校異:
赤い文字(赤いフォント)は原雑誌論文の、単行本において 削除された箇所を示す。
青い文字(青いフォント)は単行本において新たに附加され た箇所を示す。
NKZ1-268-1 自然科学と歴史学
NKZ1-268-3 学問を大別して、規範学と経験学との二つに分けることができる。規範学といふのは、価値判断の
NKZ1-268-4 学問、即ち当為の学問であつて、我々の規範的意識の上に立つて居る学問である。例へば、論理学、
NKZ1-268-5 倫理学、美学の如き学問である。勿論我々が何等かの判断を下すには、既に論理的規範によらねばな
NKZ1-268-6 らぬのであるから、論理学が規範的意識の上に立てられねばならぬことを疑ふ人は少いとしても、倫
NKZ1-268-7 理学、特に美学の如きものは経験的事実の上に立つものであると考へる人も多いであらう。併し「斯
NKZ1-268-8 くある」といふことから「斯くあらねばならぬ」といふことは出て来ない、我々の倫理的判断、美的
NKZ1-268-9 判断が一般的妥当性を要求し得るものとするならば、この根柢に何等かの意味に於て規範的意識を仮
NKZ1-268-10 定せねばならぬ。美学などを経験的事実の上に立てようとする人の多くは、要求の事実といふものを
NKZ1-268-11 基礎として考へるのであるが、美的判断の基礎となる要求の事実は単なる快感ではなくして美感でな
NKZ1-269-1 ければならぬ、即ち美的要求の事実でなければならぬ、斯くして既に美的規範の意識を仮定して居る
NKZ1-269-2 のである。倫理的判断や美的判断の一般的妥当性はこの規範的意識に基くのであらう。
NKZ1-269-3 経験学といふのは、之に反し、経験的事実の学問である、即ち全く我々の経験的知識に基くと考へ
NKZ1-269-4 られる学問である。此種の学問は之を二つに分つことができる、一つは自然科学であつて、一つは歴
NKZ1-269-5 史学である。自然科学といふのは、我々の経験的事実の間に於ける因果の関係を明にする学問である、
NKZ1-269-6 如何なる原因より如何なる結果を生ずるか、因果関係を支配する一般的法則を求むる学問である。歴
NKZ1-269-7 史とは、之に反し、何処かに於て時間上一度起つた出来事を明にする学問である。普通には、自然科
NKZ1-269-8 学のみが経験学即ち科学であると考へられて居る。因果関係を支配する一般的法則を明にすることが
NKZ1-269-9 科学の定義であるかの様に考へられて居る。斯くの如き考から見れば、唯一の事実を明にすることを
NKZ1-269-10 目的とする歴史の如きものは科学と称することはできない、歴史といふのは科学の中より除去するか、
NKZ1-269-11 さなくば人文発展の法則を示す不完全なる科学と考へるか、又は科学の材料を与へる予備学の如きも
NKZ1-269-12 のと考へるの外はなからう。併し飜つて考へて見ると、歴史といふものも、例へば一時代の事実を綜
NKZ1-269-13 合統一して其時代の特徴を顕はすといふ如きは特殊の意味と目的とを有つた客観的智識である。自然
NKZ1-269-14 科学を経験学といふならば、歴史も之と意味、目的を異にして居るが、而も同一の権利に於て経験学
NKZ1-269-15 といふことができぬであらうか。歴史は自然科学に対立して経験学といふことができるならば、如何
NKZ1-270-1 なる性質の科学であるか、歴史学と自然科学との差異及び相互の関係はいかん。これ余が此論文に於
NKZ1-270-2 て主として考究して見ようと思ふ問題である。
NKZ1-270-3 此等の問題を論ずる前に、先づ経験的智識の性質についで一言して置かねばならぬ。規範学に於て
NKZ1-270-4 は、その知識は規範的意識に基くと考へられるのであるが、経験学の方では、その真理の標準は経験
NKZ1-270-5 的事実に合ふことであると考へられて居る。併しかくの如き考を有する人の経験的事実といふのは、
NKZ1-270-6 如何なるものを指すのであらうか。自然科学者の所謂経験的事実といふのは、果して真に直接経験の
NKZ1-270-7 事実といふことができるであらうか。例へば、酸素と水素と化合すれば水が出来るといふことは経験
NKZ1-270-8 によつて証明することができるといふ。併し前に経験した一群の経験と、後に経験する一群の経験と
NKZ1-270-9 全然同一であるといふことは如何にして云ひ得るであらうか。我々の直接経験の事実は時々刻々と変
NKZ1-270-10 化し厳密には同一の経験を再び繰返すことはできまい。自然科学者のいふ所が経験的事実に合ふとい
NKZ1-270-11 ふならば、そは同一の経験を繰返し得るといふ仮定の下に於てのみ可能であるのである。自然科学は
NKZ1-270-12 すべて何等かの仮定の下に立つて居るものである、或仮定によつて直接経験の事実を説明しようとす
NKZ1-270-13 るものである、決して直接経験其侭を写さうとするものではない。縦、自然科学が経験的事実の微細
NKZ1-270-14 なる点にまでも適合することを求むるとしても、そは唯或仮定より経験其者を何処までも説明しよう
NKZ1-270-15 とするに過ぎない、譬へば、立体形を平面図に直して、何処までも両者の適合を求むると一般である。
NKZ1-271-1 啻に自然科学的知識のみならず、すべての概念的知識は何等かの意味に於て直接経験の事実を改造し
NKZ1-271-2 たものといふことができる。我々が単純なる事実其侭の知識と考へて居るものすらこの性質を脱する
NKZ1-271-3 ことはできぬであらう。例へば「此花は白い」といふのも、既に或一種の一般的性質によつて、我々
NKZ1-271-4 の経験を統一したのである。尚一層進んで、或時、或場所に或事が起つたといふことすらも、時間空
NKZ1-271-5 間の形式によつて我々の経験を統一した上でのことであると云ひ得るであらう。「知る」といふこと
NKZ1-271-6 は「構成する」ことである。
NKZ1-271-7 我々が普通に経験的知識といつて居るものが斯くの如きものであるとするならば、知識の客観性即
NKZ1-271-8 ち一般的妥当性といふものは何に基くと考へねばならぬであらうか。普通に考へる様に、知識は客観
NKZ1-271-9 的事実其侭を写すものであるといふならば、此処に容易く知識の客観性を求め得るのであるが、右に
NKZ1-271-10 云つた様に、知識の対象たる客観的事実なるものが既に或仮定によつて構成せられたものであるとす
NKZ1-271-11 ると、我々の知識の客観性はこの先験的仮定に求めねばならぬ。我々はこの先験的或物を承認するこ
NKZ1-271-12 とによつて、知識の客観性即ち一般的妥当性が立て得らるゝのである。ウィンデルバント、リッケル
NKZ1-271-13 トの如き目的論的批評論者のいふ所によれば、古来哲学は知識の客観性を客観的実在との一致に求め
NKZ1-271-14 た、而して客観的実在の不可知的と考へねばならぬ為に、其結果懐疑論に陥るの外なかつた、カント
NKZ1-271-15 に至つて、初めて知識の客観性を知識を構成する範疇の先験性に求むることによつて懐疑論を脱する
NKZ1-272-1 ことが出来たといふ。併し単に以上の如く云つただけでは、或は科学的知識と規範との区別を不明瞭
NKZ1-272-2 ならしめる恐があるかも知れないが、規範とは、上に云つた様に全く規範的意識の上に立つたもので
NKZ1-272-3 ある、規範学は此意識の仮定の下に厳密に先験的に進み行くのである。科学的知識とは、之に反し、
NKZ1-272-4 論理的規範によつて構成せられた或仮定の下に、経験的事実を統一して行くものである。例へば、本
NKZ1-272-5 体と性質とか、原因と結果とかいふ如き論理的範疇に、何等かの経験的内容を当嵌め、之に因つて連
NKZ1-272-6 続的に変じ行く一々異質的なる直接経験を統一したものである。斯くの如きことを云へば、科学的知
NKZ1-272-7 識はその形式に於ては規範的知識に基くが、その内容に於ては経験的事実に基くとも考へることがで
NKZ1-272-8 きるであらう、即ちウィンデルバントの云ふ様に経験の一面を現はすものとも考へる事ができる。直
NKZ1-272-9 接経験の性質及び之と規範的意識との関係に就ては、尚十分論議すべき点があると思ふが、茲には姑
NKZ1-272-10 くカント学派の云ふ所に従つて、兎に角与へられたる経験的内容が一般的妥当性を有する真理となる
NKZ1-272-11 には、規範的意識の構成に俟たねばならぬ、真理は経験的事実と一致することではなく、かくの如き
NKZ1-272-12 構成によるのであるといふに止めて置かう。内容を得るといふことは必ずしも内容に合ふといふこと
NKZ1-272-13 を意味して居らぬ、我々が意識内容に合ふと考へる時、既にその内容を構成して居るのではなからう
NKZ1-272-14 か。例へば「火が熱い」といふことは直に経験の内容に一致して居る様に考へられるが、これは既に
NKZ1-272-15 構成せられた客観的事実に合ふのである、厳密なる直接経験の上では「火が」といふことすらも云ひ
NKZ1-273-1 得ないであらう。
NKZ1-273-3 経験的知識の性質が以上述べた如きものであるとするならば、経験学を区別するのは、之を構成す
NKZ1-273-4 る仮定の性質によるのが至当であらう。学問を区別するに、其対象によつて分つのが普通であるが、
NKZ1-273-5 我々の直接経験は唯一つあるだけで、その見方によつて種々なる学問の対象ができるのである、つま
NKZ1-273-6 り対象は見方によつて定まつてくるのである。それでは先づ自然科学的見方、即ち自然科学を構成す
NKZ1-273-7 る先験的仮定は如何なるものであるか。
NKZ1-273-8 自然科学といへば、先づその主なるものとして、物理学、化学、生理学の如きものを数へねばなる
NKZ1-273-9 まい、此等の学問は如何なる現象に就て如何なる知識を求めて居るのであるか。此等の学問はすべて
NKZ1-273-10 時間、空間の上に現はれた物体現象を研究するのであるが、生理学は我々の肉体と名づけられた合目
NKZ1-273-11 的的物体に於ける各部の調節、同化、生殖といふ如き現象を、化学は物質そのものの変化に関する現
NKZ1-273-12 象を、物理学は物力の変化に関する現象を、而してその根柢となる力学は純粋に物体運動の法則を研
NKZ1-273-13 究するものと考へられて居る。斯くその研究の対象として居る物体現象はそれぞれ異なつて居る様で
NKZ1-273-14 あるが、此等の学問が求めて居る知識の性質は同一種のものであるといふことができる、即ちそれぞ
NKZ1-274-1 れの物体現象に就て、その因果関係を支配する一般的法則を求めて居るのである。自然科学はすべて
NKZ1-274-2 同一性質の仮定に立つて経験を統一する学問であるといふことができるであらう。自然科学に於ける
NKZ1-274-3 種々なる区別は之を構成する先験的仮定の性質によるのではなく、唯その形によるのである。詳しく
NKZ1-274-4 云へば、経験を統一する目的、態度の相違によるのではなく、唯その仮定の簡単とか、複雑とか、抽
NKZ1-274-5 象的とか具体的とかいふ如き差別によるのである。力学の由つて立つ仮定の如きものが最も簡単で抽
NKZ1-274-6 象的であつて、物理学、化学、生理学といふ風に漸次一層複雑で具体的なるものに至るのである。向
NKZ1-274-7 に云つた種々の科学の対象となる所謂物体現象の区別は、現象其者の区別ではなく、却つて同一の経
NKZ1-274-8 験を統一する仮定の形によると考へることができるであらう、即ち対象によつて仮定が定まつてくる
NKZ1-274-9 のでなく、寧ろ仮定によつて対象が定まつてくるのである。而して此等の仮定の区別も絶対的のもの
NKZ1-274-10 ではなくして、複雑なるものは一層要素的のものに、特殊なるものは一層一般的なるものに分解せら
NKZ1-274-11 るべきものである。生理学は、化学及び物理学に、化学は物理学に、物理学は純粋なる力学に還元せ
NKZ1-274-12 られようとして居る。自然科学は一に帰すべき傾向をもつて居るといふことができるであらう。
NKZ1-274-13 それでは、自然科学的知識を構成する先験的仮定といふのは如何なるものであるか、自然科学は如
NKZ1-274-14 何なる目的を以て、如何なる仮定の下に立つて我々の直接経験を統一するものであるか、自然科学の
NKZ1-274-15 依つて立つ所の因果律とは如何なるものであるか。我々の直接経験は時々刻々に移り行く一々異質的
NKZ1-275-1 なる連続的発展である、即ち一々個性を帯びたるものである、然るに自然科学は出来るだけその異質
NKZ1-275-2 性と個性とを去り、すべての経験を一般的性質の下に統一して、之れよりすべてを説明しようとする
NKZ1-275-3 のである。先づ連続的にして、一々異質的なる経験に就て、幾度にても繰返すことができると考へら
NKZ1-275-4 れる同様の経験の一群を切抜いて一つの物といふものを考へるのが既に此見方の結果である。かゝる
NKZ1-275-5 考へ方によつて我々の経験界をば不変的性質を具へた物の同時的存在の体系と見たものが我々の所謂
NKZ1-275-6 物体界である、自然科学の対象は此見方によつて構成せられるといつてよからう。時間、空間といふ
NKZ1-275-7 のも此の如き見方によつて経験を統一する形式に過ぎない。時といつても、普通の所謂時といふのは、
NKZ1-275-8 ベルグソンのいふ様に、連続的進行を同時存在の形に直して見たものである、切れ切れの経験を連続
NKZ1-275-9 的に結合して見る見方である。併し我々が普通に物体界と考へて居るものは未だかゝる考へ方の徹底
NKZ1-275-10 したものではない。所謂物体なるものゝ性質の中に尚直接経験の異質的性質を含み、之によつて経験
NKZ1-275-11 を分割し、統一する間は、未だ全然直接経験の異質性を脱したものといふことはできぬ、即ち未だ一
NKZ1-275-12 般的見方の極致に達したものといふことはできない。此見方を徹底せしむるには何処までも経験の異
NKZ1-275-13 質性を除去せねばならぬ。ロックの所謂第二次的性質を除去せねばならぬ、斯くして成立つたものが
NKZ1-275-14 純力学的世界即ち純物質の世界である。純物質界といふのは、出来るだけ、我々の経験の異質性を除
NKZ1-275-15 去し、最も同質にして単純なる要素の時間空間的関係に還元して見たものである。普通に自然科学界
NKZ1-276-1 は因果の法則に基くと考へられて居るが、自然界に於ける因果関係といふのは此の如き一般的見方の
NKZ1-276-2 上に於て成立することができるのである。自然的因果律といふのは同一の原因に同一の結果が伴ふと
NKZ1-276-3 いふことである。此の如き考は、連続的で一々異質的である経験から、その一部を切出して、それが
NKZ1-276-4 不変的であると考へることによつて、可能であるのである。経験が連続的に発展するもので一々異質
NKZ1-276-5 的であると考へたならば、自然的因果律は到底成立することはできぬ。経験の因果的説明は、経験を
NKZ1-276-6 出来るだけ同質的と考へることによつて、其極致に達することができるのである。
NKZ1-276-7 右に云つた様に、連続的にして一々異質的なる経験を分割して、断続的にして同一の経験を繰返し
NKZ1-276-8 得るものと考へ、不変的なる物体を考へ、空間時間の関係を考へ、因果の関係を考へるのは、皆同一
NKZ1-276-9 の考へ方に基くものと見ることができる、即ちすべての経験を同質的に見る一般化的見方によるもの
NKZ1-276-10 といふことができるであらう。内面的意味によつて自から連結せられ、一歩一歩特殊の意味と位置と
NKZ1-276-11 を有すると考へねばならぬ直接経験は、唯之を反省して同質的時間の上に写すことによつてのみ、之
NKZ1-276-12 を分割して断続的のものと考へられることができるのである。而して斯く分割せられた各自独立の経
NKZ1-276-13 験が、同質的時間によつて外から結合せらると見ることによつて、同一性質の経験を繰返し得ると考
NKZ1-276-14 へることも可能となるのである。物理学者の所謂空間、時間なるものは斯く経験を分割し、断続的に
NKZ1-276-15 結合する同質的媒介者 homogenes Medium たるに過ぎない。因果関係といふものも、斯くして分た
NKZ1-277-1 れたる同質的経験の間に於ける不変的結合をいふのである。それで上に云つた様に、空間時間の上に
NKZ1-277-2 独立不変なる物体を知覚するといふことが既に一般化的見方の端緒であるが、自然科学の仕事は更に
NKZ1-277-3 此等の物体の異同を比較し分類することから始まるのである。分類といふのは、相類似せる共同的性
NKZ1-277-4 質を有つた物体を一般概念の下に統一して考へるのである、幼稚なる自然科学の知識は多く此種の知
NKZ1-277-5 識の性質を帯びて居る、生物学の如きも今日尚その大部分が此種の知識に属するであらう。併し物体
NKZ1-277-6 概念によつて経験を統一し、分類によつて之を一般化するのでは未だ一般的見方の進んだものとは云
NKZ1-277-7 はれない。各自独立なる個体的統一は尚経験の異質性に基くもので、之によつてすべての経験を一般
NKZ1-277-8 化することはできぬ。例へば生物的個体はいふに及ばず、化学的個体ですらも尚かくの如き性質を脱
NKZ1-277-9 することはできぬ、化学的元素の性質が如何に厳密に限定せられ、すべての現象が此等の元素の数量
NKZ1-277-10 的関係から説明ができるとしても、尚還元することのできない性質的要素を残して居る間は、一般化
NKZ1-277-11 的見方の極致に達したものといふことはできぬ。尚一層完全なる一般化的見方に達するには更に此の
NKZ1-277-12 如き個体的統一を分析して、一層単純なる要素の一般的関係に還元して見なければならぬ。個体的統
NKZ1-277-13 一は之を更に単純なる要素の一般的関係に分解するととによつて、性質的差異を出来るだけ数量的関
NKZ1-277-14 係に直すことによつて、一般化的見方を徹底せしむることができるのである。それで、自然科学は分
NKZ1-277-15 類の学より法則の学に進み、経験の性質的区別に基づく学問から数量的関係に基づく学問に進む。勿
NKZ1-278-1 論絶対に経験の性質的要素を除去することは到底不可能であらう。併しなるだけ此理想に向つて進む
NKZ1-278-2 のである。例へば他日電子論が確立せられて、今日の化学的法則が尽く電子の力学的関係から説明が
NKZ1-278-3 できる様になつたとすれば、一層かゝる理想に近づいたものと見ることができるであらう。数学的物
NKZ1-278-4 理学は此意味に於て科学の頂点に位するものといふことができる。ポアンカレは「科学と臆説」の中
NKZ1-278-5 に数学的物理学の起原を論じて、物理学はその研究する現象を同様の性質を具へた単一なる現象の重
NKZ1-278-6 畳 superposition と見ることによつて、之に微分方程式を応用することができる、物質の同質性とい
NKZ1-278-7 ふことが数学的物理学の起原である、他の科学はかゝる条件を具へて居らぬ、従つて他の概括法を用
NKZ1-278-8 ゐねばならぬと云つて居る(La Science et l'Hypothèse, p. 187)。
NKZ1-278-9 以上論じた所によつて、聊か自然科学が拠つて立つ所の仮定は如何なるものであるか、此上に立て
NKZ1-278-10 られたる自然科学的の性質は如何なるものであるかを明にしたのであるが、自然科学的見方を単に一
NKZ1-278-11 般化的見方と考へることに就ては反対の意見を有つて居る人も多い、例へばリールの如きもその一人
NKZ1-278-12 である。氏に従へば自然科学的見方を以上の如く考へるものは、古代の自然哲学を標本として考へて
NKZ1-278-13 居るものである、併し抽象が分析と異なる様に、古代哲学の種属概念と近代科学の法則概念と違ふ、
NKZ1-278-14 近代科学の法則は実際の事物より導き来つたものであるから、自然科学者は何時でも一々の事物に還
NKZ1-278-15 つて適合することができるといふ(Systematische Philosophie, S. 101)。フリッシュアイゼン・ケー
NKZ1-279-1 ラーもリッケルトの"Die Grenzen der naturwissenschaftlichen Begriffsbildung" を批評して略同
NKZ1-279-2 様の考を尚一層詳しく論じて居る(Archiv für systematische Philosophie, XII S. 256ff.)。併し上に
NKZ1-279-3 云つた様に、種属概念によつて経験を統一すると、法則概念によつて経験を統一するとは同一の考へ
NKZ1-279-4 方であつて、後者は前者の一層進んだものと見ることができるであらう。種属概念による統一といふ
NKZ1-279-5 のは、即ち個体的統一に基くものであつて、未だ経験の異質性を脱することはできぬ、法則概念によ
NKZ1-279-6 つて統一するといふのは、此の如き異質性を除去して、一層一般化的見方を徹底せしめたものである。
NKZ1-279-7 又経験の一般化的見方といへば、個々の経験に還つて一々事実に適合するといふことと相反する様に
NKZ1-279-8 思はれるかも知らぬが、余が上に云つた様な意味に於ての一般化的見方は、決して個々の事物に適合
NKZ1-279-9 するといふことと相反するものではない。譬へば立方体と、其投影図との間に一々適合点を見出し得
NKZ1-279-10 る様に、連続的にして一々異質的なる経験を同質的媒介者の上に写して考へた時、この両者は全然相
NKZ1-279-11 異なるものなるに拘らず、両者の間に一々適合点を見出すことができる、即ち一般化的見方の上から
NKZ1-279-12 一々の経験を統一し、飜つてまた一々之に適合することができる、而も一般化的見方は何処までも一
NKZ1-279-13 般化的見方として其性質を失はぬのである。すべての経験を同質的媒介者の上に写し、之を分析して、
NKZ1-279-14 出来るだけ、単一なる要素の一般的関係に還元しようとする一般化的見方が進めば進む程、個々の経
NKZ1-279-15 験に適合することができると思ふ。併し此場合に於て、個々の経験といふのは、ウィンデルバント、
NKZ1-280-1 リッケルトなどの所謂個性を具へた経験ではない、何処までも、同質的媒介者の上に写して分割せら
NKZ1-280-2 れた個々独立の経験である、時間、空間によつて分割せられた個々の事実である。此の如き意味に於
NKZ1-280-3 て個々の事実に適合するといふことは、決して一般化的見方と相反することはなからう。唯普通には
NKZ1-280-4 一般化するといへば、人は動物である、動物は生物である、生物は物体であるといふ風に、単に特殊
NKZ1-280-5 概念を順次一般概念の中に包摂して行くことであると考へる故に、此の如き考へ方と一々の事実に適
NKZ1-280-6 合することとは相反する様に考へられるのであるが、自然科学に於て、現象を分類し概括するといふ
NKZ1-280-7 のは、単に概念の人為的階級を作ることではない、所謂実在の性質に従うて分類し、概括するのであ
NKZ1-280-8 る。人は生物であるといへば、人の一面は生物の法則から説明ができるといふことを意味して居らね
NKZ1-280-9 ばならぬ、生物は物体であるといへば、生物の一面は物体の法則から説明し得ることを含んで居らね
NKZ1-280-10 ばならぬのである。
NKZ1-280-12 自然科学が拠つて立つ所の仮定、及び此上に立てられたる自然科学的知識が以上述べた如きもので
NKZ1-280-13 あつて、種々の自然科学は皆同一の仮定の上に立ち、同一の性質を具するが故に、同一種の経験学と
NKZ1-280-14 称することができるとするならば、之に対立する歴史学とは如何なる仮定の上に立ち、如何なる性質
NKZ1-281-1 を有する学問であるか、以下少しく歴史学の性質に就て考へて見よう。
NKZ1-281-2 最も幼稚なる考へ方では、歴史は単に時間的順序を追うて、事実其侭を記載するものと考へられる
NKZ1-281-3 であらう。併し上にも云つた様に、直接経験の事実を時間空間の形式に当嵌めて考へるといふことが、
NKZ1-281-4 厳密には既に事実其侭といふことができないのみならず、此の如き見方に於ては、何等の主観的選択
NKZ1-281-5 なく、事実其侭を、尽く記載するといふことは、到底不可能のことでもあり、且つ歴史家の歴史を書
NKZ1-281-6 く場合に当つて、実際決して此の如きことを目的として居らぬと思ふ。歴史家はやはり或仮定の下に
NKZ1-281-7 立つて即ち或理念によつて、事実を綜合統一しようと務めるのである。例へばナポレオンの伝記をか
NKZ1-281-8 くといへば、ナポレオンの人格を内面的中心として、之に依てナポレオンの事蹟を綜合統一して行く
NKZ1-281-9 のである。文芸復興時代の歴史を書くと云へば、その時代の精神といふやうなものを内面的中心とし
NKZ1-281-10 て、之によつてその時代の事実を綜合統一して行くのである。勿論、初めは歴史を構成する材料とし
NKZ1-281-11 て或一偉人又は或一時代の事実を、年月順に、なるだけ漏なく蒐集するといふこともあるであらう。
NKZ1-281-12 併し此の如きものは直に真の歴史と称することはできぬ、真の歴史と称すべきものは、此等の事実を
NKZ1-281-13 或理念によつて内面的に綜合統一したものでなければならぬ、即ち此等の事実が集つて、一つの生き
NKZ1-281-14 た個性を顕はして居るものでなければならぬ、此の如き個性を顕はすに何等の益なき事実は如何に真
NKZ1-281-15 の事実であつても歴史的事実と称することができぬ。ウィンデルバントが云つて居る様な、ゲーテが
NKZ1-282-1 千七百八十年に呼出鐘と室の鍵とを注文したといふことは今や錠匠の勘定書によつて疑ふべからざる
NKZ1-282-2 事実となつて居るが、かゝる事実は、文学史的にも、又伝記的にも、歴史的事実として何等の価値を
NKZ1-282-3 有するものではない。
NKZ1-282-4 それで、苟くも歴史と称すべきものは、単に時間的順序に従うて、事実を集めたものではない、或
NKZ1-282-5 一つの個性に基いて、事実を綜合統一したものでなければならぬ。歴史の目的は或一つの人物とか、
NKZ1-282-6 事件とか、時代とかいふものゝ個性を現すことにあるのである。ウィンデルバント、リッケルトなど
NKZ1-282-7 のいふ様に、一度起つた繰返す事のできない個性を明にするのである。上に云つた如く、自然科学の
NKZ1-282-8 見方は、連続的にして、一々異質的な直接経験の事実を、同質的媒介者の上に写して、幾度にても繰
NKZ1-282-9 返し得る個々独立の経験に分割し、かく改造せられたる経験を統一して一般的法則を見出さうとする
NKZ1-282-10 所謂一般化的見方であるとするならば、歴史の見方は、之と正反対に、個々の経験を連続的に結合し
NKZ1-282-11 て、一度的で繰返す事のできない個性を現さうとする個性化的見方といふべきであらう。最初に云つ
NKZ1-282-12 た様に、すべて我々の概念的知識といふものは或仮定によつて個々の経験的事実を統一したものであ
NKZ1-282-13 る、我々の理解とは此の如き統一の作用をいふのである。我々が同一の仮定に立つて経験を統一する
NKZ1-282-14 所に同一の理解があり、同一真理の認識があるのである。然るに、自然科学的知識の拠つて立つ所の
NKZ1-282-15 仮定と歴史的知識の拠つて立つ所の仮定とは、相反する傾向をもつたものである、従て此両種の科学
NKZ1-283-1 的知識は相反する性質を具へたものといふことゝなる。精神生活に就ては、我々は二種の理解と、二
NKZ1-283-2 種の知識とを有つて居る。一つは普通の心理学の見方のやうに、我々の精神現象を、外界の自然現象
NKZ1-283-3 と同様に、固定せる要素が不変的関係に従うて結合せるものかの様に考へ、種々の変化を一般的法則
NKZ1-283-4 の中に包摂して理解するのである。他の一つは我々の精神生活を生きた個性の発展として内から直に
NKZ1-283-5 之を理解するのである。ディルタイの云つた様に、我々の実際の生活では、心像は固定せる事実では
NKZ1-283-6 なく、その運命は感情と注意とによつて支配せられて居る、かくして心像はそれ自身に衝動的勢力を
NKZ1-283-7 もつて居る、生きた出来事である、成立し、発展し、消滅するものである。直接には我々の精神現象
NKZ1-283-8 は時間的に経過する生きた出来事である、ディルタイの所謂体験 Erlebnis である、一つの核から発
NKZ1-283-9 展するのである、音楽的である。我々が他人の伝記とか、歴史とかいふものを理解するのは此体験に
NKZ1-283-10 よるのである。ゲーテの思想、感情などが彼の脳の構造や身体の性質などより理解のできない以上、
NKZ1-283-11 この理解は自然科学的理解に対して独得の地歩を占めるものと云はねばならぬ。
NKZ1-283-12 それで、歴史は自然科学と同じく、或仮定によつて経験的事実を統一する経験学であるが、この両
NKZ1-283-13 種の経験学は相反する仮定の上に立ち、相反する目的をもつたものといはねばならぬ。自然科学者は
NKZ1-283-14 経験的事実を出来るだけ一般化することによつて、その目的を達することができ、歴史家は之に反し
NKZ1-283-15 出来るだけ之を個性化することによつて、その目的を達することができるのである。勿論歴史家自身
NKZ1-284-1 はかゝる目的を自覚して居らぬかも知らぬが、自からかゝる目的に従つて働いて居るのである。リッ
NKZ1-284-2 ケルトはラムプレヒトを評して、ラムプレヒトはその独国史に於て、何処の囲でも、何の時代でも、
NKZ1-284-3 繰返すことのできる発展をのみ示すと云つて居るが、果して氏自身がさういふものを書いて居るであ
NKZ1-284-4 らうかと云つて居る。実際、自然科学的方法を用ひて、歴史を書いた人はあるまい、一般的法則を明
NKZ1-284-5 にするために書かれた歴史はあるまい。若しかゝるものがあつたならば、それは社会学の如きものと
NKZ1-284-6 なるであらう。歴史の目的及び性質に就て、以上の如き考を最も能く明にしたのは、ウィンデルバン
NKZ1-284-7 ト、リッケルトなど独逸の西南学派といはるゝ人々である。十九世紀の半頃は実に自然科学全盛の時
NKZ1-284-8 代であつた、自然科学が唯一の学問であつて、すべての学問が自然科学的に研究せられ、又説明せらる
NKZ1-284-9 べきものと考へられて居た。然るに前世紀の終頃から、自然科学を唯一の知識となすことに疑を挟む
NKZ1-284-10 学者が出て来たやうである。自然科学者の中からも、かゝる人が出た、即ちデュ・ボァ・レイモンが
NKZ1-284-11 "Die Grenzen der Naturerkenntnis" を書いたのが千八百七十二年で、"Die Sieben Welträtsel" を
NKZ1-284-12 書いたのが千八百八十一年である。斯く一方に於てデュ・ボア・レイモンなどが自然科学的知識の限
NKZ1-284-13 界を感ずると共に、一方には歴史的知識を自然科学的知識とその性質を異にするものと見て、後者を
NKZ1-284-14 ば全然別箇の基礎の上に立てようとする人が出た、ディルタイが "Einleitung in die Geisteswissen-
NKZ1-284-15 schaften" 書いたのは千八百七十三年である、又へルマン・パウルは千八百八十年に第一版を出し
NKZ1-285-1 た「言語史の原理」に於て、既に言語史に就て此考を論じて居る。勿論、ディルタイは歴史の基礎と
NKZ1-285-2 して、自然科学的心理学の法則を排斥しながらも、尚不変なる類型的法則を説くのは、ウィンデルバ
NKZ1-285-3 ント、リッケルトなどの方からは不徹底とも見られるであらうが、兎に角氏は深き独創的な考を有つ
NKZ1-285-4 た学者であつた、氏は未だ受くべきだけの注意を受けて居らぬと思ふ。斯く歴史を自然科学と異なつ
NKZ1-285-5 た基礎の上に立てようといふ考は種々の人から起つたのであるが、現在に於て、其最も徹底的なるも
NKZ1-285-6 のは、上に云つた如く、ウィンデルバントが千八百九十四年総長就職の講演とした "Geschichte und
NKZ1-285-7 Naturwissenschaft" と題する小論文に於て述べられ、リッケルトによつてその著 "Die Grenzen
NKZ1-285-8 der naturw. Begriffsbildung" 1896-1902; "Kulturwissenschaft und Naturwissenschaft" 1898 及
NKZ1-285-9 び "Geschichtsphilosophie" 1905 に於て敷衍せられた考であらう。十九世紀の半、科学全盛の時
NKZ1-285-10 代は即ち実証主義全盛の時代であつた、今は実証的精神の徹底する所、却つて浪漫主義に傾いた、所
NKZ1-285-11 謂新浪漫的傾向を帯びた時代である。近時流行せるオイケン、ベルグソンが形而上学的に此傾向を表
NKZ1-285-12 はして居るものとすれば、ウィンデルバント、リッケルトなどは方法論的に此傾向を表はして居ると
NKZ1-285-13 見ることができるであらう。
NKZ1-285-14 私は此処にディルタイは未だ受くべきだけの注意を受けてゐないと云つて居るが、今日はディル タイはもはや大なる注意を
NKZ1-285-15 受け、精神科学に偉大な影響を与へた。当時はディルタイの書は絶版にて得難いものであつた。 (昭和十二年十二月)
NKZ1-286-2 自然科学的知識の目的及び性質に対して歴史的知識は以上述べた如きものであるとするならば、歴
NKZ1-286-3 史的知識の拠つて立つ所の個性とは如何なるものであるか、個性といふ考は何に基いて起るか、個性
NKZ1-286-4 によつて経験を統一するといふのは如何なることを意味して居るか。
NKZ1-286-5 自然科学は連続的にして一々異質的なる直接経験を、同質的媒介者の上に写して、幾度にても繰返
NKZ1-286-6 し得る個々独立の経験に分割し、之を統一して一般的法則を見出さうとするに反し、歴史は個々の経
NKZ1-286-7 験を連続的に結合して、一度起つた繰返すことの出来ない個性を現すものといふならば、歴史は直に
NKZ1-286-8 我々の直接経験を現すものとも考へられるであらう、歴史の目的は我々の直接経験を合一するにある
NKZ1-286-9 と考へることも出来るであらう。斯く個性的といふことは直に直覚的といふことと一致する様に考へ
NKZ1-286-10 られるのであるが、個性的とか、直覚的とかいふのも種々の意義に解せられるのであるから、先づ此
NKZ1-286-11 等の意義から明にせねばならぬ。我々は普通に空間時間の上に於て、一定の結合を保つ現象を名づけ
NKZ1-286-12 て個体といつて居る、例へば此筆、此紙の如きものすら、此意味に於て、いくらか個体と称すること
NKZ1-286-13 ができる。併し此の如き個体は心理的には若干なる精神的要素に分析せられ、物理的には多数の分子
NKZ1-286-14 とか原子とかいふものに分つことが出来る、即ち普通の所謂個体は真の個体ではない。真に個体と称
NKZ1-287-1 すべきものは、分つことのできない不変的なる原子の如きものでなければならぬ。併し物質的原子の
NKZ1-287-2 如きものは個体であるかも知らぬが、個性を有つたものとはいはれない、個体的と個性的とは同一に
NKZ1-287-3 見ることはできぬ。個性を有するもの、即ち個性的なるものは生きたものでなければならぬ、否真に
NKZ1-287-4 個性を具へて居るものは自覚を有つたものでなければならぬ。仮令、他に類例のない特徴を具へた宇
NKZ1-287-5 宙に唯一つの元素の如きものがあるとしても、そは唯一の個体といふことができるかも知らぬが、個
NKZ1-287-6 性を有つたものといふことはできぬ。生物否人間ですらも、之を一般的法則に従ふ物体として見るな
NKZ1-287-7 らば、その個性といふべきものは無くなつてしまふであらう。ウィンデルバント及びリッケルトは歴
NKZ1-287-8 史の対象として、よく一度起つた繰返すことのできない出来事といふことを云ふが、向に云つた様に、
NKZ1-287-9 単に物理的時間の上に起つた個々の出来事の羅列は歴史の材料となることができるであらうが、直に
NKZ1-287-10 真の歴史を成すことはできぬ。此の如き事実の羅列は歴史の材料となると共に自然科学の材料とも成
NKZ1-287-11 り得るのである。単に時間空間の形式の上に考へられたる唯一の出来事といふことは、右に云つた唯
NKZ1-287-12 一の個物と同様であつて、之によつて歴史的知識と自然科学的知識とを区別することはできぬ、一度
NKZ1-287-13 起つた繰返すことのできぬといふのは歴史の対象を区別する重要なる特徴ではない。時間上に連続す
NKZ1-287-14 る出来事が生きた個性の発現として、始めて歴史の対象となることができるのである。歴史的事件の
NKZ1-287-15 唯一性は個性の唯一性に基かねばならぬ、例へば天文学上唯一度現れた彗星は唯一の事件であつたか
NKZ1-288-1 も知れぬが、歴史の対象とはならぬ。
NKZ1-288-2 それで、歴史の対象となる個性を具へたものといふのは、時間空間の上に考へられた唯一の個物と
NKZ1-288-3 か出来事とかいふことではなく、生きたものでなければならぬ、その唯一性は生命に基く唯一性でな
NKZ1-288-4 ければならぬ。例へば、余が死して幾百年の後、現在余の身体を構成して居る分子原子が再び現在の
NKZ1-288-5 如く結合することがあるにせよ、余の生命は之が為に繰返されるのではない。それでは、生命といふ
NKZ1-288-6 ものは如何なるものであるか、生きるといふことは目的を以て働くことである、我々は所謂生物の現
NKZ1-288-7 象に於て合目的的作用を認めるが故に、之れを生きると見做すのである。若し機械論者のいふ様に、
NKZ1-288-8 合目的的作用を認めない場合には、生物も生物の意義を失ふのである。尤も生物の合目的的作用とい
NKZ1-288-9 ふのは、外から加へられた見方であつて、現象其者を成立せしむる要件ではない、即ち経験的事実で
NKZ1-288-10 ないとも云へる。従て生物の純歴史的見方といふごときものは、生物を理会する上に重要のものでな
NKZ1-288-11 いかも知れぬ。独り我々の意識現象に至つては、目的は即ち事実である、合目的的作用を離れて意識
NKZ1-288-12 現象はない。勿論心理学者の云ふ様に、我々の意識現象を反省して、機械的に説明することもできる
NKZ1-288-13 であらう。併しかゝる説明が既に合目的的作用を仮定して居るのである。それで、真に目的的に働く
NKZ1-288-14 もの、即ち生きたものは、意識を具へたものでなければならぬ、即ち意識的に働くものでなければな
NKZ1-288-15 らぬ。而も単に盲目的衝動によつて働くのではなく、目的を意識し之によつて働くものにして、始め
NKZ1-289-1 て真にその個性といふものを認めることが出来るのである。而して更に一歩を進めて、目的を意識し
NKZ1-289-2 て働くといふことは如何なることかと云へば、目的を意識して働くといふことは即ち何等かの理念に
NKZ1-289-3 よつて働くといふことである。而して何等かの理念によつて働くといふにはその裏面に何等かの規範
NKZ1-289-4 的意識を認めて居るといはねばならぬ、即ち所謂価値意識を認めて居るといはねばならぬ。それで、
NKZ1-289-5 目的を意識して働くといふこと、即ち自覚的に働くといふことは、価値意識を認め、之によつて働く
NKZ1-289-6 といふことで、個性を有するものは即ち価値意識によつて働くものでなければならぬ。価値意識を自
NKZ1-289-7 覚し之によつて働くものにして、始めて真に個性的といふことができるのである。我々が個性を有す
NKZ1-289-8 る人といふのは、自己の中に独得の規範を有つて居る人をいふのである。各人の個性といふのは規範
NKZ1-289-9 的意識即ち価値意識が特殊なる経験的内容を得たものである。物の性質と人の性格との相違は此処に
NKZ1-289-10 あるのである。以上述べた如き訳であるから、歴史の対象たる個性の唯一性といふのは、一度起つた
NKZ1-289-11 繰返すことのできないといふ如き、空間時間の上に限定せられた個物的唯一性ではなく、限定せられ
NKZ1-289-12 た価値の唯一性でなければならぬ。我々が或価値を信じ、之を中心として働く場合、その価値は何時
NKZ1-289-13 でも唯一の価値と考へられるのである。或物を価値の実現として見る時、その物は唯一の物と考へら
NKZ1-289-14 れるのである。我々が各自の人格を唯一のものと考へるのも之によるのである、個性の唯一性は此の
NKZ1-289-15 如き価値の唯一性に基くものでなければならぬ。
NKZ1-290-1 歴史の対象たる個性といふものが以上述べた如きものであるとすれば、歴史が個性を顕はすといふ
NKZ1-290-2 のは、或時代の出来事とか、或人の行為とかいふものを合目的的に見て行くことである。此等のもの
NKZ1-290-3 を或一つの理念又は価値の実現として、之から統一しようとするのである、即ち歴史の見方は価値関
NKZ1-290-4 係によつて事実を統一する見方であると云はねばならぬ。それでは此の如き個性を現す見方、即ち価
NKZ1-290-5 値関係より経験を統一する見方と、所謂直観的見方とは如何なる関係に於て立つかといふに、個性を
NKZ1-290-6 顕はすといふのは、上来云つた如く、単に個物を直覚するとか、又は個々の事件を時間的に羅列する
NKZ1-290-7 とかいふことではない。斯くの如き意味に於て、歴史の見方は直覚的であるとか、直接経験に合一す
NKZ1-290-8 るとかいふことはできない。但し我々の真の直覚とか、直接経験とかいふものは内面的生命の発展で
NKZ1-290-9 ある、規範的意識即ち価値意識の内面的発展である。歴史の見方は此の如き意味に於て直観に合一す
NKZ1-290-10 るといふことができる。ウィンデルバントが歴史の見方を芸術の見方に比して居るのは此故であらう。
NKZ1-290-11 併し之が為に、歴史の目的は直に所謂直接経験其者に合一するにあるといふのではない。真に直接経
NKZ1-290-12 験に合一するといふのは、プロティノスが自然を理会しようとするものは、自然の如く沈黙にして理
NKZ1-290-13 会せねばならぬといつた様に、概念的思惟を離れ、唯此中に没入することによつてのみ可能であるの
NKZ1-290-14 である。歴史は何処までも概念的知識である、或一つの限定せられたる価値即ち個性を中心として、
NKZ1-290-15 之によつて概念的に経験的事実を統一して行くのである。一つの経験は概念的に自然科学的関係に於
NKZ1-291-1 て考へることもできれば、また歴史的関係に於て考へることもできる。例へば日本に於て起つた一つ
NKZ1-291-2 の事件は、之を社会的法則の一例として、社会学的に理会することもできれば、また日本といふ個性
NKZ1-291-3 を具へた一国家の事件として、歴史的にも理解することができる。リッケルトに従へば、自然科学に
NKZ1-291-4 於ては、一般概念と個々の事物との関係は一般と特殊との関係であるが、歴史に於ては、全体と部分
NKZ1-291-5 との関係である、歴史はその対象となる或一つのものを、その周囲の経験より取出して、同時的と継
NKZ1-291-6 続的との両方面に経験を統一して行くのである、而してこの統一的全体はその統一する個々の経験に
NKZ1-291-7 対して、一般的といふことができるであらうが、それは所謂自然科学的一般ではなく、個物を自己に
NKZ1-291-8 従属せしめる全体であるといつて居る。我々の直接経験は、概念的要素を以てその侭に之を写すとい
NKZ1-291-9 ふことは到底不可能である。我々の概念的知識といふものは、すべて何等かの意味に於て、経験を反
NKZ1-291-10 省し改造したものである。斯く直接経験を反省し、之を統一して行くのに、自然科学的と歴史的との
NKZ1-291-11 両方面がある。自然科学は時間空間の上に分析せられた個々の事実を、一般的法則の下に総括しよう
NKZ1-291-12 とするに反し、歴史はかく反省せられた個々の経験を再び直接経験の内面的秩序に構成しようとする
NKZ1-291-13 のである。直接経験を反省して個々の事実に分析して見るまでは、自然科学も歴史も同様であるが、
NKZ1-291-14 これ以上の統一に於て、その方向を異にするのである。
NKZ1-292-2 歴史の目的及び性質に就て以上論じた所を約言すれば、自然科学は個々の経験的事実を一般的法則
NKZ1-292-3 の一例として、一般的法則によつて概括しようとするのであるが、歴史は之れに反し此等の事実を一
NKZ1-292-4 個性の発現として、個性によつて統一しようとするのである。而して個性といふのは、上に云つたご
NKZ1-292-5 とく価値の実現せられたもの、即ち価値意識の経験的内容を得たものとすれば、歴史は経験的事実を
NKZ1-292-6 価値意識の実現と見て、之れによつて経験的事実を統一して行くものといふことになる。我々が主
NKZ1-292-7 観的に有する価値意識を経験的事実の背後に挿入し、後者を前者の実現と見ることによつて、歴史的
NKZ1-292-8 知識が成立つことができる。我々に種々の価値意識があるだけ、それだけ種々の歴史が成立つことが
NKZ1-292-9 できるのである。例へば、我々が国家価値を認めるが故に国家の歴史が成立し、人格価値を認めるが
NKZ1-292-10 故に個人の伝記が成立し、美的価値を認めるが故に美術史が成立するのである。而して斯く価値の実
NKZ1-292-11 現と見らるゝ経験的事実を文化的現象と名づけうるならば、歴史は文化的現象を対象とする文化学
NKZ1-292-12 Kulturwissenschaft といふことゝなる。ウィンデルバント、リツケルトなどが我々が価値を認め得る
NKZ1-292-13 ものが歴史の対象となるといふのは、之を価値の実現と見做す意義であつて、之に就て或目的の為に
NKZ1-292-14 生ずる有用価値を認めるの意義ではない、我々は物を直に価値の実現と見ることによつて之を愛し之
NKZ1-293-1 を敬するのである。
NKZ1-293-2 それでは、経験的事実を価値の実現と見做し、価値関係によつて経験的事実を統一する歴史の見方
NKZ1-293-3 といふのは如何なるものであるか、歴史学の性質を明にするには、此問題を明にせねばならぬ。価値
NKZ1-293-4 関係によつて、経験的事実を統一するといふのは、価値意識によつて、経験的事実を評価するといふ
NKZ1-293-5 のではない、この二つの作用は異つた精神作用である。例へば、或人の行為の善悪を倫理的に評価す
NKZ1-293-6 るといふことと、其人の行為を倫理的行為として見るといふこととは決して同一ではない。リッケル
NKZ1-293-7 トは「判断と判断作用」と題する論文に於て、判断に就て三様の見方を区別して居る、判断作用は純
NKZ1-293-8 然たる心理作用として自然科学的に見ることもできるが、論理的には判断は一種の意味を有つたもの
NKZ1-293-9 である、判断といふ心理作用は一種の意味を表したものといはねばならぬ。而してこの意味といふの
NKZ1-293-10 は超越的と内在的との二つに分つことができ、超越的意味とは事実的心理作用と何等の関係なき、不
NKZ1-293-11 変の真理をいふのであるが、この意味が心理的作用の目的として内在的となつたものが、内在的意味
NKZ1-293-12 である。かくの如き内在的意味を有つたものとして、判断作用は一つの合目的的作用となるのである。
NKZ1-293-13 斯く判断の見方に就ていつたことは、すべての意識現象の見方にも当嵌めて見ることができるであら
NKZ1-293-14 う。すべての意識現象は、その表す超越的意味に於ては、価値判断の対象となり、純心理作用として
NKZ1-293-15 は自然科学の対象となり、合目的的作用としては歴史の対象となるのである。
NKZ1-294-1 それで、経験的事実を価値関係から見るといふのは、その価値を評価するといふのではない、事実
NKZ1-294-2 と事実との間を価値関係によつて連結して見るのである、事実と事実との関係を理解する一つの見方
NKZ1-294-3 である。実際我々は直接経験に於ては、ディルタイが体験といつた様に、価値関係から合目的的に事
NKZ1-294-4 実を見て居るのである。勿論此等の事実を、純自然科学的に見て、説明することもできるであらう。
NKZ1-294-5 併し自然科学的見方が徹底すればする程、価値関係といふものは失はれてしまふ。一つの芸術品に就
NKZ1-294-6 て見ても、その作者の心理作用を自然科学的に研究したからといつて、その作品の芸術的意味を理解
NKZ1-294-7 することはできぬ。芸術的意味は単に心理作用の合成的結果でない。たゞ美的価値意識を有するもの
NKZ1-294-8 にして真にその意味を理解することができるのである。今の自然科学がその発展の極致に達したなら
NKZ1-294-9 ば、ゲーテとか、ナポレオンとかの一生も種々なる自然力の因果関係から説明ができるかも知らぬ。
NKZ1-294-10 併しかく説明せられてしまへば、ゲーテとかナポレオンとかいふ個人はなくなつてしまふ訳であるが、
NKZ1-294-11 ゲーテとかナポレオンとかいふ個人は生理的、心理的、社会的など種々なる作用の合成的結果以上の
NKZ1-294-12 或物である。彼等の行動は一つ一つに分析して自然科学的に説明し得るとしても、個人とは此等の行
NKZ1-294-13 動の連結の上に現はるゝ一意義である。直接経験の事実を個々独立の要素の結合に還元して見る自然
NKZ1-294-14 科学的見方からして、此等の事実を連続的に結合して見る歴史的見方に達することはできぬ。我々は
NKZ1-294-15 普通に自然科学的見解を実在の唯一なる真相と考へて居るが故に、合目的的見解の如きものは主観的
NKZ1-295-1 見解にすぎないと考へるのであるが、自然科学的見解といつても、前に云つた様にやはり実在の一種
NKZ1-295-2 の見方にすぎない。その一方が主観的ならば、その他方も主観的といはねばなるまい。自然科学的見
NKZ1-295-3 方の様に宇宙の現象を不変的法則に従ふ不変的要素の結合と見做す時は、目的概念を容るゝ余地はな
NKZ1-295-4 いのであるが、直接経験はベルグソンの所謂純粋持続の様に不断的進行である、機械的見解よりも合
NKZ1-295-5 目的的見解が却つてその真相に合ふものと見ることもできるのである。
NKZ1-295-6 リールは前に引用した場所に於て、或物を価値に関係せしめて見ることと、その価値を評価するこ
NKZ1-295-7 ととは同一の精神作用であると云つて居るが、経験的事実を価値関係から統一して見るといふことと、
NKZ1-295-8 その価値を評価するといふこととは決して同一ではない。例へば、希臘の芸術と埃及の芸術とを比較
NKZ1-295-9 して、その価値を評価することと、両国の芸術を理解してその盛衰興亡の跡を辿るといふことは同一
NKZ1-295-10 の精神作用ではない。我々の意志は目的を自覚して働くもの、即ち価値意識から働くものであるが、
NKZ1-295-11 之を批評するものではない。我々の直接経験は価値意識の発展である、ディルタィの所謂衝動的勢力
NKZ1-295-12 を以て、一つの中心から発展するものである。価値批評とは此の如き発展的意識が衝突して、更に大
NKZ1-295-13 なる統一的中心を求むる場合に起るのである。価値批評は意識中心の拡大作用であるといふことがで
NKZ1-295-14 きるであらう。リールは又歴史的見方が価値的見方と関係のないといふことを論じて、実際歴史家が
NKZ1-295-15 事実を選択するのは、価値的見地によるのではない、歴史的效力 historische Wirksamkeitによるの
NKZ1-296-1 である、歴史家の見方によつて、同一の事実もその重きを置かるゝ程度は異なることがあらうが、事
NKZ1-296-2 実の客観的価値はいつでも同一であると云つて居る。併しリールの所謂歴史的效カとは如何なるもの
NKZ1-296-3 であるか。例へば、或偉人の伝記を書くとして、その人の行動を支配する条件の最強なる因子とは如
NKZ1-296-4 何なるものをいふか。若し人間の行動を種々なる原因の合成的結果と見て、自然科学的に因果律によ
NKZ1-296-5 つて最強の原因を択ぶといふならば、恐らく物質的原因は最も有力なるものであらう。社会的又は個
NKZ1-296-6 人的精神の力といふものも、物質力に還元して考へるのは自然科学的見方の理想であらう。また社会
NKZ1-296-7 的又は個人的精神といふものが物質的に還元することのできないものとして、歴史はたゞ最強なる原
NKZ1-296-8 因に従つて、此等の諸力の相互の働きの跡を辿るものといふならば、自然科学に通暁するものが最も
NKZ1-296-9 優秀なる歴史家といふこととなり、歴史特有の知識は無くなつてしまふ訳である。勿論歴史は種々な
NKZ1-296-10 る原因の相働く跡を辿るものと考へることができるであらう。併し斯くその跡を辿るといふのは、単
NKZ1-296-11 に辿る為に辿るのでなくして、之れによつてその事件の個性を現す為ではなからうか。例へば、此処
NKZ1-296-12 に二人の人物があつて、その一人は強き性格を備へ常に周囲を支配し、他の一人は弱き性格を備へ、
NKZ1-296-13 常に周囲から支配せらるゝとせよ。歴史家はこれ等の人の事蹟を単に所謂強き原因に従つて無意義に
NKZ1-296-14 羅列するであらうか。強き人は強くして他を支配する所に、弱き人は弱くして他から支配せられる所
NKZ1-296-15 に、各人特有の個性を表さうとするのではなからうか。例へば、或歴史家が仏国革命の事蹟及び原因
NKZ1-297-1 を明にしたとせよ。独逸に於て同一の事情及び原因があつたとしても、独逸に於ては仏国の如き性質
NKZ1-297-2 の革命が起らなかつたかも知れない。こは両国の国民性の相違によると見るべきであらう。同一の原
NKZ1-297-3 因であつても、或国民には或事件の原因となるが、或国民にはその原因とならぬといふこととなる、
NKZ1-297-4 即ち歴史的效力といふのも国民性に依つて異なつてくると云はねばなるまい。歴史的效力によつて或
NKZ1-297-5 事件の原因を明にするといふことと、国民性の理解といふ如きことと相離すことはできないであらう。
NKZ1-297-6 歴史に於て原因結果を明にするといふのは、自然科学に於ての様に因果律を明にするのではない、因
NKZ1-297-7 果関係を明にすることによつて個性を明にするのである。斯く歴史に於ては個性が明でなければ因果
NKZ1-297-8 関係が明にできぬといひ、又因果関係を明にするによつて個性を明にするといへば、そこに論理の循
NKZ1-297-9 環があると考へる人もあらう。勿論歴史家も或一事件の因果関係を明にしない前に、その個性を明に
NKZ1-297-10 できる筈はない。唯その因果関係を明にするのは、因果関係の為に之を明にするのではなく、個性を
NKZ1-297-11 明にする為であるといふのである。芸術家は先づ個性を理解して之を現す材料を求めるのであるが、
NKZ1-297-12 歴史家は先づ与へられたる材料を明にして之によつて個性を顕はさうとするのである。こゝに歴史と
NKZ1-297-13 芸術との相違がある、これ前者が後者とは違つて科学的と考へられる所以である。リールは事実の客
NKZ1-297-14 観的価値は変らぬといふが、氏の所謂客観的事実といふのは如何なるものを指すのであるか。何等の
NKZ1-297-15 選択も統一もない単に個々の事実の羅列といふ如きものならば、所謂客観であるかも知らぬが、真の
NKZ1-298-1 歴史といふことはできぬ。之に何等かの歴史的統一を試みようとするならば、何等かの価値に基かね
NKZ1-298-2 ばならぬ。歴史家が強ひて所謂客観的事実にのみ忠実なることを務めたならば、却つてその歴史的真
NKZ1-298-3 相を穿つことができないかも知れない。肖像画家が描かれる本人も自覚し得ないその人の真相を措く
NKZ1-298-4 様に、歴史家は歴史上の人物が残したその人自身も自覚しなかつた事実の真相を理解せねばならない。
NKZ1-298-5 価値関係から事実を見るといへば、直に主観的とか随意的とかいふ風に考へられるのであるが、価値
NKZ1-298-6 関係から事実を見るといふことは個人的随意によるといふことではない。与へられたる材料と価値的
NKZ1-298-7 見方の立脚地が定まれば、何人も認めねばならぬ客観的真理が定まつてくるのである。(大正二
年八月)