NKZ1-9-3 経験するといふのは事実其侭に知るの意である。全く自己の細工を棄てゝ、事実に従うて知るので
NKZ1-9-4 ある。純粋といふのは、普通に経験といつて居る者も其実は何等かの思想を交へて居るから、毫も思
NKZ1-9-5 慮分別を加へない、真に経験其侭の状態をいふのである。例へば、色を見、音を聞く刹那、未だ之が
NKZ1-9-6 外物の作用であるとか、我が之を感じて居るとかいふやうな考のないのみならず、此色、此音は何で
NKZ1-9-7 あるといふ判断すら加はらない前をいふのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自已の
NKZ1-9-8 意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識と其対象とが全く合一して居る。これが
NKZ1-9-9 経験の最醇なる者である。勿論、普通には経験といふ語の意義が明に定まつて居らず、ヴントの如き
NKZ1-9-10 は経験に基づいて推理せられたる知識をも間接経験と名づけ、物理学、化学などを間接経験の学と称
NKZ1-9-11 して居る(Wundt, Grundriss der Psychologie, Einl. §I)。併し此等の知識は正当の意味に於て経験
NKZ1-10-1 といふことができぬばかりではなく、意識現象であつても、他人の意識は自己に経験ができず、自己
NKZ1-10-2 の意識であつても、過去に就いての想起、現前であつても、之を判断した時は已に純粋の経験ではな
NKZ1-10-3 い。真の純粋経験は何等の意味もない、事実其侭の現在意識あるのみである。
NKZ1-10-4 右にいつた様な意味に於て、如何なる精神現象が純粋経験の事実であるか。感覚や知覚が之に属す
NKZ1-10-5 ることは誰も異論はあるまい。併し余は凡ての精神現象がこの形に於て現はれるものであると信ずる。
NKZ1-10-6 記憶に於ても、過去の意識が直に起つてくるのでもなく、従つて過去を直覚するのでもない。過去と
NKZ1-10-7 感ずるのも現在の感情である。抽象的概念といつても決して超経験的の者ではなく、やはり一種の現
NKZ1-10-8 在意識である。幾何学者が一個の三角を想像しながら、之を以て凡ての三角の代表となす様に、概念
NKZ1-10-9 の代表的要素なる者も現前に於ては一種の感情にすぎないのである(James, The Principles of Psy-
NKZ1-10-10 chology, Vol. I, Chap. VII)。その外所謂意識の縁暈 fringe なるものを直接経験の事実の中に入れて
NKZ1-10-11 見ると、経験的事実間に於ける種々の関係の意識すらも、感覚、知覚と同じく皆此中に入つてくるの
NKZ1-10-12 である(James, A World of Pure Experience)。然らば情意の現象は如何といふに、快、不快の感情
NKZ1-10-13 が現在意識であることはいふまでもなく、意志に於ても、其目的は未来にあるにせよ、我々はいつも
NKZ1-10-14 之を現在の欲望として感ずるのである。
NKZ1-10-15 扨、斯く我々に直接であつて、凡ての精神現象の原因である純粋経験とは如何なる者であるか、之
NKZ1-11-1 より少しくその性質を考へて見よう。先づ純粋経験は単純であるか、将た複雑であるかの問題が起つ
NKZ1-11-2 てくる。直下の純粋経験であつても、之が過去の経験の構成せられた者であるとか、又後にて之を単
NKZ1-11-3 一なる要素に分析できるとかいふ点より見れば、複雑といつてもよからう。併し純粋経験はいかに複
NKZ1-11-4 雑であつても、その瞬間に於ては、いつも単純なる一事実である。たとひ過去の意識の再現であつて
NKZ1-11-5 も、現在の意識中に統一せられ、之が一要素となつて、新なる意味を得た時には、已に過去の意識と同
NKZ1-11-6 一といはれぬ(Stout, Analytic Psychology, Vol. II, p. 45)。之と同じく、現在の意識を分析した時
NKZ1-11-7 にも、その分析せられた者はもはや現在の意識と同一ではない。純粋経験の上から見れば凡てが種別
NKZ1-11-8 的であつて、其場合毎に、単純で、独創的であるのである。次にかゝる純粋経験の綜合は何処まで及ぶ
NKZ1-11-9 か。純粋経験の現在は、現在に就いて考ふる時、已に現在にあらずといふやうな思想上の現在ではな
NKZ1-11-10 い。意識上の事実としての現在には、いくらかの時間的継続がなければならぬ(James, The Princi-
NKZ1-11-11 ples of Psychology, Vol. I. Chap. XV)。即ち意識の焦点がいつでも現在となるのである。それで、純
NKZ1-11-12 粋経験の範囲は自ら注意の範囲と一致してくる。併し余は此の範囲は必ずしも一注意の下にかぎらぬ
NKZ1-11-13 と思ふ。我々は少しの思想も交へず、主客未分の状態に注意を転じて行くことができるのである。例
NKZ1-11-14 へば一生懸命に断岸を攀づる場合の如き、音楽家が熟練した曲を奏する時の如き、全く知覚の連続
NKZ1-11-15 perceptual train といつてもよい(Stout, Manual of Psychology, p. 252)。又動物の本能的動作にも
NKZ1-12-1 必ずかくの如き精神状態が伴うて居るのであらう。此等の精神現象に於ては、知覚が厳密なる統一と
NKZ1-12-2 連絡とを保ち、意識が一より他に転ずるも、注意は始終物に向けられ、前の作用が自ら後者を惹起し
NKZ1-12-3 其間に思惟を入るべき少しの亀裂もない。之を瞬間的知覚と比較するに、注意の推移、時間の長短こ
NKZ1-12-4 そあれ、その直接にして主客合一の点に於ては少しの差別もないのである。特に所謂瞬間知覚なる者
NKZ1-12-5 も、其実は複雑なる経験の結合構成せられたる者であるとすれば、右二者の区別は性質の差ではなく
NKZ1-12-6 して、単に程度の差であるといはねばならぬ。純粋経験は必ずしも単一なる感覚とはかぎらぬ。心理
NKZ1-12-7 学者のいふやうな厳密なる意味の単一感覚とは、学問上分析の結果として仮想した者であつて、事実
NKZ1-12-8 上に直接なる具体的経験ではないのである。
NKZ1-12-9 純粋経験の直接にして純粋なる所以は、単一であつて、分析ができぬとか、瞬間的であるとかいふ
NKZ1-12-10 ことにあるのではない。反つて具体的意識の厳密なる統一にあるのである。意識は決して心理学者の
NKZ1-12-11 所謂単一なる精神的要素の結合より成つたものではなく、元来一の体系を成したものである。初生児
NKZ1-12-12 の意識の如きは明暗の別すら、さだかならざる混沌たる統一であらう。此の中より多様なる種々の意
NKZ1-12-13 識状態が分化発展し来るのである。併しいかに精細に分化しても、何処までもその根本的なる体系の
NKZ1-12-14 形を失ふことはない。我々に直接なる具体的意識はいつでも此形に於て現はれるものである。瞬間的
NKZ1-12-15 知覚の如き者でも決して此形に背くことはない、例へば一目して物の全体を知覚すると思ふ場合でも、
NKZ1-13-1 仔細に研究すれば、眼の運動と共に注意は自ら推移して、その全体を知るに至るのである。かく意識
NKZ1-13-2 の本来は体系的発展であつて、此の統一が厳密で、意識が自ら発展する間は、我々は純粋経験の立脚
NKZ1-13-3 地を失はぬのである。此点は知覚的経験に於ても、表象的経験に於ても同一である。表象の体系が自
NKZ1-13-4 ら発展する時は、全体が直に純粋経験である。ゲーテが夢の中で直覚的に詩を作つたといふ如きは、
NKZ1-13-5 その一例である。或は知覚的経験では、注意が外物から支配せられるので、意識の統一とはいへない
NKZ1-13-6 やうに思はれるかも知れない。併し、知覚的活動の背後にも、やはり或無意識統一力が働いて居なけ
NKZ1-13-7 ればならぬ。注意は之に由りて導かれるのである。又之に反し、表象的経験はいかに統一せられてあ
NKZ1-13-8 つても、必ず主観的所作に属し、純粋の経験とはいはれぬやうにも見える。併し表象的経験であつて
NKZ1-13-9 も、其統一が必然で自ら結合する時には我々は之を純粋の経験と見なければならぬ、例へば夢に於て
NKZ1-13-10 のやうに外より統一を破る者がない時には、全く知覚的経験と混同せられるのである。元来、経験に
NKZ1-13-11 内外の別あるのではない、之をして純粋ならしむる者はその統一にあつて、種類にあるのではない。
NKZ1-13-12 表象であつても、感覚と厳密に結合して居る時には直に一つの経験である。唯、之が現在の統一を離
NKZ1-13-13 れて他の意識と関係する時、もはや現在の経験ではなくして、意味となるのである。又表象だけであ
NKZ1-13-14 つた時には、夢に於てのやうに全く知覚と混同せられるのである。感覚がいつでも経験であると思は
NKZ1-13-15 れるのはそがいつも注意の焦点となり統一の中心となるが為であらう。
NKZ1-14-1 今尚少しく精細に意識統一の意義を定め、純粋経験の性質を明にせうと思ふ。意識の体系といふの
NKZ1-14-2 は凡ての有機物のやうに、統一的或者が秩序的に分化発展し、其全体を実現するのである。意識に於
NKZ1-14-3 ては、先づその一端が現はれると共に、統一作用は傾向の感情として之に伴うて居る。我々の注意を
NKZ1-14-4 指導する者は此作用であつて、統一が厳密であるか或は他より妨げられぬ時には、此作用は無意識で
NKZ1-14-5 あるが、然らざる時には別に表象となつて意識上に現はれ来り、直に純粋経験の状態を離れるやうに
NKZ1-14-6 なるのである。即ち統一作用が働いて居る間は全体が現実であり純粋経験である。而して意識は凡て
NKZ1-14-7 衝動的であつて、主意説のいふ様に、意志が意識の根本的形式であるといひ得るならば、意識発展の
NKZ1-14-8 形式は即ち広義に於て意志発展の形式であり、その統一的傾向とは意志の目的であるといはねばな
NKZ1-14-9 らぬ。純粋経験とは意志の要求と実現との間に少しの間隙もなく、其最も自由にして、活溌なる状態
NKZ1-14-10 である。勿論選択的意志より見れば此の如く衝動的意志に由りて支配せられるのは反つて意志の束縛
NKZ1-14-11 であるかも知れぬが、選択的意志とは已に意志が自由を失つた状態である故に之が訓練せられた時に
NKZ1-14-12 は又衝動的となるのである。意志の本質は未来に対する欲求の状態にあるのではなく、現在に於ける
NKZ1-14-13 現在の活動にあるのである。元来、意志に伴ふ動作は意志の要素ではない。純心理的に見れば意志は
NKZ1-14-14 内面に於ける意識の統覚作用である。而して此の統一作用を離れて別に意志なる特殊の現象あるので
NKZ1-14-15 はない、此の統一作用の頂点が意志である。思惟も意志と同じく一種の統覚作用であるが、その統一
NKZ1-15-1 は単に主観的である。然るに意志は主客の統一である。意志がいつも現在であるのも之が為である
NKZ1-15-2 (Schopenhauer, Die Welt als Wille und Vorstellung, § 54)。純粋経験は事実の直覚その侭であつて、
NKZ1-15-3 意味がないといはれて居る。斯くいへば、純粋経験とは何だか混沌無差別の状態であるかの様に思は
NKZ1-15-4 れるかも知れぬが、種々の意味とか判断とかいふものは経験其者の差別より起るので、後者は前者に
NKZ1-15-5 よりて与へられるのではない、経験は自ら差別相を具へた者でなければならぬ。例へば、一の色を見
NKZ1-15-6 て之を青と判定したところが、原色覚が之に由りて分明になるのではない、唯、之と同様なる従来の
NKZ1-15-7 感覚との関係をつけたまでである。又今余が視覚として現はれたる一経験を指して机となし、之に就
NKZ1-15-8 いて種々の判断を下すとも、之に由りて此の経験其者の内容に何等の豊富をも加へないのである。要
NKZ1-15-9 するに経験の意味とか判断とかいふのは他との関係を示すにすぎぬので、経験其者の内容を豊富にす
NKZ1-15-10 るのではない。意味或は判断の中に現はれたる者は原経験より抽象せられたるその一部であつて、そ
NKZ1-15-11 の内容に於ては反つて之よりも貧なる者である。勿論原経験を想起した場合に、前に無意識であつた
NKZ1-15-12 者が後に意識せられるやうな事もあるが、こは前に注意せざりし部分に注意したまでであつて、意味
NKZ1-15-13 や判断に由りて前に無かつた者が加へられたのではない。
NKZ1-15-14 純粋経験はかく自ら差別相を具へた者とすれば、之に加へられる意味或は判断といふのは如何なる
NKZ1-15-15 者であらうか、又之と純粋経験との関係は如何であらう。普通では純粋経験が客観的実在に結合せら
NKZ1-16-1 れる時、意味を生じ、判断の形をなすといふ。併し純粋経験説の立脚地より見れば、我々は純粋経験
NKZ1-16-2 の範囲外に出ることはできぬ。意味とか判断とかを生ずるのもつまり現在の意識を過去の意識に結合
NKZ1-16-3 するより起るのである。即ち之を大なる意識系統の中に統一する統一作用に基づくのである。意味と
NKZ1-16-4 か判断とかいふのは現在意識と他との関係を示す者で、即ち意識系統の中に於ける現在意識の位置を
NKZ1-16-5 現はすに過ぎない。例へば或聴覚について之を鐘声と判じた時は、唯過去の経験中に於て之が位置を
NKZ1-16-6 定めたのである。それで、いかなる意識があつても、そが厳密なる統一の状態にある間は、いつでも
NKZ1-16-7 純粋経験である、即ち単に事実である。之に反し、この統一が破れた時、即ち他との関係に入つた時、
NKZ1-16-8 意味を生じ判断を生ずるのである。我々に直接に現はれ来る純粋経験に対し、すぐ過去の意識が働い
NKZ1-16-9 て来るので、之が現在意識の一部と結合し一部と衝突し、此処に純粋経験の状態が分析せられ破壊せ
NKZ1-16-10 られるやうになる。意味とか判断とかいふものはこの不統一の状態である。併しこの統一、不統一と
NKZ1-16-11 いふことも、よく考へて見ると畢竟程度の差である、全然統一せる意識もなければ、全然不統一なる
NKZ1-16-12 意識もなからう。凡ての意識は体系的発展である。瞬間的知識であつても種々の対立、変化を含蓄し
NKZ1-16-13 て居るやうに、意味とか判断とかいふ如き関係の意識の背後には、此関係を成立せしむる統一的意識
NKZ1-16-14 がなければならぬ。ヴントのいつたやうに、凡ての判断は複雑なる表象の分析に由りて起るのである
NKZ1-16-15 (Wundt, Logik, Bd. I, Abs. III, Kap. 1)。又判断が漸々に訓練せられ、その統一が厳密となつた時
NKZ1-17-1 には全く純粋経験の形となるのである、例へば技芸を習ふ場合に、始は意識的であつた事も之に熟す
NKZ1-17-2 るに従つて無意識となるのである。更に一歩進んで考へて見れば、純粋経験とその意味又は判断とは
NKZ1-17-3 意識の両面を現はす者である、即ち同一物の見方の相違にすぎない。意識は一面に於て統一性を有す
NKZ1-17-4 ると共に、又一方には分化発展の方面がなければならぬ。而もジェームスが「意識の流」に於て説明
NKZ1-17-5 したやうに、意識はその現はれたる処について居るのではなく、含蓄的に他と関係をもつて居る。現
NKZ1-17-6 在はいつでも大なる体系の一部と見ることが出来る。所謂分化発展なる者は更に大なる統一の作用で
NKZ1-17-7 ある。
NKZ1-17-8 かく意味といふ者も大なる統一の作用であるとすれば、純粋経験はかゝる場合に於て自己の範囲を
NKZ1-17-9 超越するのであらうか。例へば記憶に於て過去と関係し意志に於て未来と関係する時、純粋経験は現
NKZ1-17-10 在を超越すると考へることが出来るであらうか。心理学者は意識は物でなく事件である、されば時々
NKZ1-17-11 刻々に新であつて、同一の意識が再生することはないといふ。併し余はかゝる考は純粋経験説の立脚
NKZ1-17-12 地より見たのではなく、反つて過去は再び還らず、未来は未だ来らずといふの時間性質より推理した
NKZ1-17-13 のではないかと思ふ。純粋経験の立脚地より見れば、同一内容の意識は何処までも同一の意識とせね
NKZ1-17-14 ばなるまい。例へば思惟或は意志に於て一つの目的表象が連続的に働く時、我々は之を一つの者と見
NKZ1-17-15 なければならぬ様に、たとひその統一作用が時間上には切れて居ても、一つの者と考へねばならぬと
NKZ1-18-1 思ふ。
NKZ1-18-3 思惟といふのは心理学から見れば、表象間の関係を定め之を統一する作用である。その最も単一な
NKZ1-18-4 る形は判断であつて、即ち二つの表象の関係を定め、之を結合するのである。併し我々は判断に於て
NKZ1-18-5 二つの独立なる表象を結合するのではなく、反つて或一つの全き表象を分析するのである。例へば
NKZ1-18-6 「馬が走る」といふ判断は、「走る馬」といふ一表象を分析して生ずるのである。それで、判断の背
NKZ1-18-7 後にはいつでも純粋経験の事実がある。判断に於て主客両表象の結合は、実に之に由りてできるので
NKZ1-18-8 ある。勿論いつでも全き表象が先づ現はれて、之より分析が始まるといふのではない。先づ主語表象
NKZ1-18-9 があつて、之より一定の方向に於て種々の聯想を起し、選択の後其一に決定する場合もある。併し此
NKZ1-18-10 場合でも、愈々之を決定する時には、先づ主客両表象を含む全き表象が現はれて来なければならぬ。
NKZ1-18-11 つまり此表象が始から含蓄的に働いて居たのが、現実となる所に於て判断を得るのである。かく判断
NKZ1-18-12 の本には純粋経験がなければならぬといふことは、啻に事実に対する判断の場合のみではなく、純理
NKZ1-18-13 的判断といふ様な者に於ても同様である。例へば幾何学の公理の如き者でも皆一種の直覚に基づいて
NKZ1-19-1 居る。たとひ抽象的概念であつても、二つの者を比較し判断するには其本に於て統一的或者の経験が
NKZ1-19-2 なければならぬ。所謂思惟の必然性といふのは之より出でくるのである。故に若し前にいつた様に知
NKZ1-19-3 覚の如き者のみでなく、関係の意識をも経験と名づくることができるならば、純理的判断の本にも純
NKZ1-19-4 粋経験の事実があるといふことができるのである。又推論の結果として生ずる判断に就いて見ても、
NKZ1-19-5 ロックが論証的知識に於ても一歩一歩に直覚的証明がなければならぬといつた様に(Essay on the
NKZ1-19-6 Human Understanding, Bk. IV, Chap. II, 7)連鎖となる各判断の本にはいつも純粋経験の事実がな
NKZ1-19-7 ければならぬ。種々の方面の判断を綜合して断案を下す場合に於ても、たとひ全体を統一する事実的
NKZ1-19-8 直覚はないにしても、凡ての関係を綜合統一する論理的直覚が働いて居る(所謂思想の三法則の如き
NKZ1-19-9 も一種の内面的直覚である)。例へば種々の観察より推して地球が動いて居なければならぬといふの
NKZ1-19-10 も、つまり一種の直覚に基づける論理法に由りて判断するのである。
NKZ1-19-11 従来伝統的に思惟と純粋経験とは全く類を異にせる精神作用であると考へられて居る。併し今凡て
NKZ1-19-12 の独断を棄てゝ直接に考へ、ジェームスが「純粋経験の世界」と題せる小論文にいつた様に、関係の意
NKZ1-19-13 識をも経験の中に入れて考へて見ると、思惟の作用も純粋経験の一種であるといふことができると思
NKZ1-19-14 ふ。知覚と思惟の要素たる心像とは、外より見れば、一は外物より来る末端神経の刺戟に基づき、一は
NKZ1-19-15 脳の皮質の刺戟に基づくといふ様に区別ができ、又内から見ても、我々は通常知覚と心像とを混同す
NKZ1-20-1 ることはない。併し純心理的に考へて、何処までも厳密に区別ができるかといふに、そは頗る困難で
NKZ1-20-2 ある、つまり強度の差とかその外種々の関係の異なるより来るので、絶対的区別はないのである(夢、
NKZ1-20-3 幻覚等に於て我々は屡々心像を知覚と混同することがある)。原始的意識にかゝる区別があつたので
NKZ1-20-4 はなく、唯種々の関係より区別せられる様になつたのであらう。又一見、知覚は単一であつて、思惟
NKZ1-20-5 は複雑なる過程である様に見えるが、知覚といつても必ずしも単一ではない、知覚も構成的作用であ
NKZ1-20-6 る。思惟といつてもその統一の方面より見れば一の作用である、或統一者の発展と見ることができる。
NKZ1-20-7 かく思惟と知覚的経験の如き者とを同一種と考へることに就いては種々の異論もあるであらうから、
NKZ1-20-8 余は之より少しく此等の点に就いて論じて見ようと思ふ。普通には知覚的経験の如きは所働的で、其
NKZ1-20-9 作用が凡て無意識であり、思惟は之に反し能働的で其作用が凡て意識的であると考へられて居る。併
NKZ1-20-10 しかやうに明なる区別は何処にあるであらうか。思惟であつても、そが自由に活動し発展する時には
NKZ1-20-11 殆ど無意識的注意の下に於て行はれるのである、意識的となるのは反つて此進行が妨げられた場合で
NKZ1-20-12 ある。思惟を進行せしむる者は我々の随意作用ではない、思惟は己自身にて発展するのである。我々
NKZ1-20-13 が全く自己を棄てゝ思惟の対象即ち問題に純一となつた時、更に適当にいへば自己をその中に没した
NKZ1-20-14 時、始めて思惟の活動を見るのである。思惟には自ら思惟の法則があつて自ら活動するのである。我
NKZ1-20-15 我の意志に従ふのではない。対象に純一になること、即ち注意を向けることを有意的といへばいひう
NKZ1-21-1 るであらうが、此点に於ては知覚も同一であらうと思ふ、我々は見んと欲する物に自由に注意を向け
NKZ1-21-2 て見ることができる。勿論思惟に於ては知覚の場合よりも統一が寛であり、その推移が意識的である
NKZ1-21-3 やうに思はれるので、前に之を以てその特徴として置いたが、厳密に考へて見ると此の区別も相対的
NKZ1-21-4 であつて、思惟に於ても一表象より一表象に推移する瞬間に於ては無意識である、統一作用が現実に
NKZ1-21-5 働きつゝある間は無意識でなければならぬ。之を対象として意識する時には、已にその作用は過去に
NKZ1-21-6 属するのである。かく思惟の統一作用は全然意志の外にあるのであるが、唯我々が或問題について考
NKZ1-21-7 へる時、種々の方向があつてその取捨が自由である様に思はれるのである。併しかゝる現象は知覚の
NKZ1-21-8 場合にもないのではない。少しく複雑なる知覚に於ては如何に注意を向けるかは自由である、例へば
NKZ1-21-9 一幀の画を見るにしても、形に注意することもでき又色彩に注意することもできる。その外、知覚で
NKZ1-21-10 は我々は外から動かされ、思惟では内より動くなどいふが、内外の区別といふも要するに相対的にす
NKZ1-21-11 ぎぬ、唯思惟の材料たる心像は比較的変動し易く自由であるからかく見えるのである。
NKZ1-21-12 次に普通には知覚は具象的事実の意識であり、思惟は抽象的関係の意識であつて、両者全然その類
NKZ1-21-13 を異にする者の様に考へられて居る。併し純粋に抽象的関係といふやうな者は我々は之を意識するこ
NKZ1-21-14 とはできぬ、思惟の運行も或具象的心像を藉りて行はれるのである、心像なくして思惟は成立しない。
NKZ1-21-15 例へば三角形の総べての角の和は二直角であるといふことを証明するにも、或特殊なる三角形の心像
NKZ1-22-1 に由らねばならぬのである、思惟は心像を離れた独立の意識ではない、之に伴ふ一現象である。ゴー
NKZ1-22-2 ル Gore は、心像と其意味との関係は刺戟と其反応との関係と同一であると説いて居る(Dewey, Stu-
NKZ1-22-3 dies in Logical Theory)。思惟は心像に対する意識の反応であつて、而して又心像は思惟の端緒であ
NKZ1-22-4 る、思惟と心像とは別物ではない。いかなる心像であつても決して独立ではない、必ず全意識と何等
NKZ1-22-5 かの関係に於て現はれる、而して此方面が思惟に於ける関係の意識である、純粋なる思惟と思はれる
NKZ1-22-6 者も、唯此方面の著しき者にすぎないのである。さて心像と思惟との関係を右の如く考へた所で、知
NKZ1-22-7 覚に於てはかくの如き思惟的方面がないかといふに、決してさうではない。凡ての意識現象のやうに
NKZ1-22-8 知覚も一の体系的作用である、知覚に於てはその反応は反つて顕著であつて意志となり動作となつて
NKZ1-22-9 現はれるのであるが、心像に於ては単に思惟として内面的関係に止まるのである。されば事実上の意
NKZ1-22-10 識には知覚と心像との区別はあるが、具象と抽象との別はない、思惟は心像間の事実の意識である、
NKZ1-22-11 而して知覚と心像との別も前にいつた様に厳密なる純粋経験の立脚地よりしては、何処までも区別す
NKZ1-22-12 ることはできないのである。
NKZ1-22-13 以上は心理学上より見て、思惟も純粋経験の一種であることを論じたのであるが、思惟は単に個人
NKZ1-22-14 的意識の上の事実ではなくして客観的意味を有つて居る、思惟の本領とする所は真理を現はすにある
NKZ1-22-15 のである、自分で自分の意識現象を直覚する純粋経験の場合には真妄と云ふことはないが、思惟には
NKZ1-23-1 真妄の別があるともいへる。此等の点を明にするには所謂客観、実在、真理等の意義を詳論する必要
NKZ1-23-2 はあるが、極めて批評的に考へて見ると、純粋経験の事実の外に実在なく、此等の性質も心理的に説
NKZ1-23-3 明ができると思ふ。前にもいつた様に、意識の意味といふのは他との関係より生じてくる、換言すれ
NKZ1-23-4 ばその意識の入り込む体系に由りて定まつてくる。同一の意識であつても、その入り込む体系の異な
NKZ1-23-5 るに由りて種々の意味を生ずるのである。たとへば意味の意識である或心像であつても、他に関係な
NKZ1-23-6 く唯それだけとして見た時には、何等の意味も持たない単に純粋経験の事実である。之に反し事実の
NKZ1-23-7 意識なる或知覚も、意識体系の上に他と関係を有する点より見れば意味を有つて居る、唯多くの場合
NKZ1-23-8 に其意味が無意識であるのである。然らば如何なる思想が真であり如何なる思想が偽であるかと云ふ
NKZ1-23-9 に、我々はいつでも意識体系の中で最も有力なる者、即ち最大最深なる体系を客観的実在と信じ、之
NKZ1-23-10 に合つた場合を真理、之と衝突した場合を偽と考へるのである。此の考より見れば、知覚にも正しい
NKZ1-23-11 とか誤るとかいふことがある。即ち或体系よりして見て、よくその目的に合うた時が正しく、之に反
NKZ1-23-12 した時が誤つたのである。勿論此等の体系の中には種々の意味があるので、知覚の背後に於ける体系
NKZ1-23-13 は多く実践的であるが、思惟の体系は純知識的であるといふやうな区別もでぎるであらう。併し余は
NKZ1-23-14 知識の究竟的目的は実践的であるやうに、意志の本に理性が潜んで居るといへると思ふ。この事は後
NKZ1-23-15 に意志の処に論じようと思ふが、かゝる体系の区別も絶対的とはいへないのである。又同じ知識的作
NKZ1-24-1 用であつても、聯想とか記憶とかいふのは単に個人的意識内の関係統一であるが、思惟だけは超個人
NKZ1-24-2 的で一般的であるともいへる。併しかゝる区別も我々の経験の範囲を強ひて個人的と限るより起るの
NKZ1-24-3 で、純粋経験の前には反つて個人なる者のないことに考へ到らぬのである(意志は意識統一の小なろ
NKZ1-24-4 要求で、理性はその深遠なる要求である)。
NKZ1-24-5 之まで思惟と純粋経験とを比較し、普通には此の二者が全く類を異にすると思うて居る点も、深く
NKZ1-24-6 考へて見ると一致の点を見出し得ることを述べたのであるが、今少しく思惟の起源及帰趨について論
NKZ1-24-7 じ、更に右二者の関係を明にせうと思ふ。我々の意識の原始的状態又は発達せる意識でもその直接の
NKZ1-24-8 状態は、いつでも純粋経験の状態であることは誰しも許す所であらう。反省的思惟の作用は次位的に
NKZ1-24-9 之より生じた者である。然らば何故に此の如き作用が生ずるのであるかといふに、前にいつた様に意
NKZ1-24-10 識は元来一の体系である、自ら己を発展完成するのがその自然の状態である、而もその発展の行路に
NKZ1-24-11 於て種々なる体系の矛盾衝突が起つてくる、反省的思惟はこの場合に現はれるのである。併し一面よ
NKZ1-24-12 り見て斯の如く矛盾衝突するものも、他面より見れば直に一層大なる体系的発展の端緒である。換言
NKZ1-24-13 すれば大なる統一の未完の状態ともいふべき者である。例へば行為に於ても又知識に於ても、我々の
NKZ1-24-14 経験が複雑となり種々の聯想が現はれ、その自然の行路を妨げた時我々は反省的となる。此の矛盾衝
NKZ1-24-15 突の裏面には暗に統一の可能を意味して居るのであつて、決意或は解決の時已に大なる統一の端緒が
NKZ1-25-1 成立するのである。併し我々は決して単に決意または解決といふ如き内面的統一の状態にのみ止まる
NKZ1-25-2 のではない、決意は之に実行の伴ふは言をまたず、思想でも必ず何等かの実践的意味をもつて居る、
NKZ1-25-3 思想は必ず実行に現はれねばならぬ、即ち純粋経験の統一に達せねばならぬ。されば純粋経験の事実
NKZ1-25-4 は我々の思想のアルファであり又オメガである。要するに思惟は大なる意識体系の発展実現する過程
NKZ1-25-5 にすぎない、若し大なる意識統一に住して之を見れば、思惟といふのも大なる一直覚の上に於ける波
NKZ1-25-6 瀾にすぎぬのである。例へば我々が或目的について苦慮する時、目的なる統一的意識はいつでもその
NKZ1-25-7 背後に直覚的事実として働いて居るのである。それで思惟といつても別に純粋経験とは異なつた内容
NKZ1-25-8 も形式も有つて居らぬ、唯その深く大ではあるが未完の状態である。他面より見れば真の純粋経験と
NKZ1-25-9 は単に所働的ではなく、反つて構成的で一般的方面を有つて居る、即ち思惟を含んで居るといつてよ
NKZ1-25-10 い。
NKZ1-25-11 純粋経験と思惟とは元来同一事実の見方を異にした者である。嘗てヘーゲルが力を極めて主張した
NKZ1-25-12 やうに、思惟の本質は抽象的なるにあるのでなく、反つてその具体的なるにあるとすれば、余が上に
NKZ1-25-13 いつた意味の純粋経験と殆ど同一となつてくる、純粋経験は直に思惟であるといつてもよい。具体
NKZ1-25-14 的思惟より見れば、概念の一般性といふのは普通にいふ様に類似の性質を抽象した者ではない、具体
NKZ1-25-15 的事実の統一力である、ヘーゲルも一般とは具体的なる者の魂であるといつて居る(Hegel, Wissen-
NKZ1-26-1 schaft der Logik, III, S. 37)。而して我々の純粋経験は体系的発展であるから、その根柢に働きつ
NKZ1-26-2 つある統一力は直に概念の一般性其者でなければならぬ、経験の発展は直に思惟の進行となる、即ち
NKZ1-26-3 純粋経験の事実とは所謂一般なる者が己自身を実現するのである。感覚或は聯想の如き者に於てすら、
NKZ1-26-4 その背後に潜在的統一作用が働いて居る。之に反し思惟に於ても統一が働く瞬間には、前に云つた様
NKZ1-26-5 にその統一自身は無意識である。唯統一が抽象せられ、対象化せられた時、別の意識となつて現はれ
NKZ1-26-6 る、併しこの時は已に統一の作用を失つて居るのである。純粋経験とは単一とか所働的とかいふ意味
NKZ1-26-7 ならば思惟と相反するでもあらうが、経験とはありのまゝを知るといふ意ならば、単一とか所働的と
NKZ1-26-8 かいふことは反つて純粋経験の状態とはいはれない、真に直接なる状態は構成的で能働的である。
NKZ1-26-9 我々は普通に思惟に由りて一般的なる者を知り、経験に由りて個体的なる者を知ると思うて居る。
NKZ1-26-10 併し個体を離れて一般的なる者があるのではない、真に一般的なる者は個体的実現の背後に於ける潜
NKZ1-26-11 勢力である、個体の中にありて之を発展せしむる力である、例へば植物の種子の如き者である。若し
NKZ1-26-12 個体より抽象せられた他の特殊と対立する如き者ならば、そは真の一般ではなくして、やはり特殊で
NKZ1-26-13 ある、かゝる場合では一般は特殊の上に位するのではなく、之と同列にあるのである、例へば、色あ
NKZ1-26-14 る三角形について、三角形より見れば色は特殊であるであらうが、色より見れば三角は特殊である。
NKZ1-26-15 かくの如き抽象的で無力なる一般ならば推理や綜合の本となることはできぬ。それで思惟の活動に於
NKZ1-27-1 て統一の本たる真に一般なる者は、個体的現実と其内容を同じうする潜勢力でなげればならぬ、唯そ
NKZ1-27-2 の含蓄的なると顕現的なるとに由りて異なつて居るのである。個体とは一般的なる者の限定せられた
NKZ1-27-3 のである。個体と一般との関係を斯の如く考へると、論理的にも思惟と経験との差別がなくなつてく
NKZ1-27-4 る。我々が現在の個体的経験といつて居る者も、その実は発展の途中にある者と見ることができる、
NKZ1-27-5 即ち尚精細に限定せらるべき潜勢力を有つて居るのである。例へば我々の感覚の如き者でも尚分化発
NKZ1-27-6 展の余地があるのであらう、此の点より見て尚一般的となすこともできる。之に反し一般的の者でも、
NKZ1-27-7 発展をその処にかぎつて見れば、個体的といふこともできるであらう。普通には空間時間の上に於て
NKZ1-27-8 限定せられた者をのみ個体的と称へて居る、併しかゝる限定は単に外面的である、真の個体とはその
NKZ1-27-9 内容に於て個体的でなければならぬ、即ち唯一の特色を具へた者でなければならぬ、一般的なる者が
NKZ1-27-10 発展の極処に到つた処が個体である。此の意味より見れば、普通に感覚或は知覚といつて居るやうな
NKZ1-27-11 者は極めて内容に乏しき一般的なるもので、深き意味に充ちたる画家の直覚の如き者が反つて真に個
NKZ1-27-12 体的と云ひうるであらう。凡て空間時間の上より限定せられた単に物質的なる者を以て、個体的とな
NKZ1-27-13 すのはとの根柢に於て唯物論的独断があるであらうと思ふ。純粋経験の立脚地より見れば、経験を比
NKZ1-27-14 較するにはその内容を以てすべきものである。時間空間といふ如き者もかゝる内容に基づいて之を統
NKZ1-27-15 一する一つの形式にすぎないのである。或は又感覚的印象の強く明なることと、その情意と密接の関
NKZ1-28-1 係をもつことなどが之を個体的と思はしめる一原因でもあらうが、所謂思想の如きも決して情意に関
NKZ1-28-2 係がないのではない。強く情意を動かす者が特に個体的と考へられるのは、情意は知識に比して我々
NKZ1-28-3 の目的其者であり、発展の極致に近いからであると思ふ。
NKZ1-28-4 之を要するに思惟と経験とは同一であつて、その間に相対的の差異を見ることはできるが絶対的区
NKZ1-28-5 別はないと思ふ。併し余は之が為に思惟は単に個人的で主観的であるといふのではない、前にもいつ
NKZ1-28-6 た様に純粋経験は個人の上に超越することができる。かくいへば甚だ異様に聞えるであらうが、経験
NKZ1-28-7 は時間、空間、個人を知るが故に時間、空間、個人以上である、個人あつて経験あるのではなく、経
NKZ1-28-8 験あつて個人あるのである。個人的経験とは経験の中に於て限られし経験の特殊なる一小範囲にすぎ
NKZ1-28-9 ない。
NKZ1-28-10 第三章 意志
NKZ1-28-11 余は今純粋経験の立脚地より意志の性質を論じ、知と意との関係を明にしようと思ふ。意志は多く
NKZ1-28-12 の場合に於て動作を目的とし又之を伴ふのであるが、意志は精神現象であつて外界の動作とは自ら別
NKZ1-28-13 物である。動作は必ずしも意志の要件ではない、或外界の事情のため動作が起らなかつたにしても、
NKZ1-29-1 意志は意志であつたのである。心理学者のいふやうに、我々が運動を意志するにはたゞ過去の記憶を
NKZ1-29-2 想起すれば足りる、即ち之に注意を向けさへすればよい、運動は自ら之に伴ふのである、而してこの
NKZ1-29-3 運動其者も純粋経験より見れば運動感覚の連続にすぎない。凡て意志の目的といふ者も直接に之を見
NKZ1-29-4 れば、やはり意識内の事実である、我々はいつでも自己の状態を意志するのである、意志には内面的
NKZ1-29-5 と外面的との区別はないのである。
NKZ1-29-6 意志といへば何か特別なる力がある様に思はれて居るが、その実は一の心像より他の心像に移る推
NKZ1-29-7 移の経験にすぎない、或事を意志するといふのは即ち之に注意を向けることである。この事は最も明
NKZ1-29-8 に所謂無意的行為の如き者に於て見ることができる、前にいつた知覚の連続のやうな場合でも、注意
NKZ1-29-9 の推移と意志の進行とが全く一致するのである。勿論注意の状態は意志の場合に限つた訳ではなく、
NKZ1-29-10 その範囲が広いやうであるが、普通に意志といふのは運動表象の体系に対する注意の状態である、換
NKZ1-29-11 言すれば此の体系が意識を占領し、我々が之に純一となつた場合をいふのである。或は単に一表象に
NKZ1-29-12 注意するのと之を意志の目的として見るのと違ふやうに思ふでもあらうが、そは其表象の属する体系
NKZ1-29-13 の差異である。凡て意識は体系的であつて、表象も決して孤独では起らない、必ず何かの体系に属し
NKZ1-29-14 て居る。同一の表象であつても、その属する体系に由りて知識的対象ともなり又意志の目的ともなる
NKZ1-29-15 のである。例へば、一杯の水を想起するにしても、単に外界の事情と聯想する時は知識的対象である
NKZ1-30-1 が、自己の運動と聯想せられた時は意志の目的となるのである。ゲーテが「意欲せざる天の星は美し」
NKZ1-30-2 といつた様に、いかなる者も自己運動の表象の系統に入り来らざる者は意志の目的とはならぬのであ
NKZ1-30-3 る。我々の欲求は凡て過去の経験の想起に因りて成立することは明なる事実である。其特徴たる強き
NKZ1-30-4 感情と緊張の感覚とは、前者は運動表象の体系が我々に取りて最も強き生活本能に基づくのと、後者
NKZ1-30-5 は運動に伴ふ筋覚に外ならぬのである。又単に運動を想起するのみではまだ直に之を意志するとまで
NKZ1-30-6 いふことはできぬ様であるが、そは未だ運動表象が全意識を占領せぬ故である、真に之に純一となれ
NKZ1-30-7 ば直に意志の決行となるのである。
NKZ1-30-8 然らば運動表象の体系と知識表象の体系と如何なる差異があるであらうか。意識発達の始に遡りて
NKZ1-30-9 見るとかくの如き区別があるのではない、我々の有機体は元来生命保存の為に種々の運動をなす様に
NKZ1-30-10 作られて居る、意識はかくの如き本能的動作に副うて発生するので、知覚的なるよりも寧ろ衝動的な
NKZ1-30-11 るのが其原始的状態である。然るに経験の積むに従ひ種々の聯想ができるので、遂に知覚中枢を本と
NKZ1-30-12 するのと運動中枢を本とするのと両種の体系ができるやうになる。併しいかに両体系が分化したとい
NKZ1-30-13 つても、全然別種の者となるのではない、純知識であつても何処かに実践的意味を有つて居り、純意
NKZ1-30-14 志であつても何等かの知識に基づいて居る。具象的精神現象は必ず両方面を具へて居る、知識と意志
NKZ1-30-15 とは同一現象をその著しき方面に由りて区別したのにすぎぬのである、つまり知覚は一種の衝動的意
NKZ1-31-1 志であり、意志は一種の想起である。加之、記憶表象の純知識的なる者であつても、必ず多少の実践
NKZ1-31-2 的意味を有つて居らぬことはない、之に反し偶然に起る様に思はれる意志であつても、何かの刺戟に
NKZ1-31-3 基づいて居るのである。又意志は多く内より目的を以て進行するといふが、知覚であつても予め目的
NKZ1-31-4 を定めて之に感官を向ける事もできる、特に思惟の如きは尽く有意的であるといつてもよい。之に反
NKZ1-31-5 し衝動的意志の如き者は全く受働的である。右の如く考へて見ると、運動表象と知識表象とは全く類
NKZ1-31-6 を異にせるものではなく、意志と知識との区別も単に相対的であるといはねばならぬやうになる。意
NKZ1-31-7 志の特徴である苦楽の情、緊張の感も、其程度は弱くとも、知的作用に必ず伴うて居る。知識も主観
NKZ1-31-8 的に見れば、内面的潜勢力の発展とも見ることができる、嘗つていつた様に、意志も知識も潜在的或
NKZ1-31-9 者の体系的発展と見做すことができるのである。勿論主観と客観とを分けて考へて見れば、知識に於
NKZ1-31-10 ては我々は主観を客観に従へるが、意志に於ては客観を主観に従へるといふ区別もあるであらう。之
NKZ1-31-11 を詳論するには主客の性質及関係を明にする必要もあるであらうが、余は此点に於ても知と意との間
NKZ1-31-12 に共通の点があるのであらうと思ふ。知識的作用に於ては、我々は予め一の仮定を抱き之を事実に照
NKZ1-31-13 らして見るのである、いかに経験的研究であつても必ず先づ仮定を有つて居なければならぬ、而して
NKZ1-31-14 此の仮定が所謂客観と一致する時、之を真理と信ずるのである、即ち真理を知り得たのである。意志
NKZ1-31-15 的動作に於ても、我は一の欲求を有つて居ても、直に之が意志の決行となるのではない、之を客観的
NKZ1-32-1 事実に鑒み、その適当にして可能なるを知つた時、始めて実行に移るのである。前者に於て我々は全
NKZ1-32-2 然主観を客観に従へるが、後者に於ては客観を主観に従へるといふことができるであらうか。欲求は
NKZ1-32-3 能く客観と一致することに因りてのみ実現することができる、意志は客観より遠ざかれば遠ざかる程
NKZ1-32-4 無效となり、之に近づけば近づく程有效となるのである。我々が現実と離れた高き目的を実行しよう
NKZ1-32-5 と思ふ場合には種々の手段を考へ、之に因りて一歩一歩と進まねばならぬ、而してかく手段を考へる
NKZ1-32-6 のは即ち客観に調和を求めるのである、之に従ふのである、若し到底其手段を見出すことができぬな
NKZ1-32-7 らば、目的其者を変更するより外はなからう。之に反し目的が極めて現実に近かつた時には、飲食起
NKZ1-32-8 臥の習慣的行為の如く、欲求は直に実行となるのである、かゝる場合には主観より働くのではなく、
NKZ1-32-9 反つて客観より働くとも見らるゝのである。
NKZ1-32-10 かく意志に於て全然客観を主観に従へるといへないやうに、知識に於て主観を客観に従へるとはい
NKZ1-32-11 はれぬ。自己の思想が客観的真理となつた時、即ちそが実在の法則であつて実在は之に由りて動くこ
NKZ1-32-12 とを知つた時、我は我理想を実現し得たといふことができぬであらうか。思惟も一種の統覚作用であ
NKZ1-32-13 つて、知識的要求に基づく内面的意志である。我々が思惟の目的を達し得たのは一種の意志実現では
NKZ1-32-14 なからうか。唯両者の異なるのは、一は自己の理想に従うて客観的事実を変更し、一は客観的事実に
NKZ1-32-15 従うて自己の理想を変更するにあるのである。即ち一は作為し一は見出すといつてよからう、真理は
NKZ1-33-1 我々の作為すべき者ではなく、反つて之に従うて思惟すべき者であるといふのである。併し我々が真
NKZ1-33-2 理といつて居る者は果して全く主観を離れて存する者であらうか。純粋経験の立脚地より見れば、主
NKZ1-33-3 観を離れた客観といふ者はない。真理とは我々の経験的事実を統一した者である、最も有力にして統
NKZ1-33-4 括的なる表象の体系が客観的真理である。真理を知るとか之に従ふとかいふのは、自己の経験を統一
NKZ1-33-5 する謂である、小なる統一より大なる統一にすゝむのである。而して我々の真正な自己は此統一作用
NKZ1-33-6 其者であるとすれば、真理を知るといふのは大なる自己に従ふのである、大なる自己の実現である
NKZ1-33-7 (ヘーゲルのいつた様に、凡ての学問の目的は、精神が天地間の万物に於て己自身を知るにあるので
NKZ1-33-8 ある)。知識の深遠となるに従ひ自己の活動が大きくなる、之まで非自己であつた者も自己の体系の
NKZ1-33-9 中に入つてくるやうになる。我々はいつでも個人的要求を中心として考へるから、知識に於て所働的
NKZ1-33-10 であるやうに感ぜられるのであるが、若しこの意識的中心を変じて之を所謂理性的要求に置くならば、
NKZ1-33-11 我々は知識に於ても能働的となるのである。スピノーザのいつた様に知は力である。我々は常に過去
NKZ1-33-12 の運動表象の喚起に由りて自由に身体を動かし得ると信じて居る。併し我々の身体も物体である、此
NKZ1-33-13 点より見ては他の物体と変りはない。視覚にて外物の変化を知るのも、筋覚にて自己の身体の運動を
NKZ1-33-14 感ずるのも同一である、外界といへば両者共に外界である。然るに何故に他物とは違つて、自己の身
NKZ1-33-15 体だけは自己が自由に支配することができると考へ得るのであらうか。我々は普通に運動表象をば、
NKZ1-34-1 一方に於て我々の心像であると共に一方に於て外界の運動を起す原因となると考へて居るが、純粋経
NKZ1-34-2 験の立脚地より見れば、運動表象に由りて身体の運動を起すといふも、或予期的運動表象に直に運動
NKZ1-34-3 感覚を伴ふといふにすぎない、此点に於ては凡て予期せられた外界の変化が実現せられるのと同一で
NKZ1-34-4 ある。実際、原始的意識の状態では自己の身体の運動と外物の運動とは同一であつたであらうと思ふ、
NKZ1-34-5 唯経験の進むにつれて此二者が分化したのである。即ち種々なる約束の下に起る者が外界の変化と見
NKZ1-34-6 られ、予期的表象にすぐに従ふ者が自己の運動と考へられるやうになつたのである。併し固より此区
NKZ1-34-7 別は絶対的でないのであるから、自己の運動であつても少しく複雑なる者は予期的表象に直に従ふこ
NKZ1-34-8 とはできぬ、此場合に於ては意志の作用は著しく知識の作用に近づいてくるのである。要するに、外
NKZ1-34-9 界の変化といつて居る者も、その実は我々の意識界即ち純粋経験内の変化であり、又約束の有無とい
NKZ1-34-10 ふことも程度の差であるとすれば、知識的実現と意志的実現とは畢竟同一性質の者となつてくる。或
NKZ1-34-11 は意志的運動に於ては予期的表象は単に之に先だつのでなく、其者が直に運動の原因となるのである
NKZ1-34-12 が、外界の変化に於ては知識的なる予期表象其者が変化の原因となるのではないといふかも知れぬが、
NKZ1-34-13 元来、因果とは意識現象の不変的連続である、仮に意識を離れて全然独立の外界なる者があるとする
NKZ1-34-14 ならば、意志に於ても意識的なる予期表象が直に外界に於ける運動の原因とはいはれまい、単に両現
NKZ1-34-15 象が平行するといふまででなければならぬ。かく見れば意志的予期表象の運動に対する関係は知識的
NKZ1-35-1 予期表象の外界に対する関係と同一になる。実際、意志的予期表象と身体の運動とは必ずしも相伴ふ
NKZ1-35-2 のではない、やはり或約束の下に伴ふのである。
NKZ1-35-3 又我々は普通に意志は自由であるといつて居る。併し所謂自由とは如何なることをいふのであらう
NKZ1-35-4 か。元来我々の欲求は我々に与へられた者であつて、自由に之を生ずることはできない。唯或与へら
NKZ1-35-5 れた最深の動機に従うて働いた時には、自己が能働であつて自由であつたと感ぜられるのである、之
NKZ1-35-6 に反し、かゝる動機に反して働いた時は強迫を感ずるのである、これが自由の真意義である。而して
NKZ1-35-7 この意味に於ての自由は単に意識の体系的発展と同意義であつて、知識に於ても同一の場合には自由
NKZ1-35-8 であるといふことができる。我々はいかなる事をも自由に欲することができるやうに思ふが、そは単
NKZ1-35-9 に可能であるといふ迄である、実際の欲求は其時に与へられるのである、或一の動機が発展する場合
NKZ1-35-10 には次の欲求を予知することができるかも知れぬが、然らざれば次の瞬間に自己が何を欲求するか之
NKZ1-35-11 を予知することもできぬ。要するに我が欲求を生ずるといふよりは寧ろ現実の動機が即ち我である。
NKZ1-35-12 普通には欲求の外に超然たる自己があつて自由に動機を決定するやうにいふのであるが、斯の如き神
NKZ1-35-13 秘力のないのはいふまでもなく、若しかかる超然的自己の決定が存するならば、それは偶然の決定で
NKZ1-35-14 あつて、自由の決定とは思はれぬのである。
NKZ1-35-15 上来論じ来つた様に、意志と知識との間には絶対的区別のあるのではなく、その所謂区別とは多く
NKZ1-36-1 外より与へられた独断にすぎないのである。純粋経験の事実としては意志と知識との区別はない、共
NKZ1-36-2 に一般的或者が体系的に自己を実現する過程であつて、その統一の極致が真理であり兼ねて又実行で
NKZ1-36-3 あるのである。嘗ていつた知覚の連続のやうな場合では、未だ知と意と分れて居らぬ、真に知即行で
NKZ1-36-4 ある。唯意識の発展につれて、一方より見れば種々なる体系の衝突の為、一方より見れば更に大なる
NKZ1-36-5 統一に進む為、理想と事実との区別ができ、主観界と客観界とが分れてくる、そこで主より客に行く
NKZ1-36-6 のが意で、客より主に来るのが知であるといふやうな考も出てくる。知と意との区別は主観と客観と
NKZ1-36-7 が離れ、純粋経験の統一せる状態を失つた場合に生ずるのである。意志に於ける欲求も知識に於ける
NKZ1-36-8 思想も共に理想が事実と離れた不統一の状態である。思想といふのも我々が客観的事実に対する一種
NKZ1-36-9 の要求である、所謂真理とは事実に合うた実現し得べき思想といふことであらう。此点より見れば事
NKZ1-36-10 実に合うた実現し得べき欲求と同一といつてよい、唯前者は一般的で、後者は個人的なるの差がある
NKZ1-36-11 のである。それで意志の実現とか真理の極致とかいふのは此不統一の状態から純粋経験の統一の状態
NKZ1-36-12 に達するの謂である。意志の実現をかく考へるのは明であるが、真理をもかく考へるには多少の説明
NKZ1-36-13 を要するであらう。如何なる者が真理であるかといふに就いては種々の議論もあるであらうが、余は
NKZ1-36-14 最も具体的なる経験の事実に近づいた者が真理であると思ふ。往々真理は一般的であるといふ、もし
NKZ1-36-15 その意味が単に抽象的共通といふことであれば、かゝる者は反つて真理と遠ざかつたものである。真
NKZ1-37-1 理の極致は種々の方面を綜合する最も具体的なる直接の事実其者でなければならぬ。この事実が凡て
NKZ1-37-2 の真理の本であつて、所謂真理とは之より抽象せられ、構成せられた者である。真理は統一にあると
NKZ1-37-3 いふが、その統一とは抽象概念の統一をいふのではない、真の統一はこの直接の事実にあるのである。
NKZ1-37-4 完全なる真理は個人的であり、現実的である。それ故に完全なる真理は言語に云ひ現はすべき者では
NKZ1-37-5 ない、所謂科学的真理の如きは完全なる真理とはいへないのである。
NKZ1-37-6 凡て真理の標準は外にあるのではなく、反つて我々の純粋経験の状態にあるのである、真理を知る
NKZ1-37-7 といふのはこの状態に一致するのである。数学などの様な抽象的学問といはれて居る者でも、その基
NKZ1-37-8 礎たる原理は我々の直覚即ち直接経験にあるのである。経験には種々の階級がある、嘗ていつた様に、
NKZ1-37-9 関係の意識をも経験の中に入れて考へて見ると、数学的直覚の如き者も一種の経験である。かく種々
NKZ1-37-10 の直接経験があるならば、何に由りて其真偽を定むるかの疑も起るであらうが、そは二つの経験が第
NKZ1-37-11 三の経験の中に包容せられた時、この経験に由りて之を決することができる。兎に角直接経験の状態
NKZ1-37-12 に於て、主客相没し、天地唯一の現実、疑はんと欲して疑ふ能はざる処に真理の確信があるのである。
NKZ1-37-13 一方に於て意志の活動といふことを考へて見るとやはり此の如き直接経験の現前即ち意識統一の成立
NKZ1-37-14 をいふにすぎぬ。一の欲求の現前は単に表象の現前と同じく直接経験の事実である。種々の欲求の争
NKZ1-37-15 の後一つの決断ができたのは、種々思慮の後一の判断ができた様に、一の内面約統一が成立したので
NKZ1-38-1 ある。意志が外界に実現されたといふ時は、学問上自己の考が実験に由りて証明せられた場合の様に、
NKZ1-38-2 主客の別を打破した最も統一せる直接経験の現前したのである。或は意識内の統一は自由であるが、
NKZ1-38-3 外界との統一は自然に従はねばならぬと云ふが、内界の統一であつても自由ではない、統一は凡て我
NKZ1-38-4 我に与へられる者である、純粋経験より見れば内外などの区別も相対的である。意志の活動とは単に
NKZ1-38-5 希望の状態ではない、希望は意識不統一の状態であつて、反つて意志の実現が妨げられた場合である、
NKZ1-38-6 唯意識統一が意志活動の状態である。たとひ現実が自己の真実の希望に反して居ても、現実に満足し
NKZ1-38-7 之に純一なる時は、現実が意志の実現である。之に反し、いかに完備した境遇であつても、他に種々
NKZ1-38-8 の希望があつて現実が不統一の状態であつた時には、意志が妨げられて居るのである。意志の活動と
NKZ1-38-9 否とは純一と不純一、即ち統一と不統一とに関するのである。
NKZ1-38-10 例へば此処に一本のペンがある。之を見た瞬間は、知といふこともなく、意といふこともなく、唯
NKZ1-38-11 一個の現実である。之に就いて種々の聯想が起り、意識の中心が推移し、前の意識が対象視せられた
NKZ1-38-12 時、前意識は単に知識的となる。之に反し、このペンは文字を書くべきものだといふ様な聯想が起る。
NKZ1-38-13 この聯想が尚前意識の縁暈として之に附属して居る時は知識であるが、この聯想的意識其者が独立に
NKZ1-38-14 傾く時、即ち意識中心が之に移らうとした時は欲求の状態となる。而して此聯想的意識が愈々独立の
NKZ1-38-15 現実となつた時が意志であり、兼ねて又真に之を知つたといふのである。何でも現実に於ける意識体
NKZ1-39-1 系の発展する状態を意志の作用といふのである。思惟の場合でも、或問題に注意を集中して之が解決
NKZ1-39-2 を求むる所は意志である。之に反し茶をのみ酒をのむといふ様なことでも、之だけの現実ならば意志
NKZ1-39-3 であるが、其味をためすといふ意識が出て来て之が中心となるならば知識となる、而してこのためす
NKZ1-39-4 といふ意識其者がこの場合に於て意志である。意志といふのは普通の知識といふ者よりも一層根本的
NKZ1-39-5 なる意識体系であつて統一の中心となる者である。知と意との区別は意識の内容にあるのではなく、
NKZ1-39-6 その体系内の地位に由りて定まつてくるのであると思ふ。
NKZ1-39-7 理性と欲求とは一見相衝突するやうであるが、其実は両者同一の性質を有し、唯大小深浅の差ある
NKZ1-39-8 のみであると思ふ。我々が理性の要求といつて居る者は更に大なる統一の要求である、即ち個人を超
NKZ1-39-9 越せる一般的意識体系の要求であつて、反つて大なる超個人的意志の発現とも見ることができる。意
NKZ1-39-10 識の範囲は決して所謂個人の中に限られて居らぬ、個人とは意識の中の一小体系にすぎない。我々は
NKZ1-39-11 普通に肉体生存を核とせる小体系を中心として居るが、若し、更に大なる意識体系を中軸として考へ
NKZ1-39-12 て見れば、此の大なる体系が自己であり、其発展が自己の意志実現である。例へば熱心なる宗教家、
NKZ1-39-13 学者、美術家の如き者である。「かくなければならぬ」といふ理性の法則と、単に「余はかく欲する」
NKZ1-39-14 といふ意志の傾向とは全く相異なつて見えるが、深く考へて見ると其根柢を同じうする者であると思
NKZ1-39-15 ふ。凡て理性とか法則とかいつて居る者の根本には意志の統一作用が働いて居る、シラーなどが論じ
NKZ1-40-1 て居る様に、公理 axiom といふやうな者でも元来実用上より発達した者であつて、其発生の方法に
NKZ1-40-2 於ては単なる我々の希望と異なつて居らぬ(Sturt, Personal Idealism, p. 92)。飜つて我々の意志の傾
NKZ1-40-3 向を見るに、無法則の様ではあるが、自ら必然の法則に支配せられて居るのである(個人的意識の統
NKZ1-40-4 一である)。右の二者は共に意識体系の発展の法則であつて、唯其效力の範囲を異にするのみである。
NKZ1-40-5 又或は意志は盲目であるといふので理性と区別する人もあるが、何ごとにせよ我々に直接の事実であ
NKZ1-40-6 るものは説明できぬ、理性であつても其根本である直覚的原理の説明はできぬ。説明とは一の体系の
NKZ1-40-7 中に他を包容し得るの謂である。統一の中軸となる者は説明はできぬ、兎に角其場合は盲目である。
NKZ1-40-9 余が此処に知的直観 intellektuelle Anschauung といふのは所謂理想的なる、普通に経験以上とい
NKZ1-40-10 つて居る者の直覚である。弁証的に知るべき者を直覚するのである、例へば美術家や宗教家の直覚の
NKZ1-40-11 如き者をいふのである。直覚といふ点に於ては普通の知覚と同一であるが、其内容に於ては遥に之よ
NKZ1-40-12 り豊富深遠なるものである。
NKZ1-40-13 知的直観といふことは或人には一種特別の神秘的能力の様に思はれ、また或人には全く経験的事実
NKZ1-41-1 以外の空想のやうに思はれてゐる。併し余は之と普通の知覚とは同一種であつて、其間にはつきりし
NKZ1-41-2 た分界線を引くことはできないと信ずる。普通の知覚であつても、前にいつた様に、決して単純では
NKZ1-41-3 ない必ず構成的である、理想的要素を含んで居る。余が現在に見て居る物は現在の侭を見て居るので
NKZ1-41-4 はない、過去の経験の力に由りて説明的に見て居るのである。この理想的要素は単に外より加へられ
NKZ1-41-5 た聯想といふ様なものではなく、知覚其者を構成する要素となつて居る、知覚其者が之に由りて変化
NKZ1-41-6 せられるのである。この直覚の根柢に潜める理想的要素は何処までも豊富、深遠となることができる。
NKZ1-41-7 各人の天賦により、又同一の人でもその経験の進歩に由りて異なつてくるのである。始は経験のでき
NKZ1-41-8 なかつた事又は弁証的に漸くに知り得た事も、経験の進むに従ひ直覚的事実として現はれてくる、こ
NKZ1-41-9 の範囲は自己の現在の経験を標準として限定することはできぬ、自分ができぬから人もできぬといふ
NKZ1-41-10 ことはない。モツァルトは楽譜を作る場合に、長き譜にても、画や立像のやうに、その全体を直視す
NKZ1-41-11 ることができたといふ、単に数量的に拡大せられるのでなく、性質的に深遠となるのである、例へば
NKZ1-41-12 我々の愛に由りて彼我合一の直覚を得ることができる宗教家の直覚の如きはその極致に達したもので
NKZ1-41-13 あらう。或人の超凡的直覚が単に空想であるか、将た真に実在の直覚であるかは他との関係即ち其效
NKZ1-41-14 果如何に由つて定まつてくる。直接経験より見れば、空想も真の直覚も同一の性質をもつて居る、唯
NKZ1-41-15 其統一の範囲に於て大小の別あるのみである。
NKZ1-42-1 或人は知的直観がその時間、空間、個人を超越し、実在の真相を直視する点に於て普通の知覚と其
NKZ1-42-2 類を異にすると考へて居る。併し前にもいつた様に、厳密なる純粋経験の立場より見れば、経験は時
NKZ1-42-3 間、空間、個人等の形式に拘束せられるのではなく、此等の差別は反つて此等を超越せる直覚に由り
NKZ1-42-4 て成立するものである。又実在を直視すると云ふも、凡て直接経験の状態に於ては主客の区別はない、
NKZ1-42-5 実在と面々相対するのである、独り知的直観の場合にのみ限つた訳ではない、シェルリングの同一
NKZ1-42-6 Identität は直接経験の状態である。主客の別は経験の統一を失つた場合に起る相対的形式である、之
NKZ1-42-7 を互に独立せる実在と見做すのは独断にすぎないのである。ショーペンハウエルの意志なき純粋直覚
NKZ1-42-8 と云ふものも天才の特殊なる能力ではない、反つて我々の最も自然にして統一せる意識状態である、
NKZ1-42-9 天真爛漫なる嬰児の直覚は凡て此種に属するのである。それで知的直観とは我々の純粋経験の状態を
NKZ1-42-10 一層深く大きくした者にすぎない、即ち意識体系の発展上に於ける大なる統一の発現をいふのである。
NKZ1-42-11 学者の新思想を得るのも、道徳家の新動機を得るのも、美術家の新理想を得るのも、宗教家の新覚醒
NKZ1-42-12 を得るのも凡て斯かる統一の発現に基づくのである(故に凡て神秘的直覚に基づくのである)。我々
NKZ1-42-13 の意識が単に感官的性質のものならば、普通の知覚的直覚の状態に止まるのであらう、併し理想的な
NKZ1-42-14 る精神は無限の統一を求める、而して此統一は所謂知的直観の形に於て与へられたのである。知的直
NKZ1-42-15 観とは知覚と同じく意識の最も統一せる状態である。
NKZ1-43-1 普通の知覚が単に受働的と考へられて居る様に、知的直観も亦単に受働的観照の状態と考へられて
NKZ1-43-2 居る。併し真の知的直観とは純粋経験に於ける統一作用其者である、生命の捕捉である、即ち技術の
NKZ1-43-3 骨の如き者、一層深く云へば美術の精神の如き者がそれである。例へば画家の興来り筆自ら動く様に
NKZ1-43-4 複雑なる作用の背後に統一的或者が働いて居る。その変化は無意識の変化ではない、一つの物の発展
NKZ1-43-5 完成である。この一物の会得が知的直観であつて、而もかゝる直覚は独り高尚なる芸術の場合のみで
NKZ1-43-6 はなく、すべて我々の熟練せる行動に於ても見る所の極めて普通の現象である。普通の心理学は単に
NKZ1-43-7 習慣であるとか、有機的作用であるとかいふであらうが、純粋経験説の立場より見れば、こは実に主
NKZ1-43-8 客合一、知意融合の状態である。物我相忘じ、物が我を動かすのでもなく、我が物を動かすのでもな
NKZ1-43-9 い、たゞ一の世界、一の光景あるのみである。知的直観といへば主観的作用の様に聞えるのであるが、
NKZ1-43-10 その実は主客を超越した状態である、主客の対立は寧ろこの統一に由りて成立するといつてよい、芸
NKZ1-43-11 術の神来の如きものは皆此境に達するのである。又知的直観とは事実を離れたる抽象的一般性の直覚
NKZ1-43-12 をいふのではない。画の精神は措かれたる個々の事物と異なれども又之を離れてあるのではない。嘗
NKZ1-43-13 ていつた様に、真の一般と個性とは相反する者でない、個性的限定に由りて反つて真の一般を現はす
NKZ1-43-14 ことができる、芸術家の精巧なる一刀一筆は全体の真意を現はすが為である。
NKZ1-43-15 知的直観を右の如く考へれば、思惟の根柢には知的直観なる者の横はつて居ることは明である。思
NKZ1-44-1 惟は一種の体系である、体系の根柢には統一の直覚がなければならぬ。之を小にしては、ジェームス
NKZ1-44-2 が「意識の流」に於ていつて居る様に、「骨牌の一束が机上にある」といふ意識に於て、主語が意識せ
NKZ1-44-3 られた時客語が暗に含まれて居り、客語が意識せられた時主語が暗に含まれて居る、つまり根柢に一
NKZ1-44-4 つの直覚が働いて居るのである。余は此の統一的直覚は技術の骨と同一性質のものであると考へる。
NKZ1-44-5 又之を大にしては、プラトー、スピノーザの哲学の如き凡て偉大なる思想の背後には大なる直覚が働
NKZ1-44-6 いて居るのである。思想に於て天才の直覚といふも、普通の思惟といふも唯量に於て異なるので、質
NKZ1-44-7 に於て異なるのではない、前者は新にして深遠なる統一の直覚にすぎないのである。凡ての関係の本
NKZ1-44-8 には直覚がある、関係は之に由りて成立するのである。我々がいかに縦横に思想を馳せるとも、根本
NKZ1-44-9 的直覚を超出することはできぬ、思想は此上に成立するのである。思想は何処までも説明のできるも
NKZ1-44-10 のではない、其根柢には説明し得べからざる直覚がある、凡ての証明は此上に築き上げられるのであ
NKZ1-44-11 る。思想の根柢にはいつでも神秘的或者が潜んで居るのである、幾何学の公理の如きものすらこの一
NKZ1-44-12 種である。往々思想は説明ができるが、直覚は説明ができぬといふが、説明と云ふのは更に根本的な
NKZ1-44-13 る直覚に摂帰し得るといふ意味にすぎないのである。此思想の根本的直覚なる者は一方に於て説明の
NKZ1-44-14 根柢となると同時に、単に静学的なる思想の形式ではなく一方に於て思惟の力となる者である。
NKZ1-44-15 思惟の根柢に知的直観がある様に、意志の根柢にも知的直観がある。我々が或事を意志するといふ
NKZ1-45-1 のは主客合一の状態を直覚するので、意志はこの直覚に由りて成立するのである。意志の進行とはこ
NKZ1-45-2 の直覚的統一の発展完成であつて、其根柢には始終此の直覚が働いて居る、而してその完成した所が
NKZ1-45-3 意志の実現となるのである。我々が意志に於て自己が活動すると思ふのはこの直覚あるの故である。
NKZ1-45-4 自己といつて別にあるのではない。真の自己とはこの統一的直覚をいふのである。それで古人も終日
NKZ1-45-5 なして而も行せずといつたが、若し此の直覚より見れば動中に静あり、為して而も為さずと云ふこと
NKZ1-45-6 ができる。又かく知と意とを超越し、而もこの二者の根本となる直覚に於て、知と意との合一を見出
NKZ1-45-7 すこともできる。
NKZ1-45-8 真の宗教的覚悟とは思惟に基づける抽象的知識でもない、又単に盲目的感情でもない、知識及意志
NKZ1-45-9 の根柢に横はれる深遠なる統一を自得するのである、即ち一種の知的直観である、深き生命の捕捉で
NKZ1-45-10 ある。故にいかなる論理の刀も之に向ふことはできず、いかなる欲求も之を動かすことはできぬ、凡
NKZ1-45-11 ての真理及満足の根本となるのである。その形は種々あるべけれど、凡ての宗教の本には此の根本的
NKZ1-45-12 直覚がなければならぬと思ふ。学問道徳の本には宗教がなければならぬ、学問道徳は之に由りて成立
NKZ1-45-13 するのである。