西田幾多郎データべース(c) Niels Guelberg 2000


西田幾多郎[著]:『善の研究』(1911. 01)

西田幾多郎全集・第 1 巻


NKZ1-102-1   

第三篇 善


NKZ1-102-2    

第一章 行為上


NKZ1-102-3 実在は如何なる者であるかといふことは大略説明したと思ふから、之より我々人間は何を為すべき
NKZ1-102-4 か、善とは如何なる者であるか、人間の行動は何処に帰着すべきかといふ様な実践的問題を論ずるこ
NKZ1-102-5 ととしよう。而して人間の種々なる実践的方面の現象は凡て行為といふ中に総括することができると
NKZ1-102-6 思ふから、此等の問題を論ずるに先だち、先づ行為とは如何なる者であるかといふことを考へて見よ
NKZ1-102-7 うと思ふ。
NKZ1-102-8 行為といふのは、外面から見れば肉体の運動であるが、単に水が流れる石が落つるといふ様な物体
NKZ1-102-9 的運動とは異なつて居る。一種の意識を具へた目的のある運動である。併し単に有機体に於て現はれ
NKZ1-102-10 る所の目的はあるが全く無意識である種々の反射運動や、稍高等なる動物に於て見る様な目的あり且
NKZ1-102-11 つ多少意識を伴ふが、未だ目的が明瞭に意識されて居らぬ本能的動作とも区別せねばならぬ。行為と
NKZ1-103-1 は、其目的が明瞭に意識せられて居る動作の謂である。我々人間も肉体を具へて居るからは種々の物
NKZ1-103-2 体的運動もあり、又反射運動、本能的動作もなすことはあるが、特に自己の作用といふべき者は此行
NKZ1-103-3 為にかぎられて居るのである。
NKZ1-103-4 此行為には多くの場合に於て外界の運動即ち動作を伴ふのであるが、無論其要部は内界の意識現象
NKZ1-103-5 にあるのであるから、心理学上行為とは如何なる意識現象であるかを考へて見よう。行為とは右にい
NKZ1-103-6 つた様に意識されたる目的より起る動作のことで、即ち所謂有意的動作の謂である。但し行為といへ
NKZ1-103-7 ば外界の動作をも含めていふが、意志といへば主として内面的意識現象をさすので、今行為の意識現
NKZ1-103-8 象を論ずるといふことは即ち意志を論ずるといふことになるのである。さて意志は如何にして起るか。
NKZ1-103-9 元来我々の身体は大体に於て自己の生命を保持発展する為に自ら適当なる運動をなす様に作られて居
NKZ1-103-10 り、意識は此運動に副うて発生するので、始は単純なる苦楽の情である。然るに外界に対する観念が
NKZ1-103-11 次第に明瞭となり且つ聯想作用が活溌になると共に、前の運動は外界刺戟に対して無意識に発せずし
NKZ1-103-12 て、先づ結果の観念を想起し、之より其手段となるべき運動の観念を伴ひ、而して後運動に移るとい
NKZ1-103-13 ふ風になる、即ち意志なる者が発生するのである。夫で意志の起るには先づ運動の方向、意識上にて
NKZ1-103-14 いへば聯想の方向を定むる肉体的若しくは精神的の素因といふものがなければならぬ。此者は意識の
NKZ1-103-15 上には一種の衝動的感情として現はれてくる。こはその生受的なると後得的なるとを問はず意志の力
NKZ1-104-1 とも称すべき者で、爰に之を動機と名づけて置く。次に経験に由りて得、聯想に由りて惹起せられた
NKZ1-104-2 る結果の観念即ち目的、詳しくいへば目的観念といふ者が右の動機に伴はねばならぬ。此時漸く意志
NKZ1-104-3 の形が成立するので、之を欲求と名づけ、即ち意志の初位である。此欲求が唯一つであつた時には運
NKZ1-104-4 動の観念を伴うて動作に発するのであるが、欲求が二つ以上あつた時には所謂欲求の競争なる者が起
NKZ1-104-5 つて、其中最も有力なる者が意識の主位を占め、動作に発する様になる。之を決意といふ。我々の意
NKZ1-104-6 志といふのはかゝる意識現象の全体をさすのであるが、時には狭義に於ては愈々動作に移る瞬間の作
NKZ1-104-7 用或は特に決意の如き者をいふこともある。行為の要部は実に此の内面的意識現象たる意志にあるの
NKZ1-104-8 で、外面の動作は其要部ではない。何等かの障碍の為め動作が起らなかつたとしても、立派に意志が
NKZ1-104-9 あつたのであれば之を行為といふことができ、之に反し、動作が起つても充分に意志がなかつたなら
NKZ1-104-10 ば之を行為といふことはできぬ。意識の内面的活動が盛になると、始より意識内の出来事を目的とす
NKZ1-104-11 る意志が起つてくる。かゝる場合に於ても勿論行為と名づけることができる。心理学者は内外といふ
NKZ1-104-12 様に区別をするが意識現象としては全然同一の性質を具へて居るのである。
NKZ1-104-13  右に述べたところは単に行為の要部たる意志の過程を記載したのにすぎないから、今一歩を進んで、
NKZ1-104-14 意志は如何なる性質の意識現象で、意識の中に於て如何なる地位を占める者であるかを説明して見よ
NKZ1-104-15 う。心理学から見れば、意志は観念統一の作用である。即ち統覚の一種に属すべき者である。意識に
NKZ1-105-1 於ける観念結合の作用には二種あつて、一つは観念結合の原因が主として外界の事情に存し、意識に
NKZ1-105-2 於ては結合の方向が明でなく、受働的と感ぜらるゝので、之を聯想といひ、一つは結合の原因が意識
NKZ1-105-3 内にあり、結合の方向が明に意識せられて居り、意識が能働的に結合すると感ぜらるゝので、之を統
NKZ1-105-4 覚といふ。然るに右にいつたやうに、意志とは先づ観念結合の方向を定むる目的観念なる者があつて、
NKZ1-105-5 之より従来の経験にて得たる種々の運動観念の中に就いて自己の実現に適当なる観念の結合を構成す
NKZ1-105-6 るので、全く一の統覚作用である。斯く意志が観念統一の作用であるといふことは、欲求の競争の場
NKZ1-105-7 合に於て益々明となる。所謂決意とは此統一の終結にすぎないのである。
NKZ1-105-8  然らば此意志の統覚作用と他の統覚作用とは如何なる関係に於て立ち居るのであるか。意志の外に
NKZ1-105-9 思惟、想像の作用も同じく統覚作用に属して居る。此等の作用に於ても或統一的観念が本となつて、
NKZ1-105-10 之より其目的に合ふ様に観念を統一するので、観念活動の形式に於ては全く意志と同一である。唯其
NKZ1-105-11 統一の目的が同じくなく、従つて統一の法則が異なつて居るから、各相異なつた意識の作用と考へら
NKZ1-105-12 れて居るのである。併し今一層精細に何点に於て異なり何点に於て同じきかを考究して見よう。先づ
NKZ1-105-13 想像と意志とを比較して見ると、想像の目的は自然の模擬であつて、意志の目的は自身の運動である。
NKZ1-105-14 従つて想像に於ては自然の真状態に合ふ様に観念を統一し、意志では自己の欲望に合ふ様に統一する
NKZ1-105-15 のである。併し精しく考へて見ると、意志の運動の前には必ず先づ一度其運動を想像せねばならず、
NKZ1-106-1 又自然を想像するには自分が先づ其物になつて考へて見なければならぬ。唯想像といふものはどうし
NKZ1-106-2 ても外物を想像するので、自己が全く之と一致することができず、従つて自己の現実でないといふ様
NKZ1-106-3 な感がする。即ち或事を想像するといふのと之を実行するといふのとはどうしても異なる様に思はれ
NKZ1-106-4 るのである。併し更に一歩を進めて考へて見ると、こは程度の差であつて性質の差ではない。想像も
NKZ1-106-5 美術家の想像に於て見るが如く入神の域に達すれば、全く自己を其中に没し自己と物と全然一致して、
NKZ1-106-6 物の活動が直に自己の意志活動と感ぜらるゝ様にもなるのである。次に思惟と意志とを比較して見る
NKZ1-106-7 と、思惟の目的は真理にあるので、其観念結合を支配する法則は論理の法則である。我々は真理とす
NKZ1-106-8 る所の者を必ず意志するとは限らない、又意志する所の者が必ず真理であるとは考へて居らぬ。加之、
NKZ1-106-9 思惟の統一は単に抽象的概念の統一であるが、意志と想像とは具体的観念の統一である。此等の点に
NKZ1-106-10 於て思惟と意志とは一見明に区別があつて、誰も之を混ずる者はないのであるが又能く考へて見ると、
NKZ1-106-11 此区別も左程に明確にして動かすべからざるものではない。意志の背後にはいつでも相当の理由が潜
NKZ1-106-12 んで居る。其理由は完全ならざるにせよ、兎に角意志は或真理の上に働くものである、即ち思惟に由
NKZ1-106-13 つて成立するのである。之に反し、王陽明が知行同一を主張した様に真実の知識は必ず意志の実行を
NKZ1-106-14 伴はなければならぬ。自分はかく思惟するが、かくは欲せぬといふのは未だ真に知らないのである。
NKZ1-106-15 斯く考へて見ると、思惟、想像、意志の三つの統覚は其根本に於ては同一の統一作用である。其中思
NKZ1-107-1 惟及び想像は物及自己の凡てに関する観念に対する統一作用であるが、意志は特に自己の活動のみに
NKZ1-107-2 関する観念の統一作用である。之に反し、前者は単に理想的、即ち可能的統一であるが、後者は現実
NKZ1-107-3 的統一である、即ち統一の極致であるといふことができる。
NKZ1-107-4  已に意志の統覚作用に於ける地位を略述した所で、今度は他の観念的結合、即ち聯想及融合との関
NKZ1-107-5 係を述べよう。聯想に就いては曩に、其観念結合の方向を定むる者は外界にありて内界にないといつ
NKZ1-107-6 たが、是は単に程度の上より論じたので、聯想に於ても其統一作用が全く内にないとはいはれない。
NKZ1-107-7 唯明に意識上に現はれぬまでである。融合に至つては観念の結合が更に無意識であつて、結合作用す
NKZ1-107-8 ら意識しないのであるが、それとて決して内面的統一がないのではない。之を要するに意識現象は凡
NKZ1-107-9 て意志と同一の形式を具へて居て、凡て或意味に於ける意志であるといふことができる、而して此等
NKZ1-107-10 の統一作用の根本となる統一力を自己と名づくるならば、意志は其中にて最も明に自己を発表したも
NKZ1-107-11 のである。それで我々は意志活動に於て最も明に自己を意識するのである。


NKZ1-107-12    

第二章 行為下


NKZ1-107-13  之までは心理学上より、行為とは如何なる意識現象であるかを論じたのであるが、之より行為の本
NKZ1-108-1 たる意志の統一力なるものが何処より起るか、実在の上に於てこの力は如何なる意義をもつて居るか
NKZ1-108-2 の問題を論じ、哲学上意志及行為の性質を明にして置かうと思ふ。
NKZ1-108-3 或定まれる目的に由りて内より観念を統一するといふ意志の統一とは果して何より起るのであるか。
NKZ1-108-4 物質の外に実在なしといふ科学者の見地より見れば、此力は我々の身体より起るといふの外なからう。
NKZ1-108-5 我々の身体は動物のそれと同じく、一の体系をなせる有機体である。動物の有機体は精神の有無に関
NKZ1-108-6 せず、神経系統の中枢に於て機械的に種々の秩序立ちたる運動をなすことができる。即ち反射運動、
NKZ1-108-7 自動運動、更に複雑なる本能的動作をなすことができるのである。我々の意志も元は此等の無意識運
NKZ1-108-8 動より発達し来つたもので、今でも意志が訓練せられた時には復此等の無意識運動の状態に還るので
NKZ1-108-9 あるから、つまり同一の力に基づいて起る同一種の運動であると考へるの外はない。而して有機体の
NKZ1-108-10 種々の目的は凡て自己及自己の種属に於ける生活の維持発展といふことに帰するのであるから、我々
NKZ1-108-11 の意志の目的も生活保存の外になからう。唯意志に於ては目的が意識せられて居るので、他と異なつ
NKZ1-108-12 て見えるのみである。それで科学者は我々人間に於ける種々高尚なる精神上の要求をも皆此生活の目
NKZ1-108-13 的より説明せうとするのである。
NKZ1-108-14  併し斯く意志の本を物質力に求め、微妙幽遠なる人生の要求を単に生活慾より説明せうとするのは
NKZ1-108-15 頗る難事である。縦令高尚なる意志の発達は同時に生活作用の隆盛を伴ふものとしても、最上の目的
NKZ1-109-1 は前者にありて後者にあるのではあるまい。後者は反つて前者の手段と考へねばならぬのであらう。
NKZ1-109-2 併し姑く此等の議論は後にして、若し科学者のいふ様に我々の意志は有機体の物質的作用より起る者
NKZ1-109-3 とするならば、物質は如何なる能力を有するものと仮定せねばならぬであらうか。有機体の合目的運
NKZ1-109-4 動が物質より起るといふには二つの考へ方がある。一つは自然を合目的なる者と見て、生物の種子に
NKZ1-109-5 於ての如く、物質の中にも合目的力を潜勢的に含んで居らねばならぬとするので、一つは物質は単に
NKZ1-109-6 機械力をのみ具するものと見て、合目的なる自然現象は凡て偶然に起るものとするのである。厳密な
NKZ1-109-7 る科学者の見解は寧ろ後者にあるのであるが、余は此の二つの見解が同一の考へ方であつて、決して
NKZ1-109-8 其根柢までを異にせるものではないと思ふ。後者の見解にしても何処かに或一定不変の現象を起す力
NKZ1-109-9 があると仮定せねばならぬ。機械的運動を生ずるには之を生ずる力が物体の中に潜在すると仮定せね
NKZ1-109-10 ばならぬ。かくいひうるならば、何故に同じ理由に由りて有機体の合目的力を物体の中に潜在すると
NKZ1-109-11 考へることができぬか。或は有機体の合目的運動の如きは、かゝる力を仮定せずとも、更に簡単なる
NKZ1-109-12 物理化学の法則に由りて説明することが出来るといふ者もあらう。併しかくいへば、今日の物理化学
NKZ1-109-13 の法則も尚一層簡単なる法則に由りて説明ができるかも知れぬ。否知識の進歩は無限であるから必ず
NKZ1-109-14 説明されねばならぬと思ふ。かく考ふれば真理は単に相対的である。余は寧ろ此考を反対となし、分
NKZ1-109-15 析よりも綜合に重きを置いて、合目的なる自然が個々の分立より綜合にすゝみ、階段を蹈んで己が真
NKZ1-110-1 意を発揮すると見るのが至当であると思ふ。
NKZ1-110-2  更に余が曩に述べた実在の見方に由れば、物体といふのは意識現象の不変的関係に名づけた名目に
NKZ1-110-3 すぎないので、物体が意識を生ずるのではなく、意識が物体を作るのである。最も客観的なる機械的
NKZ1-110-4 運動といふ如き者も我々の論理的統一に由りて成立するので、決して意識の統一を離れたものではな
NKZ1-110-5 い。之より進んで生物の生活現象となり、更に進んで動物の意識現象となるに従つて、其統一は愈々
NKZ1-110-6 活溌となり多方面となり且つ深遠となるのである。意志は我々の意識の最も深き統一力であつて、又
NKZ1-110-7 実在統一力の最も深遠なる発現である。外面より見て単に機械的運動であり生活現象の過程であるも
NKZ1-110-8 のが、其内面の真意義に於ては意志であるのである。恰も単に木であり石であると思つて居たものが、
NKZ1-110-9 其真意義に於ては慈悲円満なる仏像であり、勇気満々たる仁王であるが如く、所謂自然は意志の発現
NKZ1-110-10 であつて、我々は自己の意志を通して幽玄なる自然の真意義を捕捉することができるのである。固よ
NKZ1-110-11 り現象を内外に分ち精神現象と物体現象とが全く異なれる現象と見做す時は、右の如き説は空想に止
NKZ1-110-12 まる様に思はれるかも知れぬが、直接経験に於ける具体的事実には内外の別なく、斯の如き考が反つ
NKZ1-110-13 て直接の事実であるのである。
NKZ1-110-14  右に述べし所は物体の機械的運動、有機体の合目的をもつて意志と根本を一つにし作用を同じうす
NKZ1-110-15 ると見る科学者のいふ所と一致するのであるが、併し其根本とする所の者は全く正反対である。彼は
NKZ1-111-1 物質力を以て本となし、是は意志を以て本とするのである。
NKZ1-111-2  此考に由れば、前に行為を分析して意志と動作の二としたのであるが、この二者の関係は原因と結
NKZ1-111-3 果との関係ではなく、寧ろ同一物の両面である。動作は意志の表現である。外より動作と見らるゝ者
NKZ1-111-4 が内より見て意志であるのである。


NKZ1-111-5     

第三章 意志の自由


NKZ1-111-6  意志は心理的にいへば意識の一現象たるに過ぎないが、其本体に於ては実在の根本であることを論
NKZ1-111-7 じた。今此意志が如何なる意味に於て自由の活動であるかを論じて見よう。意志が自由であるか、将
NKZ1-111-8 又必然であるかは久しき以来学者の頭を悩ました問題である。此議論は道徳上大切であるのみならず、
NKZ1-111-9 之に由りて意志の哲学的性質をも明にすることができるのである。
NKZ1-111-10  先づ我々が普通に信ずる所に由つて見れば、誰も自分の意志が自由であると考へぬ者はない。自分
NKZ1-111-11 が自分の意識に就いて経験する所では、或範囲に於て或事を為すこともできれば又為さぬこともでき
NKZ1-111-12 る。即ち或範囲内に於ては自由であると信じて居る。之が為に責任、無責任、自負、後悔、賞讃、非
NKZ1-111-13 難等の念が起つてくるのである。併し此の或範囲内といふことを今少しく詳しく考へて見よう。凡て
NKZ1-112-1 外界の事物に属する者は我々は之を自由に支配することはできぬ。自己の身体すらも何処までも自由
NKZ1-112-2 に取扱ふことができるとはいはれない。随意筋肉の運動は自由のやうであるが、一旦病気にでもかゝ
NKZ1-112-3 れば之を自由に動かすことはできぬ。自由にできるといふのは単に自己の意識現象である。併し自己
NKZ1-112-4 の意識内の現象とても、我々は新に観念を作り出す自由も持たず、又一度経験した事をいつでも呼び
NKZ1-112-5 起す自由すらも持たない。真に自由と思はれるのは唯観念結合の作用あるのみである。即ち観念を如
NKZ1-112-6 何に分析し、如何に綜合するかが自己の自由に属するのである。勿論此場合に於ても観念の分析綜合
NKZ1-112-7 には動かすべからざる先在的法則なる者があつて、勝手にできるのではなく、又観念間の結合が唯一
NKZ1-112-8 であるか、又は或結合が特に強盛であつた時には、我々はどうしても此結合に従はねばならぬのであ
NKZ1-112-9 る。唯観念成立の先在的法則の範囲内に於て、而も観念結合に二つ以上の途があり、此等の結合の強
NKZ1-112-10 度が強迫的ならざる場合に於てのみ、全然選択の自由を有するのである。
NKZ1-112-11  自由意志論を主張する人は、多くこの内界経験の事実を根拠として立論するのである。右の範囲内
NKZ1-112-12 に於て動機を選択決定するのは全く我々の自由に属し、我々の他に理由はない、此決定は外界の事情
NKZ1-112-13 又は内界の気質、習慣、性格より独立せる意志といふ一の神秘力に由るものと考へて居る。即ち観念
NKZ1-112-14 の結合の外に之を支配する一の力があると考へて居る。之に反し、意志の必然論を主張する人は大概
NKZ1-112-15 外界に於ける事実の観察を本として之より推論するのである。宇宙の現象は一として偶然に起る者は
NKZ1-113-1 ない、極めて些細なる事柄でも、精しく研究すれば必ず相当の原因をもつて居る。此考は凡て学問と
NKZ1-113-2 称するものの根本的思想であつて、且つ科学の発達と共に益々この思想が確実となるのである。自然
NKZ1-113-3 現象の中にて従来神秘的と思はれて居たものも、一々其原因結果が明瞭となつて、数学的に計算がで
NKZ1-113-4 きる様にまで進んできた。今日の所で尚原因がないなどと思はれて居るものは我々の意志位である。
NKZ1-113-5 併し意志といつてもこの動かすべからざる自然の大法則の外に脱することはできまい。今日意志が自
NKZ1-113-6 由であると思うて居るのは、畢竟未だ科学の発達が幼稚であつて、一々この原因を説明することがで
NKZ1-113-7 きぬ故である。加之、意志的動作も個々の場合に於ては、実に不規則であつて一見定まつた原因がな
NKZ1-113-8 い様であるが、多数の人の動作を統計的に考へて見ると案外秩序的である、決して一定の原因結果が
NKZ1-113-9 ないとは見られない。此等の考は益々我々の意志に原因があるといふ確信を強くし、我々の意志は凡
NKZ1-113-10 ての自然現象と同じく、必然なる機械的因果の法則に支配せらるゝ者で、別に意志といふ一種の神秘
NKZ1-113-11 力はないといふ断案に到達するのである。
NKZ1-113-12 さて此の二つの反対論の孰れが正当であらうか。極端なる自由意志論者は右にいつた様に、全く原
NKZ1-113-13 因も理由もなく、自由に動機を決定する一の神秘的能力があるといふ。併しかゝる意義に於て意志の
NKZ1-113-14 自由を主張するならば、そは全く誤謬である。我々が動機を決する時には、何か相当の理由がなけれ
NKZ1-113-15 ばならぬ。縦ひ、之が明瞭に意識の上に現はれて居らぬにしても、意識下に於て何か原因がなければ
NKZ1-114-1 ならぬ。又若し此等の論者のいふ様に、何等の理由なくして全く偶然に事を決する如きことがあつた
NKZ1-114-2 ならば、我々は此時意志の自由を感じないで、反つて之を偶然の出来事として外より働いた者と考へ
NKZ1-114-3 るのである。従つて之に対し責任を感ずることが薄いのである。自由意志論者が内界の経験を本とし
NKZ1-114-4 て議論を立つるといふが、内界の経験は反つて反対の事実を証明するのである。
NKZ1-114-5  次に必然論者の議論に就いて少しく批評を下して見よう。此種の論者は自然現象が機械的必然の法
NKZ1-114-6 則に支配せらるゝから、意識現象もその通りでなければならぬといふのであるが、元来此議論には意
NKZ1-114-7 識現象と自然現象(換言すれば物体現象)とは同一であつて、同一の法則に由つて支配せらるべきも
NKZ1-114-8 のであるといふ仮定が根拠となつて居る。併し此仮定は果して正しきものであらうか。意識現象が物
NKZ1-114-9 体現象と同一の法則に支配せらるべきものか否かは未定の議論である。斯の如き仮定の上に立つ議論
NKZ1-114-10 は甚だ薄弱であるといはねばならぬ。たとひ今日の生理的心理学が非常に進歩して、意識現象の基礎
NKZ1-114-11 たる脳の作用が一々物理的及化学的に説明ができたとしても、之に由りて意識現象は機械的必然法に
NKZ1-114-12 因つて支配せらるべき者であると主張することができるだらうか。例へば一銅像の材料たる銅は機械
NKZ1-114-13 的必然法の支配の外に出でぬであらうが、此銅像の現はす意味は此外に存するではないか。所謂精神
NKZ1-114-14 上の意味なるものは見るべからず聞くべからず数ふべからざるものであつて、機械的必然法以外に超
NKZ1-114-15 然たるものであるといはねばならぬ。
NKZ1-115-1  之を要するに、自由意志論者のいふ様な全く原因も理由もない意志は何処にもない。かくの如き偶
NKZ1-115-2 然の意志は決して自由と感ぜられないで、反つて強迫と感ぜらるゝのである。我々が或理由より働い
NKZ1-115-3 た時即ち自己の内面的性質より働いた時、反つて自由であると感ぜられるのである。つまり動機の原
NKZ1-115-4 因が自己の最深なる内面的性質より出でた時、最も自由と感ずるのである。併しその所謂意志の理由
NKZ1-115-5 なる者は必然論者のいふ様な機械的原因ではない。我々の精神には精神活動の法則がある。精神が此
NKZ1-115-6 の己自身の法則に従うて働いた時が真に自由であるのである。自由には二つの意義がある。一は全く
NKZ1-115-7 原因がない即ち偶然といふことと同意義の自由であつて、一は自分が外の束縛を受けない、己自らに
NKZ1-115-8 て働く意味の自由である。即ち必然的自由の意義である。意志の自由といふのは、後者に於ける意味
NKZ1-115-9 の自由である。併し是に於て次の如き問題が起つてくるであらう。自己の性質に従うて働くのが自由
NKZ1-115-10 であるといふならば、万物皆自己の性質に従つて働かぬ者はない、水の流れるのも火の燃えるのも皆
NKZ1-115-11 自己の性質に従ふのである。然るに何故に他を必然として、独り意志のみ自由となすのであるか。
NKZ1-115-12  所謂自然界に於ては、或一つの現象の起るのは其事情に由りて厳密に定められて居る。或定まつた
NKZ1-115-13 事情よりは、或定まつた一の現象を生ずるのみであつて、毫釐も他の可能性を許さない。自然現象は
NKZ1-115-14 皆かくの如き盲目的必然の法則に従うて生ずるのである。然るに意識現象は単に生ずるのではなくし
NKZ1-115-15 て、意識されたる現象である。即ち生ずるのみならず、生じたことを自知して居るのである。而して
NKZ1-116-1 この知るといひ意識するといふことは即ち他の可能性を含むといふことである。我々が取ることを意
NKZ1-116-2 識するといふことは其裏面に取らぬといふ可能性を含むといふの意味である。更に詳言すれば、意識
NKZ1-116-3 には必ず一般的性質の者がある、即ち意識は理想的要素をもつて居る。これでなければ意識ではない。
NKZ1-116-4 而して此等の性質があるといふことは、現実のかゝる出来事の外更に他の可能性を有して居るといふ
NKZ1-116-5 のである。現実にして而も理想を含み、理想的にして而も現実を離れぬといふのが意識の特性である。
NKZ1-116-6 真実に云へば、意識は決して他より支配される者ではない、常に他を支配して居るのである。故に我
NKZ1-116-7 我の行為は必然の法則に由りて生じたるにせよ、我々は之を知るが故にこの行為の中に窘束せられて
NKZ1-116-8 居らぬ。意識の根柢たる理想の方より見れば、此現実は理想の特殊なる一例にすぎない。即ち理想が
NKZ1-116-9 己自身を実現する一過程にすぎない。其行為は外より来たのではなく、内より出でたるのである。又
NKZ1-116-10 斯の如く現実を理想の一例にすぎないと見るから、他にいくらも可能性を含むこととなるのである。
NKZ1-116-11  それで意識の自由といふのは、自然の法則を破つて偶然的に働くから自由であるのではない、反つ
NKZ1-116-12 て自己の自然に従ふが故に自由である。理由なくして働くから自由であるのではない、能く理由を知
NKZ1-116-13 るが故に自由であるのである。我々は知識の進むと共に益々自由の人となることができる。人は他よ
NKZ1-116-14 り制せられ壓せられてもこれを知るが故に、此抑壓以外に脱して居るのである。更に進んでよくその
NKZ1-116-15 已むを得ざる所以を自得すれば、抑壓が反つて自己の自由となる。ソクラテースを毒殺せしアゼンス
NKZ1-117-1 人よりも、ソクラテースの方が自由の人である。パスカルも、人は葦の如き弱き者である、併し人は
NKZ1-117-2 考へる葦である、全世界が彼を滅さんとするも彼は彼が死することを、自知するが故に殺す者より尚
NKZ1-117-3 しといつて居る。

NKZ1-117-4 意識の根柢たる理想的要素、換言すれば統一作用なる者は、嘗て実在の編に論じた様に、自然の
NKZ1-117-5 産物ではなくして、反つて自然は此統一に由りて成立するのである。こは実に実在の根本たる無限
NKZ1-117-6 の力であつて、之を数量的に限定することはできない。全然自然の必然的法則以外に存する者であ
NKZ1-117-7 る。我々の意志は此力の発現なるが故に自由である、自然的法則の支配は受けない。


NKZ1-117-8    

第四章 価値的研究


NKZ1-117-9  凡て現象或は出来事を見るに二つの点よりすることができる。一は如何にして起つたか、又何故に
NKZ1-117-10 かくあらざるべからざるかの原因もしくは理由の考究であり、一は何の為に起つたかといふ目的の考
NKZ1-117-11 究である。例へば此処に一個の花ありとせよ。こは如何にして出来たかといへば、植物と外囲の事情
NKZ1-117-12 とにより、物理及化学の法則に因りて生じたものであるといはねばならず、何の為かといへば果実を
NKZ1-117-13 結ふ為であるといふこととなる。前者は単に物の成立の法則を研究する理論的研究であつて、後者は
NKZ1-118-1 物の活動の法則を研究する実践的研究である。
NKZ1-118-2  所謂無機界の現象にては、何故に起つたかといふ事はあるが、何の為といふことはない、即ち目的
NKZ1-118-3 がないといはねばならぬ。但此場合でも目的と原因とが同一となつて居るといふ事ができる。例へば
NKZ1-118-4 玉突台の上に於て玉を或力を以て或方向に突けば、必ず一定の方向に向つて転るが、此時玉に何等の
NKZ1-118-5 目的があるのではない。或は之を突いた人には何か目的があるかも知れぬが、之は玉其者の内面的目
NKZ1-118-6 的でない、玉は外界の原因よりして必然的に動かされるのである。併し又一方より考へれば、玉其物
NKZ1-118-7 に斯の如き運動の力があればこそ玉は一定の方向に動くのである。玉其物の内面的力より云へば、自
NKZ1-118-8 己を実現する合目的作用とも見ることができる。更に進んで動植物に至ると、自己の内面的目的とい
NKZ1-118-9 ふ者が明になると共に、原因と目的とが区別せらるゝ様になる。動植物に起る現象は物理及化学の必
NKZ1-118-10 然的法則に従うて起ると共に、全然無意義の現象ではない。生物全体の生存及発達を目的とした現象
NKZ1-118-11 である。かゝる現象にありては或原因の結果として起つた者が必ずしも合目的とはいはれない、全体
NKZ1-118-12 の目的と一部の現象とは衝突を来す事がある。そこで我々は如何なる現象が最も目的に合うて居るか、
NKZ1-118-13 現象の価値的研究をせねばならぬやうになる。
NKZ1-118-14  生物の現象ではまだ、其統一的目的なる者が我々人間の外より加へた想像にすぎないとして之を除
NKZ1-118-15 去することもできぬではない。即ち生物の現象は単に若干の力の集合に依りて成れる無意義の結合と
NKZ1-119-1 見做すこともできるのである。独り我々の意識現象に至つては、決してかく見ることはできない、意
NKZ1-119-2 識現象は始より無意義なる要素の結合ではなくして、統一せる一活動である。思惟、想像、意志の作
NKZ1-119-3 用より其統一的活動を除去したならば、此等の現象は消滅するのである。此等の作用に就いては、如
NKZ1-119-4 何にして起るかといふよりも、如何に考へ、如何に想像し、如何に為すべきかを論ずるのが、第一の
NKZ1-119-5 問題である。是に於て論理、審美、倫理の研究が起つて来る。
NKZ1-119-6  或学者の中には存在の法則よりして価値の法則を導き出さうとする人もある。併し我々は単に之よ
NKZ1-119-7 り之が生ずるといふことから、物の価値的判断を導き出すことは出来ぬと思ふ。赤き花はかゝる結果
NKZ1-119-8 を生じ、又は青き花はかゝる結果を生ずといふ原因結果の法則からして、何故に此の花は美にして彼
NKZ1-119-9 の花は醜であるか、何故に一は大なる価値を有し、一は之を有せぬかを説明することはできぬ。此等
NKZ1-119-10 の価値的判断には、之が標準となるべき別の原理がなければならぬ。我々の思惟、想像、意志といふ
NKZ1-119-11 如き者も、已に事実として起つた上は、いかに誤つた思惟でも、悪しき意志でも、又拙劣なる想像で
NKZ1-119-12 も、尽くそれぞれ相当の原因に因つて起るのである。人を殺すといふ意志も、人を助くるの意志も皆
NKZ1-119-13 或必然の原因ありて起り、又必然の結果を生ずるのである。此点に於ては両者少しも優劣がない。唯
NKZ1-119-14 此処に良心の要求とか、又は生活の欲望といふ如き標準があつて、始めて此両行為の間に大なる優劣
NKZ1-119-15 の差異を生ずるのである。或論者は大なる快楽を与ふる者が大なる価値を有するものであるといふ様
NKZ1-120-1 に説明して、之に由りて原因結果の法則より価値の法則を導き得た様に考へて居る。併し何故に或結
NKZ1-120-2 果が我々に快楽を与へ、或結果が我々に快楽を与へぬか、こは単に因果の法則より説明はできまい。
NKZ1-120-3 我々が如何なるものを好み、如何なるものを悪むかは、別に根拠を有する直接経験の事実である。心
NKZ1-120-4 理学者は我々の生活力を増進する者は快楽であるといふ、併し生活力を増進するのが何故に快楽であ
NKZ1-120-5 るか、厭世家は反つて生活が苦痛の源であるとも考へて居るではないか。又或論者は有力なる者が価
NKZ1-120-6 値ある者であると考へて居る。併し人心に対し如何なる者が最も有力であるか、物質的に有力なる者
NKZ1-120-7 が必ずしも人心に対して有力なる者とは云へまい、人心に対して有力なる者は最も我々の欲望を動か
NKZ1-120-8 す者、即ち我々に対して価値ある者である。有力に由りて価値が定まるのではない、反つて価値に由
NKZ1-120-9 りて有力と否とが定まるのである。凡て我々の欲望又は要求なる者は説明しうべからざる、与へられ
NKZ1-120-10 たる事実である。我々は生きる為に食ふといふ、併しこの生きる為といふのは後より加へたる説明で
NKZ1-120-11 ある。我々の食慾はかゝる理由より起つたのではない。小児が始めて乳をのむのもかゝる理由の為で
NKZ1-120-12 はない、唯飲む為に飲むのである。我々の欲望或は要求は啻にかくの如き説明しうべからざる直接経
NKZ1-120-13 験の事実であるのみならず、反つて我々が之に由つて実在の真意を理解する秘鑰である。実在の完全
NKZ1-120-14 なる説明は、単に如何にして存在するかの説明のみではなく何の為に存在するかを説明せねばならぬ。


NKZ1-121-1    

第五章 倫理学の諸説 其一


NKZ1-121-2  已に価値的研究とは如何なる者なるかを論じたので、之より善とは如何なるものであるかの問題に
NKZ1-121-3 移ることとせう。我々は上にいつた様に我々の行為に就いて価値的判断を下す、此価値的判断の標準
NKZ1-121-4 は那辺にあるか、如何なる行為が善であつて、如何なる行為が悪であるか、此等の倫理学的問題を論
NKZ1-121-5 ぜうと思ふのである。かゝる倫理学の問題は我々に取りて最も大切なる問題である。いかなる人も此
NKZ1-121-6 問題を疎外することはできぬ。東洋に於ても又西洋に於ても、倫理学は最も古き学問の一であつて、
NKZ1-121-7 従つて古来倫理学に種々の学説があるから、今先づ此学に於ける主なる学派の大綱をあげ且つ之に批
NKZ1-121-8 評を加へて、余が執らんとする倫理学説の立脚地を明かにせうと思ふ。
NKZ1-121-9 古来の倫理学説を大別すると、大体二つに別れる。一つは他律的倫理学説といふので、善悪の標準
NKZ1-121-10 を人性以外の権力に置かうとする者と、一つは自律的倫理学説といつて、此標準を人性の中に求めよ
NKZ1-121-11 うとするのである。外に尚直覚説といふのがある、此説の中には色々あつて、或者は他律的倫理学説
NKZ1-121-12 の中に入ることができるが、或者は自律的倫理学説の中に入らねばならぬものである。今先づ直覚説
NKZ1-121-13 より始めて順次他に及ばうと思ふ。
NKZ1-122-1  此学説の中には種々あるが、其綱領とする所は我々の行為を律すべき道徳の法則は直覚的に明なる
NKZ1-122-2 者であつて、他に理由があるのではない、如何なる行為が善であり、如何なる行為が悪であるかは、
NKZ1-122-3 火は熱にして、水は冷なるを知るが如く、直覚的に知ることができる、行為の善悪は行為其者の性質
NKZ1-122-4 であつて、説明すべき者でないといふのである。成程我々の日常の経験に就いて考へて見ると、行為
NKZ1-122-5 の善悪を判断するのは、かれこれ理由を考へるのではなく、大抵直覚的に判断するのである。所謂良
NKZ1-122-6 心なる者があつて、恰も眼が物の美醜を判ずるが如く、直に行為の善悪を判ずることができるのであ
NKZ1-122-7 る。直覚説は此事実を根拠とした者で、最も事実に近い学説である。加之、行為の善悪は理由の説明
NKZ1-122-8 を許さぬといふのは、道徳の威厳を保つ上に於て頗る有效である。
NKZ1-122-9  直覚説は簡単であつて実践上有效なるにも拘らず、之を倫理学説として如何程の価値があるであら
NKZ1-122-10 うか。直覚説に於て直覚的に明であるといふのは、人性の究竟的目的といふ如きものではなくて、行
NKZ1-122-11 為の法則である。勿論直覚説の中にも、凡ての行為の善悪が個々の場合に於て直覚的に明であるとい
NKZ1-122-12 ふのと、個々の道徳的判断を総括する根本的道徳法が直覚的に明瞭であるといふのと二つあるが、孰
NKZ1-122-13 れにしても或直接自明なる行為の法則があるといふのが直覚説の生命である。併し我々が日常行為に
NKZ1-122-14 就いて下す所の道徳的判断、即ち所謂良心の命令といふ如き者の中に、果して直覚論者のいふ如き直
NKZ1-122-15 接自明で、従つて正確で矛盾のない道徳法なる者を見出しうるであらうか。先づ個々の場合に就いて
NKZ1-123-1 見るに、決してかくの如き明確なる判断のないことは明である。我々は個々の場合に於て善悪の判断
NKZ1-123-2 に迷ふこともあり、今は是と考へることも後には非と考へることもあり、又同一の場合でも、人に由
NKZ1-123-3 りて大に善悪の判断を異にすることもある。個々の場合に於て明確なる道徳的判断があるなどとは少
NKZ1-123-4 しく反省的精神を有する者の到底考へることができないことである。然らば一般の場合に於ては如何
NKZ1-123-5 ん、果して論者のいふ如き自明の原則なる者があるであらうか。第一に所謂直覚論者が自明の原則と
NKZ1-123-6 して掲げて居る所の者が人に由りて異なり決して常に一致することなきことが、一般に認めらるべき
NKZ1-123-7 程の自明の原則なる者がないことを証明して居る。加之、世人が自明の義務として承認して居るもの
NKZ1-123-8 の中より、一もかゝる原則を見出すことはできぬ。忠孝といふ如きことは固より当然の義務であるが、
NKZ1-123-9 其間には種々衝突もあり、変遷もあり、さていかにするのが真の忠孝であるか、決して明瞭ではない。
NKZ1-123-10 又智勇仁義の意義に就いて考へて見ても、いかなる智いかなる勇が真の智勇であるか、凡ての智勇が
NKZ1-123-11 善とはいはれない、智勇が反つて悪の為に用ゐられることもある。仁と義とは其内で最も自明の原則
NKZ1-123-12 に近いのであるが、仁はいつ如何なる場合に於ても、絶対的に善であるとはいはれない、不当の仁は
NKZ1-123-13 反つて悪結果を生ずることもある。又正義といつても如何なる者が真の正義であるか、決して自明と
NKZ1-123-14 はいはれない、例へば人を待遇するにしても、如何にするのが正当であるか、単に各人の平等といふ
NKZ1-123-15 ことが正義でもない、反つて各人の価値に由るが正義である。然るに若し各人の価値に由るとするな
NKZ1-124-1 らば、之を定むる者は何であるか。要するに我々は我々の道徳的判断に於て、一も直覚論者のいふ如
NKZ1-124-2 き自明の原則をもつて居らぬ。時に自明の原則と思はれるものは、何等の内容なき単に同意義なる語
NKZ1-124-3 を繰返せる命題にすぎないのである。
NKZ1-124-4  右に論じた如く、直覚説はその主張する如き、善悪の直覚を証明することができないとすれば、学
NKZ1-124-5 説としては甚だ価値少きものであるが、今仮に斯かる直覚があるものとして、之に由りて与へられた
NKZ1-124-6 る法則に従ふのが善であるとしたならば、直覚説は如何なる倫理学説となるであらうかを考へて見よ
NKZ1-124-7 う。純粋に直覚といへば、論者のいふ如く理性に由りて説明することができない、又苦楽の感情、好
NKZ1-124-8 悪の欲求に関係のない、全く直接にして無意義の意識といはねばならぬ。若しかくの如き直覚に従ふ
NKZ1-124-9 のが善であるとすれば、善とは我々に取りて無意義の者であつて、我々が善に従ふのは単に盲従であ
NKZ1-124-10 る、即ち道徳の法則は人性に対して外より与へられたる抑壓となり、直覚説は他律的倫理学と同一と
NKZ1-124-11 ならねばならぬ。然るに多くの直覚論者は右の如き意味に於ける直覚を主張して居らぬ。或者は直覚
NKZ1-124-12 を理性と同一視して居る、即ち道徳の根本的法則が理性に由りて自明なる者と考へて居る。併しかく
NKZ1-124-13 云へば善とは理に従ふ事であつて、善悪の区別は直覚に由つて明なるのではなく、理に由りて説明し
NKZ1-124-14 うることとなる。又或直覚論者は直覚と直接の快不快、又は好悪といふことを同一視して居る。併し
NKZ1-124-15 かく考へれば善は一種の快楽又は満足を与ふるが故に善であるので、即ち善悪の標準は快楽又は満足
NKZ1-125-1 の大小といふことに移つて来る。かくの如く直覚なる語の意味に由つて、直覚説は他の種々なる倫理
NKZ1-125-2 学説と接近する。勿論純粋なる直覚説といへば、全く無意義の直覚を意味するのでなければならぬの
NKZ1-125-3 であるが、斯の如き倫理学説は他律的倫理学と同じく、何故に我々は善に従はねばならぬかを説明す
NKZ1-125-4 ることはできぬ。道徳の本は全く偶然にして無意味の者となる。元来我々が実際に道徳的直覚といつ
NKZ1-125-5 て居る者の中には種々の原理を含んで居るのである。其中全く他の権威より来る他律的の者もあれば、
NKZ1-125-6 理性より来れる者又感情及欲求より来れる者をも含んで居る。是所謂自明の原則なる者が種々の矛盾
NKZ1-125-7 衝突に陥る所以である。かゝる混雑せる原理を以て学説を設立する能はざることま明である。


NKZ1-125-8    

第六章 倫理学の諸説 其二


NKZ1-125-9 前に直覚説の不完全なることを論じ、且つ直覚の意義に由りて、種々相異なれる学説に変じうるこ
NKZ1-125-10 とをのべた。今純粋なる他律的倫理学、即ち権力説に就いて述べようと思ふ。此派の論者は、我々が
NKZ1-125-11 道徳的善といつて居る者が、一面に於て自己の快楽或は満足といふ如き人性の要求と趣を異にし、厳
NKZ1-125-12 粛な命令の意味を有する辺に着目し、道徳は吾人に対し絶大なる威厳又は勢力を有する者の命令より
NKZ1-125-13 起つてくるので、我々が道徳の法則に従ふのは自己の利害得失の為ではなく、単に此の絶大なる権力
NKZ1-126-1 の命令に従ふのである、善と悪とは一に此の如き権力者の命令に由つて定まると考へて居る。凡て我
NKZ1-126-2 我の道徳的判断の本は師父の教訓、法律、制度、習慣等に由りて養成せられたる者であるから、かゝ
NKZ1-126-3 る倫理学説の起るのも無理ならぬことであつて、此説は丁度前の直覚説に於ける良心の命令に代ふる
NKZ1-126-4 に外界の権威を以てした者である。
NKZ1-126-5  此種の学説に於て外界の権力者と考へられる者は、勿論自ら我々に対して絶大の威厳勢力をもつた
NKZ1-126-6 者でなければならぬ。倫理学史上に現はれたる権力説の中では、君主を本としたる君権的権力説と、
NKZ1-126-7 神を本としたる神権的権力説との二種がある。神権的倫理学は基督教が無上の勢力をもつて居た中世
NKZ1-126-8 時代に行はれたので、ドゥンス・スコトゥスなどが其主張者である。氏に従へば神は我々に対し無限
NKZ1-126-9 の勢力を有するものであつて、而も神意は全く自由である。神は善なる故に命ずるのでもなく、又理
NKZ1-126-10 の為に為すのでもない、神は全く此等の束縛以外に超越して居る。善なるが故に神之を命ずるのでは
NKZ1-126-11 なく、神之を命ずるが故に善なるのである。氏は極端にまで此説を推論して、若し神が我々に命ずる
NKZ1-126-12 に殺戮を以てしたならば、殺戮も善となるであらうとまでにいつた。又君権的権力説を主張したのは
NKZ1-126-13 近世の始に出た英国のホップスといふ人である。氏に従へば人性は全然悪であつて弱肉強食が自然の
NKZ1-126-14 状態である。之より来る人生の不幸を脱するのは、唯各人が凡ての権力を一君主に托して絶対にその
NKZ1-126-15 命令に服従するにある。それで何でもこの君主の命に従ふのが善であり、之に背くのが悪であるとい
NKZ1-127-1 つて居る。其他支那に於て荀子が凡て先王の道に従ふのが善であるといつたのも、一種の権力説であ
NKZ1-127-2 る。
NKZ1-127-3  右の権力説の立場より厳密に論じたならば、如何なる結論に達するであらうか。権力説に於ては何
NKZ1-127-4 故に我々は善をなさねばならぬかの説明ができぬ、否説明のできぬのが権力説の本意である。我々は
NKZ1-127-5 唯権威であるから之に従ふのである。何か或理由の為に之に従ふならば、已に権威其者の為に従ふの
NKZ1-127-6 ではなく、理由の為に従ふこととなる。或人は恐怖といふことが権威に従ふ為の最適当なる動機であ
NKZ1-127-7 るといふ、併し恐怖といふことの裏面には自己の利害得失といふことを含んで居る。併し若し自己の
NKZ1-127-8 利害の為に従ふならば已に権威の為に従ふのではない。ホップスの如きは之が為に純粋なる権威説の
NKZ1-127-9 立脚地を離れて居る。又近頃最も面白く権威説を説明したキルヒマンの説に由ると、我々は何でも絶
NKZ1-127-10 大なる勢力を有するもの、例へば高山、大海の如き者に接する時は、自ら其絶大なる力に打たれて驚
NKZ1-127-11 動の情を生ずる、此情は恐怖でもなく、苦痛でもなく、自己が外界の雄大なる事物に擒にせられ、之
NKZ1-127-12 に平服し没入するの状態である。而して此絶大なる勢力者が若し意志をもつた者であるならば、自ら
NKZ1-127-13 此処に尊敬の念を生ぜねばならぬ、即ち此者の命令には尊敬の念を以て服従する様になる、それで尊
NKZ1-127-14 敬の念といふことが、権威に従ふ動機であるといつて居る。併し能く考へて見ると、我々が他を尊敬
NKZ1-127-15 するといふのは、全然故なくして尊敬するのではない、我々は我々の達する能はざる理想を実現し得
NKZ1-128-1 たる人なるが故に尊敬するのである。単に人其者を尊敬するのではなく理想を尊敬するのである。禽
NKZ1-128-2 獣には釈迦も孔子も半文銭の価値もないのである。それで厳密なる権力説では道徳は全く盲目的服従
NKZ1-128-3 でなければならぬ。恐怖といふも、尊敬といふも、全く何等の意義のない盲目的感情でなければなら
NKZ1-128-4 ぬ。エソップの寓話の中に、或時鹿の子が母鹿の犬の声に怖れて逃げるのを見て、お母さんは大きな
NKZ1-128-5 体をして何故に小さい犬の声に駭いて逃げるのであるかと問うた。所が母鹿は何故かは知らぬが、唯
NKZ1-128-6 犬の声が無暗にこわいから逃げるのだといつたといふ話がある。かくの如き無意義の恐怖が権力説に
NKZ1-128-7 於て最も適当なる道徳的動機であると考へる。果してかゝる者であるならば、道徳と知識とは全く正
NKZ1-128-8 反対であつて、無知なる者が最も善人である。人間が進歩発達するには一日も早く道徳の束縛を脱せ
NKZ1-128-9 ねばならぬといふことになる。又いかなる善行でも権威の命令に従ふといふ考なく、自分がその為さ
NKZ1-128-10 ざるべからざる所以を自得して為したことは道徳的善行でないといふこととなる。
NKZ1-128-11  権威説よりはかくの如く道徳的動機を説明することができぬばかりでなく、所謂道徳法といふもの
NKZ1-128-12 も殆ど無意義となり、従つて善悪の区別も全く標準がなくなつてくる。我々は唯権威なる故に盲目的
NKZ1-128-13 に之に服従するといふならば、権威には種々の権威がある。暴力的権威もあれば、高尚なる精神的権
NKZ1-128-14 威もある。併し孰れに従ふのも権威に従ふのであるから、斉しく一であるといはねばならぬ。即ち善
NKZ1-128-15 悪の標準は全く立たなくなる。勿論力の強弱大小といふのが標準となる様に思はれるが、力の強弱大
NKZ1-129-1 小といふことも、何か我々が理想とする所の者が定まつて、始めて之を論じ得るのである。耶蘇とナ
NKZ1-129-2 ポレオンとは孰れが強いか、そは我々の理想の定め様に由るのである。若し単に世界に存在する力を
NKZ1-129-3 もつて居る者が有力であるといふならば、腕力をもつた者が最も有力といふことにもなる。
NKZ1-129-4  西行法師が「何事のおはしますかは知らねどもかたじけなさになみだこぼるる」と詠じた様に、道
NKZ1-129-5 徳の威厳は実に其不測の辺に存するのである。権威説の此点に着目したのは一方の真理を含んでは居
NKZ1-129-6 るが、之が為に全然人性自然の要求を忘却したのは、其大なる欠点である。道徳は人性自然の上に根
NKZ1-129-7 拠をもつた者で、何故に善をなさねばならぬかといふことは人性の内より説明されねばならぬ。


NKZ1-129-8    

第七章 倫理学の諸説 其三


NKZ1-129-9  他律的倫理学では、上にいつた様に、どうしても何故に我々は善を為さねばならぬかを説明するこ
NKZ1-129-10 とができぬ。善は全く無意義の者となるのである。そこで我々は道徳の本を人性の中に求めねばなら
NKZ1-129-11 ぬ様になつてくる。善は如何なる者であるか、何故に善を為さねばならぬかの問題を、人性より説明
NKZ1-129-12 せねばならぬ様になつてくる。かくの如き倫理学を自律的倫理学といふ。これには三種あつて、一つ
NKZ1-129-13 は理性を本とする者で合理説又は主知説といひ、一つは苦楽の感情を本とする者で快楽説といひ、又
NKZ1-130-1 一つは意志の活動を本とする者で活動説といふ。今先づ合理説より話さう。
NKZ1-130-2  合理的若しくは主知的倫理学dianoetic ethicsといふのは、道徳上の善悪正邪といふことと知識上
NKZ1-130-3 の真偽といふこととを同一視して居る。物の真相が即ち善である、物の真相を知れば自ら何を為さね
NKZ1-130-4 ばならぬかが明となる、我々の義務は幾何学的真理の如く演繹しうる者であると考へて居る。それで
NKZ1-130-5 我々は何故に善を為さねばならぬかといへば、真理なるが故であるといふのである。我々人間は理性
NKZ1-130-6 を具して居つて、知識に於て理に従はねばならぬ様に、実行に於ても理に従はねばならぬのである
NKZ1-130-7 (ちよつと注意しておくが、理といふ語には哲学上色々の意味があるが、此処に理といふのは普通の
NKZ1-130-8 意味に於ける抽象的概念の関係をいふのである)。此説は一方に於てはホッブスなどの様に、道徳法
NKZ1-130-9 は君主の意志に由りて左右し得る随意的の者であるといふに反し、道徳法は物の性質であつて、永久
NKZ1-130-10 不変なることを主張し、又一方では、善悪の本を知覚又は感情の如き感受性に求むる時は、道徳法の
NKZ1-130-11 一般性を説明することができず、義務の威厳を滅却し、各人の好尚を以て唯一の標準とせねばならぬ
NKZ1-130-12 様になるのを恐れて、理の一般性に基づいて、道徳法の一般性を説明し義務の威厳を立せんとしたの
NKZ1-130-13 である。此説は往々前にいつた直覚説と混同せらるゝことが多いが、直覚といふことは必ずしも理性
NKZ1-130-14 の直覚と限るには及ばぬ。この二者は二つに分つて考へた方がよいと思ふ。
NKZ1-130-15  余は合理説の最醇なる者はクラークの説であると考へる。氏の考に依れば、凡て人事界に於ける物
NKZ1-131-1 の関係は数理の如く明確なる者で、之に由りて自ら物の適当不適当を知ることができるといふ。例へ
NKZ1-131-2 ば神は我々より無限に優秀なる者であるから、我々は之に服従せねばならぬとか、他人が己に施して
NKZ1-131-3 不正なる事は自分が他人に為しても不正であるといふ様な訳である。氏は又何故に人間は善を為さね
NKZ1-131-4 ばならぬかを論じて、合理的動物は理に従はざるべからずといつて居る。時としては、正義に反して
NKZ1-131-5 働かんとする者は物の性質を変ぜんと欲するが如き者であるとまでにいつて、全く「ある」といふこ
NKZ1-131-6 とと「あらねばならぬ」といふことを混同して居る。
NKZ1-131-7  合理説が道徳法の一般性を明にし、義務を厳粛ならしめんとするは可なれども、之を以て道徳の全
NKZ1-131-8 豹を説き得たるものとなすことはできぬ。論者のいふ様に、我々の行為を指導する道徳法なる者が、
NKZ1-131-9 形式的理解力によりて先天的に知りうる者であらうか。純粋なる形式的理解力は論理学の所謂思想の
NKZ1-131-10 三法則といふ如き、単に形式的理解の法則を与ふることはできるが、何等の内容を与ふることはでき
NKZ1-131-11 ぬ。論者は好んで例を幾何学に取るが、幾何学に於ても、其公理なる者は単に形式的理解力に由りて、
NKZ1-131-12 明になつたのではなく、空間の性質より来るのである。幾何学の演繹的推理は空間の性質に就いての
NKZ1-131-13 根本的直覚に、論理法を応用したものである。倫理学に於ても、已に根本原理が明となつた上は之を
NKZ1-131-14 応用するには、論理の法則に由らねばならぬのであらうが、この原則其者は論理の法則に由つて明に
NKZ1-131-15 なつたのではない。例へば汝の隣人を愛せよといふ道徳法は単に理解力に由りて明であるであらうか。
NKZ1-132-1 我々に他愛の性質もあれば、又自愛の性質もある。然るに何故に其一が優つて居て他が劣つて居るの
NKZ1-132-2 であらうか、之を定むる者は理解力ではなくして、我々の感情又は欲求である。我々は単に知識上に
NKZ1-132-3 物の真相を知り得たりとしても、之より何が善であるかを知ることはできぬ。斯くあるといふことよ
NKZ1-132-4 り、かくあらねばならぬといふことを知ることはできぬ。クラークは物の真相より適不適を知ること
NKZ1-132-5 ができるといふが、適不適といふことは已に純粋なる知識上の判断ではなくして、価値的判断である。
NKZ1-132-6 何か求むる所の者があつて、然る後適不適の判断が起つてくるのである。
NKZ1-132-7  次に論者は何故に我々は善を為さねばならぬかといふことを説明して、理性的動物なるが故に理に
NKZ1-132-8 従はねばならぬといふ。理を解する者は知識上に於て理に従はねばならぬのは当然である。併し単に
NKZ1-132-9 論理的判断といふ者と意志の選択とは別物である。論理の判断は必ずしも意志の原因とはならぬ。意
NKZ1-132-10 志は感情又は衝動より起るもので、単に抽象的論理より起るものではない。己の欲せざる所人に施す
NKZ1-132-11 勿れといふ格言も、若し同情といふ動機がなかつたならば、我々に対して殆ど無意義である。若し抽
NKZ1-132-12 象的論理が直に意志の動機となり得るものならば、最も推理に長じた人は即ち最善の人といはねばな
NKZ1-132-13 らぬ。然るに事実は時に之に反して知ある人よりも反つて無知なる人が一層善人であることは誰も否
NKZ1-132-14 定することはできない。

NKZ1-132-15 曩には合理説の代表者としてクラークをあげたが、クラークは此説の理論的方面の代表者であつ
NKZ1-133-1 て、実行的方面を代表する者は所謂犬儒学派であらう。此派はソクラテースが善と知とを同一視す
NKZ1-133-2 るに基づき、凡ての情慾快楽を悪となし、之に打克つて純理に従ふのを唯一の善となした、而も其
NKZ1-133-3 所謂理なる者は単に情慾に反するのみにて、何等の内容なき消極的の理である。道徳の目的は単に
NKZ1-133-4 情慾快楽に克ちて精神の自由を保つといふことのみであつた。有名なるディオゲネスの如きが其好
NKZ1-133-5 模範である。其学派の後又ストア学派なる者があつて、同一の主義を唱道した。ストア学派に従へ
NKZ1-133-6 ば、宇宙は唯一の理に由りて支配せらるゝ者で、人間の本質も此理性の外にいでぬ、理に従ふのは
NKZ1-133-7 即ち自然の法則に従ふのであつて、之が人間に於て唯一の善である、生命、健康、財産も善ではな
NKZ1-133-8 く、貧苦、病死も悪ではない、唯内心の自由と平静とが最上の善であると考へた。其結果犬儒学派
NKZ1-133-9 と同じく、凡ての情慾を排斥して単に無慾apathieたらんことを務むる様になつた。エピクテート
NKZ1-133-10 の如きは其好例である。
NKZ1-133-11 右の学派の如く、全然情慾に反対する純理を以て人性の自的となす時には、理論上に於ても何等
NKZ1-133-12 の道徳的動機を与ふることができぬ様に、実行上に於ても何等の積極的善の内容を与ふることはで
NKZ1-133-13 きぬ。シニックスやストアがいつた様に、単に情慾に打克つといふことが唯一の善と考ふるより
NKZ1-133-14 外はない。併し我々が情慾に打克たねばならぬといふのは、更に何か大なる目的の求むべき者があ
NKZ1-133-15 る故である。単に情慾を制する為に制するのが善であるといへば、これより不合理なることはある
NKZ1-134-1 まい。


NKZ1-134-2    

第八章 倫理学の諸説 其四


NKZ1-134-3  合理説は他律的倫理学に比すれば更に一歩をすゝめて、人性自然の中より善を説明せんとする者で
NKZ1-134-4 ある。併し単に形式的理性を本としては、前にいつた様に、到底何故に善をなさゞるべからざるかの
NKZ1-134-5 根本的問題を説明することはできぬ。そこで我々が深く自己の中に反省して見ると、意志は凡て苦楽
NKZ1-134-6 の感情より生ずるので、快を求め不快を避けるといふのが人情の自然で動かすべからざる事実である。
NKZ1-134-7 我々が表面上全く快楽の為にせざる行為、たとへば身を殺して仁をなすといふ如き場合にても、其裏
NKZ1-134-8 面に就いて探つて見ると、やはり一種の快楽を求めて居るのである。意志の目的は畢竟快楽の外にな
NKZ1-134-9 く、我々が快楽を以て人生の目的となすといふことは更に説明を要しない自明の真理である。それで
NKZ1-134-10 快楽を以て人性唯一の目的となし、道徳的善悪の区別をも此原理に由りて説明せんとする倫理学説の
NKZ1-134-11 起るのは自然の勢である。之を快楽説といふ。この快楽説には二種あつて、一つを利己的快楽説とい
NKZ1-134-12 ひ、他を公衆的快楽説といふ。
NKZ1-134-13  利己的快楽説とは自己の快楽を以て人生唯一の目的となし、我々が他人の為にするといふ場合に於
NKZ1-135-1 ても、其実は自己の快楽を求めて居るのであると考へ、最大なる自己の快楽が最大の善であるとなす
NKZ1-135-2 のである。此説の完全なる代表者は希臘に於けるキレーネ学派とエピクロースとである。アリスチッ
NKZ1-135-3 ポスは肉体的快楽の外に精神的快楽のあることは許したが、快楽はいかなる快楽でも凡て同一の快楽
NKZ1-135-4 である、唯大なる快楽が善であると考へた。而して氏は凡て積極的快楽を尚び、又一生の快楽よりも
NKZ1-135-5 寧ろ瞬間の快楽を重んじたので、最も純粋なる快楽説の代表者といはねばならぬ。エピクロースは
NKZ1-135-6 やはり凡ての快楽を以て同一となし、快楽が唯一の善で、如何なる快楽も苦痛の結果を生ぜざる以上
NKZ1-135-7 は、排斥すべきものにあらずと考へたが、氏は瞬間の快楽よりも一生の快楽を苦しとし、積極的快楽
NKZ1-135-8 よりも寧ろ消極的快楽、即ち苦悩なき状態を尚んだ。氏の最大の善といふのは心の平和 tranqulity
NKZ1-135-9 of mind といふことである。併し氏の根本主義は何処までも利己的快楽説であつて、希臘人の所謂四
NKZ1-135-10 つの主徳、睿知、節制、勇気、正義といふ如き者も自己の侠楽の手段として必要であるのである。正
NKZ1-135-11 義といふことも、正義其者が価値あるのではなく、各人相犯さずして幸福を享ける手段として必要な
NKZ1-135-12 のである。此主義は氏の社会的生活に関する意見に於て最も明である。社会は自己の利益を得る為に
NKZ1-135-13 必要なのである。国家は単に個人の安全を謀る為に存在するのである。若し社会的煩累を避けて而も
NKZ1-135-14 充分なる安全を得ることができるならば、こは大に望むべき所である。氏の主義は寧ろ隠遁主義λαθε
NKZ1-135-15 βιωσαsである。氏は之に由りて、なるべく家族生活をも避 けんとした。
NKZ1-136-1  次に公衆的快楽説、即ち所謂功利教に就いて述べよう。此説は根本的主義に於ては全く前説と同一
NKZ1-136-2 であるが、唯個人の快楽を以て最上の善となさず、社会公衆の快楽を以て最上の善となす点に於て前
NKZ1-136-3 説と異なつて居る。此説の完全なる代表者はべンザムである。氏に従へば人生の目的は快楽であつて、
NKZ1-136-4 善は快楽の外にない。而していかなる快楽も同一であつて、快楽には種類の差別はない(留針押しの
NKZ1-136-5 遊の快楽も高尚なる詩歌の快楽も同一である)、唯大小の数量的差異あるのみである。我々の行為の
NKZ1-136-6 価値は直覚論者のいふ様に其者に価値があるのではなく、全く之より生ずる結果に由りて定まるので
NKZ1-136-7 ある。即ち大なる快楽を生ずる行為が善行である。而して如何なる行為が最も大なる善行であるかと
NKZ1-136-8 いへば、氏は個人の最大幸福よりも多人数の最大幸福が快楽説の原則よりして道理上一層大なる快楽
NKZ1-136-9 と考へねばならぬから、最大多数の最大幸福といふのが最上の善であるといつて居る。又ベンザムは
NKZ1-136-10 此快楽説に由りて、行為の価値を定むる科学的方法をも論じて居る。氏に従へば、快楽の価値は大抵
NKZ1-136-11 数量的に定め得る者であつて、例へば強度、長短、確実、不確実等の標準に由りて快楽の計算ができ
NKZ1-136-12 ると考へたのである。氏の説は快楽説として実に能く辻褄の合つた者であるが、唯一つ何故に個人の
NKZ1-136-13 最大快楽ではなくて、最大多数の最大幸福が最上の善でなければならぬかの説明が明瞭でない。快楽
NKZ1-136-14 には之を感ずる主観がなければなるまい。感ずる者があればこそ快楽があるのである。而して此感ず
NKZ1-136-15 る主といふのはいつでも個人でなければならぬ。然らば快楽説の原則よりして何故に個人の快楽より
NKZ1-137-1 も多人数の快楽が上に置かれねばならぬのであるか。人間には同情といふものがあるから己独り楽む
NKZ1-137-2 よりは、人と共に楽んだ方が一層大なる快楽であるかも知れない、ミルなどは此点に注目して居る。
NKZ1-137-3 併し此場合に於ても、此同情より来る快楽は他人の快楽ではなく、自分の快楽である。やはり自己の
NKZ1-137-4 快楽が唯一の標準であるのである。若し自己の快楽と他人の快楽と相衝突した場合は如何。快楽説の
NKZ1-137-5 立脚地よりしては、それでも自己の快楽をすてゝ他人の快楽を求めねばならぬといふことができるで
NKZ1-137-6 あらうか。エピクロースの様に利己主義となるのが、反つて快楽説の必然なる結果であらう。ベンザ
NKZ1-137-7 ムもミルも極力自己の快楽と他人の快楽とが一致するものであると論じて居るが、かゝる事は到底、
NKZ1-137-8 経験的事実の上に於て証明はできまいと思ふ。
NKZ1-137-9  これまで一通り快楽説の主なる点をのべたので、之より其批評に移らう。先づ快楽説の根本的仮定
NKZ1-137-10 たる快楽は人生唯一の目的であるといふことを承認した処で、果して快楽説に由りて充分なる行為の
NKZ1-137-11 規範を与ふることができるであらうか。厳密なる快楽説の立脚地より見れば、快楽は如何なる快楽で
NKZ1-137-12 も皆同種であつて、唯大小の数量的差異あるのみでなければならぬ。若し快楽に色々の性質的差別が
NKZ1-137-13 あつて、之に由りて価値が異なるものであるとするならば、快楽の外に別に価値を定むる原則を許
NKZ1-137-14 さねばならぬこととなる。即ち快楽が行為の価値を定むる唯一の原則であるといふ主義と衝突する。
NKZ1-137-15 ベンザムの後を受けたるミルは快楽に色々性質上の差別あることを許し、二種の快楽の優劣は、此二
NKZ1-138-1 種を同じく経験し得る人は容易に之を定めうると考へて居る。例へば豕となりて満足するよりはソク
NKZ1-138-2 ラテースとなつて不満足なるととは誰も望む所である。而して此等の差別は人間の品位の sense of
NKZ1-138-3 dignity より来るものと考へて居る。併しミルの如き考は明に快楽説の立脚地を離れたもので、快楽
NKZ1-138-4 説よりいへば一の快楽が他の快楽より小なるに関せず、他の快楽よりも尚き者であるといふ事は許さ
NKZ1-138-5 れない。さらばエピクロース、ベンザム諸氏の如く純粋に快楽は同一であつて唯数量的に異なるもの
NKZ1-138-6 として、如何にして快楽の数量的関係を定め、之に由りて行為の価値を定めることができるであらう
NKZ1-138-7 か。アリスチッポスやエピクロースは単に知識に由りて弁別ができるといつて居るだけで、明瞭なる
NKZ1-138-8 標準を与へては居らぬ。独りベンザムは上にいつた様に此標準を詳論して居る。併し快楽の感情なる
NKZ1-138-9 者は一人の人に於ても、時と場合とに由りて非常に変化し易い物である、一の快楽より他の快楽が強
NKZ1-138-10 度に於て勝るかは頗る明瞭でない。更に如何程の強度が如何程の継続に相当するかを定むるのは極め
NKZ1-138-11 て困雑である。一人の人に於てすら斯く快楽の尺度を定むるのは困難であつて見れば公衆的快楽説の
NKZ1-138-12 様に他人の快楽をも計算して快楽の大小を定めんとするのは尚更困難である。普通には凡て肉体の快
NKZ1-138-13 楽より精神の快楽が上であると考へられ、富より名誉が大切で、己一人の快楽より多人数の快楽が尚
NKZ1-138-14 いなどと、伝説的に快楽の価値が定まつて居る様であるが、かゝる標準は種々なる方面の観察よりで
NKZ1-138-15 きたもので、決して単純なる快楽の大小より定まつたものとは思はれない。
NKZ1-139-1  右は快楽説の根本的原理を正しきものとして論じたのであるが、かくして見ても、快楽説に由りて
NKZ1-139-2 我々の行為の価値を定むべき正確なる規範を得ることは頗る困難である。今一歩を進めて此説の根本
NKZ1-139-3 的原理に就いて考究して見よう。凡て人は快楽を希望し、快楽が人生唯一の目的であるとは此説の根
NKZ1-139-4 本的仮定であつて、又すべての人のいふ所であるが、少しく考へて見ると、その決して真理でないこ
NKZ1-139-5 とが明である。人間には利己的快楽の外に、高尚なる他愛的又は理想的の欲求のあることは許さねば
NKZ1-139-6 なるまい。たとへば己の慾を抑へても、愛する者に与へたいとか、自己の身を失つても理想を実行せ
NKZ1-139-7 ねばならぬといふ様な考は誰の胸裡にも多少は潜み居るのである。時あつて此等の動機が非常なる力
NKZ1-139-8 を現はし来り、人をして思はず悲惨なる犠牲的行為を敢てせしむることも少くない。快楽論者のいふ
NKZ1-139-9 様に人間が全然自己の快楽を求めて居るといふのは頗る穿ち得たる真理の様であるが、反つて事実に
NKZ1-139-10 遠ざかつたものである。勿論快楽論者も此等の事実を認めないのではないが、人間が此等の欲望を有
NKZ1-139-11 し之が為に犠牲的行為を敢てするのも、つまり自己の欲望を満足せんとするので、裏面より見ればや
NKZ1-139-12 はり自己の快楽を求むるにすぎないと考へて居るのである。併しいかなる人も又いかなる場合でも欲
NKZ1-139-13 求の満足を求めて居るといふことは事実であるが、欲求の満足を求むる者が即ち快楽を求むる者であ
NKZ1-139-14 るとはいはれない。いかに苦痛多き理想でも之を実行し得た時には、必ず満足の感情を伴ふのである。
NKZ1-139-15 而してこの感情は一種の快楽には相違ないが、之が為に此快感が始より行為の目的であつたとはいは
NKZ1-140-1 れまい。かくの如き満足の快感なる者が起るには、先づ我々に自然の欲求といふ者がなければならぬ。
NKZ1-140-2 此欲求があればこそ、之を実行して満足の快楽を生ずるのである。然るに此快感あるが為に、欲求は
NKZ1-140-3 凡て快楽を目的として居るといふのは、原因と結果とを混同したものである。我々人間には先天的に
NKZ1-140-4 他愛の本能がある。之あるが故に、他を愛するといふことは我々に無限の満足を与ふるのである。併
NKZ1-140-5 し之が為に自己の快楽の為に他を愛したのだとはいはれない。毫釐にても自己の快楽の為にするとい
NKZ1-140-6 ふ考があつたならば、決して他愛より来る満足の感情をうることができないのである。啻に他愛の欲
NKZ1-140-7 求ばかりではなく、全く自愛的欲求といはれて居る者も単に快楽を目的として居る者はない。たとへ
NKZ1-140-8 ば食色の慾も快楽を目的とするといふよりは、反つて一種先天的本能の必然に駆られて起るものであ
NKZ1-140-9 る。飢ゑたる者は反つて食慾のあるを悲み、失恋の人は反つて愛情あるを怨むであらう。人間若し快
NKZ1-140-10 楽が唯一の目的であるならば、人生程矛盾に富んだ者はなからう。寧ろ凡て人間の欲求を断ち去つた
NKZ1-140-11 方が反つて快楽を求むるの途である。エピクロースが凡ての慾を脱したる状態、即ち心の平静を以て
NKZ1-140-12 最上の快楽となし、反つて正反対の原理より出立したストイックの理想と一致したのも此故である。
NKZ1-140-13  併し或快楽論者では、我々が今日快楽を目的としない自然の欲求であると思うて居る者でも、個人
NKZ1-140-14 の一生又は生物進化の経過に於て、習慣に由りて第二の天性となつたので、元は意識的に快楽を求め
NKZ1-140-15 た者が無意識となつたのであると論じて居る。即ち快楽を目的とせざる自然の欲求といふのは、つま
NKZ1-141-1 り快楽を得る手段であつたのが、習慣に由つて目的其者となつたといふのである(ミルなどは之に就
NKZ1-141-2 いてよく金銭の例を引いて居る)。成程我々の欲求の中には此の如き心理的作用に由つて第二の天性
NKZ1-141-3 となつた者もあるであらう。併し快楽を目的とせざる欲求は尽くかゝる過程に由りて生じたものとは
NKZ1-141-4 いはれない。我々の精神は其身体と同じく生れながらにして活動的である。種々の本能をもつて居る。
NKZ1-141-5 鶏の子が生れながら籾を拾ひ、鶩の子が生れながら水に入るのも同理である。此等の本能と称すべき
NKZ1-141-6 者が果して遺伝に由つて、元来意識的であつた者が無意識的習慣となつたのであらうか。今日の生物
NKZ1-141-7 進化の説に由れば、生物の本能は決してかゝる過程に由つて出来たものではない。元来生物の卵に於
NKZ1-141-8 て具有した能力であつて、事情に適する者が生存して遂に一種特有なる本能を発揮するに至つたので
NKZ1-141-9 ある。
NKZ1-141-10  上来論じ来つた様に、快楽説は合理説に比すれば一層人性の自然に近づきたる者であるが、此説に
NKZ1-141-11 由れば善悪の判別は単に苦楽の感情に由りて定めらるゝこととなり、正確なる客観的標準を与ふるこ
NKZ1-141-12 とができず、且つ道徳的善の命令的要素を説明することはできない。加之、快楽を以て人生の唯一の
NKZ1-141-13 目的となすのは未だ真に人性自然の事実に合つたものといはれない。我々は決して快楽に由りて満足
NKZ1-141-14 することはできない。若し単に快楽のみを目的とする人があつたならば反つて人性に悖つた人である。


NKZ1-142-1    

第九章 善(活動説)


NKZ1-142-2  已に善に就いての種々の見解を論じ且つ其不充分なる点を指摘したので、自ら善の真正なる見解は
NKZ1-142-3 如何なるものであるかが明になつたと思ふ。我々の意志が目的とせなければならない善、即ち我々の
NKZ1-142-4 行為の価値を定むべき規範は何処に之を求めねばならぬか。嘗て価値的判断の本を論じた所にいつた
NKZ1-142-5 様に、此判断の本は是非之を意識の直接経験に求めねばならぬ。善とは唯意識の内面的要求より説明
NKZ1-142-6 すべき者であつて外より説明すべき者でない。単に事物は斯くある又は斯くして起つたといふことよ
NKZ1-142-7 り、斯くあらねばならぬといふことを説明することはできぬ。真理の標準もつまる所は意識の内面的
NKZ1-142-8 必然にあつて、アウグスチヌスやデカートの如き最も根本に立ち返つて考へた人は皆此処より出立し
NKZ1-142-9 た様に、善の根本的標準も亦此処に求めねばならぬ。然るに他律的倫理学の如きは善悪の標準を外に
NKZ1-142-10 求めようとして居る。かくしては到底善の何故に為さゞるべからざるかを説明することはできぬ。合
NKZ1-142-11 理説が意識の内面的作用の一である理性より善悪の価値を定めようとするのは、他律的倫理学説に比
NKZ1-142-12 して一歩を進めた者といふことはできるが、理は意志の価値を定むべきものではない。ヘフディング
NKZ1-142-13 が意識は意志の活動を以て始まり又之を以て終るといつた様に、意志は抽象的理解の作用よりも根本
NKZ1-143-1 的事実である。後者が前者を起すのではなく、反つて前者が後者を支配するのである。然らば快楽説
NKZ1-143-2 は如何、感情と意志とは殆ど同一現象の強度の差異といつてもよい位であるが、前にいつた様に快楽
NKZ1-143-3 は寧ろ意識の先天的要求の満足より起る者で、所謂衝動、本能といふ如き先天的要求が快不快の感情
NKZ1-143-4 よりも根本的であるといはねばならぬ。
NKZ1-143-5  それで善は何であるかの説明は意志其者の性質に求めねばならぬことは明である。意志は意識の根
NKZ1-143-6 本的統一作用であつて、直に又実在の根本たる統一力の発現である。意志は他の為の活動ではなく、
NKZ1-143-7 己自らの為の活動である。意志の価値を定むる根本は意志其者の中に求むるより外はないのである。
NKZ1-143-8 意志活動の性質は、嚮に行為の性質を論じた時にいつた様に、其根柢には先天的要求(意識の素因)
NKZ1-143-9 なる者があつて、意識の上には目的観念として現はれ、之によりて意識の統一するにあるのである。
NKZ1-143-10 此統一が完成せられた時、即ち理想が実現せられた時我々に満足の感情を生じ、之に反した時は不満
NKZ1-143-11 足の感情を生ずるのである。行為の価値を定むる者は一に此意志の根本たる先天的要求にあるので、
NKZ1-143-12 能く此要求即ち吾人の理想を実現し得た時には其行為は善として賞讃せられ、之に反した時は悪とし
NKZ1-143-13 て非難せられるのである。そこで善とは我々の内面的要求即ち理想の実現換言すれば意志の発展完成
NKZ1-143-14 であるといふこととなる。斯の如き根本的理想に基づく倫理学説を活動説 energetism といふ。

NKZ1-143-15   此説はプラトー、アリストテレースに始まる。特にアリストテレースは之に基づいて一つの倫理
NKZ1-144-1 を組織したのである。氏に従へば人生の目的は幸福 eudaimonia である。併し之に達するには快楽
NKZ1-144-2 を求むるに由るにあらずして、完全なる活動に由るのである。

NKZ1-144-3  世の所謂道徳家なる者は多くこの活動的方面を見逃して居る。義務とか法則とかいつて、徒らに自
NKZ1-144-4 己の要求を抑壓し活動を束縛するのを以て善の本性と心得て居る。勿論不完全なる我々はとかく活動
NKZ1-144-5 の真意義を解せず岐路に陥る場合が多いのであるから、かゝる傾向を生じたのも無理ならぬことであ
NKZ1-144-6 るが、一層大なる要求を挙援すべき者があつてこそ、小なる要求を抑制する必要が起るのである、徒ら
NKZ1-144-7 に要求を抑制するのは反つて善の本性に悖つたものである。善には命令的威厳の性質をも具へて居ら
NKZ1-144-8 ねばならぬが、之よりも自然的好楽といふのが一層必要なる性質である。所謂道徳の義務とか法則と
NKZ1-144-9 かいふのは、義務或は法則其者に価値があるのではなく、反つて大なる要求に基づいて起るのである。
NKZ1-144-10 此点より見て善と幸福とは相衝突せぬばかりでなく、反つてアリストテレースのいつた様に善は幸福
NKZ1-144-11 であるといふことができる。我々が自己の要求を充す又は理想を実現するといふことは、いつでも幸
NKZ1-144-12 福である。善の裏面には必ず幸福の感情を伴ふの要がある。唯快楽説のいふ様に意志は快楽の感情を
NKZ1-144-13 目的とする者で、快楽が即ち善であるとはいはれない。快楽と幸福とは似て非なる者である。幸福は
NKZ1-144-14 満足に由りて得ることができ、満足は理想的要求の実現に起るのである。孔子が飯疏食、飲水、曲肱而
NKZ1-144-15 枕之、楽亦在其中矣といはれた様に、我々は場合に由りては苦痛の中に居ても尚幸福を保つことがで
NKZ1-145-1 きるのである。真正の幸福は反つて厳粛なる理想の実現に由りて得らるべき者である。世人は往々自
NKZ1-145-2 己の理想の実現又は要求の満足などいへば利己主義又は我侭主義と同一視して居る。併し最も深き自
NKZ1-145-3 己の内面的要求の声は我々に取りて大なる威力を有し、人生に於て之より厳なるものはないのである。
NKZ1-145-4  さて善とは理想の実現、要求の満足であるとすれば、この要求といひ理想といふ者は何から起つて
NKZ1-145-5 くるので、善とは如何なる性質の者であるか。意志は意識の最深なる統一作用であつて即ち自己其者
NKZ1-145-6 の活動であるから、意志の原因となる本来の要求或は理想は要するに自己其者の性質より起るのであ
NKZ1-145-7 る、即ち自己の力であるといつてもよいのである。我々の意識は思惟、想像に於ても意志に於ても又
NKZ1-145-8 所謂知覚、感情、衝動に於ても皆其根柢には内面的統一なる者が働いて居るので、意識現象は凡て此
NKZ1-145-9 一なる者の発展完成である。而してこの全体を統一する最深なる統一力が我々の所謂自己であつて、
NKZ1-145-10 意志は最も能く此力を発表したものである。かく考へて見れば意志の発展完成は直に自己の発展完成
NKZ1-145-11 となるので、善とは自己の発展完成 self-realization であるといふことができる。即ち我々の精神が
NKZ1-145-12 種々の能力を発展し円満なる発達を遂げるのが最上の善である(アリストテレースの所謂 entelechie
NKZ1-145-13 が善である)。竹は竹、松は松と各自其天賦を充分に発揮するやうに、人間が人間の天性自然を発揮
NKZ1-145-14 するのが人間の善である。スピノーザも徳とは自己固有の性質に従うて働くの謂に外ならずといつた。
NKZ1-145-15  是に於て善の概念は美の概念と近接してくる。美とは物が理想の如くに実現する場合に感ぜらるゝ
NKZ1-146-1 のである。理想の如く実現するといふのは物が自然の本性を発揮する謂である。それで花が花の本性
NKZ1-146-2 を現んじたる時最も美なるが如く、人間が人間の本性を現んじた時は美の頂上に達するのである。善
NKZ1-146-3 は即ち美である。たとひ行為其者は大なる人性の要求から見て何等の価値なき者であつても、其行為
NKZ1-146-4 が真に其人の天性より出でたる自然の行為であつた時には一種の美感を惹く様に、道徳上に於ても一
NKZ1-146-5 種寛容の情を生ずるのである。希臘人は善と美とを同一視して居る。此考は最も能くプラトーに於て
NKZ1-146-6 現はれて居る。
NKZ1-146-7  又一方より見れば善の概念は実在の概念とも一致してくる。嘗て論じた様に、一の者の発展完成と
NKZ1-146-8 いふのが凡て実在成立の根本的形式であつて、精神も自然も宇宙も皆此形式に於て成立して居る。し
NKZ1-146-9 て見れば、今自己の発展完成であるといふ善とは自己の実在の法則に従ふの謂である。即ち自己の真
NKZ1-146-10 実在と一致するのが最上の善といふことになる。そこで道徳の法則は実在の法則の中に含まるゝ様に
NKZ1-146-11 なり、善とは自己の実在の真性より説明ができることとなる。所謂価値的判断の本である内面的要求
NKZ1-146-12 と実在の統一力とは一つであつて二つあるのではない。存在と価値とを分けて考へるのは、知識の対
NKZ1-146-13 象と情意の対象とを分つ抽象的作用よりくるので、具体的真実在に於ては此両者は元来一であるので
NKZ1-146-14 ある。乃ち善を求め善に遷るといふのは、つまり自己の真を知ることとなる。合理論者が真と善とを
NKZ1-146-15 同一にしたのも一面の真理を含んで居る。併し抽象的知識と善とは必ずしも一致しない。此場合に於
NKZ1-147-1 ける知るとは所謂体得の意味でなければならぬ。此等の考は希臘に於てプラトー又印度に於てウパニ
NKZ1-147-2 シャッドの根本的思想であつて、善に対する最深の思想であると思ふ(プラトーでは善の理想が実在
NKZ1-147-3 の根本である、又中世哲学に於ても「すべての実在は善なり」omne ens est bonum といふ句がある)。


NKZ1-147-4    

第十章 人格的善


NKZ1-147-5 前には先づ善とは如何なる者でなければならぬかを論じ、善の一般の概念を与へたのであるが、之
NKZ1-147-6 より我々人間の善とは如何なる者であるかを考究し、之が特徴を明にせうと思ふ。我々の意識は決し
NKZ1-147-7 て単純なる一の活動ではなく、種々なる活動の綜合であることは誰にも明なる事実である。して見る
NKZ1-147-8 と、我々の要求なる者も決して単純ではない、種々なる要求のあるのが当然である。然らば此等の種
NKZ1-147-9 種なる要求の中で、孰れの要求を充すのが最上の善であるか。我々の自己全体の善とは如何なる者で
NKZ1-147-10 あるかの問題が起つてくる。
NKZ1-147-11  我々の意識現象には一つも孤独なる者がない、必ず他と関係の上に於て成立するのである。一瞬の
NKZ1-147-12 意識でも已に単純でない、其中に複雑なる要素を含んで居る。而して此等の要素は互に独立せるもの
NKZ1-147-13 ではなくして、彼此関係上に於て一種の意味をもつた者である。啻に一時の意識が斯の如く組織せら
NKZ1-148-1 れてあるのみではなく、一生の意識も亦斯の如き一体系である。自己とは此全体の統一に名づけたの
NKZ1-148-2 である。
NKZ1-148-3  して見ると、我々の要求といふのも決して孤独に起るものではない。必ず他との関係上に於て生じ
NKZ1-148-4 てくるのである。我々の善とは或一種又は一時の要求のみを満足するの謂でなく、或一つの要求は唯
NKZ1-148-5 全体との関係上に於て始めて善となることは明である。例へば身体の善は其一局部の健康でなくして、
NKZ1-148-6 全身の健全なる関係にあると同一である。それで活動説より見て、善とは先づ種々なる活動の一致調
NKZ1-148-7 和或は中庸といふこととならねばならぬ。我々の良心とは調和統一の意識作用といふこととなる。

NKZ1-148-8  調和が善であるといふのはプラトーの考であつた。氏は善を音楽の調和に喩へてをる。英のシヤ
NKZ1-148-9 フツベリなども此考を取つて居る。又中庸が善であるといふのはアリストテレースの説であつて、
NKZ1-148-10 東洋に於ては中庸の書にも現はれて居る。アリストテレースは凡て徳は中庸にあるとなし、例へば
NKZ1-148-11 勇気は粗暴と怯弱との中庸で、節倹は吝嗇と浪費との中庸であるといつた。能く子思の考に似て居
NKZ1-148-12 る。又進化論の倫理学者スペンサーの如きが、善は種々なる能力の平均であるといつて居るのも、
NKZ1-148-13 つまり同一の意味である。

NKZ1-148-14  併し、単に調和であるとか中庸であるとかいつたのでは未だ意味が明瞭でない。調和とは如何なる
NKZ1-148-15 意味に於ての調和であるか、中庸とは如何なる意味に於ての中庸であるか。意識は同列なる活動の集
NKZ1-149-1 合ではなくして統一せられたる一体系である。其調和又は中庸といふことは、数量的の意味ではなく
NKZ1-149-2 して体系的秩序の意味でなければならぬ。然らば我々の精神の種々なる活動に於ける固有の秩序は如
NKZ1-149-3 何なるものであるか。我々の精神も其低き程度に於ては動物の精神と同じく単に本能活動である。即
NKZ1-149-4 ち目前の対象に対して衝動的に働くので、全く肉慾に由りて動かされるのである。併し意識現象はい
NKZ1-149-5 かに単純であつても必ず観念の要求を具へて居る。それで意識活動がいかに本能的といつても、其背
NKZ1-149-6 後に観念活動が潜んで居らねばならぬ(動物でも高等なる者は必ずさうであらうと思ふ)。いかなる
NKZ1-149-7 人間でも白痴の如き者にあらざる以上は、決して純粋に肉体的欲望を以て満足する者ではない、必ず
NKZ1-149-8 其心の底には観念的欲望が働いて居る。即ちいかなる人も何等かの理想を抱いて居る。守銭奴の利を
NKZ1-149-9 貪るのも一層の理想より来るのである。つまり人間は肉体の上に於て生存して居るのではなく、観念
NKZ1-149-10 の上に於て生命を有して居るのである。ゲーテの菫といふ詩に、野の菫が少き牧女に蹈まれながら愛
NKZ1-149-11 の満足を得たといふ様なことがある。これが凡ての人間の真情であると思ふ。そこで観念活動といふ
NKZ1-149-12 のは精神の根本的作用であつて、我々の意識は之に由りて支配せらるべき者である。即ち之より起る
NKZ1-149-13 要求を満足するのが我々の真の善であるといはねばならぬ。然らば更に一歩を進んで、観念活動の根
NKZ1-149-14 本的法則とは如何なる者であるかといへば、即ち理性の法則といふこととなる。理性の法則といふの
NKZ1-149-15 は観念と観念との間の最も一般的なる且つ最も根本的なる関係を言ひ現はした者で、観念活動を支配
NKZ1-150-1 する最上の法則である。そこで又理性といふ者が我々の精神を支配すべき根本的能力で、理性の満足
NKZ1-150-2 が我々の最上の善である。何でも理に従ふのが人間の善であるといふことになる。シニックやスト
NKZ1-150-3 ィックは此考を極端に主張した者で、之が為に凡て人心の他の要求を悪として排斥し、理にのみ従ふ
NKZ1-150-4 のが一の善であるとまでにいつた。併しプラトーの晩年の考やアリストテレースでは理性の活動より
NKZ1-150-5 起るのが最上の善であるが、又之より他の活動を支配し統御するのも善であるといつた。
NKZ1-150-6 プラトーは有名なる「共和国」に於て人心の組織を国家の組織と同一視し、理性に統御せられた
NKZ1-150-7 状態が国家に於ても個人に於ても最上の善と云つて居る。

NKZ1-150-8  若し我々の意識が種々なる能力の綜合より成つて居て、其一が他を支配すべき様に構成せられてあ
NKZ1-150-9 る者ならば、活動説に於ける善とは右にいつた如く理性に従うて他を制御するにあるといはねばなら
NKZ1-150-10 ぬ。併し我々の意識は元来一の活動である。其根柢にはいつでも唯一の力が働いて居る。知覚とか衝
NKZ1-150-11 動とかいふ瞬間的意識活動にも已に此力が現はれて居る。更に進んで思惟、想像、意志といふ如き意
NKZ1-150-12 識的活動に至れば、此力が一層深遠なる形に於て現はれてくる。我々が理性に従ふといふのも、つま
NKZ1-150-13 り此深遠なる統一力に従ふの意に外ならない。然らずして抽象的に考へた単に理性といふものは、嘗
NKZ1-150-14 て合理説を評した処に述べたやうに、何等の内容なき形式的関係を与ふるにすぎないのである。此意
NKZ1-150-15 識の統一力なる者は決して意識の内容を離れて存するのではない、反つて意識内容は此力に由つて成
NKZ1-151-1 立するものである。勿論意識の内容を個々に分析して考ふる時は、此統一力を見出すことはできぬ。
NKZ1-151-2 併し其綜合の上に厳然として動かすべからざる一事実として現はれるのである。例へば画面に現はれ
NKZ1-151-3 たる一種の理想、音楽に現はれたる一種の感情の如き者で、分析理解すべき者ではなく、直覚自得す
NKZ1-151-4 べき者である。而して斯の如き統一力を此処に各人の人格と名づくるならば、善は斯の如き人格即ち
NKZ1-151-5 統一力の維持発展にあるのである。
NKZ1-151-6  爰に所謂人格の力とは単に動植物の生活力といふ如き自然的物力をさすのではない。又本能といふ
NKZ1-151-7 如き無意識の能力をさすのでもない。本能作用とは有機作用より起る一種の物力である。人格とは之
NKZ1-151-8 に反し意識の統一力である。併しかくいへばとて、人格とは各人の表面的意識の中心として極めて主
NKZ1-151-9 観的なる種々の希望の如き者をいふのではない。此等の希望は幾分か其人の人格を現はす者であらう
NKZ1-151-10 が、反つて此等の希望を没し自己を忘れたる所に真の人格は現はれるのである。さらばとてカントの
NKZ1-151-11 いつた様な全く経験的内容を離れ、各人に一般なる純理の作用といふ如き者でもない。人格は其人其
NKZ1-151-12 人に由りて特殊の意味をもつた者でなければならぬ。真の意識統一といふのは我我を知らずして自然
NKZ1-151-13 に現はれ来る純一無雑の作用であつて、知情意の分別なく主客の隔離なく独立自全なる意識本来の状
NKZ1-151-14 態である。我々の真人格は此の如き時に其全体を現はすのである。故に人格は単に理性にあらず欲望
NKZ1-151-15 にあらず況んや無意識衝動にあらず、恰も天才の神来の如く各人の内より直接に自発的に活動する無
NKZ1-152-1 限の統一力である(古人も道は知、不知に属せずといつた)。而して嘗て実在の論に述べた様に意識
NKZ1-152-2 現象が唯一の実在であるとすれば、我々の人格とは直に宇宙統一力の発動である。即ち物心の別を打
NKZ1-152-3 破せる唯一実在が事情に応じ或特殊なる形に於て現はれたものである。
NKZ1-152-4 我々の善とは斯の如き偉大なる力の実現であるから、其要求は極めて厳粛である。カントも我々
NKZ1-152-5 が常に無限の歎美と畏敬とを以て見る者が二つある、一は上にかゝる星斗爛漫なる天と、一は心内
NKZ1-152-6 に於ける道徳的法則であるといつた。


NKZ1-152-7    

第十一章 善行為の動機(善の形式)


NKZ1-152-8  上来論じた所を総括していへば、善とは自己の内面的要求を満足する者をいふので、自己の最大な
NKZ1-152-9 る要求とは意識の根本的統一力即ち人格の要求であるから、之を満足する事即ち人格の実現といふの
NKZ1-152-10 が我々に取りて絶対的善である。而して此人格の要求とは意識の統一力であると共に実在の根柢に於
NKZ1-152-11 ける無限なる統一力の発現である、我々の人格を実現するといふは此力に合一するの謂である。善は
NKZ1-152-12 かくの如き者であるとすれば、之より善行為とは如何なる行為であるかを定めることができると思ふ。
NKZ1-152-13  右の考よりして先づ善行為とは凡て人格を目的とした行為であるといふことは明である。人格は凡
NKZ1-153-1 ての価値の根本であつて、宇宙間に於て唯人格のみ絶対的価値をもつて居るのである。我々には固よ
NKZ1-153-2 り種々の要求がある、肉体的欲求もあれば精神的欲求もある、従つて富、力、知識、芸術等種々貴ぶ
NKZ1-153-3 べき者があるに相違ない。併しいかに強大なる要求でも高尚なる要求でも、人格の要求を離れては何
NKZ1-153-4 等の価値を有しない、唯人格的要求の一部又は手段としてのみ価値を有するのである。富貴、権力、
NKZ1-153-5 健康、技能、学識もそれ自身に於て善なるのではない、若し人格的要求に反した時には反つて悪とな
NKZ1-153-6 る。そこで絶対的善行とは人格の実現其者を目的とした即ち意識統一其者の為に働いた行為でなけれ
NKZ1-153-7 ばならぬ。

NKZ1-153-8  カントに従へば、物は外より其価値を定めらるゝので其価値は相対的であるが、唯我々の意志は
NKZ1-153-9 自ら価値を定むるもので、即ち人格は絶対的価値を有して居る。氏の教は誰も知る如く汝及び他人
NKZ1-153-10 の人格を敬し、目的其者 end in itself として取扱へよ、決して手段として用うる勿れといふこと
NKZ1-153-11 であつた。

NKZ1-153-12  然らば真に人格其者を目的とする善行為とは如何なる行為でなければならぬか。此問に答ふるには
NKZ1-153-13 人格活動の客観的内容を論じ、行為の目的を明にせねばならぬのであるが、先づ善行為に於ける主観
NKZ1-153-14 的性質即ち其動機を論ずることとしよう。善行為とは凡て自己の内面的必然より起る行為でなければ
NKZ1-153-15 ならぬ。曩にもいつた様に、我々の全人格の要求は我々が未だ思慮分別せざる直接経験の状態に於て
NKZ1-154-1 のみ自覚することができる。人格とはかゝる場合に於て心の奥底より現はれ来つて、徐に全心を包容
NKZ1-154-2 する一種の内面的要求の声である。人格其者を目的とする善行とは斯の如き要求に従つた行為でなけ
NKZ1-154-3 ればならぬ。之に背けば自己の人格を否定した者である。至誠とは善行に欠くべからざる要件である。
NKZ1-154-4 キリストも天真爛漫嬰児の如き者のみ天国に入るを得るといはれた。至誠の善なるのは、之より生ず
NKZ1-154-5 る結果の為に善なるのでない、それ自身に於て善なるのである。人を欺くのが悪であるといふは、之
NKZ1-154-6 より起る結果に由るよりも、寧ろ自己を欺き自己の人格を否定するの故である。
NKZ1-154-7  自己の内面的必然とか天真の要求とかいふのは往々誤解を免れない。或人は放縦無頼社会の規律を
NKZ1-154-8 顧みず自己の情慾を検束せぬのが天真であると考へてをる。併し人格の内面的必然即ち至誠といふの
NKZ1-154-9 は知情意合一の上の要求である。知識の判断、人情の要求に反して単に盲目的衝動に従ふの謂ではな
NKZ1-154-10 い。自己の知を尽し情を尽した上に於て始めて真の人格的要求即ち至誠が現はれてくるのである。自
NKZ1-154-11 己の全力を尽しきり、殆ど自己の意識が無くなり、自己が自己を意識せざる所に、始めて真の人格の
NKZ1-154-12 活動を見るのである。試に芸術の作品に就いて見よ。画家の真の人格即ちオリジナリティは如何なる
NKZ1-154-13 場合に現はれるか。画家が意識の上に於て種々の企図をなす間は未だ真に画家の人格を見ることはで
NKZ1-154-14 きない。多年苦心の結果、技芸内に熟して意到り筆自ら随ふ所に至つて始めて之を見ることができる
NKZ1-154-15 のである。道徳上に於ける人格の発現も之と異ならぬのである。人格を発現するのは一時の情慾に従
NKZ1-155-1 ふのではなく、最も厳粛なる内面の要求に従ふのである。放縦懦弱とは正反対であつて、反つて艱難
NKZ1-155-2 辛苦の事業である。
NKZ1-155-3  自己の真摯なる内面的要求に従ふといふこと、即ち自己の真人格を実現するといふことは、客観に
NKZ1-155-4 対して主観を立し、外物を自己に従へるといふ意味ではない。自己の主観的空想を消磨し尽して全然
NKZ1-155-5 物と一致したる処に、反つて自己の真要求を満足し真の自己を見る事ができるのである。一面より見
NKZ1-155-6 れば各自の客観的世界は各自の人格の反影であるといふことができる。否各自の真の自己は各自の前
NKZ1-155-7 に現はれたる独立自全なる実在の体系其者の外にはないのである。それで如何なる人でも、其人の最
NKZ1-155-8 も真摯なる要求はいつでも其人の見る客観的世界の理想と常に一致したものでなければならぬ。例へ
NKZ1-155-9 ばいかに私慾的なる人間であつても、其人に多少の同情といふものがあれば、其人の最大要求は、必
NKZ1-155-10 ず自己の満足を得た上は他人に満足を与へたいといふことであらう。自己の要求といふのは単に肉体
NKZ1-155-11 的慾望とかぎらず理想的要求といふことを含めていふならば、どうしてもかくいはねばならぬ。私慾
NKZ1-155-12 的なればなる程、他人の私慾を害することに少なからざる心中の苦悶を感ずるのである。反つて私慾
NKZ1-155-13 なき人にして甫めて心を安んじて他人の私慾を破ることができるであらうと思ふ。それで自己の最大
NKZ1-155-14 要求を充し自己を実現するといふことは、自己の客観的理想を実現するといふことになる、即ち客観
NKZ1-155-15 と一致するといふことである。この点より見て善行為は必ず愛であるといふことができる。愛といふ
NKZ1-156-1 のは凡て自他一致の感情である。主客合一の感情である。啻に人が人に対する場合のみでなく、画家
NKZ1-156-2 が自然に対する場合も愛である。
NKZ1-156-3 プラトーは有名な「シムポジューム」に於て愛は欠けたる者が元の全き状態に還らんとする情で
NKZ1-156-4 あるといつて居る。

NKZ1-156-5 併し更に一歩を進めて考へて見ると、真の善行といふのは客観を主観に従へるのでもなく、又主観
NKZ1-156-6 が客観に従ふのでもない。主客相没し物我相忘れ天地唯一実在の活動あるのみなるに至つて、甫めて
NKZ1-156-7 善行の極致に達するのである。物が我を動かしたのでもよし、我が物を動かしたのでもよい。雪舟が
NKZ1-156-8 自然を描いたものでもよし、自然が雪舟を通して自己を描いたものでもよい。元来物と我と区別のあ
NKZ1-156-9 るのではない、客観世界は自己の反影といひ得る様に自己は客観世界の反影である。我が見る世界を
NKZ1-156-10 離れて我はない(実在第九精神の章を参看せよ)。天地同根万物一体である。印度の古賢は之を「そ
NKZ1-156-11 れは汝である」Tat twam asi といひ、パウロはもはや余生けるにあらず基督余に在りて生けるなり
NKZ1-156-12 といひ(加拉太書第二章二〇)、孔子は心の欲する所に従うて矩を踰えずといはれたのである。


NKZ1-156-13    

第十二章 善行為の目的(善の内容)


NKZ1-157-1  人格其者を目的とする善行為を説明するに就いて、先づ善行為とは如何なる動機より発する行為で
NKZ1-157-2 なければならぬかを示したが、之より如何なる目的をもつた行為であるかを論じて見よう。善行為と
NKZ1-157-3 いふのも単に意識内面の事にあらず、此事実界に或客観的結果を生ずるのを目的とする動作であるか
NKZ1-157-4 ら、我々は今此の目的の具体的内容を明にせねばならぬ。前に論じたのはいはゞ善の形式で、今論ぜ
NKZ1-157-5 んとするのは善の内容である。
NKZ1-157-6  意識の統一力であつて兼ねて実在の統一力である人格は、先づ我々の個人に於て実現せられる。我
NKZ1-157-7 我の意識の根柢には分析のできない個人性といふものがある。意識活動は凡て皆個人性の発動である。
NKZ1-157-8 各人の知識、感情、意志は尽く其人に特有なる性質を具へて居る。意識現象ばかりでなく、各人の容
NKZ1-157-9 貌、言語、拳動の上にも此個人性が現はれて居る。肖像画の現はさうとするのは実にこの個人性であ
NKZ1-157-10 る。此個人性は、人がこの世に生れると共に活動を始め死に至るまで種々の経験と境遇とに従うて種
NKZ1-157-11 種の発展をなすのである。科学者は之を脳の素質に帰するであらうが、余は屡々いつた様に実在の無
NKZ1-157-12 限なる統一力の発現であると考へる。それで我々は先づ此個人性の実現といふことを目的とせねばな
NKZ1-157-13 らぬ。即ちこれが最も直接なる善である。健康とか知識とかいふものは固より尚ぶべき者である。併
NKZ1-157-14 し健康、知識其者が善ではない。我々は単に之にて満足はできぬ。個人に於て絶対の満足を与へる者
NKZ1-157-15 は自己の個人性の実現である。即ち他人に模倣のできない自家の特色を実行の上に発揮するのである。
NKZ1-158-1 個人性の発揮といふことは其人の天賦境遇の如何に関せず誰にでもできることである。いかなる人間
NKZ1-158-2 でも皆各其顔の異なる様に、他人の模倣のできない一あつて二なき特色をもつて居るのである。而し
NKZ1-158-3 てこの実現は各人に無上の満足を与へ、又宇宙進化の上に欠くべからざる一員とならしむるのである。
NKZ1-158-4 従来世人はあまり個人的善といふことに重きを置いて居らぬ。併し余は個人の善といふことは最も大
NKZ1-158-5 切なるもので、凡て他の善の基礎となるであらうと思ふ。真に偉人とは其事業の偉大なるが為に偉大
NKZ1-158-6 なるのではなく、強大なる個人性を発揮した為である。高い処に登つて呼べば其声は遠い処に達する
NKZ1-158-7 であらうが、そは声が大きいのではない、立つ処が高いからである。余は自己の本分を忘れ徒らに他
NKZ1-158-8 の為に奔走した人よりも、能く自分の本色を発揮した人が偉大であると思ふ。
NKZ1-158-9  併し余が此処に個人的善といふのは私利私慾といふこととは異なつて居る。個人主義と利己主義と
NKZ1-158-10 は厳しく区別しおかねばならぬ。利己主義とは自己の快楽を目的とした、つまり我侭といふことであ
NKZ1-158-11 る。個人主義は之と正反対である。各人が自己の物質慾を恣にするといふ事は反つて個人性を没する
NKZ1-158-12 ことになる。豕が幾匹居ても其間に個人性はない。又人は個人主義と共同主義と相反対する様にいふ
NKZ1-158-13 が、余は此両者は一致するものであると考へる。一社会の中に居る個人が各充分に活動して其天分を
NKZ1-158-14 発揮してこそ、始めて社会が進歩するのである。個人を無視した社会は決して健全なる社会といはれ
NKZ1-158-15 ぬ。

NKZ1-159-1 個人的善に最も必要なる徳は強盛なる意志である。イブセンのブラントの如き者が個人的道徳の
NKZ1-159-2 理想である。之に反し意志の薄弱と虚栄心とは最も嫌ふべき悪である(共に自重の念を失ふより起
NKZ1-159-3 るのである)。又個人に対し最大なる罪を犯したる者は失望の極自殺する者である。

NKZ1-159-4  右にいつた様に真正の個人主義は決して非難すべき者でない、又社会と衝突すべき者でもない。併
NKZ1-159-5 し所謂各人の個人性といふ者は各独立で互に無関係なる実在であらうか。或は又我々個人の本には社
NKZ1-159-6 会的自己なる者があつて、我々の個人はその発現であらうか。若し前者ならば個人的善が我々の最上
NKZ1-159-7 の善でなければならぬ。若し後者ならば我々には一層大なる社会の善があるといはねばならぬ。余は
NKZ1-159-8 アリストテレースが其政治学の始に、人は社会的動物であるといつたのは動かすべからざる真理であ
NKZ1-159-9 ると思ふ。今日の生理学上から考へて見ると我々の肉体が已に個人的の者ではない。我々の肉体の本
NKZ1-159-10 は祖先の細胞にある。我々は我々の子孫と共に同一細胞の分裂に由りて生じた者である。生物の全種
NKZ1-159-11 属を通じて同一の生物と見ることができる。生物学者は今日生物は死せずといつて居る。意識生活に
NKZ1-159-12 就いて見てもその通である。人間が共同生活を営む処には必ず各人の意識を統一する社会的意識なる
NKZ1-159-13 者がある。言語、風俗、習慣、制度、法律、宗教、文学等は凡て此社会的意識の現象である。我々の
NKZ1-159-14 個人的意識は此中に発生し此中に養成せられた者で、この大なる意識を構成する一細胞にすぎない。
NKZ1-159-15 知識も道徳も趣味も凡て社会的意義をもつて居る。最も普遍的なる学問すらも社会的因襲を脱しない
NKZ1-160-1 (今日各国に学風といふものがあるのは之が為である)。所謂個人の特性といふ者は此社会的意識な
NKZ1-160-2 る基礎の上に現はれ来る多様なる変化にすぎない、いかに奇抜なる天才でもこの社会的意識の範囲を
NKZ1-160-3 脱することはできぬ。反つて社会的意識の深大なる意義を発揮した人である(キリストの猶太教に対
NKZ1-160-4 する関係が其一例である)。真に社会的意識と何等の関係なき者は狂人の意識の如きものにすぎぬ。
NKZ1-160-5  右の如き事実は誰も拒むことはできぬが、さて此共同的意識なる者が個人的意識と同一の意味に於
NKZ1-160-6 て存在する者で、一の人格と見ることができるか否かに至つては種々の異論がある。ヘッフディング
NKZ1-160-7 などは統一的意識の実在を否定し、森は木の集合であつて之を分てば森なる者がない、社会も個人の
NKZ1-160-8 集合で個人の外に社会といふ独立なる存在はないといつて居る(Höffding, Ethik, S. 157)。併し分析
NKZ1-160-9 した上で統一が実在せぬから統一がないとはいはれぬ。個人の意識でも之を分析すれば別に統一的自
NKZ1-160-10 己といふ者は見出されない。併し統一の上に一つの特色があつて、種々の現象は此統一に由つて成立
NKZ1-160-11 する者と見做さねばならぬから、一つの生きた実在と看做すのである。社会的意識も同一の理由に由
NKZ1-160-12 つて一つの生きた実在と見ることができる。社会的意識にも個人的意識と同じ様に中心もある連絡も
NKZ1-160-13 ある立派に一の体系である。唯個人的意識には肉体といふ一つの基礎がある。これは社会的意識と異
NKZ1-160-14 なる点であるが、脳といふ者も決して単純なる物体でない、細胞の集合である。社会が個人といふ細
NKZ1-160-15 胞に由つて成つて居ると違ふ所はない。
NKZ1-161-1  斯く社会的意識なる者があつて我々の個人的意識は其一部であるから、我々の要求の大部分は凡て
NKZ1-161-2 社会的である。若し我々の欲望の中より其他愛的要素を去つたならば、殆ど何物も残らない位である。
NKZ1-161-3 我々の生命慾も主なる原因は他愛にあるを以て見ても明である。我々は自己の満足よりも反つて自己
NKZ1-161-4 の愛する者又は自己の属する社会の満足によりて満足されるのである。元来我々の自己の中心は個体
NKZ1-161-5 の中に限られたる者ではない。母の自己は子の中にあり、忠臣の自己は君主の中にある。自分の人格
NKZ1-161-6 が偉大となるに従うて、自己の要求が社会的となつてくるのである。
NKZ1-161-7  之より少しく社会的善の階級を述べよう。社会的意識に種々の階級がある。其中最小であつて、直
NKZ1-161-8 接なる者は家族である、家族とは我々の人格が社会に発展する最初の階級といはねばならぬ。男女相
NKZ1-161-9 合して一家族を成すの目的は、単に子孫を遺すといふよりも、一層深遠なる精神的(道徳的)目的を
NKZ1-161-10 もつて居る。プラトーの「シムポジューム」の中に、元は男女が一体であつたのが、神に由つて分割
NKZ1-161-11 されたので、今に及んで男女が相慕ふのであるといふ話がある。これは余程面白い考である。人類と
NKZ1-161-12 いふ典型より見たならば、個人的男女は完全なる人でない、男女を合した者が完全なる一人である。
NKZ1-161-13 オットー・ヴァイニンゲルが人間は肉体に於ても精神に於ても男性的要素と女性的要素との結合より
NKZ1-161-14 成つた者である、両性の相愛するのはこの二つの要素が合して完全なる人間となる為であるといつて
NKZ1-161-15 居る。男子の性格が人類の完全なる典型でない様に、女子の性格も完全なる典型ではあるまい。男女
NKZ1-162-1 の両性が相補うて完全なる人格の発展ができるのである。
NKZ1-162-2  併し我々の社会的意識の発達は家族といふ様な小団体の中にかぎられたものではない。我々の精神
NKZ1-162-3 的並に物質的生活は凡てそれぞれの社会的団体に於て発達することができるのである。家族に次いで
NKZ1-162-4 我々の意識活動の全体を統一し、一人格の発現とも看做すべき者は国家である。国家の目的に就いて
NKZ1-162-5 は色々の説がある。或人は国家の本体を主権の威力に置き、其目的は単に外は敵をふせぎ内は国民相
NKZ1-162-6 互の間の生命財産を保護するにあると考へて居る(ショーペンハウエル、テーン、ホッブスなどは之
NKZ1-162-7 に属する)。又或人は国家の本体を個人の上に置き、其目的は単に個人の人格発展の調和にあると考
NKZ1-162-8 へて居る(ルソーなどの説である)。併し国家の真正なる目的は第一の論者のいふ様な物質的で又消
NKZ1-162-9 極的なものでなく、又第二の論者のいふ様に個人の人格が国家の基礎でもない。我々の個人は反つて
NKZ1-162-10 一社会の細胞として発達し来つたものである。国家の本体は我々の精神の根柢である共同的意識の発
NKZ1-162-11 現である。我々は国家に於て人格の大なる発展を遂げることができるのである。国家は統一した一の
NKZ1-162-12 人格であつて、国家の制度法律はかくの如き共同意識の意志の発現である(此説は古代ではプラトー、
NKZ1-162-13 アリストテレース、近代ではヘーゲルの説である)。我々が国家の為に尽すのは偉大なる人格の発展
NKZ1-162-14 完成の為である。又国家が人を罰するのは復讐の為でもなく、又社会安寧の為でもない、人格に犯す
NKZ1-162-15 べからざる威厳がある為である。
NKZ1-163-1 国家は今日の処では統一した共同的意識の最も偉大なる発現であるが、我々の人格的発現は此処に
NKZ1-163-2 止まることはできない、尚一層大なる者を要求する。夫は即ち人類を打して一団とした人類的社会の
NKZ1-163-3 団結である。此の如き理想は已にパウロの基督教に於て又ストイック学派に於て現はれて居る。併し
NKZ1-163-4 此理想は容易に実現はできぬ。今日は尚武装的平和の時代である。
NKZ1-163-5  遠き歴史の初から人類発達の跡をたどつて見ると、国家といふものは人類最終の目的ではない。人
NKZ1-163-6 類の発展には一貫の意味目的があつて、国家は各其一部の使命を充す為に興亡盛衰する者であるらし
NKZ1-163-7 い(万国史はヘーゲルの所謂世界的精神の発展である)。併し真正の世界主義といふは各国家が無く
NKZ1-163-8 なるといふ意味ではない。各国家が益々強固となつて各自の特徴を発揮し、世界の歴史に貢献するの
NKZ1-163-9 意味である。


NKZ1-163-10    

第十三章 完全なる善行


NKZ1-163-11 善とは一言にていへば人格の実現である。之を内より見れば、真摯なる要求の満足、即ち意識統一
NKZ1-163-12 であつて、其極は自他相忘れ、主客相没するといふ所に到らねばならぬ。外に現はれたる事実として
NKZ1-163-13 見れば、小は個人性の発展より、進んで人類一般の統一的発達に到つて其頂点に達するのである。こ
NKZ1-164-1 の両様の見解よりして尚一つ重要なる問題を説明せねばならぬ必要が起つて来る。内に大なる満足を
NKZ1-164-2 与ふる者が必ず又事実に於ても大なる善と称すべき者であらうか。即ち善に対する二様の解釈はいつ
NKZ1-164-3 でも一致するであらうかの問題である。
NKZ1-164-4  余は先づ嘗て述べた実在の論より推論して、此両見解は決して相矛盾衝突することがないと断言す
NKZ1-164-5 る。元来現象に内外の区別はない、主観的意識といふも客観的実在界といふも、同一の現象を異なつ
NKZ1-164-6 た方面より見たので、具体的には唯一つの事実があるだけである。屡々いつた様に世界は自己の意識
NKZ1-164-7 統一に由りて成立するといつてもよし、又自己は実在の或特殊なる小体系といつてもよい。仏教の根
NKZ1-164-8 本的思想である様に、自己と宇宙とは同一の根柢をもつて居る、否直に同一物である。この故に我々
NKZ1-164-9 は自己の心内に於て、知識では無限の真理として、感情では無限の美として、意志では無限の善とし
NKZ1-164-10 て、皆実在無限の意義を感ずることができるのである。我々が実在を知るといふのは、自己の外の物
NKZ1-164-11 を知るのではない、自己自身を知るのである。実在の真善美は直に自己の真善美でなければならぬ。
NKZ1-164-12 然らば何故に此の世の中に偽醜悪があるかの疑が起るであらう。深く考へて見れば世の中に絶対的真
NKZ1-164-13 善美といふ者もなければ、絶対的偽醜悪といふ者もない。偽醜悪はいつも抽象的に物の一面を見て全
NKZ1-164-14 豹を知らず、一方に偏して全体の統一に反する所に現はれるのである(実在第五章に於ていつた様に、
NKZ1-164-15 一面より見れば偽醜悪は実在成立に必要である、所謂対立的原理より生ずるのである)。

NKZ1-165-1 アウグスチヌスに従へば元来世の中に悪といふ者はない、神より造られたる自然は凡て善である、
NKZ1-165-2 唯本質の欠乏が悪である。又神は美しき詩の如くに対立を以て世界を飾つた、影が画の美を増すが
NKZ1-165-3 如く、若し達観する時は世界は罪を持ちながらに美である。

NKZ1-165-4 試に善の事実と善の要求との衝突する場合を考へて見ると二つあるのである。一は或行為が事実と
NKZ1-165-5 しては善であるが其動機は善でないといふのと、一は動機は善であるが事実としては善でないといふ
NKZ1-165-6 のである。先づ第一の場合について考へて見ると、内面的動機が私利私慾であつて、唯外面的事実に
NKZ1-165-7 於て善目的に合うて居るとしても、決してそれが人格実現を目的とする善行といはれまい。我々は時
NKZ1-165-8 にかゝる行為をも賞讃することがあるであらう。併しそは決して道徳の点より見たのでなく、単に利
NKZ1-165-9 益といふ点より見たのである。道徳の点より見れば、かゝる行為はたとひ愚であつても己が至誠を尽
NKZ1-165-10 した者に劣つて居る。或は一個人が己自身を潔うする一人の善行よりも、たとひ純粋なる善動機より
NKZ1-165-11 出でずとするも、多数の人を利する行為の方が勝つて居るといふのでもあらう。併し人を益するとい
NKZ1-165-12 ふにも色々の意味があつて、単に物質上の利益を与ふるといふならば、其利益が善い目的に用ゐらる
NKZ1-165-13 れば善となるが、悪い目的に用ゐらるれば反つて悪を助ける様にもなる。又所謂世道人心を益すると
NKZ1-165-14 いふ真に道徳的裨益の意味でいふならば、その行為が内面的に真の善行でなかつたならばそは単に善
NKZ1-165-15 行を助くる手段であつて、善行其者ではない、たとひ小であつても真の善行其者とは比較はできない
NKZ1-166-1 のである。次に第二の場合に就いて考へて見よう。動機が善くとも、必ずしも事実上善とはいはれな
NKZ1-166-2 いことがある。個人の至誠と人類一般の最上の善とは衝突することがあるとはよく人のいふ所である。
NKZ1-166-3 併しかくいふ人は至誠といふ語を正当に解して居らぬと思ふ。若し至誠といふ語を真に精神全体の最
NKZ1-166-4 深なる要求といふ意味に用ゐたならば、此等の人のいふ所は殆ど事実でないと考へる。我々の真摯な
NKZ1-166-5 る要求は我々の作為したものではない、自然の事実である。真及美に於て人心の根本に一般的要素を
NKZ1-166-6 含む様に、善に於ても一般的要素を含んでをる。ファウストが人世に就いて大煩悶の後、夜深く野の
NKZ1-166-7 散歩より淋しき己が書斎にかへつた時の様に、夜静に心平なるの時、自らこの感情が働いてくるので
NKZ1-166-8 ある(Goethe, Faust, Erster Teil, Studienzimmer)。我々と全く意識の根柢を異にせるものがあつた
NKZ1-166-9 ならば兎に角、凡ての人に共通なる理性を具した人間であるならば、必ず同一に考へ同一に求めねば
NKZ1-166-10 ならぬと思ふ。勿論人類最大の要求が場合に由つては単に可能性に止まつて、現実となつて働かぬこ
NKZ1-166-11 ともあるであらう、併しかゝる場合でも要求がないのではない、蔽はれて居るのである、自己が真の
NKZ1-166-12 自己を知らないのである。
NKZ1-166-13  右に述べた様な理由に由つて、我々の最深なる要求と最大の目的とは自ら一致するものであると考
NKZ1-166-14 へる。我々が内に自己を鍛錬して自己の真体に達すると共に、外自ら人類一味の愛を生じて最上の善
NKZ1-166-15 目的に合ふ様になる、之を完全なる真の善行といふのである。かくの如き完全なる善行は一方より見
NKZ1-167-1 れば極めて難事の様であるが、又一方より見れば誰にもできなければならぬことである。道徳の事は
NKZ1-167-2 自己の外にある者を求むるのではない、唯自己にある者を見出すのである。世人は往々善の本質と其
NKZ1-167-3 外殻とを混ずるから、何か世界的人類的事業でもしなければ最大の善でない様に思つて居る。併し事
NKZ1-167-4 業の種類は其人の能力と境遇とに由つて定まるもので、誰にも同一の事業はできない。併し我々はい
NKZ1-167-5 かに事業が異なつて居ても、同一の精神を以て働くことはできる。いかに小さい事業にしても、常に
NKZ1-167-6 人類一味の愛情より働いて居る人は、偉大なる人類的人格を実現しつゝある人といはねばならぬ。ラ
NKZ1-167-7 ファエルの高尚優美なる性格は聖母に於ても其最も適当なる実現の材料を得たかも知れぬが、ラファ
NKZ1-167-8 エルの性格は啻に聖母に於てのみではなく、彼の描きし凡ての画に於て現はれて居るのである。たと
NKZ1-167-9 ひラファエルとミケランジェロと同一の画題を択んだにしても、ラファエルはラファエルの性格を現
NKZ1-167-10 はしミケランジェロはミケランジェロの性格を現はすのである。美術や道徳の本体は精神にあつて外
NKZ1-167-11 界の事物にないのである。
NKZ1-167-12  終に臨んで一言して置く。善を学問的に説明すれば色々の説明はできるが、実地上真の善とは唯一
NKZ1-167-13 つあるのみである、即ち真の自己を知るといふに尽きて居る。我々の真の自己は宇宙の本体である、
NKZ1-167-14 真の自己を知れば啻に人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合するので
NKZ1-167-15 ある。宗教も道徳も実に此処に尽きて居る。而して真の自己を知り神と合する法は、唯主客合一の力
NKZ1-168-1 を自得するにあるのみである。而して此力を得るのは我々の此偽我を殺し尽して一たび此世の慾より
NKZ1-168-2 死して後蘇るのである(マホメットがいつた様に天国は剣の影にある)。此の如くにして始めて真に
NKZ1-168-3 主客合一の境に到ることができる。これが宗教道徳美術の極意である。基督教では之を再生といひ仏
NKZ1-168-4 教では之を見性といふ。昔ローマ法皇ベネディクト十一世がジョットーに画家として腕を示すべき作
NKZ1-168-5 を見せよといつてやつたら、ジョットーは唯一円形を措いて与へたといふ話がある。我々は道徳上に
NKZ1-168-6 於てこのジョットーの一円形を得ねばならぬ。


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Author: Niels GUELBERG
e-mail: guelberg@waseda.jp
First drafted: 00.12.11
Last updated: 03.05.21