を繰り出してるのを見るのはなんとも不愉快で、腹立たしい。
日本経済新聞の18日付報道によれば、自民党の久間章生(党総務会長)は「金さえ持っていれば何でもできるという風潮をはびこらせるのは良くない」と述べた。この非難は、ヤミ献金疑惑に揺れるお膝元の自民党にも向けられるべきではないか。同じく18日付の毎日新聞の報道によれば、森喜朗(元首相)は「カネさえあれば何でもいいんだ。力ずくでやれるんだという考え方は日本の教育の成果かと(疑問に)思う」と言ってのけた。お門違いもいいところだ。なんでもかんでも短絡的に教育基本法改正に結び付けようとする魂胆が見え見えである。「NHK番組改ざん問題」(メキキ・ネット等を参照)をめぐっては、自民党議員はこぞって朝日新聞記者の取材手法を「はじめに結論ありき」と批判している。しかしながら、「はじめに結論ありき」という批判は、むしろ森のためにあるのではないか。森の見識を疑う、いや、疑うに値しない。
【2004.03.17】【続・賃貸物件からの引っ越しを予定しているすべての皆さんへ】敷金は無事に回収できていますか?仲介手数料請求は妥当なものですか?『朝日新聞』2004年2月22日朝刊家庭欄「賃貸住宅 お安くします入居費用」では、某大手不動産業者の「入居時の敷金、礼金、仲介手数料をなくす代わりに、退去時のリフォーム費用を含む家賃の1.8カ月分を、入居者が最初に負担するシステム」を紹介しています。これは初期費用面でトータルとして借主に有利ですが、リフォーム費用のすべてを借主に請求する考え方自体は誤りです。誤りですが、礼金を取ったうえにリフォーム代まで請求する行為が一般にまかり通っている現状では、活用するメリットがあるといわざるをえません。ちなみに、この記事のなかでも「仲介手数料半額」とする大手2社が紹介されていますが、以前指摘したように、過去に業務停止処分を受けた大手であることも一応おぼえておきましょう。
『朝日新聞』2004年2月25日朝刊社会面「国際都市には礼金似合わぬ」では、礼金等の本格的廃止に向けたな東京都のさらなる取り組みが紹介されています。石原都政は、こと教育行政(都立大改変、都立校における日の丸・君が代の強制)においては目に余るものがありますが、この点は評価に値します。YOMIURI
ON-LINE 2004年3月17日「賃貸住宅の汚れ修復、敷金充当は無効…京都地裁」では、「賃貸マンション退去時に日常生活で生じた畳や壁などの汚れの原状回復費用に敷金を充てるとした契約は消費者契約法に違反する」とした判断が下されたことが紹介されています。これが現在の趨勢です。
【2004.03.11】雑誌『世界』2004年4月号の特集「「日の丸・君が代」戒厳令」にもあるように、卒業式・入学式のこのシーズン、各地の学校の式典で日の丸・君が代が強制されようとしています。たとえば東京都立高校では、「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について」なる通達および地方公務員法第32条を楯に、このような職務命令書(学校名、個人名は伏してある)が出されています。狭隘な「愛国主義」という特定の思想・信条のために、どうして私たちの思想・信条の自由が制約を受けなければならないのでしょうか?
【2004.02.17】【賃貸物件からの引っ越しを予定しているすべての皆さんへ】卒業・入学・就職・転勤等を控え、引っ越しシーズンの到来です。そこで頭が痛いのが、賃貸物件退居時の敷金返還の問題です。『朝日新聞』2004年2月6日朝刊1面「敷金の精算規則化」では、この問題についての東京都の新たな取り組みが報道されました。
退居時にクリーニング代や補修費と称して敷金の一部(場合によっては大部)が差し引かれるケースが多いですが、通常の生活使用範囲で生じた汚れ・劣化(たとえば、壁紙のしみ・畳の色褪せなど)については、原則的に借主に負担義務はありません。一般に借主には「原状回復」の義務がありますが、これは本来、居住開始時の「クリーンな状態」に戻さなければならないことを意味していません。「原状回復」に関しては、国土交通省が旧・建設省時代の1998年に作成した「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン」の概要がありますが、残念ながらこれを尊重しない貸主・不動産業者が多いのが現状です。この好ましくない事態を改善してゆくためにも、もし退去時に不当と思われるクリーニング代・補修費を請求されたら、上記記事とガイドラインのコピーを片手にぜひ交渉してみてください。過去の敷金返還訴訟の判例では、ほぼ借主が勝訴していることも付け加えるといいでしょう。日常生活における細かな闘争はそれはそれでとても重要であると、筆者は考えています。
とはいえ、退去時に借主がすべき最低限の清掃ぐらいは当然行いましょう。上記記事への意見表明として、一不動産業者の主張が「声欄」に掲載されました(『朝日新聞』2004年2月17日朝刊)。このように、善意の不動産業者がいることも忘れてはなりません。であればこそなお、改めるべきは、「商習慣」にあぐらをかいている少なからぬ他の不動産業者でしょう。
ついでながらいえば、「仲介手数料半額」(通常家賃1カ月分のところ半月分)を売り物にしている不動産業者を見かけますが、『毎日新聞』2003年6月3日朝刊の「なんだか変!東京ウォッチング」コーナーによれば、宅地建物取引業法上、仲介手数料は本来的に借主と貸主が折半すべきもので、家賃の半月分なのはいわば当然とのこと。しかながら、借主が契約時に「承諾」すればその限りではないというところがミソで、仲介手数料全面負担が「承諾」事項であることを契約時に必ずしも明確に知らされることなしに、私たちの多くは契約させられているのです(筆者もこの記事を読むまで知らなかった。とても悔しい!)。ところで、先の記事を読むと、「仲介手数料半額!」を謳っている業者のなかには、過去に借主・貸主双方から1カ月分ずつ仲介手数料を徴集、つまり「二重取り」をして、都から業務停止処分を受けた大手が含まれていることがわかります。いやはやなんとも……。
【2004.01.31】確認しておきたいことがある。日本のイラクへの関与は「復興支援」と公的には表現されるが、正しくは「占領統治」なのではないか?もちろん「復興支援」の要素も含まれるだろうが、トータルとしては「占領統治」の一翼を日本は担うのである。「復興支援」だけではあまりにも聞こえが良すぎる。これは命名による隠蔽である(官僚の作文をあなどってはならない)。狡猾な命名に対しては、シンプルな命名で対抗しよう。繰り返すが、日本のイラクへの関与は「占領統治」である。
【2003.12.02】人間を区分する尺度はたったひとつ──すでに世を去りし者であるか、いまを生きる者であるか、だけである。それ以上に重要な人間を分け隔てる尺度は存在しないし、存在するべきではない。
イラクで日本の外交官2名が殺害された。米国のイラク侵攻以来大勢の尊い命が奪われたが、いまを生きる者のひとりとして、2名のみならず、そうしたすべての人々に対して、ここに深く哀悼の意を表したい(ひとりは早大卒であるが、関係者であることで格別の哀悼を捧げることはあえてしない)。そして、彼らの死がかけがえのないものであればなおのこと、われわれは2名の名を語った政治的言説に注意深くあらねばならない。各種報道によれば、政府与党関係者を中心に「ふたりの遺志を受け継いで」云々といったコメントが溢れているが、その結論としてあらかじめ置かれているのは、「自衛隊は断じて派遣する」という既定路線である。
外交官2名はもちろん、それこそ心血を注いでイラク復興支援にあたっていただろう。そのことはおそらく事実である。しかしながら、彼らも所詮は日本官僚機構の一部である。「ふたりの遺志」なるものは原則として組織の方針に沿ったものでしかありえないし、組織の方針を「超える」ものがあったとすれば──そうした献身的なエピソードの数々はすでに物語化されつつある──、彼らのその良質な部分は組織の方針の危うさゆえに報われず、それどころかむしろ、最悪の結果に晒されてしまったといえる。したがって、いま必要とされているのは、「テロには断じて屈しない」などという判断停止のオウム返しではなく、そもそも方針自体が誤っていたのではないかということを問う、真摯な反省的思考である。われわれは、道義なき戦争に踏み切った米国に追従してきてしまったことの是非を、あらためて問い直さなければならないのではないか。
いまを生きる者として、すでに世を去りし者に哀悼を捧げるのは当然であるが、邪(よこしま)な政治的意図を持ってなされることには断固反対である。ましてやそれが、いまを生きる者を、世を去りし者の側の隊列に不必要に加えるようなものであればなおさらである。自衛隊派遣には、もはや大義も展望もない。
【2003.11.17】【総選挙雑感】去る9日、衆議院選挙があった。「改革解散」「マニフェスト解散」と前哨戦では呼ばれ、事後にはいったい勝者はだれだったのかとの議論が喧しいが、なんのことはない、この選挙はじつに「小政党抹殺選挙」であった(そこにどんな議論の余地があるというのだろう?)。
こうして二大政党制の基盤が作られ、政権交代が現実的になってきたという。よろしい、現与党にはいずれ下野してもらのも悪くない。しかし、いったいなんのための政権交代なのか?官僚主義の打破?それはあまりにも当然として、政治主導が突出するのも考えものだ(道路公団総裁解任をめぐる一連の茶番を見よ)。そもそも、政権交代は目的のための手段に過ぎないはずである。なのにわれわれは、一見わかりやすい「二者択一」を目の前にぶらさげられて、一種の思考停止状態に陥れられているのではないのか?そしてもし、その「二者択一」が底流のところでどこか通じ合っているとすれば(たとえば改憲問題について)、護憲の立場の小政党を凋落させたことはのちに深刻な意味を持つことになるかもしれない。
選挙の前後、たまたま森達也の『A〜マスコミが報道しなかったオウムの素顔』(角川文庫、2002年)を読んでいた(ちなみに、宮台真司の解説「私たちが自滅しないための戦略」もなかなか冴えている)。地下鉄サリン事件後もしくは9.11事件後の単純な善悪二元論を前にした社会の思考停止状態と、今回の総選挙における「二者択一」の顛末は、どこか似ていなくもない。
【2003.03.20】2003年3月20日もしくは19日。二一世紀もまた「戦争の世紀」、否、それ以上に忌まわしい世紀になることを決定づけることになるかもしれない、米国ブッシュ政権の愚行が開始された今日この日。
【2003.03.05】3月4日付『毎日新聞』朝刊(東京、神奈川、千葉、埼玉、茨城、栃木、群馬、静岡、山梨地域[ただし静岡、山梨は山間部を除く]とのこと)にも意見広告「研究者は訴える・米国の対イラク先制攻撃に反対します/日本のイラク攻撃加担に反対します」が掲載されました。今度は国際面に配置されました。
【2003.02.28】2月27日付『朝日新聞』朝刊に意見広告「研究者は訴える・米国の対イラク先制攻撃に反対します/日本のイラク攻撃加担に反対します」が掲載されました。関連URLはこちら。
【2001.09.16/2001.09.19一部字句修正】
去る9月11日に米国で起こった同時多発テロは、空前絶後の卑劣極まる行為であった。不幸にも命を落とした人々に心より哀悼の意を捧げたい。
テロ行為は断固批判されるべきである。しかしながら、同時にわれわれは、予想される米国による報復措置もまた断固拒否しなければならない。テロ行為の首謀者は完全に明らかになっているわけではない。米国がすべきは、速やかに真相を究明し、首謀者を確実に捕らえる最大効率にして最小限の威力行使をおこなうことのみである。むやみな武力行使──これもまた、多くの一般市民にとってテロでなくて何であろう?──は厳に謹むべきである。
今回の事件は、いまだ不明な点が多いとはいえ、主権国家対主権国家という枠組みでは捉えられないことは明かである(だからといって、西欧対イスラムの文明対決だとするのは著しくナンセンスである)。その点では、巷で喧伝されているように、「21世紀の新たな戦争」と見えなくもない(であるならば、米国が特定の主権国家に侵攻する根拠はやはりありえない)。しかしながら、その背景に横たわっているのは、コロンブスによる近代の幕開け以来続く、西欧−非西欧関係の歪んだ発展の有り様ではないのか。具体的には、西欧的価値観が自省的態度を欠いて押し進めてきた、「グローバリゼーション」という名の覇権である。ゆえに、構図は依然として「20世紀の古い紛争」、否、近代総体がいまだに克服できない矛盾そのものにほかならない。
米国はテロに対しては「報復」するという。その行為には大義があるのだという。繰り返すが、私はテロを断固として拒絶する。しかし、今回のテロもまた、過去になされた暴力行為に対する「報復」ではないのか。それにはそれなりのやはり大義が立てられていたのではないか。それぞれの大義の程度差は、計測不能である。「報復」は「報復」を生み出す。暴力生産の永久機関である。いま必要とされているのは、テロに「報復」で応えることではなく、テロの歴史的背景を遡ってその暴力の根源を断ち切ろうとする、まさに人類の叡知であろう。
暴力の根源を絶ちきること──それは無論容易なことではない。その実現は長く険しい道のりである。しかしながら、今回の事件に関する情報洪水に接するなかで、われわれは死者の冥福を祈りつつ、良心の声に耳を傾け──「良いニュースは小さな声で語られるのです」(村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』)──、自分のなかの感覚を研ぎ澄ますことで、ささやかながらこの道程に合流することができるかもしれない。たとえば、次のように問いかけることによってである──「われわれはテロには屈しない」という。しかし、今回のテロと米国がしばしばおこなう空爆のあいだに人道上なにか実質的なちがいがあるのか。「自由が脅かされた」という。しかし、その「自由」はいったいだれにとっての自由なのか。「国際秩序を守る」という。しかし、そもそも既存の「国際秩序」の枠組み自体が根本的に問われているのではないか。「善は必ずや勝利する」という。しかし、なぜどちらかが一方的に「善」でありうるのだろか、等々。
最後にいま一度繰り返そう。私はテロを断固批判する。同時に、報復措置も断固拒否する。