西田幾多郎データべース(c) Niels Guelberg 2000


西田幾多郎[著]:『善の研究』(1911. 01)

西田幾多郎全集・第 1 巻


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NKZ1-3-2  此書は余が多年、金沢なる第四高等学校に於て教鞭を執つてゐた間に書いたのである。初は此書の
NKZ1-3-3 中、特に実在に関する部分を精細に論述して、すぐにも世に出さうといふ考であつたが、病と種々の
NKZ1-3-4 事情とに妨げられて其志を果すことができなかつた。かくして数年を過して居る中に、いくらか自分
NKZ1-3-5 の思想も変り来り、従つて余が志す所の容易に完成し難きを感ずる様になり、此書は此書として一先
NKZ1-3-6 づ世に出して見たいといふ考になつたのである。
NKZ1-3-7  此書は第二編第三編が先づ出来て、第一編第四編といふ順序に後から附加したものである。第一編
NKZ1-3-8 は余の思想の根柢である純粋経験の性質を明にしたものであるが、初めて読む人は之を略する方がよ
NKZ1-3-9 い。第二編は余の哲学的思想を述べたもので此書の骨子といふべきものである。第三編は前編の考を
NKZ1-3-10 基礎として善を論じた積であるが、又之を独立の倫理学と見ても差支ないと思ふ。第四編は余が、か
NKZ1-3-11 ねて哲学の終結と考へて居る宗教に就いて余の考を述べたものである。此編は余が病中の作で不完全
NKZ1-3-12 の処も多いが、とにかくこれにて余が云はうと思うて居ることの終まで達したのである。此書を特に
NKZ1-4-1 「善の研究」と名づけた訳は、哲学的研究が其前半を占め居るにも拘らず、人生の問題が中心であり、
NKZ1-4-2 終結であると考へた故である。
NKZ1-4-3 純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明して見たいといふのは、余が大分前から有つて居た考であ
NKZ1-4-4 つた。初はマッハなどを読んで見たが、どうも満足はできなかつた。其中、個人あつて経験あるにあ
NKZ1-4-5 らす、経験あつて個人あるのである、個人的区別より経験が根本的であるといふ考から独我論を脱す
NKZ1-4-6 ることがでぎ、又経験を能動的と考ふることに由つてフィヒテ以後の超越哲学とも調和し得るかの様
NKZ1-4-7 に考へ、遂に此書の第二編を書いたのであるが、その不完全なることはいふまでもない。
NKZ1-4-8  思索などする奴は緑の野にあつて枯草を食ふ動物の如しとメフィストに嘲らるるかも知らぬが、我
NKZ1-4-9 は哲理を考へる様に罰せられて居るといつた哲学者(ヘーゲル)もある様に、一たび禁断の果を食つた
NKZ1-4-10 人間には、かゝる苦悩のあるのも已むを得ぬことであらう。


NKZ1-4-11    明治四十四年一月               京都にて
NKZ1-4-12                 西田幾多郎


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再版の序


NKZ1-5-2  此書を出版してから既に十年余の歳月を経たのであるが、此書を書いたのはそれよりも尚幾年の昔
NKZ1-5-3 であつた。京都に来てから読書と思索とに専なることを得て、余もいくらか余の思想を洗練し豊富に
NKZ1-5-4 することを得た。従つて此書に対しては飽き足らなく思ふやうになり、遂に此書を絶版としようと思
NKZ1-5-5 うたのである。併し其後諸方から此書の出版を求められるのと、余が此書の如き形に於て余の思想の
NKZ1-5-6 全体を述べ得るのは尚幾年の後なるかを思ひ、再び此書を世に出すこととした。今度の出版に当りて、
NKZ1-5-7 務台、世良の両文学士が余の為に字句の訂正と校正との労を執られたのは、余が両者に対し感謝に堪
NKZ1-5-8 へざる所である。


NKZ1-5-9   大正十年一月                 西田幾多郎


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版を新にするに当つて


NKZ1-6-2 此書刷行を重ねること多く、文字も往々鮮明を欠くものがあるやうになつたので、今度書肆に於て
NKZ1-6-3 版を新にすることになつた。この書は私が多少とも自分の考をまとめて世に出した最初の著述であり、
NKZ1-6-4 若かりし日の考に過ぎない。私は此際此書に色々の点に於て加筆したいのであるが、思想はその時々
NKZ1-6-5 に生きたものであり、幾十年を隔てた後からは筆の加へやうもなうい。此書は此書としてこの侭として
NKZ1-6-6 置くの外はない。
NKZ1-6-7 今日から見れば、此書の立場は意識の立場であり、心理主義的とも考へられるであらう。然非難せ
NKZ1-6-8 られても致方はない。併し此書を書いた時代に於ても、私の考の奥底に潜むものは単にそれだけのも
NKZ1-6-9 のでなかつたと思ふ。純粋経験の立場は「自覚に於ける直観と反省」に至つて、フィヒテの事行の立
NKZ1-6-10 場を介して絶対意志の立場に進み、更に「働くものから見るものへ」の後半に於て、ギリシャ哲学を
NKZ1-6-11 介し、一転して「場所」の考に至つた。そこに私は私の考を論理化する端緒を得たと思ふ。「場所」
NKZ1-6-12 の考は「弁訂法的一般者」として具体化せられ、「弁証法的一般者」の立場は「行為的直観」の立場と
NKZ1-7-1 して直接化せられた。この書に於て直接経験の世界とか純粋経験の世界とか云つたものは、今は歴史的
NKZ1-7-2 実在の世界と考へる様になつた。行為的直観の世界、ポイエシスの世界こそ真に純粋経験の世界であ
NKZ1-7-3 るのである。
NKZ1-7-4 フェヒネルは或朝ライプチヒのローゼンタールの腰掛に休らひながら、日麗に花薫り鳥歌ひ蝶舞ふ
NKZ1-7-5 春の牧場を眺め、色もなく音もなき自然科学的な夜の見方に反して、ありの侭が真である昼の見方に
NKZ1-7-6 耽つたと自ら云つて居る。私は何の影響によつたかは知らないが、早くから実在は現実そのまゝのも
NKZ1-7-7 のでなければならない、所謂物質の世界といふ如きものは此から考へられたものに過ぎないといふ考
NKZ1-7-8 を有つてゐた。まだ高等学校の学生であつた頃、金沢の街を歩きながら、夢みる如くかゝる考に耽つ
NKZ1-7-9 たことが今も思ひ出される。その頃の考が此書の基ともなつたかと思ふ。私が此書を物せし頃、此書
NKZ1-7-10 が斯くまでに長く多くの人に読まれ、私が斯くまでに生き長らへて、此書の重版を見ようとは思ひ
NKZ1-7-11 もよらないことであつた。此書に対して、命なりけり小夜の中山の感なきを得ない。


NKZ1-7-12 昭和十一年十月                著者


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Author: Niels GUELBERG
e-mail: guelberg@waseda.jp
First drafted: 00.12.08
Last updated: 03. 05.21