西田幾多郎データべース(c) Niels Guelberg 2000
西田幾多郎[著]:『善の研究』(1911. 01)
西田幾多郎全集・第 1 巻
NKZ1-46-1
第二編 実 在
NKZ1-46-2
第一章 考究の出立点
NKZ1-46-3 世界はこの様なもの、人生はこの様なものといふ哲学的世界観及び人生観と、人間はかくせねばな
NKZ1-46-4 らぬ、かゝる処に安心せねばならぬといふ道徳宗教の実践的要求とは密接の関係を持つて居る。人は
NKZ1-46-5 相容れない知識的確信と実践的要求とをもつて満足することはできない。たとへば高尚なる精神的要
NKZ1-46-6 求を持つて居る人は唯物論に満足ができず、唯物論を信じて居る人は、いつしか高尚なる精神的要求
NKZ1-46-7 に疑を抱く様になる。元来真理は一である。知識に於ての真理は直に実践上の真理であり、実践上の
NKZ1-46-8 真理は直に知識に於ての真理でなければならぬ。深く考へる人、真摯なる人は必ず知識と情意との一
NKZ1-46-9 致を求むる様になる。我々は何を為すべきか、何処に安心すべきかの問題を論ずる前に、先づ天地人
NKZ1-46-10 生の真相は如何なる者であるか、真の実在とは如何なる者なるかを明にせねばならぬ。
NKZ1-46-11 哲学と宗教と最も能く一致したのは印度の哲学、宗教である。印度の哲学、宗教では知即善で迷
NKZ1-47-1 即悪である。宇宙の本体はブラハマンBrahmanでブラハマンは吾人の心即アートマンAtmanで
NKZ1-47-2 ある。此ブラハマン即アートマンなることを知るのが、哲学及宗教の奥義であつた。基督教は始め
NKZ1-47-3 全く実践的であつたが、知識的満足を求むる人心の要求は抑へ難く、遂に中世の基督教哲学なる者
NKZ1-47-4 が発達した。支那の道徳には哲学的方面の発達が甚だ乏しいが、宋代以後の思想は頗る此の傾向が
NKZ1-47-5 ある。此等の事実は皆人心の根柢には知識と情意との一致を求むる深き要求のある事を証明するの
NKZ1-47-6 である。欧州の思想の発達に就いて見ても、古代の哲学でソクラテース、プラトーを始とし教訓の
NKZ1-47-7 目的が主となつて居る。近代に於て知識の方が特に長足の進歩をなすと共に知識と情意との統一が
NKZ1-47-8 困難になり、此の両方面が相分れる様な傾向ができた。併しこれは人心本来の要求に合うた者では
NKZ1-47-9 ない。
NKZ1-47-10 今若し真の実在を理解し、天地人生の真面目を知らうと思うたならば、疑ひうるだけ疑つて、凡て
NKZ1-47-11 の人工的仮定を去り、疑ふにももはや疑ひ様のない、直接の知識を本として出立せねばならぬ。我々
NKZ1-47-12 の常識では意識を離れて外界に物が存在し、意識の背後には心なる物があつて色々の働をなす様に考
NKZ1-47-13 へて居る。又此考が凡ての人の行為の基礎ともなつて居る。併し物心の独立的存在などといふことは
NKZ1-47-14 我々の思惟の要求に由りて仮定したまでで、いくらも疑へば疑ひうる余地があるのである。其外科学
NKZ1-47-15 といふ様な者も、何か仮定的知識の上に築き上げられた者で、実在の最深なる説明を目的とした者で
NKZ1-48-1 はない。又之を目的として居る哲学の中にも充分に批判的でなく、在来の仮定を基礎として深く疑は
NKZ1-48-2 ない者が多い。
NKZ1-48-3 物心の独立的存在といふことが直覚的事実であるかの様に考へられて居るが、少しく反省して見
NKZ1-48-4 ると直にその然らざることが明になる。今目前にある机とは何であるか、其色其形は眼の感覚であ
NKZ1-48-5 る、之に触れて抵抗を感ずるのは手の感覚である。物の形状、大小、位置、運動といふ如きことす
NKZ1-48-6 ら、我々が直覚する所の者は凡て物其者の客観的状態ではない。我等の意識を離れて物其者を直覚
NKZ1-48-7 することは到底不可能である。自分の心其者に就いて見ても右の通りである。我々の知る所は知情
NKZ1-48-8 意の作用であつて、心其者でない。我々が同一の自己があつて始終働くかの様に思ふのも、心理学
NKZ1-48-9 より見れば同一の感覚及感情の連続にすぎない、我々の直覚的事実として居る物も心も単に類似せ
NKZ1-48-10 る意識現象の不変的結合といふにすぎぬ。唯我々をして物心其者の存在を信ぜしむるのは因果律の
NKZ1-48-11 要求である。併し因果律に由りて果して意識外の存在を推すことができるかどうか、これが先づ究
NKZ1-48-12 明すべき問題である。
NKZ1-48-13 さらば疑ふにも疑ひ様のない直接の知識とは何であるか。そは唯我々の直覚的経験の事実即ち意識
NKZ1-48-14 現象に就いての知識あるのみである。現前の意識現象と之を意識するといふこととは直に同一であつ
NKZ1-48-15 て、其間に主観と客観とを分つこともできない。事実と認識の間に一毫の間隙がない。真に疑ふに疑
NKZ1-49-1 ひ様がないのである。勿論、意識現象であつても之を判定するとか之を想起するとかいふ場合では誤
NKZ1-49-2 に陥ることもある。併し此時はもはや直覚ではなく、推理である。後の意識と前の意識とは別の意識
NKZ1-49-3 現象である、直覚といふは後者を前者の判断として見るのではない、唯ありのまゝの事実を知るので
NKZ1-49-4 ある。誤るとか誤らぬとかいふのは無意義である。斯の如き直覚的経験が基礎となつて、其上に我々
NKZ1-49-5 の凡ての知識が築き上げられねばならぬ。
NKZ1-49-6 哲学が伝来の仮定を脱し、新に確固たる基礎を求むる時には、いつでもかゝる直接の知識に還つ
NKZ1-49-7 てくる。近世哲学の始に於てベーコンが経験を以て凡ての知識の本としたのも、デカートが「余は
NKZ1-49-8 考ふ故に余在り」cogito ergo sumの命題を本として、之と同じく明瞭なるものを真理としたのも
NKZ1-49-9 之に由るのである。併しベーコンの経験といつたのは純粋なる経験ではなく、我々は之に由りて意
NKZ1-49-10 識外の事実を直覚しうるといふ独断を伴うた経験であつた。デカートが余は考ふ故に余在りといふ
NKZ1-49-11 のは已に直接経験の事実ではなく、已に余ありといふことを推理して居る。又明瞭なる思惟が物の
NKZ1-49-12 本体を知りうるとなすのは独断である。カント以後の哲学に於ては疑ふ能はざる真理として直に之
NKZ1-49-13 を受取ることはできぬ。余が此処に直接の知識といふのは凡て此等の独断を去り、唯直覚的事実と
NKZ1-49-14 して承認するまでである(勿論ヘーゲルを始め諸の哲学史家のいつて居る様に、デカートの「余は
NKZ1-49-15 考ふ故に余在り」は推理ではなく、実在と思惟との合一せる直覚的確実をいひ現はしたものとすれ
NKZ1-50-1 ば、余の出立点と同一になる)。
NKZ1-50-2 意識上に於ける事実の直覚、即ち直接経験の事実を以て凡ての知識の出立点となすに反し、思惟を
NKZ1-50-3 以て最も確実なる標準となす人がある。此等の人は物の真相と仮相とを分ち、我々が直覚的に経験す
NKZ1-50-4 る事実は仮相であつて、唯思惟の作用に由つて真相を明にすることができるといふ。勿論此の中でも
NKZ1-50-5 常識又は科学のいふのは全く直覚的経験を排するのではないが、或一種の経験的事実を以て物の真と
NKZ1-50-6 なし、他の経験的事実を以て偽となすのである。例へば日月星辰は小さく見ゆるが其実は非常に大な
NKZ1-50-7 るものであるとか、天体は動く様に見ゆるが其実は地球が動くのであるといふ様なことである。併し
NKZ1-50-8 かくの如き考は或約束の下に起る経験的事実を以て、他の約束の下に起る経験的事実を推すより起る
NKZ1-50-9 のである。各其約束の下では動かすべからざる事実である。同一の直覚的事実であるのに、何故其一
NKZ1-50-10 が真であつて他が偽であるか。此の如き考の起るのは、つまり触覚が他の感覚に比して一般的であり
NKZ1-50-11 且つ実地上最も大切なる感覚であるから、此の感覚より来る者を物の真相となすに由るので、少しく
NKZ1-50-12 考へて見れば直にその首尾貫徹せぬことが明になる。或一派の哲学者に至つては之と違ひ、経験的事
NKZ1-50-13 実を以て全く仮相となし、物の本体は唯思惟に由りて知ることができると主張するのである。併し仮
NKZ1-50-14 に我々の経験のできない超経験的実在があるとした所で、かくの如き者が如何にして思惟に由つて知
NKZ1-50-15 ることができるか。我々の思惟の作用といふのも、やはり意識に於て起る意識現象の一種であること
NKZ1-51-1 は何人も拒むことができまい。若し我々の経験的事実が物の本体を知ることができぬとなすならば、
NKZ1-51-2 同一の現象である思惟も、やはり之ができない筈である。或人は思惟の一般性、必然性を以て真実在
NKZ1-51-3 を知る標準とすれど、此等の性質もつまり我々が自己の意識上に於て直覚する一種の感情であつて、
NKZ1-51-4 やはり意識上の事実である。
NKZ1-51-5 我々の感覚的知識を以て凡て誤となし、唯思惟を以てのみ物の真相を知りうるとなすのはエレヤ
NKZ1-51-6 学派に始まり、プラトーに至つて其頂点に達した。近世哲学にてはデカート学派の人は皆明確なる
NKZ1-51-7 思惟に由りて実在の真相を知り得るものと信じた。
NKZ1-51-8 思惟と直覚とは全く別の作用であるかの様に考へられて居るが、単に之を意識上の事実として見た
NKZ1-51-9 時は同一種の作用である。直覚とか経験とかいふのは、個々の事物を他と関係なくその侭に知覚する
NKZ1-51-10 純粋の受働的作用であつて、思惟とは之に反し事物を比較し判断し其関係を定むる能働的作用と考へ
NKZ1-51-11 られて居るが、実地に於ける意識作用としては全く受働的作用なる者があるのではない。直覚は直に
NKZ1-51-12 直接の判断である。余が曩に仮定なき知識の出立点として直覚といつたのは此の意義に於て用ひたの
NKZ1-51-13 である。
NKZ1-51-14 上来直覚といつたのは単に感覚とかいふ作用のみをいふのではない。思惟の根柢にも常に統一的
NKZ1-51-15 或者がある。之は直覚すべき者である。判断は此分析より起るのである。
NKZ1-52-1 第二章 意識現象が唯一の実在である
NKZ1-52-2 少しの仮定も置かない直接の知識に基づいて見れば、実在とは唯我々の意識現象即ち直接経験の事
NKZ1-52-3 実あるのみである。この外に実在といふのは思惟の要求よりいでたる仮定にすぎない。已に意識現象
NKZ1-52-4 の範囲を脱せぬ思惟の作用に、経験以上の実在を直覚する神秘的能力なきは言ふまでもなく、此等の
NKZ1-52-5 仮定は、つまり思惟が直接経験の事実を系統的に組織する為に起つた抽象的概念である。
NKZ1-52-6 凡ての独断を排除し、最も疑なき直接の知識より出立せんとする極めて批判的の考と、直接経験
NKZ1-52-7 の事実以外に実在を仮定する考とは、どうしても両立することはできぬ。ロック、カントの如き大
NKZ1-52-8 哲学者でも此の両主義の矛盾を免れない。余は今凡ての仮定的思想を棄てゝ厳密に前の主義を取ら
NKZ1-52-9 うと思ふのである。哲学史の上に於て見ればバークレー、フィヒテの如きは此の主義をとつた人と
NKZ1-52-10 思ふ。
NKZ1-52-11 普通には我々の意識現象といふのは、物体界の中特に動物の神経系統に伴ふ一種の現象であると考
NKZ1-52-12 へられて居る。併し少しく反省して見ると、我々に最も直接である原始的事実は意識現象であつて、
NKZ1-52-13 物体現象ではない。我々の身体もやはり自己の意識現象の一部にすぎない。意識が身体の中にあるの
NKZ1-53-1 ではなく、身体は反つて自己の意識の中にあるのである。神経中枢の刺戟に意識現象が伴ふといふの
NKZ1-53-2 は、一種の意識現象は必ず他の一種の意識現象に伴うて起るといふにすぎない。若し我々が直接に自
NKZ1-53-3 己の脳中の現象を知り得るものとせば、所謂意識現象と脳中の刺戟との関係は、丁度耳には音と感ず
NKZ1-53-4 る者が眼や手には糸の震動と感ずると同一であらう。
NKZ1-53-5 我々は意識現象と物体現象と二種の経験的事実があるやうに考へて居るが、其実は唯一種あるの
NKZ1-53-6 みである。即ち意識現象あるのみである。物体現象といふのは其中で各人に共通で不変的関係を有
NKZ1-53-7 する者を抽象したのにすぎない。
NKZ1-53-8 又普通には、意識の外に或定まつた性質を具へた物の本体が独立に存在し、意識現象は之に基づい
NKZ1-53-9 て起る現象にすぎないと考へられて居る。併し意識外に独立固定せる物とは如何なる者であるか。厳
NKZ1-53-10 密に意識現象を離れては物其者の性質を想像することはできぬ。単に或一定の約束の下に一定の現象
NKZ1-53-11 を起す不知的の或者といふより外にない。即ち我々の思惟の要求に由つて想像したまでである。然ら
NKZ1-53-12 ば思惟は何故にかゝる物の存在を仮定せねばならぬか。唯類似した意識現象がいつも結合して起ると
NKZ1-53-13 いふにすぎない。我々が物といつて居る者の真意義はかくの如くである。純粋経験の上より見れば、
NKZ1-53-14 意識現象の不変的結合といふのが根本的事実であつて、物の存在とは説明の為に設けられた仮定にす
NKZ1-53-15 ぎぬ。
NKZ1-54-1 所謂唯物論者なる者は、物の存在といふことを疑のない直接自明の事実であるかの様に考へて、
NKZ1-54-2 之を以て精神現象をも説明せうとして居る。併し少しく考へて見ると、こは本末を転倒して居るの
NKZ1-54-3 である。
NKZ1-54-4 それで純粋経験の上から厳密に考へて見ると、我々の意識現象の外に独立自全の事実なく、バーク
NKZ1-54-5 レーのいつた様に真に有即知esse=percipiである。我々の世界は意識現象の事実より組み立てられ
NKZ1-54-6 てある。種々の哲学も科学も皆此事実の説明にすぎない。
NKZ1-54-7 余が此処に意識現象といふのは或は誤解を生ずる恐がある。意識現象といへば、物体と分れて精
NKZ1-54-8 神のみ存するといふことに考へられるかも知れない。余の真意では真実在とは意識現象とも物体現
NKZ1-54-9 象とも名づけられない者である。又バークレーの有即知といふも余の真意に適しない。直接の実在
NKZ1-54-10 は受働的の者でない、独立自全の活動である。有即活動とでも云つた方がよい。
NKZ1-54-11 右の考は、我々が深き反省の結果としてどうしても此処に到らねばならぬのであるが、一見我々の
NKZ1-54-12 常識と非常に相違するばかりでなく、之に由りて宇宙の現象を説明せうとすると種々の難門に出逢ふ
NKZ1-54-13 のである。併し此等の難問は、多くは純粋経験の立脚地を厳密に守るより起つたといふよりも、寧ろ
NKZ1-54-14 純粋経験の上に加へた独断の結果であると考へる。
NKZ1-54-15 かくの如き難問の一は、若し意識現象をのみ実在とするならば、世界は凡て自己の観念であるとい
NKZ1-55-1 ふ独知論に陥るではないか。又はさなくとも、各自の意識が互に独立の実在であるならば、いかにし
NKZ1-55-2 て其間の関係を説明することができるかといふことである。併し意識は必ず誰かの意識でなければな
NKZ1-55-3 らぬといふのは、単に意識には必ず統一がなければならぬといふの意にすぎない。若しこれ以上に所
NKZ1-55-4 有者がなければならぬとの考ならば、そは明に独断である。然るに此統一作用即ち統覚といふのは、
NKZ1-55-5 類似せる観念感情が中枢となつて意識を統一するといふまでであつて、此の意識統一の範囲なる者が、
NKZ1-55-6 純粋経験の立場より見て、彼我の間に絶対的分別をなすことはできぬ。若し個人的意識に於て、昨日
NKZ1-55-7 の意識と今日の意識とが独立の意識でありながら、その同一系統に属するの故を以て一つの意識と考
NKZ1-55-8 へることができるならば、自他の意識の間にも同一の関係を見出すことができるであらう。
NKZ1-55-9 我々の思想感情の内容は凡て一般的である。幾千年を経過し幾千里を隔てゝ居ても思想感情は互
NKZ1-55-10 に相通ずることができる。例へば数理の如き者は誰が何時何処に考へても同一である。故に偉大な
NKZ1-55-11 る人は幾多の人を感化して一団となし、同一の精神を以て支配する。此時此等の人の精神を一と見
NKZ1-55-12 做すことができる。
NKZ1-55-13 次に意識現象を以て唯一の実在となすについて解釈に苦むのは、我々の意識現象は固定せる物では
NKZ1-55-14 なく、始終変化する出来事の連続であつて見れば、此等の現象は何処より起り、何処に去るかの問題
NKZ1-55-15 である。併し此の問題もつまり物には必ず原因結果がなければならぬといふ因果律の要求より起るの
NKZ1-56-1 であるから、此の問題を考ふる前に、先づ因果律の要求とは如何なる者であるかを攻究せねばならぬ。
NKZ1-56-2 普通には因果律は直に現象の背後に於ける固定せる物其者の存在を要求する様に考へて居るが、そは
NKZ1-56-3 誤である。因果律の正当なる意義はヒュームのいつた様に、或現象の起るには必ず之に先だつ一定の
NKZ1-56-4 現象があるといふまでであつて、現象以上の物の存在を要求するのではない。一現象より他の現象を
NKZ1-56-5 生ずるといふのは、一現象が現象の中に含まれて居つたのでもなく、又何処か外に潜んで居つたのが
NKZ1-56-6 引き出されるのでもない。唯充分なる約束即ち原因が具備した時は必ず或現象即ち結果が生ずるとい
NKZ1-56-7 ふのである。約束がまだ完備しない時之に伴ふべき或現象即ち結果なる者は何処にもない。例へば石
NKZ1-56-8 を打つて火を発する以前に、火は何処にもないのである。或は之を生ずる力があるといふでもあらう
NKZ1-56-9 が、前にいつた様に、力とか物とかいふのは説明の為に設けられた仮定であつて、我かの直接に知る
NKZ1-56-10 所では、唯火と全く異なつた或現象があるのみである。それで或現象に或現象が伴ふといふのが我々
NKZ1-56-11 に直接に与へられたる根本的事実であつて、因果律の要求は反つて此の事実に基づいて起つたもので
NKZ1-56-12 ある。然るに此の事実と因果律とが矛盾する様に考ふるのは、つまり因果律の誤解より起るのである。
NKZ1-56-13 因果律といふのは、我々の意識現象の変化を本として、之より起つた思惟の習慣であることは、
NKZ1-56-14 此の因果律に由りて宇宙全体を説明せうとすると、すぐに自家撞着に陥るのを以て見ても分る。因
NKZ1-56-15 果律は世界に始がなければならぬと要求する。併し若し何処かを始と定むれば因果律は更に其原因
NKZ1-57-1 は如何と尋ねる、即ち自分で自分の不完全なることを明にして居るのである。
NKZ1-57-2 終りに、無より有を生せぬといふ因果律の考に就いても一言して置かう。普通の意味に於て物がな
NKZ1-57-3 いといつても、主客の別を打破したる直覚の上より見れば、やはり無の意識が実在して居るのである。
NKZ1-57-4 無といふのを単に語でなく之に何か具体的の意味を与へて見ると、一方では或性質の欠乏といふこと
NKZ1-57-5 であるが、一方には何等かの積極的性質をもつて居る(例へば心理学からいへば黒色も一種の感覚で
NKZ1-57-6 ある)。それで物体界にて無より有を生ずると思はれることも、意識の事実として見れば無は真の無
NKZ1-57-7 でなく、意識発展の或一契機であると見ることができる。さらば意識に於ては如何、無より有を生ず
NKZ1-57-8 ることができるか。意識は時、場所、力の数量的限定の下に立つべき者ではなく、従つて機械的因果
NKZ1-57-9 律の支配を受くべき者ではない。此等の形式は反つて意識統一の上に成立するのである。意識に於て
NKZ1-57-10 は凡てが性質的であつて、潜勢的一者が己自身を発展するのである。意識はヘーゲルの所謂無限das
NKZ1-57-11 Unendlicheである。
NKZ1-57-12 此処に一種の色の感覚があるとしても、此中に無限の変化を含んで居るといへる、即ち我々の意
NKZ1-57-13 識が精細となりゆけば、一種の色の中にも無限の変化を感ずる様になる。今日我々の感覚の差別も
NKZ1-57-14 斯くして分化し来れるものであらう。ヴントは感覚の性質を次元に併べて居るが(Wundt, Grund-
NKZ1-57-15 riss der Psychologie, §5)、元来一の一般的なる者が分化して出来たのであるから、かゝる体系が
NKZ1-58-1 あるのだと思ふ。
NKZ1-58-2
第三章 実在の真景
NKZ1-58-3 我々がまだ思惟の細工を加へない直接の実在とは如何なる者であるか。即ち真に純粋経験の事実と
NKZ1-58-4 いふのは如何なる者であるか。此時にはまだ主客の対立なく、知情意の分離なく、単に独立自全の純
NKZ1-58-5 活動あるのみである。
NKZ1-58-6 主知説の心理学者は、感覚及観念を以て精神現象の要素となし、凡ての精神現象は此等の結合より
NKZ1-58-7 成る者と考へて居る。かく考へれば、純粋経験の事実とは、意識の最受働的なる状態即ち感覚である
NKZ1-58-8 といはねばならぬ。併し此の如き考は学問上分析の結果として出来た者を、直接経験の事実と混同し
NKZ1-58-9 たものである。我々の直接経験の事実に於ては純粋感覚なる者はない。我々が純粋感覚といつて居る
NKZ1-58-10 者も已に簡単なる知覚である。而して知覚は、いかに簡単であつても決して全く受働的でない、必ず
NKZ1-58-11 能働的即ち構成的要素を含んで居る(此事は空間的知覚の例を見ても明である)。聯想とか思惟とか
NKZ1-58-12 複雑なる知的作用に至れば、尚一層此方面が明瞭となるので、普通に聯想は受働的であるといふが、
NKZ1-58-13 聯想に於ても観念聯合の方向を定むる者は単に外界の事情のみでは無く、意識の内面的性質に由るの
NKZ1-59-1 である。聯想と思惟との間には唯程度の差あるのみである。元来我々の意識現象を知情意と分つのは
NKZ1-59-2 学問上の便宜に由るので、実地に於ては三種の現象あるのではなく、意識現象は凡て此方面を具備し
NKZ1-59-3 て居るのである(例へば学問的研究の如く純知的作用といつても、決して情意を離れて存在すること
NKZ1-59-4 はできぬ)。併し此三方面の中、意志がその最も根本的なる形式である。主意説の心理学者のいふ様
NKZ1-59-5 に、我々の意識は始終能働的であつて、衝動を以て始まり意志を以て終るのである。それで我々に最
NKZ1-59-6 も直接なる意識現象はいかに簡単であつても意志の形を成して居る。即ち意志が純粋経験の事実であ
NKZ1-59-7 るといはねばならぬ。
NKZ1-59-8 従来の心理学は主として主知説であつたが、近来は漸々主意説が勢力を占める様になつた。ヴン
NKZ1-59-9 トの如きはその巨擘である。意識はいかに単純であつても必ず構成的である。内容の対照といふの
NKZ1-59-10 は意識成立の一要件である。若し真に単純なる意識があつたならば、そは直に無意識となるのであ
NKZ1-59-11 る。
NKZ1-59-12 純粋経験に於ては未だ知情意の分離なく、唯一の活動である様に、又未だ主観客観の対立もない。
NKZ1-59-13 主観客観の対立は我々の思惟の要求より出でくるので、直接経験の事実ではない。直接経験の上に於
NKZ1-59-14 ては唯独立自全の一事実あるのみである、見る主観もなければ見らるゝ客観もない。恰も我々が美妙
NKZ1-59-15 なる音楽に心を奪はれ、物我相忘れ、天地唯嚠喨たる一楽声のみなるが如く、此刹那所謂真実在が現
NKZ1-60-1 前して居る。之を空気の振動であるとか、自分が之を聴いて居るとかいふ考は、我々が此の実在の真
NKZ1-60-2 景を離れて反省し思惟するに由つて起つてくるので、此時我々は已に真実在を離れて居るのである。
NKZ1-60-3 普通には主観客観を別々に独立しうる実在であるかの様に思ひ、此の二者の作用に由りて意識現
NKZ1-60-4 象を生ずる様に考へて居る。従つて精神と物体との両実在があると考へて居るが、これは凡て誤で
NKZ1-60-5 ある。主観客観とは一の事実を考察する見方の相違である、精神物体の区別も此の見方より生ずる
NKZ1-60-6 のであつて、事実其者の区別でない。事実上の花は決して理学者のいふ様な純物体的の花でなない、
NKZ1-60-7 色や形や香をそなへた美にして愛すべき花である。ハイネが静夜の星を仰いで蒼空に於ける金の鋲
NKZ1-60-8 といつたが、天文学者は之を詩人の囈語として一笑に附するのであらうが、星の真相は反つて此の
NKZ1-60-9 一句の中に現はれて居るかも知れない。
NKZ1-60-10 かくの如く主客の未だ分れざる独立自全の真実在は知情意を一にしたものである。真実在は普通に
NKZ1-60-11 考へられて居る様な冷静なる知識の対象ではない。我々の情意より成り立つた者である。即ち単に存
NKZ1-60-12 在ではなくして意味をもつた者である。それで若しこの現実界から我々の情意を除き去つたならば、
NKZ1-60-13 もはや具体的の事実ではなく、単に抽象的概念となる。物理学者のいふ如き世界は、幅なき線、厚さ
NKZ1-60-14 なき平面と同じく、実際に存在するものではない。此点より見て、学者よりも芸術家の方が実在の真
NKZ1-60-15 相に達して居る。我々の見る者聞く者の中に皆我々の個性を含んで居る。同一の意識といつても決し
NKZ1-61-1 て真に同一でない。例へば同一の牛を見るにしても、農夫,動物学者、美術家に由りて各其心象が異
NKZ1-61-2 なつて居らねばならぬ。同一の景色でも自分の心持に由つて鮮明に美しく見ゆることもあれば、陰鬱
NKZ1-61-3 にして悲しく見ゆることもある。仏教などにて自分の心持次第にて此世界が天堂ともなり地獄ともな
NKZ1-61-4 るといふが如く、つまり我々の世は我々の情意を本として組み立てられたものである。いかに純知識
NKZ1-61-5 の対象なる客観的世界であるといつても、此の関係を免れることはできぬ。
NKZ1-61-6 科学的に見た世界が最も客観的であつて、此中には少しも我々の情意の要素を含んで居らぬ様に
NKZ1-61-7 考へて居る。併し学問といつても元は我々生存競争上実地の要求より起つた者である、決して全然
NKZ1-61-8 情意の要求を離れた見方ではない。特にエルザレムなどのいふ様に、科学的見方の根本義である外
NKZ1-61-9 界に種々の作用をなす力があるといふ考は、自分の意志より類推したものであると見做さねばなら
NKZ1-61-10 ぬ(Jerusalem, Einleitung in die Philosophie, 6. Aufl. § 27)。それ故に太古の万象を説明するの
NKZ1-61-11 は凡て擬人的であつた、今日の科学的説明はこれより発達したものである。
NKZ1-61-12 我々は主観客観の区別を根本的であると考へる処から、知識の中にのみ客観的要素を含み、情意は
NKZ1-61-13 全く我々の個人的主観的出来事であると考へて居る。此考は已に其根本的の仮定に於て誤つて居る。
NKZ1-61-14 併し仮に主客相互の作用に由つて現象が生ずるものとしても、色形などいふ如き知識の内容も、主観
NKZ1-61-15 的と見れば主観的である、個人的と見れば個人的である。之に反し情意といふことも、外界にかくの
NKZ1-62-1 如き情意を起す性質があるとすれば客観的根拠をもつてくる、情意が全く個人的であるといふのは誤
NKZ1-62-2 である。我々の情意は互に相通じ相感ずることができる。即ち超個人的要素を含んで居るのである。
NKZ1-62-3 我々が個人なる者があつて喜怒愛慾の情意を起すと思ふが故に、情意が純個人的であるといふ考
NKZ1-62-4 も起る。併し人が情意を有するのでなく、情意が個人を作るのである、情意は直接経験の事実であ
NKZ1-62-5 る。
NKZ1-62-6 万象の擬人的説明といふことは太古人間の説明法であつて、又今日でも純白無邪気なる小児の説明
NKZ1-62-7 法である。所謂科学者は凡て之を一笑に附し去るであらう、勿論此説明法は幼稚ではあるが、一方よ
NKZ1-62-8 り見れば実在の真実なる説明法である。科学者の説明法は知識の一方にのみ偏したるものである。実
NKZ1-62-9 在の完全なる説明に於ては知識的要求を満足すると共に情意の要求を度外に置いてはならぬ。
NKZ1-62-10 希臘人民には自然は皆生きた自然であつた。雷電はオリムプス山上に於けるツォイス神の怒であ
NKZ1-62-11 り、杜鵑の声はフィロメーレが千古の怨恨であつた(Schiller, Die Götter Griechenlandsを看よ)。
NKZ1-62-12 自然なる希臘人の眼には現在の真意がその侭に現んじたのである。今日の美術、宗教、哲学、皆此
NKZ1-62-13 真意を現はさんと努めて居るのである。
NKZ1-63-1 第四章 真実在は常に同一の形式を有つて居る
NKZ1-63-2 上にいつた様に主客を没したる知情意合一の意識状態が真実在である。我々が独立自全の真実在を
NKZ1-63-3 想起すれば自ら此の形に於て現はれてくる。此の如き実在の真景は唯我々が之を自得すべき者であつ
NKZ1-63-4 て、之を反省し分析し言語に表はしうべき者ではなからう。併し我々の種々なる差別的知識とは此の
NKZ1-63-5 実在を反省するに由つて起るのであるから、今此の唯一実在の成立する形式を考へ、如何にして之よ
NKZ1-63-6 り種々の差別を生ずるかを明にせうと思ふ。
NKZ1-63-7 真正の実在は芸術の真意の如く互に相伝ふることのできない者である。伝へうべき者は唯抽象的
NKZ1-63-8 空穀である。我々は同一の言語に由つて同一の事を理解し居ると思つて居るが、其内容は必ず多少
NKZ1-63-9 異なつて居る。
NKZ1-63-10 独立自全なる真実在の成立する方式を考へて見ると、皆同一の形式に由つて成立するのである。即
NKZ1-63-11 ち次の如き形式に由るのである。先づ全体が含蓄的implicitに現はれる、それより其内容が分化発展
NKZ1-63-12 する、而して此の分化発展が終つた時実在の全体が実現せられ完成せられるのである。一言にていへ
NKZ1-63-13 ば、一つの者が自分自身にて発展完成するのである。此の方式は我々の活動的意識作用に於て最も明
NKZ1-64-1 に見ることができる。意志に就いて見るに、先づ目的観念なる者があつて、之より事情に応じて之を
NKZ1-64-2 実現するに適当なる観念が体系的に組織せられ、此の組織が完成せられし時行為となり、此処に目的
NKZ1-64-3 が実現せられ、意志の作用が終結するのである。啻に意志作用のみではなく、所謂知識作用である思
NKZ1-64-4 惟想像等について見てもこの通りである。やはり先づ目的観念があつて之より種々の観念聯合を生じ、
NKZ1-64-5 正当なる観念結合を得た時此の作用が完成せらるゝのである。
NKZ1-64-6 ジェームスが「意識の流」に於ていつた様に、凡て意識は右の如き形式をなして居る。例へば一
NKZ1-64-7 文章を意識の上に想起するとせよ、其主語が意識上に現はれた時已に全文章を暗に含んで居る。但
NKZ1-64-8 し客語が現はれて来る時其内容が発展実現せらるゝのである。
NKZ1-64-9 意志、思惟、想像等の発達せる意識現象に就いては右の形式は明であるが、知覚、衝動等に於ては
NKZ1-64-10 一見直に其全体を実現して、右の過程を踏まない様にも見える。併し前にいつた様に、意識はいかな
NKZ1-64-11 る場合でも決して単純で受働的ではない、能働的で複合せるものである。而して其成立は必ず右の形
NKZ1-64-12 式に由るのである。主意説のいふ様に、意志が凡ての意識の原形であるから、凡ての意識はいかに簡
NKZ1-64-13 単であつても、意志と同一の形式に由つて成立するものといはねばならぬ。
NKZ1-64-14 衝動及知覚などと意志及思惟などとの別は程度の差であつて、種類の差ではない。前者に於ては
NKZ1-64-15 無意識である過程が後者に於ては意識に自らを現はし来るのであるから、我々は後者より推して前
NKZ1-65-1 者も同一の構造でなければならぬことを知るのである。我々の知覚といふのも其発達から考へて見
NKZ1-65-2 ると、種々なる経験の結果として生じたのである。例へば音楽などを聴いても、始の中は何の感を
NKZ1-65-3 も与へないのが、段々耳に馴れてくれば其中に明瞭なる知覚をうる様になるのである。知覚は一種
NKZ1-65-4 の思惟と云つても差支ない。
NKZ1-65-5 次に受働的意識と能働的意識との区別より起る誤解についても一言して置かねばならぬ。能働的意
NKZ1-65-6 識にては右の形式が明であるが、受働的意識では観念を結合する者は外にあり、観念は単に外界の事
NKZ1-65-7 情に由りて結合せらるゝので、或全き者が内より発展完成するのでない様に見える。併し我々の意識
NKZ1-65-8 は受働と能働とに峻別することはできぬ。これも畢竟程度の差である。聯想又は記憶の如き意識作用
NKZ1-65-9 も全然聯想の法則といふが如き外界の事情より支配せらるゝものでない、各人の内面的性質が其主動
NKZ1-65-10 力である、やはり内より統一的或者が発展すると見ることができる。唯所謂能働的意識では此の統一
NKZ1-65-11 的或者が観念として明に意識の上に浮んで居るが、受働的意識では此者が無意識か又は一種の感情と
NKZ1-65-12 なつて働いて居るのである。
NKZ1-65-13 能働受働の区別、即ち精神が内から働くとか外から働を受けるとかいふことは、思惟に由つて精
NKZ1-65-14 神と物体との独立的存在を仮定し、意識現象は精神と外物との相互の作用より起るものとなすより
NKZ1-65-15 来るので、純粋経験の事実上に於ける区別ではない。純粋経験の事実上では単に程度の差である。
NKZ1-66-1 我々が明僚なる目的観念を有つて居る時は能働と思はれるのである。
NKZ1-66-2 経験学派の主張する所に由ると、我々の意識は凡て外物の作用に由りて発達するものであるとい
NKZ1-66-3 ふ。併しいかに外物が働くにしても、内に之に応ずる先在的性質がなかつたならば意識現象を生ず
NKZ1-66-4 ることはできまい。いかに外より培養するも、種子に発生の力がなかつたならば植物が発生せぬと
NKZ1-66-5 同様である。固より反対に種子のみあつても植物は発生せぬといふこともできる。要するに此の双
NKZ1-66-6 方とも一方を見て他方を忘れたものである。真実在の活動では唯一の者の自発自展である、内外能
NKZ1-66-7 受の別は之を説明する為に思惟に由つて構成したものである。
NKZ1-66-8 凡ての意識現象を同一の形式に由つて成立すると考へるのは左程六づかしいことでもないと信ずる
NKZ1-66-9 が、更に一歩を進んで、我々が通常外界の現象といつて居る自然界の出来事をも、同一の形式の下に
NKZ1-66-10 入れようとするのは頗る難事と思はれるかも知れない。併し前にいつた様に、意識を離れたる純粋物
NKZ1-66-11 体界といふ如き者は抽象的概念である、真実在は意識現象の外にない、直接経験の真実在はいつも同
NKZ1-66-12 一の形式によつて成立するといふことができる。
NKZ1-66-13 普通には固定せる物体なる者が事実として存在する様に思うて居る。併し実地に於ける事実はい
NKZ1-66-14 つでも出来事である。希臘の哲学者ヘラクレイトスが万物は流転し何物も止まることなしAlles
NKZ1-66-15 fliesst und nichts hat Bestand.といつた様に、実在は流転して暫くも留まることなき出来事の連続
NKZ1-67-1 である。
NKZ1-67-2 我々が外界に於ける客観的世界といふものも、吾人の意識現象の外になく、やはり或一種の統一
NKZ1-67-3 作用に由つて統一せられた者である。唯此の現象が普遍的である時即ち個人の小なる意識以上の統
NKZ1-67-4 一を保つ時、我々より独立せる客観的世界と見るのである。例へば此処に一のランプが見える、此
NKZ1-67-5 が自分のみに見えるならば、或は主観的幻覚とでも思ふであらう。唯各人が同じく之を認むるに由
NKZ1-67-6 りて客観的事実となる。客観的独立の世界といふのは此の普遍的性質より起るのである。
NKZ1-67-7
第五章 真実在の根本的方式
NKZ1-67-8 我々の経験する所の事実は種々ある様であるが、少しく考へて見ると皆同一の実在であつて、同一
NKZ1-67-9 の方式に由つて成り立つて居るのである。今此の如き凡ての実在の根本的方式に就いて話して見よう。
NKZ1-67-10 先づ凡ての実在の背後には統一的或者の働き居ることを認めねばならぬ。或学者は真に単純であつ
NKZ1-67-11 て独立せる要素、例へば元子論者の元子の如き者が根本的実在であると考へて居る、併此の如き要
NKZ1-67-12 素は説明の為に設けられた抽象的概念であつて、事実上に存在することはできぬ。試に想へ、今此処
NKZ1-67-13 に何か一つの元子があるならば、そは必ず何等かの性質又は作用をもつたものでなければならぬ、全
NKZ1-68-1 く性質又は作用なき者は無と同一である。然るに一つの物が働くといふのは必ず他の物に対して働く
NKZ1-68-2 のである、而して之には必ず此の二つの物を結合して互に相働くを得しめる第三者がなくてはならぬ、
NKZ1-68-3 例へば甲の物体の運動が乙に伝はるといふには、此の両物体の間に力といふものがなければならぬ、
NKZ1-68-4 又性質といふことも一の性質が成立するには必ず他に対して成立するのである。例へば色が赤のみで
NKZ1-68-5 あつたならば赤といふ色は現はれ様がない、赤が現はれるには赤ならざる色がなければならぬ、而し
NKZ1-68-6 て一の性質が他の性質と比較し区別せらるゝには、両性質は其根柢に於て同一でなければならぬ、全
NKZ1-68-7 く類を異にし其間に何等の共通なる点をもたぬ者は比較し区別することができぬ。かくの如く凡て物
NKZ1-68-8 は対立に由つて成立するといふならば、其根柢には必ず統一的或者が潜んで居るのである。
NKZ1-68-9 この統一的或者が物体現象では之を外界に存する物力となし、精神現象では之を意識の統一力に
NKZ1-68-10 帰するのであるが、前にいつた様に、物体現象といひ精神現象といふも純粋経験の上に於ては同一
NKZ1-68-11 であるから、この二種の統一作用は元来、同一種に属すべきものである。我々の思惟意志の根柢に
NKZ1-68-12 於ける統一力と宇宙現象の根柢に於ける統一力とは直に同一である、例へば我々の論理、数学の法
NKZ1-68-13 則は直に宇宙現象が之に由りて成立しうる原則である。
NKZ1-68-14 実在の成立には、右に云つた様に其根柢に於て統一といふものが必要であると共に、相互の反対寧
NKZ1-68-15 ろ矛盾といふことが必要である。ヘラクレイトスが争は万物の父といつた様に、実在は矛盾に由つて
NKZ1-69-1 成立するのである、赤き物は赤からざる色に対し、働く者は之をうける者に対して成立するのである。
NKZ1-69-2 この矛盾が消滅すると共に実在も消え失せてしまふ。元来この矛盾と統一とは同一の事柄を両方面よ
NKZ1-69-3 り見たものにすぎない、統一があるから矛盾があり、矛盾があるから統一がある。例へば白と黒との
NKZ1-69-4 様に凡ての点に於て共通であつて、唯一点に於て異なつて居る者が互に最も反対となる、之に反し徳
NKZ1-69-5 と三角といふ様に明了の反対なき者は又明了なる統一もない。最も有力なる実在は種々の矛盾を最も
NKZ1-69-6 能く調和統一した者である。
NKZ1-69-7 統一する者と統一せらるゝ者とを別々に考へるのは抽象的思惟に由るので、具体的実在にてはこ
NKZ1-69-8 の二つの者を離すことはできない。一本の樹とは枝葉根幹の種々異なりたる作用をなす部分を統一
NKZ1-69-9 した上に存在するが、樹は単に枝葉根幹の集合ではない、樹全体の統一力が無かつたならば枝葉根
NKZ1-69-10 幹も無意義である。樹は其部分の対立と統一との上に存するのである。
NKZ1-69-11 統一力と統一せらるゝ者と分離した時には実在とならない。例へば人が石を積みかさねた様に、
NKZ1-69-12 石と人とは別物である、かゝる時に石の積みかさねは人工的であつて、独立の一実在とはならない。
NKZ1-69-13 そこで実在の根本的方式は一なると共に多、多なると共に一、平等の中に差別を具し、差別の中に
NKZ1-69-14 平等を具するのである。而して此二方面は離すことのできないものであるから、つまり一つの者の自
NKZ1-69-15 家発展といふことができる。独立自全の真実在はいつでも此方式を具へて居る、然らざる者は皆我々
NKZ1-70-1 の抽象的概念である。
NKZ1-70-2 実在は自分にて一の体系をなした者である。我々をして確実なる実在と信ぜしむる者は此性質に
NKZ1-70-3 由るのである。之に反し体系を成さぬ事柄は例へば夢の如く之を実在とは信ぜぬのである。
NKZ1-70-4 右の如く真に一にして多なる実在は自動不息でなければならぬ。静止の状態とは他と対立せぬ独存
NKZ1-70-5 の状態であつて、即ち多を排斥したる一の状態である。併し此状態にて実在は成立することはできな
NKZ1-70-6 い。著し統一に由つて或一つの状態が成立したとすれば、直に此処に他の反対の状態が成立して居ら
NKZ1-70-7 ねばならぬ。一の統一が立てば直に之を破る不統一が成立する。真実在はかくの如き無限の対立を以
NKZ1-70-8 て成立するのである。物理学者は勢力保存などといつて実在に極限があるかの様にいつて居るが、こ
NKZ1-70-9 は説明の便宜上に設けられた仮定であつて、かくの如き考は恰も空間に極限があるといふと同じく、
NKZ1-70-10 唯抽象的に一方のみを見て他方を忘れて居たのである。
NKZ1-70-11 活きた者は皆無限の対立を含んで居る、即ち無限の変化を生ずる能力をもつたものである。精神
NKZ1-70-12 を活物といふのは始終無限の対立を存し、停止する所がない故である。若しこれが一状態に固定し
NKZ1-70-13 て更に他の対立に移る能はざる時は死物である。
NKZ1-70-14 実在は之に対立する者に由つて成立するといふが、この対立は他より出で来るのではなく、自家の
NKZ1-70-15 中より生ずるのである。前に云つた様に対立の根柢には統一があつて、無限の対立は皆自家の内面的
NKZ1-71-1 性質より必然の結果として発展し来るので、真実在は一つの者の内面的必然より起る自由の発展であ
NKZ1-71-2 る。例へば空間の限定に由つて種々の幾何学的形状ができ、此等の形は互に相対立して特殊の性質を
NKZ1-71-3 保つて居る。併し皆別々に対立するのではなくして、空間といふ一者の必然的性質に由りて結合せら
NKZ1-71-4 れて居る、即ち空間的性質の無限の発展である様に、我々が自然現象といつて居る者に就いて見ても、
NKZ1-71-5 実際の自然現象なる者は前にもいつた様に個々独立の要素より成るのではなく、又我々の意識現象を
NKZ1-71-6 離れて存在するのではない。やはり一の統一的作用によりて成立するので、一自然の発展と看做すべ
NKZ1-71-7 きものである。
NKZ1-71-8 ヘーゲルは何でも理性的なる者は実在であつて、実在は必ず理性的なる者であるといつた。この
NKZ1-71-9 語は種々の反対をうけたにも拘らず、見方に由つては動かすべからざる真理である。宇宙の現象は
NKZ1-71-10 いかに些細なる者であつても、決して偶然に起り前後に全く何等の関係をもたぬものはない。必ず
NKZ1-71-11 起るべき理由を具して起るのである。我等は之を偶然と見るのは単に知識の不足より来るのである。
NKZ1-71-12 普通には何か活動の主があつて、之より活動が起るものと考へて居る。併し直接経験より見れば活
NKZ1-71-13 動其者が実在である。この主たる物といふは抽象的概念である。我々は統一と其内容との対立を互に
NKZ1-71-14 独立の実在であるかの様に思ふから斯の如き考を生ずるのである。
NKZ1-72-1
第六章 唯一実在
NKZ1-72-2 実在は前に云つた様に意識活動である。而して意識活動とは普通の解釈に由れば其時々に現はれ又
NKZ1-72-3 忽ち消え去るもので、同一の活動が永久に連結することはできない。して見ると、小にして我々の一
NKZ1-72-4 生の経験、大にしては今日に至るまでの宇宙の発展、此等の事実は畢竟虚幻夢の如く、支離滅裂なる
NKZ1-72-5 ものであつて、其間に何等の統一的基礎がないのであらうか。此の如き疑問に対しては、実在は相互
NKZ1-72-6 の関係に於て成立するもので、宇宙は唯一実在の唯一活動であることを述べて置かうと思ふ。
NKZ1-72-7 意識活動は或範囲内では統一に由つて成立することは略説明したと思ふが、尚或範囲以外ではかゝ
NKZ1-72-8 る統一のあることを信ぜぬ人が多い。例へば昨日の意識と今日の意識とは全く独立であつて、もはや
NKZ1-72-9 一の意識とは看做されないと考へて居る人がある。併し直接経験の立脚地より考へて見ると、此の如
NKZ1-72-10 き区別は単に相対的の区別であつて絶対的区別ではない。何人でも統一せる一の意識現象と考へて居
NKZ1-72-11 る思惟又は意志等について見ても、其過程は各相異なつて居る観念の連続にすぎない。精細に之を区
NKZ1-72-12 別して見れば此等の観念は別々の意識であるとも考へることができる。然るに此の連続せる観念が個
NKZ1-72-13 個独立の実在ではなく、一の意識活動として見ることができるならば、昨日の意識と今日の意識とは
NKZ1-73-1 一の意識活動として見られぬことはない、我々が幾日にも亙りて或一の問題を考へ、又は一の事業を
NKZ1-73-2 計画するといふ場合には、明に同一の意識が連続的に働くと見ることができる、唯時間の長短に於て
NKZ1-73-3 異なるばかりである。
NKZ1-73-4 意識の結合には知覚の如き同時の結合、聯想思惟の如き継続的結合、及び自覚の如き一生に亙れ
NKZ1-73-5 る結合も皆程度の差異であつて、同一の性質より成り立つ者である。
NKZ1-73-6 意識現象は時々刻々に移りゆくもので、同一の意識が再び起ることはない。昨日の意識と今日の意
NKZ1-73-7 識とは、よし其内容に於て同一なるにせよ、全然異なつた意識であるといふ考は、直接経験の立脚地
NKZ1-73-8 より見たのではなくて、反つて時間といふ者を仮定し、意識現象は其上に顕はれる者として推論した
NKZ1-73-9 結果である。意識現象が時間といふ形式に由つて成立する者とすれば、時間の性質上一たび過ぎ去つ
NKZ1-73-10 た意識現象は再び還ることはできぬ。時間は唯一つの方向を有するのみである。仮令全く同一の内容
NKZ1-73-11 を有する意識であつても、時間の形式上已に同一とはいはれないこととなる。併し今直接経験の本に
NKZ1-73-12 立ち還つて見ると、此等の関係は全く反対とならねばならぬ。時間といふのは我々の経験の内容を整
NKZ1-73-13 頓する形式にすぎないので、時間といふ考の起るには先づ意識内容が結合せられ統一せられて一とな
NKZ1-73-14 ることができねばならぬ。然らざれば前後を連合配列して時間的に考へることはできない。されば意
NKZ1-73-15 識の統一作用は時間の支配を受けるのではなく、反つて時間は此統一作用に由つて成立するのである。
NKZ1-74-1 意識の根柢には時間の外に超越せる不変的或者があるといはねばならぬことになる。
NKZ1-74-2 直接経験より見れば同一内容の意識は直に同一の意識である、真理は何人が何時代に考へても同
NKZ1-74-3 一である様に、我々の昨日の意識と今日の意識とは同一の体系に属し同一の内容を有するが故に、
NKZ1-74-4 直に結合せられて一意識と成るのである。個人の一生といふ者は此の如き一体系を成せる意識の発
NKZ1-74-5 展である。
NKZ1-74-6 此点より見れば精神の根柢には常に不変的或者がある。此者が日々その発展を大きくするのであ
NKZ1-74-7 る。時間の経過とは此発展に伴ふ統一的中心点が変じてゆくのである、此中心点がいつでも「今」
NKZ1-74-8 である。
NKZ1-74-9 右にいつた様に意識の根柢に不変の統一力が働いて居るとすれば、この統一力なる者は如何なる形
NKZ1-74-10 に於て存在するか、いかにして自分を維持するかの疑が起るであらう。心理学では此の如き統一作用
NKZ1-74-11 の本を脳といふ物質に帰して居る。併し嘗ていつた様に、意識外に独立の物体を仮定するのは意識現
NKZ1-74-12 象の不変的結合より推論したので、之よりも意識内容の直接の結合といふ統一作用が根本的事実であ
NKZ1-74-13 る。此統一力は或他の実在よりして出で来るのではなく、実在は反つて此作用に由りて成立するので
NKZ1-74-14 ある。人は皆宇宙に一定不変の理なる者あつて、万物は之に由りて成立すると信じて居る。此理とは
NKZ1-74-15 万物の統一力であつて兼ねて又意識内面の統一力である、理は物や心に由つて所持せられるのではな
NKZ1-75-1 く、理が物心を成立せしむるのである。理は独立自存であつて、時間、空間、人に由つて異なること
NKZ1-75-2 なく、顕滅用不用に由りて変ぜざる者である。
NKZ1-75-3 普通に理といへば、我々の主観的意識上の観念聯合を支配する作用と考へられて居る。併し斯の
NKZ1-75-4 如き作用は理の活動の足跡であつて、理其者ではない。理其者は創作的であつて、我々は之になり
NKZ1-75-5 きり之に即して働くことができるが、之を意識の対象として見ることのできないものである。
NKZ1-75-6 普通の意義に於て物が存在するといふことは、或場処或時に於て或形に於て存在するのである。
NKZ1-75-7 併し此処にいふ理の存在といふのは之と類を異にして居る。此の如く一処に束縛せらるゝものなら
NKZ1-75-8 ば統一の働をなすことはできない、かくの如き者は活きた真の理でない。
NKZ1-75-9 個人の意識が右にいつた様に昨日の意識と今日の意識と直に統一せられて一実在をなす如く、我々
NKZ1-75-10 の一生の意識も同様に一と見做すことができる。此考を推し進めて行く時は、啻に一個人の範囲内ば
NKZ1-75-11 かりではなく、他人との意識も亦同一の理由に由つて連結して一と見做すことができる。理は何人が
NKZ1-75-12 考へても同一である様に、我々あ意識の根柢には普遍的なる者がある。我々は之に由りて互に相理会
NKZ1-75-13 し相交通することができる。啻に所謂普遍的理性が一般人心の根柢に通ずるばかりでなく、或一社会
NKZ1-75-14 に生れたる人はいかに独創に富むにせよ、皆其特殊なる社会精神の支配を受けざる者はない、各個人
NKZ1-75-15 の精神は皆此社会精神の一細胞にすぎないのである。
NKZ1-76-1 前にもいつた様に、個人と個人との意識の連結と、一個人に於て昨日の意識と今日の意識との連
NKZ1-76-2 結とは同一である。前者は外より間接に結合せられ、後者は内より直に結合する様に見ゆるが、若
NKZ1-76-3 し外より結合せらるゝ様に見れば、後者も或一種の内面的感覚の符徴によりて結合せらるゝので、
NKZ1-76-4 個人間の意識が言語等の符徴に由つて結合せらるゝのと同一である。若し内より結合せらるゝ様に
NKZ1-76-5 見れば、前者に於ても個人間に元来同一の根柢あればこそ直に結合せられるのである。
NKZ1-76-6 我々の所謂客観的世界と名づけて居る者も、幾度か言つたやうに、我々の主観を離れて成立するも
NKZ1-76-7 のではなく、客観的世界の統一力と主観的意識の統一力とは同一である、即ち所謂客観的世界も意識
NKZ1-76-8 も同一の理に由つて成立するものである。此故に人は自己の中にある理に由つて宇宙成立の原理を理
NKZ1-76-9 会することができるのである。若し我々の意識の統一と異なつた世界があるとするも、此の如き世界
NKZ1-76-10 は我々と全然没交渉の世界である。苟も我々の知り得る、理会し得る世界は我々の意識と同一の統一
NKZ1-76-11 力の下に立たねばならぬ。
NKZ1-76-12 第七章 実在の分化発展
NKZ1-76-13 意識を離れて世界ありといふ考より見れば、万物は個々独立に存在するものといふことができるか
NKZ1-77-1 も知らぬが、意識現象が唯一の実在であるといふ考より見れば、宇宙万象の根柢には唯一の統一力あ
NKZ1-77-2 り、万物は同一の実在の発現したものといはねばならぬ。我々の知識が進歩するに従つて益々この同
NKZ1-77-3 一の理あることを確信する様になる。今此の唯一の実在より如何にして種々の差別的対立を生ずるか
NKZ1-77-4 を述べて見よう。
NKZ1-77-5 実在は一に統一せられて居ると共に対立を含んで居らねばならぬ。此処に一の実在があれば必ずこ
NKZ1-77-6 れに対する他の実在がある。而してかくこの二つの物が互に相対立するには、此の二つの物が独立の
NKZ1-77-7 実在ではなくして、統一せられたるものでなければならぬ、即ち一の実在の分化発展でなければなら
NKZ1-77-8 ぬ。而してこの両者が統一せられて一の実在として現はれた時には、更に一の対立が生ぜねばならぬ。
NKZ1-77-9 併し此時この両者の背後に、又一の統一が働いて居らねばならぬ。かくして無限の統一に進むのであ
NKZ1-77-10 る。之を逆に一方より考へて見れば、無限なる唯一実在が小より大に、浅より深に、自己を分化発展
NKZ1-77-11 するのであると考へることができる。此の如き過程が実在発現の方式であつて、宇宙現象は之に由り
NKZ1-77-12 て成立し進行するのである。
NKZ1-77-13 斯の如き実在発展の過程は我々の意識現象について明に之を見ることができる。例へば意志につ
NKZ1-77-14 いて見ると、意志とは或理想を現実にせんとするので、現在と理想との対立である。併しこの意志
NKZ1-77-15 が実行せられ理想と一致した時、この現在は更に他の理想と対立して新なる意志が出でくる。かく
NKZ1-78-1 して我々の生きて居る間は、何処までも自己を発展し実現しゆくのである。次に生物の生活及発達
NKZ1-78-2 について見ても、此の如き実在の方式を認むることができる。生物の生活は実に斯の如き不息の活
NKZ1-78-3 動である。唯無生物の存在は一寸この方式にあてはめて考へることが困難である様に見えるが、こ
NKZ1-78-4 のことに就いては後に自然を論ずる時に話すこととせう。
NKZ1-78-5 さて右に述べた様な実在の根本的方式より、如何にして種々なる実在の差別を生ずるのであるか。
NKZ1-78-6 先づ所謂主観客観の別は何から起つてくるか。主観と客観とは相離れて存在するものではなく、一実
NKZ1-78-7 在の相対せる両方面である、即ち我々の主観といふものは統一的方面であつて、客観といふのは統一
NKZ1-78-8 せらるゝ方面である、我とはいつでも実在の統一者であつて、物とは統一せられる者である(爰に客
NKZ1-78-9 観と云ふのは我々の意識より独立せる実在といふ意義ではなく、単に意識対象の意義である)。例へ
NKZ1-78-10 ば我々が何物かを知覚するとか、若しくは思惟するとかいふ場合に於て、自己とは彼此相比較し統一
NKZ1-78-11 する作用であつて、物とは之に対して立つ対象である、即ち比較統一の材料である。後の意識より前
NKZ1-78-12 の意識を見た時、自己を対象として見ることができる様に思ふが、其実はこの自己とは真の自己では
NKZ1-78-13 なく、真の自己は現在の観察者即ち統一者である。此時は前の統一は已に一たび完結し、次の統一の
NKZ1-78-14 材料として此中に包含せられたものと考へねばならぬ。自己はかくの如く無限の統一者である、決し
NKZ1-78-15 て之を対象として比較統一の材料とすることのできない者である。
NKZ1-79-1 心理学から見ても吾人の自己とは意識の統一者である。而して今意識が唯一の真実在であるとい
NKZ1-79-2 ふ立脚地より見れば、この自己は実在の統一者でなければならぬ。心理学ではこの統一者である自
NKZ1-79-3 己なる者が、統一せらるゝものから離れて別に存在する様にいへども、此の如き自己は単に抽象的
NKZ1-79-4 概念にすぎない。事実に於ては、物を離れて自己あるのではなく、我々の自己は直に宇宙実在の統
NKZ1-79-5 一力其者である。
NKZ1-79-6 精神現象、物体現象の区別といふのも決して二種の実在があるのではない。精神現象といふのは
NKZ1-79-7 統一的方面即ち主観の方から見たので、物体現象とは統一せらるゝ者即ち客観の方から見たのであ
NKZ1-79-8 る。唯同一実在を相反せる両方面より見たのにすぎない。それで統一の方より見れば凡てが主観に
NKZ1-79-9 属して精神現象となり、統一を除いて考へれば凡てが客観的物体現象となる(唯心論、唯物論の対
NKZ1-79-10 立はかくの如き両方面の一を固執せるより起るのである)。
NKZ1-79-11 次に能働所働の差別は何から起つてくるか。能働所働といふことも実在に二種の区別があるのでは
NKZ1-79-12 なく、やはり同一実在の両方面である、統一者がいつでも能働であつて、被統一者がいつでも所働で
NKZ1-79-13 ある。例へば意識現象に就いて見ると、我々の意志が働いたといふのは意志の統一的観念即ち目的が
NKZ1-79-14 実現せられたといふので、即ち統一が成立したことである。其外凡て精神が働いたといふことは統一
NKZ1-79-15 の目的を達したといふことで、これができなくつて他より統一せられた時には所働といふのである。
NKZ1-80-1 物体現象に於ても甲の者が乙に対して働くといふことは、甲の性質の中に乙の性質を包含し統括し得
NKZ1-80-2 た場合をいふのである。かくの如く統一が即ち能働の真意義であつて、我々が統一の位置にある時は
NKZ1-80-3 能働的で、自由である。之に反して他より統一せられた時は所働的で、必然法の下に支配せられたこ
NKZ1-80-4 とゝなる。
NKZ1-80-5 普通では時間上の連続に於て先だつ者が能働者と考へられて居るが、時間上に先だつ者が必ずし
NKZ1-80-6 も能働者ではない、能働者は力をもつたものでなければならぬ。而して力といふのは実在の統一作
NKZ1-80-7 用をいふのである。例へば物体の運動は運動力より起るといふ、然るにこの力といふのはつまり或
NKZ1-80-8 現象間の不変的関係をさすので、即ち此現象を連結綜合する統一者をいふのである。而して厳密な
NKZ1-80-9 る意義に於ては唯精神のみ能働である。
NKZ1-80-10 次に無意識と意識との区別について一言せん。主観的統一作用は常に無意識であつて、統一の対象
NKZ1-80-11 となる者が意識内容として現はれるのである。思惟について見ても、又意志についてみても、真の統
NKZ1-80-12 一作用其者はいつも無意識である。唯之を反省して見た時、この統一作用は一の観念として意識上に
NKZ1-80-13 現はれる。併し此時は已に統一作用ではなくして、統一の対象となつて居るのである。前にいつた様
NKZ1-80-14 に、統一作用はいつでも主観であるから、従つていつでも無意識でなければならぬ。ハルトマンも無
NKZ1-80-15 意識が活動であるといつて居る様に、我々が主観の位置に立ち活動の状態にある時はいつも無意識で
NKZ1-81-1 ある。之に反し或意識を客観的対象として意識した時には、其意識は已に活動を失つたものである。
NKZ1-81-2 例へば或芸術の修錬についても、一々の動作を意識して居る間は未だ真に生きた芸術ではない、無意
NKZ1-81-3 識の状態に至つて始めて生きた芸術となるのである。
NKZ1-81-4 心理学より見て精神現象は凡て意識現象であるから、無意識なる精神現象は存在せぬと云ふ非難
NKZ1-81-5 がある。併し我々の精神現象は単に観念の連続でない、必ず之を連結統一する無意識の活動があつ
NKZ1-81-6 て、始めて精神現象が成立するのである。
NKZ1-81-7 最後に現象と本体との関係に就いて見ても、やはり実在の両方面の関係と見て説明することができ
NKZ1-81-8 る。我々が物の本体といつて居るのは実在の統一力をいふのであつて、現象とは其分化発展せる対立
NKZ1-81-9 の状態をいふのである。例へば此処に机の本体が存在するといふのは、我々の意識がいつでも或一定
NKZ1-81-10 の結合に由つて現ずるといふことで、此処に不変の本体といふのはこの統一力をさすのである。
NKZ1-81-11 かくいへば真正の主観が実在の本体であると言はねばならぬ事になる、然るに我々は通常反つて
NKZ1-81-12 物体は客観にあると考へて居る。併しこれは真正の主観を考へないで抽象的主観を考へるに由るの
NKZ1-81-13 である。此の如き主観は無力なる概念であつて、之に対しては物の本体は反つて客観に属するとい
NKZ1-81-14 つた方が至当である。併し真正にいへば主観を離れた客観とは亦抽象的概念であつて、無力である。
NKZ1-81-15 真に活動せる物の本体といふのは、実在成立の根本的作用である統一力であつて、即ち真正の主観
NKZ1-82-1 でなければならぬ。
NKZ1-82-2
第八章 自然
NKZ1-82-3 実在は唯一つあるのみであつて、其見方の異なるに由りて種々の形を呈するのである。自然といへ
NKZ1-82-4 ば全然我々の主観より独立した客観的実在であると考へられて居る、併し厳密に言へば、斯の如き自
NKZ1-82-5 然は抽象的概念であつて決して真の実在ではない。自然の本体はやはり未だ主客の分れざる直接経験
NKZ1-82-6 の事実であるのである。例へば我々が真に草木として考ふる物は、生々たる色と形とを具へた草木で
NKZ1-82-7 あつて、我々の直覚的事実である。唯我々が此具体的実在より姑く主観的活動の方面を除去して考へ
NKZ1-82-8 た時は、純客観的自然であるかの様に考へられるのである。而して科学者の所謂最も厳密なる意味に
NKZ1-82-9 於ける自然とは、此考へ方を極端に迄推し進めた者であつて、最抽象的なる者即ち最も実在の真景を
NKZ1-82-10 遠ざかつた者である。
NKZ1-82-11 自然とは、具体的実在より主観的方面、即ち統一作用を除き去つたものである。それ故に自然に
NKZ1-82-12 は自己がない。自然は唯必然の法則に従つて外より動かされるのである、自己より自動的に働くこ
NKZ1-82-13 とができないのである。それで自然現象の連結統一は精神現象に於ての様に内面的統一ではなく、
NKZ1-83-1 単に時間空間上に於ける偶然的連結である。所謂帰納法に由つて得たる自然法なる者は、或両種の
NKZ1-83-2 現象が不変的連続に於て起るから、一は他の原因であると仮定したまでであつて、如何に自然科学
NKZ1-83-3 が進歩しても、我々はこれ以上の説明を得ることはできぬ。唯この説明が精細に且つ一般的となる
NKZ1-83-4 までである。
NKZ1-83-5 現今科学の趨勢はできるだけ客観的ならんことをつとめて居る。それで心理現象は生理的に、生理
NKZ1-83-6 現象は化学的に、化学現象は物理的に、物理現象は機械的に説明せねばならぬこととなる。此の如き
NKZ1-83-7 説明の基礎となる純機械的説明とはいかなる者であるか。純物質とは全く我々の経験のできない実在
NKZ1-83-8 である、苟も之について何等かの経験のできうる者ならば、意識現象として我々の意識の上に現はれ
NKZ1-83-9 来る者でなければならぬ。然るに意識の事実として現はれきたる者は尽く主観的であつて、純客観的
NKZ1-83-10 なる物質とはいはれない、純物質といふのは何等の捕捉すべき積極的性質もない、単に空間時間運動
NKZ1-83-11 といふ如き純数量的性質のみを有する者で、数学上の概念の如く全く抽象的概念にすぎないのである。
NKZ1-83-12 物質は空間を充す者として恰も之を直覚しうるかの様に考へて居るが、併し我々が具体的に考へ
NKZ1-83-13 うる物の延長といふことは、触覚及視覚の意識現象にすぎない。我々の感覚に大きく見えるとも必
NKZ1-83-14 ずしも物質が多いとはいはれぬ。物理学上物質の多少はつまり其力の大小に由りて定まるので、即
NKZ1-83-15 ち彼此の作用的関係より推理するのである、決して直覚的事実ではない。
NKZ1-84-1 又右の如く自然を純物質的に考へれば動物、植物、生物の区別もなく、凡て同一なる機械力の作用
NKZ1-84-2 といふの外なく、自然現象は何等の特殊なる性質及意義を有せぬものとなる。人間も土塊も何の異な
NKZ1-84-3 る所もない。然るに我々が実際に経験する真の自然は決して右にいつた様な抽象的概念でなく、従つ
NKZ1-84-4 て単に同一なる機械力の作用でもない。動物は動物、植物は植物、金石は金石、それぞれ特色と意義
NKZ1-84-5 とを具へた具体的事実である。我々の所謂山川草木虫魚禽獣といふものは、皆斯の如くそれぞれの個
NKZ1-84-6 性を具へた者で、之を説明するには種々の立脚地より、種々に説明することもできるが、此の直接に
NKZ1-84-7 与へられたる直覚的事実の自然は到底動かすことのできない者である。
NKZ1-84-8 我々が普通に純機械的自然を真に客観的実在となし、直接経験に於ける具体的自然を主観的現象
NKZ1-84-9 となすのは、凡て意識現象は自己の主観的現象であるといふ仮定より推理した考である。併し幾度
NKZ1-84-10 もいつた様に、我々は全然意識現象より離れた実在を考へることはできぬ。もし意識現象に関係あ
NKZ1-84-11 るが故に主観的であるといふならば、純機械的自然も主観的である、空間、時間、運動といふ如き
NKZ1-84-12 も我々の意識現象を離れては考へることはできない。唯比較的に客観的であるので絶対的に客観的
NKZ1-84-13 であるのではない。
NKZ1-84-14 真に具体的実在としての自然は、全く統一作用なくして成立するものではない。自然もやはり一種
NKZ1-84-15 の自己を具へて居るのである。一本の植物、一匹の動物もその発現する種々の形態変化及運動は、単
NKZ1-85-1 に無意義なる物質の結合及機械的運動ではなく、一々其全体と離すべからざる関係をもつて居るので、
NKZ1-85-2 つまり一の統一的自己の発現と看做すべぎものである。例へば動物の手足鼻口等凡て一々動物生存の
NKZ1-85-3 目的と密接なる関係があつて、之を離れて其意義を解することはできぬ。少くとも動植物の現象を説
NKZ1-85-4 明するには、かくの如き自然の統一力を仮定せねばならぬ。生物学者は凡て生活本能を以て生物の現
NKZ1-85-5 象を説明するのである。啻に生物にのみ此の如き統一作用があるのではなく、無機物の結晶に於ても
NKZ1-85-6 已に多少この作用が現はれて居る。即ち凡ての鉱物は皆特有の結晶形を具へて居るのである。自然の
NKZ1-85-7 自己即ち統一作用は此の如く無機物の結晶より動植物の有機体に至つて益々明となるのである(真の
NKZ1-85-8 自己は精神に至つて始めて現はれる)。
NKZ1-85-9 現今科学の厳密なる機械的説明の立脚地より見れば、有機体の合目的発達も畢竟物理及化学の法
NKZ1-85-10 則より説明されねばならぬ。即ち単に偶然の結果にすぎないこととなる。併し斯の如き考はあまり
NKZ1-85-11 事実を無視することになるから、科学者は潜勢力といふ仮定をもつて之を説明しようとする。即ち
NKZ1-85-12 生物の卵又は種にはそれぞれの生物を発生する潜勢力をもつて居るといふ、此潜勢力が即ち今の所
NKZ1-85-13 謂自然の統一力に相当するのである。
NKZ1-85-14 自然の説明の上に於て、機械力の外に斯の如き統一力の作用を許すとするも、この二つの説明が
NKZ1-85-15 衝突する必要はない。反つて両者相待つて完全なる自然の説明ができるのである。例へば此処に一
NKZ1-86-1 の銅像があるとせよ、その材料たる銅としては物理化学の法則に従ふでもあらうが、こは単に銅の
NKZ1-86-2 一塊と見るべき者ではなく、我々の理想を現はしたる美術品である。即ち我々の理想の統一力に由
NKZ1-86-3 りて現はれたるものである。併し此理想の統一作用と材料其者を支配する物理化学の法則とは自ら
NKZ1-86-4 別範囲に属し、決して相犯す筈のものではない。
NKZ1-86-5 右にいつた様な統一的自己があつて、而して後自然に目的あり、意義あり、甫めて生きた自然とな
NKZ1-86-6 るのである。斯の如き自然の生命である統一力は単に我々の思惟に由りて作為せる抽象的概念ではな
NKZ1-86-7 く、反つて我々の直覚の上に現んじ来る事実である。我々は愛する花を見、又親しき動物を見て、直
NKZ1-86-8 に全体に於て統一的或者を捕捉するのである。之が其物の自己、其物の本体である。美術家は斯の如
NKZ1-86-9 き直覚の最もすぐれた人である。彼等は一見、物の真相を看破して統一的或物を捕捉するのである。
NKZ1-86-10 彼等の現はす所の者は表面の事実ではなく、深く物の根柢に潜める不変の本体である。
NKZ1-86-11 ゲーテは生物の研究に潜心し、今日の進化論の先駆者であつた。氏の説に由ると自然現象の背後
NKZ1-86-12 には本源的現象Urphänomenなる者がある。詩人は之を直覚するのである。種々の動物植物は此
NKZ1-86-13 の本源的現象たる本源的動物、本源的植物の変化せる者であるといふ。現に今日の動植物の中に一
NKZ1-86-14 定不変の典型がある。氏はこの説に基づいて、凡て生物は進化し来つたものであることを論じたの
NKZ1-86-15 である。
NKZ1-87-1 然らば自然の背後に潜める統一的自己とは如何なる者であるか。我々は自然現象をば我々の主観と
NKZ1-87-2 関係なき純客観的現象であると考へて居るが故に、この自然の統一力も我々の全く知り得べからざる
NKZ1-87-3 不可知的或者と考へられて居る。併し已に論じた様に、真実在は主観客観の分離しないものである、
NKZ1-87-4 実際の自然は単に客観的一方といふ如き抽象的概念ではなく、主客を具したる意識の具体的事実であ
NKZ1-87-5 る。従つてその統一的自己は我々の意識と何等の関係のない不可知的或者ではなく、実に我々の意識
NKZ1-87-6 の統一作用その者である。この故に我々が自然の意義目的を理会するのは、自己の理想及情意の主観
NKZ1-87-7 的統一に由るのである。例へば我々が能く動物の種々の機関及動作の本に横はれる根本的意義を理会
NKZ1-87-8 するのは、自分の情意を以て直に之を直覚するので、自分に情意がなかつたならば到底動物の根本的
NKZ1-87-9 意義を理会する事はできぬ。我々の理想及情意が深遠博大となるに従つて、愈々自然の真意義を理会
NKZ1-87-10 することができる。之を要するに我々の主観的統一と自然の客観的統一力とはもと同一である。之を
NKZ1-87-11 客観的に見れば自然の統一力となり、之を主観的に見れば自己の知情意の統一となるのである。
NKZ1-87-12 物力といふ如き者は全く吾人の主観的統一に関係がないと信ぜられて居る。勿論之は最も無意義
NKZ1-87-13 の統一でもあらう、併しこれとても全然主観的統一を離れたものではない、我々が物体の中に力あ
NKZ1-87-14 り、種々の作用をなすといふことは、つまり自己の意志作用を客観的に見たのである。
NKZ1-87-15 普通には、我々が自己の理想又は情意を以て自然の意義を推断するといふのは単に類推であつて、
NKZ1-88-1 確固たる真理でないと考へられて居る。併しこは主観客観を独立に考へ、精神と自然とを二種の実
NKZ1-88-2 在となすより起るのである。純粋経験の上からいへば直に之を同一と見るのが至当である。
NKZ1-88-3
第九章 精神
NKZ1-88-4 自然は一見我々の精神より独立せる純客観的実在であるかの様に見ゆるが、其実は主観を離れた実
NKZ1-88-5 在ではない。所謂自然現象をば其主観的方面即ち統一作用の方より見れば凡て意識現象となる。例へ
NKZ1-88-6 ば此処に一個の石がある、此石を我々の主観より独立せる或不可知的実在の力に由りて現んじた者と
NKZ1-88-7 すれば自然となる。併し此石なる者を直接経験の事実として直に之を見れば、単に客観的に独立せる
NKZ1-88-8 実在ではなく、我々の視覚触覚等の結合であつて、即ち我々の意識統一に由つて成立する意識現象で
NKZ1-88-9 ある。それで所謂自然現象をば直接経験の本に立ち返つて見ると、凡て主観的統一に由つて成立する
NKZ1-88-10 自己の意識現象となる。唯心論者が世界は余の観念なりと云ふのはこの立脚地より見たのである。
NKZ1-88-11 我々が同一の石を見るといふ時、各人が同一の観念を有つて居ると信じて居る。併し其実は各人
NKZ1-88-12 の性質経験に由つて異なつて居るのである。故に具体的実在は凡て主観的個人的であつて、客観的
NKZ1-88-13 実在といふ者はなくなる。客観的実在といふのは各人に共通なる抽象的概念にすぎない。
NKZ1-89-1 然らば我々が通常自然に対して精神といつて居る者は何であるか。即ち主観的意識現象とは如何な
NKZ1-89-2 る者であるか。所謂精神現象とは唯実在の統一的方面、即ち活動的方面を抽象的に考へたものである。
NKZ1-89-3 前に云つた様に、実在の真景に於ては主観、客観、精神、物体の区別はない、併し実在の成立には凡
NKZ1-89-4 て統一作用が必要である。この統一作用なる者は固より実在を離れて特別に存在するものではないが、
NKZ1-89-5 我々がこの統一作用を抽象して、統一せらるゝ客観に対立せしめて考へた時、所謂精神現象となるの
NKZ1-89-6 である。例へば爰に一つの感覚がある、併し此の一つの感覚は独立に存在するものではない、必ず他
NKZ1-89-7 と対立の上に於て成立するのである、即ち他と比較し区別せられて成立するのである。此の比較区別
NKZ1-89-8 の作用即ち統一的作用が我々の所謂精神なる者である。それでこの作用が進むと共に、精神と物体と
NKZ1-89-9 の区別が益々著しくなつてくる。子供の時には我々の精神は自然的である、従つて主観の作用が微弱
NKZ1-89-10 である。然るに成長するに従つて統一的作用が盛になり、客観的自然より区別せられた自己の心なる
NKZ1-89-11 者を自覚する様になるのである。
NKZ1-89-12 普通には我々の精神なる者は、客観的自然と区別せられたる独立の実在であると考へて居る。併
NKZ1-89-13 し精神の主観的統一を離れた純客観的自然が抽象的概念である様に、客観的自然を離れた純主観的
NKZ1-89-14 精神も抽象的概念である。統一せらるゝ者があつて、統一する作用があるのである。仮に外界に於
NKZ1-89-15 ける物の作用を感受する精神の本体があるとするも、働く物があつて、感ずる心があるのである。
NKZ1-90-1 働かない精神其者は、働かない物其者の如く不可知的である。
NKZ1-90-2 然らば何故に実在の統一作用が特に其内容即ち統一せらるべき者より区別せられて、恰も独立の実
NKZ1-90-3 在であるかの様に現はるゝのであるか。そは疑もなく実在に於ける種々の統一の矛盾衝突より起るの
NKZ1-90-4 である。実在には種々の体系がある、即ち種々の統一がある、此の体系的統一が相衝突し相矛盾した
NKZ1-90-5 時、此の統一が明に意識の上に現はれてくるのである。衝突矛盾のある処に精神あり、精神のある処
NKZ1-90-6 には矛盾衝突がある。例へば我々の意志活動について見ても、動機の衝突のない時には無意識である、
NKZ1-90-7 即ち所謂客観的自然に近いのである。併し動機の衝突が著しくなるに従つて意志が明瞭に意識せられ、
NKZ1-90-8 自己の心なる者を自覚することができる。然らば何処よりこの体系の矛盾衝突が起るか、こは実在其
NKZ1-90-9 物の性質より起るのである。嘗ていつた様に、実在は一方に於て無限の衝突であると共に、一方に於
NKZ1-90-10 て又無限の統一である。衝突は統一に欠くべからざる半面である。衝突に由つて我々は更に一層大な
NKZ1-90-11 る統一に進むのである。実在の統一作用なる我々の精神が自分を意識するのは、其統一が活動し居る
NKZ1-90-12 時ではなく、此の衝突の際に於てである。
NKZ1-90-13 我々が或一芸に熟した時、即ち実在の統一を得た時は反つて無意識である、即ちこの自家の統一
NKZ1-90-14 を知らない。併し更に深く進まんとする時、已に得た所の者と衝突を起し、此処に又意識的となる、
NKZ1-90-15 意識はいつも此の如き衝突より生ずるのである。又精神のある処には必ず衝突のあることは、精神
NKZ1-91-1 には理想を伴ふことを考へてみるがよい。理想は現実との矛盾衝突を意味して居る(かく我々の精
NKZ1-91-2 神は衝突によりて現んずるが故に、精神には必ず苦悶がある、厭世論者が世界は苦の世界であると
NKZ1-91-3 いふのは一面の真理をふくんで居る)。
NKZ1-91-4 我々の精神とは実在の統一作用であるとして見ると、実在には凡て統一がある、即ち実在には凡て
NKZ1-91-5 精神があるといはねばならぬ。然るに我々は無生物と生物とを分ち、精神のある者と無い物とを区別
NKZ1-91-6 するのは何に由るのであるか。厳密にいへば、凡ての実在には精神があるといつてよい、前にいつた
NKZ1-91-7 様に自然に於ても統一的自己がある、之が即ち我々の精神と同一なる統一力である。例へば此処に一
NKZ1-91-8 本の樹といふ意識現象が現はれたとすれば、普通には之を客観的実在として自然力に由りて成立する
NKZ1-91-9 者と考へるのであるが、意識現象の一体系をなせる者と見れば、意識の統一作用によりて成立するの
NKZ1-91-10 である。併し所謂無心物に於ては、此統一的自己が未だ直接経験の事実として現実に現はれて居ない。
NKZ1-91-11 樹其者は自己の統一作用を自覚して居ない、其統一的自己は他の意識の中にあつて樹其者の中にはな
NKZ1-91-12 い、即ち単に外面より統一せられた者で、未だ内面的に統一せる者ではない。此故に未だ独立自全の
NKZ1-91-13 実在とはいはれぬ。動物では之に反し、内面的統一即ち自己なる者が現実に現はれて居る、動物の種
NKZ1-91-14 種なる現象(たとへば其形態動作)は皆此内面的統一の発表と見ることができる。実在は凡て統一に
NKZ1-91-15 由つて成立するが、精神に於て其統一が明瞭なる事実として現はれるのである。実在は精神に於て始
NKZ1-92-1 めて完全なる実在となるのである、即ち独立自然の実在となるのである。
NKZ1-92-2 所謂精神なき者にあつては、其統一は外より与へられたので、自己の内面的統一でない。それ故
NKZ1-92-3 に見る人によりて其統一を変ずることができる。例へば普通には樹といふ統一せられたる一実在が
NKZ1-92-4 あると思うて居るが、化学者の眼から見れば一の有機的化合物であつて、元素の集合にすぎない、
NKZ1-92-5 別に樹といふ実在は無いともいひうる。併し動物の精神はかく看ることができぬ、動物の肉体は植
NKZ1-92-6 物と同じく化合物と看ることもできるであらうが、精神其者は見る人の随意に之を変ずることはで
NKZ1-92-7 きない、之をいかに解釈するにしても、兎に角事実上動かすべからざる一の統一を現はして居るの
NKZ1-92-8 である。
NKZ1-92-9 今日の進化論に於て無機物、植物、動物、人間といふ様に進化するといふのは、実在が漸々其隠
NKZ1-92-10 れたる本質を現実として現はし来るのであるといふことができる。精神の発展に於て始めて実在成
NKZ1-92-11 立の根本的性質が現はれてくるのである。ライプニッツのいつた様に発展evolutionは内展invo-
NKZ1-92-12 lutionである。
NKZ1-92-13 精神の統一者である我々の自己なる者は元来実在の統一作用である。一派の心理学では我々の自己
NKZ1-92-14 は観念及感情の結合にすぎない、此等の者を除いて外に自己はないといふが、こは単に分析の方面の
NKZ1-92-15 みより見て統一の方面を忘れて居るのである。凡て物を分析して考へて見れば、統一作用を認むるこ
NKZ1-93-1 とはできない、併しこの故に統一作用を無視することはできぬ。物は統一に由りて成立するのである、
NKZ1-93-2 観念感情も、之をして具体的実在たらしむるのは統一的自己の力によるのである。この統一力即ち自
NKZ1-93-3 己は何処より来るかといふに、つまり実在統一力の発現であつて、即ち永久不変の力である。我々の
NKZ1-93-4 自己は常に創造的で自由で無限の活動と感ぜらるゝのは此為である。前にいつた様に、我々が内に省
NKZ1-93-5 みて何だか自己といふ一種の感情あるが如くに感ずるのは真の自己でない。此の如き自己は何の活動
NKZ1-93-6 もできないのである。唯実在の統一が内に働く時に於て、我々は自己の理想の如く実在を支配し、自
NKZ1-93-7 己が自由の活動をなしつゝあると感ずるのである。而して此の実在の統一作用は無限であるから、我
NKZ1-93-8 我の自己は無限であつて宇宙を包容するかの様に感せられるのである。
NKZ1-93-9 余が曩に出立した純粋経験の立場より見れば、此処にいふ様な実在の統一作用なる者は単に抽象
NKZ1-93-10 的観念であつて、直接経験の事実ではない様に思はれるかも知れない。併し我々の直接経験の事実
NKZ1-93-11 は観念や感情ではなくて意志活動である、この統一作用は直接経験に欠くべからざる要素である。
NKZ1-93-12 之までは精神を自然と対立せしめて考へてきたのであるが、之より精神と自然との関係に就いて少
NKZ1-93-13 しく考へて見よう。我々の精神は実在の統一作用として、自然に対して特別の実在であるかの様に考
NKZ1-93-14 へられて居るが、其実は統一せられる者を離れて統一作用があるのでなく、客観的自然を離れて主観
NKZ1-93-15 的精神はないのであろ。我々が物を知るといふことは、自己が物と一致するといふにすぎない。花を
NKZ1-94-1 見た時は即ち自己が花となつて居るのである。花を研究して其本性を明にするといふは、自己の主観
NKZ1-94-2 的臆断をすてゝ、花其物の本性に一致するの意である。理を考へるといふ場合にても、理は決して我
NKZ1-94-3 我の主観的空想ではない、理は万人に共通なるのみならず、又実に客観的実在が之に由りて成立する
NKZ1-94-4 原理である。動かすべからざる真理は、常に我々の主観的自己を没し客観的となるに由つて得らるゝ
NKZ1-94-5 のである。之を要するに我々の知識が深遠となるといふは即ち客観的自然に合するの意である。啻に
NKZ1-94-6 知識に於て然るのみならず、意志に於ても其通りである。純主観的では何事も成すことはできない。
NKZ1-94-7 意志は唯客観的自然に従ふに由つてのみ実現し得るのである。水を動かすのは水の性に従ふのである、
NKZ1-94-8 人を支配するのは人の性に従ふのである、自分を支配するのは自分の性に従ふのである、我々の意志
NKZ1-94-9 が客観的となるだけそれだけ有力となるのである。釈迦、基督が千歳の後にも万人を動かす力を有す
NKZ1-94-10 るのは、実に彼等の精神が能く客観的であつた故である。我なき者即ち自己を滅せる者は最も偉大な
NKZ1-94-11 る者である。
NKZ1-94-12 普通には精神現象と物体現象とを内外に由りて区別し、前者は内に後者は外にあると考へて居る。
NKZ1-94-13 併しかくの如き考は、精神が肉体の中にあるといふ独断より起るので、直接経験より見れば凡て同
NKZ1-94-14 一の意識現象であつて、内外の区別があるのではない。我々が単に内面的なる主観的精神といつて
NKZ1-94-15 居る者は極めて表面的なる微弱なる精神である、即ち個人的空想である。之に反して大なる深き精
NKZ1-95-1 神は宇宙の真理に合したる宇宙の活動其者である。それでかくの如き精神には自ら外界の活動を伴
NKZ1-95-2 ふのである、活動すまいと思うてもできないのである。美術家の神来の如きは其一例である。
NKZ1-95-3 最後に人心の苦楽に就いて一言せう。一言にていへば、我々の精神が完全の状態即ち統一の状態に
NKZ1-95-4 ある時が快楽であつて、不完全の状態即ち分裂の状態にある時が苦痛である。右にいつた如く精神は
NKZ1-95-5 実在の統一作用であるが、統一の裏面には必ず矛盾衝突を伴ふ。この矛盾衝突の場合には常に苦痛で
NKZ1-95-6 ある、無限なる統一的活動は直にこの矛盾衝突を脱して更に一層大なる統一に達せんとするのである。
NKZ1-95-7 此時我々の心に種々の欲望を生じ理想を生ずる。而してこの一層大なる統一に達し得たる時即ち我々
NKZ1-95-8 の欲望又は理想を満足し得た時は快楽となるのである。故に快楽の一面には必ず苦痛あり、苦痛の一
NKZ1-95-9 面には必ず快楽が伴ふ、かくして人心は絶対に快楽に達することはできまいが、唯努めて客観的とな
NKZ1-95-10 り自然と一致する時には無限の幸福を保つことができる。
NKZ1-95-11 心理学者は我々の生活を助くる者が快楽であつて、之を妨ぐる者が苦痛であるといふ。生活とは
NKZ1-95-12 生物の本性の発展であつて、即ち自己の統一の維持である、やはり統一を助くる者が快楽で、之を
NKZ1-95-13 害する者が苦痛であるといふのと同一である。
NKZ1-95-14 前にいつた様に精神は実在の統一作用であつて、大なる精神は自然と一致するのであるから、我
NKZ1-95-15 我は小なる自己を以て自己となす時には苦痛多く、自己が大きくなり客観的自然と一致するに従つ
NKZ1-96-1 て幸福となるのである。
NKZ1-96-2
第十章 実在としての神
NKZ1-96-3 之まで論じた所に由つて見ると、我々が自然と名づけて居る所の者も、精神といつて居る所の者も、
NKZ1-96-4 全く種類を異にした二種の実在ではない。つまり同一実在を見る見方の相違に由つて起る区別である。
NKZ1-96-5 自然を深く理解せば、其根柢に於て精神的統一を認めねばならず、又完全なる真の精神とは自然と合
NKZ1-96-6 一した精神でなければならぬ、即ち宇宙には唯一つの実在のみ存在するのである。而して此唯一実在
NKZ1-96-7 は嘗ていつた様に、一方に於ては無限の対立衝突であると共に、一方に於ては無限の統一である、一
NKZ1-96-8 言にて云へば独立自全なる無限の活動である。この無限なる活動の根本をば我々は之を神と名づける
NKZ1-96-9 のである。神とは決してこの実在の外に超越せる者ではない、実在の根柢が直に神である、主観客観
NKZ1-96-10 の区別を没し、精神と自然とを合一した者が神である。
NKZ1-96-11 いづれの時代でも、いづれの人民でも、神といふ語をもたない者はない。併し知識の程度及要求
NKZ1-96-12 の差異に由つて種々の意義に解せられて居る。所謂宗教家の多くは神は宇宙の外に立ちて而も此宇
NKZ1-96-13 宙を支配する偉大なる人間の如き者と考へて居る。併し此の如き神の考は甚だ幼稚であつて、啻に
NKZ1-97-1 今日の学問知識と衝突するばかりでなく、宗教上に於ても此の如き神と我々人間とは内心に於ける
NKZ1-97-2 親密なる一致を得ることはできぬと考へる。併し今日の極端なる科学者の様に、物体が唯一の実在
NKZ1-97-3 であつて物力が宇宙の根本であると考へることもできぬ。上にいつた様に、実在の根柢には精神的
NKZ1-97-4 原理があつて、此原理が即ち神である。印度宗教の根本義である様にアートマンとプラハマンとは
NKZ1-97-5 同一である。神は宇宙の大精神である。
NKZ1-97-6 古来神の存在を証明するに種々の議論がある。或者は此世界は無より始まることはできぬ、何者か
NKZ1-97-7 此世界を作つた者がなければならぬ、かくの如き世界の創造者が神であるといふ。即ち因果律に基づ
NKZ1-97-8 いて此世界の原因を神であるとするのである。或者は此世界は偶然に存在する者ではなくして一々意
NKZ1-97-9 味をもつた者である、即ち或一定の目的に向つて組織せられたものであるといふ事実を根拠として、
NKZ1-97-10 何者か斯の如き組織を与へた者がなければならぬと推論し、此の如き宇宙の指導者が即ち神であると
NKZ1-97-11 いふ、即ち世界と神との関係を芸術の作品と芸術家の如くに考へるのである。此等は皆知識の方より
NKZ1-97-12 神の存在を証明し、且つ其性質を定めんとする者であるが、其外全く知識を離れて、道徳的要求の上
NKZ1-97-13 より神の存在を証明せんとする者がある。此等の人のいふ所に由れば、我々人間には道徳的要求なる
NKZ1-97-14 者がある、即ち良心なる者がある、然るに若し此宇宙に勧善懲悪の大主宰者が無かつたならば、我々
NKZ1-97-15 の道徳は無意義のものとなる、道徳の維持者として是非、神の存在を認めねばならぬといふのである、
NKZ1-98-1 カントの如きは此種の論者である。併し此等の議論は果して真の神の存在を証明し得るであらうか。
NKZ1-98-2 世界に原因がなければならぬから、神の存在を認めねばならぬといふが、若し因果律を根拠としてか
NKZ1-98-3 くの如くいふならば、何故に更に一歩を進んで神の原因を尋ぬることはできないか。神は無始無終で
NKZ1-98-4 あつて原因なくして存在するといふならば、此世界も何故にその様に存在するといふことはできない
NKZ1-98-5 か。又世界が或目的に従うて都合よく組織せられてあるといふ事実から、全智なる支配者がなければ
NKZ1-98-6 ならぬと推理するには、事実上宇宙の万物が尽く合目的に出来て居るといふことを証明せねばならぬ、
NKZ1-98-7 併しこは頗る難事である。若しかくの如きことが証明せられねば、神の存在が証明できぬといふなら
NKZ1-98-8 ば、神の存在は甚だ不確実となる。或人は之を信ずるであらうが、或人は之を信ぜぬであらう。且つ
NKZ1-98-9 此事が証明せられたとしても我々は此世界が偶然に斯く合目的に出来たものと考へることを得るので
NKZ1-98-10 ある。道徳的要求より神の存在を証明せんとするのは、尚更に薄弱である。全知全能の神なる者があ
NKZ1-98-11 つて我々の道徳を維持するとすれば、我々の道徳に偉大なる力を与へるには相違ないが、我々の実行
NKZ1-98-12 上かく考へた方が有益であるからといつて、かゝる者がなければならぬといふ証明にはならぬ。此の
NKZ1-98-13 如き考は単に方便と見ることもできる。此等の説はすべて神を間接に外より証明せんとするので、神
NKZ1-98-14 其者を自己の直接経験に於て直に之を証明したのではない。
NKZ1-98-15 然らば我々の直接経験の事実上に於て如何に神の存在を求むることができるか。時間空間の間に束
NKZ1-99-1 縛せられたる小さき我々の胸の中にも無限の力が潜んで居る。即ち無限なる実在の統一力が潜んで居
NKZ1-99-2 る、我々は此力を有するが故に学問に於て宇宙の真理を探ることができ、芸術に於て実在の真意を現
NKZ1-99-3 はすことができる、我々は自己の心底に於て宇宙を構成する実在の根本を知ることができる、即ち神
NKZ1-99-4 の面目を捕捉することができる。人心の無限に自在なる活動は直に神其者を証明するのである。ヤコ
NKZ1-99-5 ブ・ベーメのいつた様に翻されたる眼umgewandtes Augeを以て神を見るのである。
NKZ1-99-6 神を外界の事実の上に求めたならば、神は到底仮定の神たるを免れない。又宇宙の外に立てる宇
NKZ1-99-7 宙の創造者とか指導者とかいふ神は真に絶対無限なる神とはいはれない。上古に於ける印度の宗教
NKZ1-99-8 及欧洲の十五六世紀の時代に盛であつた神秘学派は神を内心に於ける直覚に求めて居る、之が最も
NKZ1-99-9 深き神の知識であると考へる。
NKZ1-99-10 神は如何なる形に於て存在するか、一方より見れば神はニコラウス・クザヌスなどのいつた様に凡
NKZ1-99-11 ての否定である、之といつて肯定すべき者即ち捕捉すべき者は神でない、若し之といつて捕捉すべき
NKZ1-99-12 者ならば已に有限であつて、宇宙を統一する無限の作用をなすことはできないのである(De docta
NKZ1-99-13 ignorantia, Cap. 24)。此点より見て神は全く無である。然らば神は単に無であるかといふに決して
NKZ1-99-14 さうではない。実在成立の根柢には歴々として動かすべからざる統一の作用が働いて居る。実在は実
NKZ1-99-15 に之に由つて成立するのである。例へば三角形の凡ての角の和は二直角であるといふの理は何処にあ
NKZ1-100-1 るのであるか、我々は理其者を見ることも聞くこともできない、而も此処に厳然として動かすべから
NKZ1-100-2 ざる理が存在するではないか。又一幅の名画に対するとせよ、我々は其全体に於て神韻縹渺として霊
NKZ1-100-3 気人を襲ふ者あるを見る、而も其中の一物一景に就いてその然る所以の者を見出さんとしても到底之
NKZ1-100-4 を求むることはできない。神は此等の意味に於ける宇宙の統一者である、実在の根本である、唯その
NKZ1-100-5 能く無なるが故に、有らざる所なく働かざる所がないのである。
NKZ1-100-6 数理を解し得ざる者には、いかに深遠なる数理も何等の知識を与へず、美を解せざる者には、い
NKZ1-100-7 かに巧妙なる名画も何等の感動を与へぬ様に、平凡にして浅薄なる人間には神の存在は空想の如く
NKZ1-100-8 に思はれ、何等の意味もない様に感ぜられる、従つて宗教などを無用視して居る。真正の神を知ら
NKZ1-100-9 んと欲する者は是非自己をそれだけに修錬して、之を知り得るの眼を具へねばならぬ。かくの如き
NKZ1-100-10 人には宇宙全体の上に神の力なる者が、名画の中に於ける画家の精神の如くに活躍し、直接経験の
NKZ1-100-11 事実として感ぜられるのである。之を見神の事実といふのである。
NKZ1-100-12 上来述べたる所を以て見ると、神は実在統一の根本といふ如き冷静なる哲学上の存在であつて、我
NKZ1-100-13 我の暖き情意の活動と何等の関係もない様に感ぜらるゝかも知らぬが、其実は決してさうではない。
NKZ1-100-14 曩にいつた様に、我々の欲望は大なる統一を求むるより起るので、此統一が達せられた時が喜悦であ
NKZ1-100-15 る。所謂個人の自愛といふも畢竟此の如き統一的要求にすぎないのである。然るに元来無限なる我々
NKZ1-101-1 の精神は決して個人的自己の統一を以て満足するものではない。更に進んで一層大なる統一を求めね
NKZ1-101-2 ばならぬ。我々の大なる自己は他人と自己とを包含したものであるから、他人に同情を表はし他人と
NKZ1-101-3 自己との一致統一を求むる様になる。我々の他愛とはかくの如くして起つてくる超個人的統一の要求
NKZ1-101-4 である。故に我々は他愛に於て、自愛に於けるよりも一層大なる平安と喜悦とを感ずるのである。而
NKZ1-101-5 して宇宙の統一なる神は実にかゝる統一的活動の根本である。我々の愛の根本、喜びの根本である。
NKZ1-101-6 神は無限の愛、無限の喜悦、平安である。
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Author: Niels GUELBERG
e-mail: guelberg@waseda.jp
First drafted: 00.12.11
Last updated: 03.05.21