西田幾多郎データべース(c) Niels Guelberg 2000


西田幾多郎[著]:『善の研究』(1911. 01)

西田幾多郎全集・第 1 巻


NKZ1-169-1   

第四編 宗教


NKZ1-169-2    

第一章 宗教的要求


NKZ1-169-3 宗教的要求は自己に対する要求である、自己の生命に就いての要求である。我々の自己がその相対
NKZ1-169-4 的にして有限なることを覚知すると共に、絶対無限の力に合一して之に由りて永遠の真生命を得んと
NKZ1-169-5 欲するの要求である。パウロが既にわれ生けるにあらず基督我にありて生けるなりといつた様に、肉
NKZ1-169-6 的生命の凡てを十字架に釘付け了りて独り神に由りて生きんとするの情である。真正の宗教は自己の
NKZ1-169-7 変換、生命の革新を求めるのである。基督が十字架を取りて我に従はざる者は我に協はざる者なりと
NKZ1-169-8 いつた様に、一点尚自己を信ずるの念ある間は未だ真正の宗教心とはいはれないのである。
NKZ1-169-9  現世利益の為に神に祈る如きはいふに及ばず、徒らに往生を目的として念仏するのも真の宗教心で
NKZ1-169-10 はない。されば歎異妙にも「わが心に往生の業をはげみて申すところの念仏も自行になすなり」とい
NKZ1-169-11 つてある。又基督教に於てもかの単に神助を頼み、神罰を恐れるといふ如きは真の基督教ではない。
NKZ1-170-1 此等は凡て利己心の変形にすぎないのである。加之、余は現時多くの人のいふ如き宗教は自己の安心
NKZ1-170-2 の為であるといふことすら誤つて居るのではないかと思ふ。かゝる考をもつて居るから、進取活動の
NKZ1-170-3 気象を滅却して少慾無憂の消極的生活を以て宗教の真意を得たと心得る様にもなるのである。我々は
NKZ1-170-4 自己の安心の為に宗教を求めるのではない、安心は宗教より来る結果にすぎない。宗教的要求は我々
NKZ1-170-5 の已まんと欲して已む能はざる大なる生命の要求である、厳粛なる意志の要求である。宗教は人間の
NKZ1-170-6 目的其者であつて、決して他の手段とすべき者ではないのである。
NKZ1-170-7  主意説の心理学者のいふ様に、意志は精神の根本的作用であつて、凡ての精神現象が意志の形をな
NKZ1-170-8 して居るとすれば、我々の精神は欲求の体系であつて、此体系の中心となる最も有力なる欲求が我々
NKZ1-170-9 の自己であるといふこととなる。而して此中心より凡てを統一して行くこと即ち自己を維持発展する
NKZ1-170-10 ことが我々の精神的生命である。此統一の進行する間は我々は生きて居るのであるが、若し此統一が
NKZ1-170-11 破れたときには、たとひ肉体に於て生きて居るにもせよ、精神に於ては死せるも同然となるのである。
NKZ1-170-12 然るに我々は個人的欲求を中心として凡てを統一することができるであらうか。即ち、個人的生命は
NKZ1-170-13 何処までも維持発展することのできるものであらうか。世界は個人の為に造られたる者ではなく、又
NKZ1-170-14 個人的欲求が人生最大の欲求でもない。個人的生命は必ず外は世界と衝突し内は自ら矛盾に陥らねば
NKZ1-170-15 ならぬ。是に於て我々は更に大なる生命を求めねばならぬやうになる、即ち、意識中心の推移に由り
NKZ1-171-1 て更に大なる統一を求めねばならぬやうになるのである。かくの如き要求は凡て我々の共同的精神の
NKZ1-171-2 発生の場合に於ても之を見ることができるのであるが、唯宗教的要求はかゝる要求の極点である。我
NKZ1-171-3 我は客観的世界に対して主観的自己を立し之に由りて前者を統一せんとする間は、その主観的自己は
NKZ1-171-4 いかに大なるにもせよ、その統一は未だ相対的たるを免れない、絶対的統一は唯全然主観的統一を棄
NKZ1-171-5 てゝ客観的統一に一致することに由りて得られるのである。
NKZ1-171-6  元来、意識の統一といふのは意識成立の要件であつて、その根本的要求である。統一なき意識は無
NKZ1-171-7 も同然である、意識は内容の対立に由りて成立することができ、その内容が多様なればなる程一方に
NKZ1-171-8 於て大なる統一を要するのである。この統一の極まる所が我々の所謂客観的実在といふもので、此統
NKZ1-171-9 一は主客の合一に至つてその環点に達するのである。客観的実在といふのも主観的意識を離れて別に
NKZ1-171-10 存在するのではない、意識統一の結果、疑はんと欲して疑ふ能はず、求めんと欲してこれ以上に求む
NKZ1-171-11 るの途なきむのをいふのである。而してかくの如き意識統一の頂点即ち主客合一の状態といふのは啻
NKZ1-171-12 に意識の根本的要求であるのみならず又実に意識本来の状態である。コンヂヤックがいつた様に、我
NKZ1-171-13 我が始めて光を見た時には之を見るといふよりも寧ろ我は光其者である。凡て最初の感覚は小児に取
NKZ1-171-14 りては直に宇宙其者でなければならぬ。この境涯に於ては未だ主客の分離なく、物我一体、唯、一事
NKZ1-171-15 実あるのみである。我と物と一なるが故に更に真理の求むべき者なく、欲望の満すべき者もない、人
NKZ1-172-1 は神と共にあり、エデンの花園とはかくの如き者をいふのであらう。然るに意識の分化発展するに従
NKZ1-172-2 ひ主客相対立し、物我相背き、人生是に於て要求あり、苦悩あり、人は神より離れ、楽園は長へにア
NKZ1-172-3 ダムの子孫より鎖されるやうになるのである。併し意識はいかに分化発展するにしても到底主客合一
NKZ1-172-4 の統一より離れることはできぬ、我々は知識に於て意志に於て始終この統一を求めて居るのである。
NKZ1-172-5 意識の分化発展は統一の他面であつてやはり意識成立の要件である。意識の分化発展するのは反つて
NKZ1-172-6 一層大なる統一を求めるのである。統一は実に意識のアルファであり又オメガであるといはねばなら
NKZ1-172-7 ぬ。宗教的要求はかくの如き意味に於ける意識統一の要求であつて、兼ねて宇宙と合一の要求である。
NKZ1-172-8  かくして宗教的要求は人心の最深最大なる要求である。我々は種々の肉体的要求や又精神的要求を
NKZ1-172-9 もつて居る。併しそは皆自己の一部の要求にすぎない、独り宗教は自己其者の解決である。我々は知
NKZ1-172-10 識に於て又意志に於て意識の統一を求め主客の合一を求める、併しこは尚半面の統一にすぎない、宗
NKZ1-172-11 教は此等の統一の背後に於ける最深の統一を求めるのである、知意未分以前の統一を求めるのである。
NKZ1-172-12 我々の凡ての要求は宗教的要求より分化したもので、又その発展の結果之に帰着するといつてよい。
NKZ1-172-13 人智の未だ開けない時は人々反つて宗教的であつて、学問道徳の極致はまた宗教に入らねばならぬや
NKZ1-172-14 うになる。世には往々何故に宗教が必要であるかなど尋ねる人がある。併しかくの如き問は何故に生
NKZ1-172-15 きる必要があるかといふと同一である。宗教は己の生命を離れて存するのではない、その要求は生命
NKZ1-173-1 其者の要求である。かゝる問を発するのは自己の生涯の真面目ならざるを示すものである。真摯に考
NKZ1-173-2 へ真摯に生きんと欲する者は必ず熱烈なる宗教的要求を感ぜずには居られないのである。


NKZ1-173-3     

第二章 宗教の本質


NKZ1-173-4  宗教とは神と人との関係である。神とは種々の考へ方もあるであらうが、之を宇宙の根本と見てお
NKZ1-173-5 くのが最も適当であらうと思ふ、而して人とは我々の個人的意識をさすのである。此両者の関係の考
NKZ1-173-6 へ方に由つて種々の宗教が定まつてくるのである。然らば如何なる関係が真の宗教的関係であらうか。
NKZ1-173-7 若し神と我とは其根柢に於て本質を異にし、神は単に人間以上の偉大なる力といふ如き者とするなら
NKZ1-173-8 ば、我々は之に向つて毫も宗教的動機を見出すことはできぬ。或は之を恐れて其命に従ふこともあら
NKZ1-173-9 う、或は之に媚びて福利を求めることもあらう。併しそは皆利己心より出づるにすぎない、本質を異
NKZ1-173-10 にせる者の相互の関係は利己心の外に成り立つことはできないのである。ロバルトソン・スミスも宗
NKZ1-173-11 教は不可知的力を恐れるより起るのではない、己と血族の関係ある神を敬愛するより起るのである、
NKZ1-173-12 又宗教は個人が超自然力に対する随意的関係ではなくして、一社会の各員がその社会の安寧秩序を維
NKZ1-173-13 持する力に対する共同的関係であるといつて居る。凡ての宗教の本には神人同性の関係がなければな
NKZ1-174-1 らぬ、即ち父子の関係がなければならぬ。併し単に神と人と利害を同じうし神は我等を助け我等を保
NKZ1-174-2 護するといふのでは未だ真の宗教ではない、神は宇宙の根本であつて兼ねて我等の根本でなければな
NKZ1-174-3 らぬ、我等が神に帰するのは其本に帰するのである。又神は万物の目的であつて即ち又人間の目的で
NKZ1-174-4 なければならぬ、人は各神に於て己が真の目的を見出すのである。手足が人の物なるが如く、人は神
NKZ1-174-5 の物である。我々が神に帰するのは一方より見れば己を失ふやうであるが、一方より見れば己を得る
NKZ1-174-6 所以である。基督がその生命を得る者は之を失ひ我が為に生命を失ふ者は之を得べしといはれたのが
NKZ1-174-7 宗教の最も醇なる者である。真の宗教に於ける神人の関係は必ず斯の如き者でなければならぬ。我々
NKZ1-174-8 が神に祈り又は感謝するといふも、自己の存在の為にするのではない、己が本分の家郷たる神に帰せ
NKZ1-174-9 んことを祈り又之に帰せしことを感謝するのである。又神が人を愛するといふのも此世の幸福を与ふ
NKZ1-174-10 るのではない、之をして己に帰せしめるのである。神は生命の源である、我は唯神に於て生く。かく
NKZ1-174-11 ありてこそ宗教は生命に充ち、真の敬虔の念も出でくるのである。単に諦めるといひ、任すといふ如
NKZ1-174-12 きは尚自己の臭気を脱して居らぬ、未だ真の敬虔の念とはいはれない。神に於て真の自己を見出すな
NKZ1-174-13 どいふ語は或は自己に重きを置く様に思はれるかも知らぬが、これ反つて真に己をすてゝ神を崇ぶ所
NKZ1-174-14 以である。
NKZ1-174-15  神人その性を同じうし、人は神に於て其本に帰すといふのは凡ての宗教の根本的思想であつて、こ
NKZ1-175-1 の思想に基づくものにして始めて真の宗教と称することができると思ふ。併し斯の如き一思想の上に
NKZ1-175-2 於ても亦神人の関係を種々に考へることができる。神は宇宙の外に超越せる者であつて、外より世界
NKZ1-175-3 を支配し人に対しても外から働く様に考へることもでき、又は神は内在的であつて、人は神の一部で
NKZ1-175-4 あり神は内より人に働くと考へることもできる。前者は所謂有神論 theism の考であつて、後者は所
NKZ1-175-5 謂汎神論 pantheism の考である。後者の如く考ふる時は合理的であるかも知らぬが、多くの宗教家は
NKZ1-175-6 之に反対するのである。何となれば神と自然とを同一視することは神の人格性をなくすることになり、
NKZ1-175-7 又万有を神の変形の如くに見做すのは神の超越性を失ひその尊厳を害ふばかりでなく、悪の根源も神
NKZ1-175-8 に帰せねばならぬ様な不都合も出てくるのである。併しよく考へて見ると、汎神論的思想に必ず此等
NKZ1-175-9 の欠点があるともいへず、有神論に必ず此等の欠点がないともいはれない。神と実在の本体とを同一
NKZ1-175-10 視するも、実在の根本が精神的であるとすれば必ずしも神の人格性を失ふ事とはならぬ。又いかなる
NKZ1-175-11 汎神論であつても個々の万物そのまゝが直に神であるといふのではない、スピノーザ哲学に於ても万
NKZ1-175-12 物は神の差別相 modes である。また有神論に於ても神の全知全能と此世に於ける悪の存在とは容易
NKZ1-175-13 に調和することはできぬ。こは実に中世哲学に於ても幾多の人の頭を悩ました問題であつたのである。
NKZ1-175-14  超越的神があつて外から世界を支配するといふ如き考は啻に我々の理性と衝突するばかりでなく、
NKZ1-175-15 かゝる宗教は宗教の最深なる者とはいはれない様に思ふ。我々が神意として知るべき者は自然の理法
NKZ1-176-1 あるのみである、この外に天啓といふべき者はない。勿論神は不可測であるから、我々の知る所はそ
NKZ1-176-2 の一部にすぎぬであらう。併しこの外に天啓なるものがあるにしても我々は之を知ることはできまい、
NKZ1-176-3 又若し之に反する天啓ありとすれば、こは反つて神の矛盾を示すのである。我々が基督の神性を信ず
NKZ1-176-4 るのは、その一生が最深なる人生の真理を含む故である。我々の神とは天地之に由りて位し万物之に
NKZ1-176-5 由りて育する宇宙の内面的統一力でなければならぬ、この外に神といふべきものはない。若し神が人
NKZ1-176-6 格的であるといふならば、此の如き実在の根本に於て直に人格的意義を認めるとの意味でなくてはな
NKZ1-176-7 らぬ。然らずして別に超自然的を云々する者は、歴史的伝説に由るにあらざれば自家の主観的空想に
NKZ1-176-8 すぎないのである。又我々はこの自然の根柢に於て、又自己の根柢に於て直に神を見ればこそ神に於
NKZ1-176-9 て無限の暖さを感じ、我は神に於て生くといふ宗教の真髄に達することもできるのである。神に対す
NKZ1-176-10 る真の敬愛の念は唯此中より出でくることができる。愛といふのは二つの人格が合して一となるの謂
NKZ1-176-11 であり、敬とは部分的人格が全人格に対して起す感情である。敬愛の本には必ず人格の統一といふこ
NKZ1-176-12 とがなければならぬ。故に敬愛の念は人と人との間に起るばかりでなく、自己の意識中に於ても現は
NKZ1-176-13 れるのである。我々のきのふ、けふと相異なれる意識が同一なる意識中心を有するが故に自敬自愛の
NKZ1-176-14 念を以て充されると同じ様に、我々が神を敬し神を愛するのは神と同一の根柢を有するが故でなけれ
NKZ1-176-15 ばならぬ、我々の精神が神の部分的意識なるが故でなければならぬ。勿論神と人とは同一なる精神の
NKZ1-177-1 根柢を有するも、同一なる思想を有する二人の精神が互に独立するが如く独立すると考へることもで
NKZ1-177-2 きるであらう。併しこは肉体より見て時間及空間的に精神を区別したのである。精神に於ては同一の
NKZ1-177-3 根柢を有する者は同一の精神である。我々の日々に変ずる意識が同一の統一を有するが故に同一の精
NKZ1-177-4 神と見られるが如くに、我々の精神は神と同一体でなければならぬ。かくして我は神に於て生くとい
NKZ1-177-5 ふのも単に比喩ではなくして事実であることができる(ウェストコットといふビショップも約翰伝第
NKZ1-177-6 十七章第二十一節に註して信者の一致とは単に目的感情等の徳義上の合一 moral unity ではなくし
NKZ1-177-7 て生命の合一 vital unity であるといつて居る)。
NKZ1-177-8  かく最深の宗教は神人同体の上に成立することができ、宗教の真意はこの神人合一の意義を獲得す
NKZ1-177-9 るにあるのである。即ち我々は意識の根柢に於て自己の意識を破りて働く堂々たる宇宙的精神を実験
NKZ1-177-10 するにあるのである。信念といふのは伝説や理論に由りて外から与へらるべき者ではない、内より磨
NKZ1-177-11 き出さるべき者である。ヤコブ・ベーメのいつた様に、我々は最深なる内生 die innerste Geburt に
NKZ1-177-12 由りて神に到るのである。我々はこの内面的再生に於て直に神を見、之を信ずると共に、こゝに自己
NKZ1-177-13 の真生命を見出し無限の力を感ずるのである。信念とは単なる知識ではない、かゝる意味に於ける直
NKZ1-177-14 観であると共に活力であるのである。凡て我々の精神活動の根柢には一つの統一力が働いて居る、こ
NKZ1-177-15 れを我々の自己といひ又人格ともいふのである。欲求の如きはいふまでもなく、知識の如き最も客観
NKZ1-178-1 的なる者もこの統一力即ち各人の人格の色を帯びて居らぬ者はない。知識も欲望も皆此力に由りて成
NKZ1-178-2 立するのである。信念とはかくの如く知識を超越せる統一力である。知識や意志に由りて信念が支へ
NKZ1-178-3 られるといふよりも、寧ろ信念に由りて知識や意志が支へられるのである。信念はかゝる意味に於て
NKZ1-178-4 神秘的である。信念が神秘的であるといふのは知識に反するの意味ではない、知識と衝突する如き信
NKZ1-178-5 念ならば之を以て生命の本となすことは出来ぬ。我々は知を尽し意を尽したる上に於て、信ぜざらん
NKZ1-178-6 と欲して信ぜざる能はざる信念を内より得るのである。


NKZ1-178-7     

第三章 神


NKZ1-178-8  神とはこの宇宙の根本をいふのである。上に述べたやうに、余は神を宇宙の外に超越せる造物者と
NKZ1-178-9 は見ずして、直にこの実在の根柢と考へるのである。神と宇宙との関係は芸術家とその作品との如き
NKZ1-178-10 関係ではなく、本体と現象との関係である。宇宙は神の所作物ではなく、神の表現 manifestation で
NKZ1-178-11 ある。外は日月星辰の運行より内は人心の機微に至るまで悉く神の表現でないものはない、我々は此
NKZ1-178-12 等の物の根柢に於て一々神の霊光を拝することができるのである。
NKZ1-178-13 ニュートンやケプレルが天体運行の整斉を見て敬虔の念に打たれたといふ様に我々は自然の現象を
NKZ1-179-1 研究すればする程、其背後に一つの統一力が支配して居るのを知ることができる。学問の進歩とはか
NKZ1-179-2 くの如き知識の統一をいふにすぎないのである。斯く外は自然の根柢に於て一つの統一力の支配を認
NKZ1-179-3 むるやうに、内は人心の根柢に於ても一つの統一力の支配を認めねばならぬ。人心は千状万態殆ど定
NKZ1-179-4 法なきが如くに見ゆるも、之を達観する時は古今に通じ東西に亙りて偉大なる統一力が支配して居る
NKZ1-179-5 様である。更に進んで考へる時は、自然と精神とは全然没交渉の者ではない、彼此密接の関係がある。
NKZ1-179-6 我々は此二者の統一を考へずには居られない、即ち此二者の根柢に更に大なる唯一の統一力がなけれ
NKZ1-179-7 ばならぬ。哲学も科学も皆此統一を認めない者はないのである。而して此統一が即ち神である。勿論
NKZ1-179-8 唯物論者や一般の科学者のいふ様に、物体が唯一の実在であつて万物は単に物力の法則に従ふものな
NKZ1-179-9 らば神といふやうなものを考へることはできぬであらう。併し実在の真相は果してかくの如き者であ
NKZ1-179-10 らうか。
NKZ1-179-11  余が前に実在に就いて論じた様に、物体といふも我々の意識現象を離れて別に独立の実在を知り得
NKZ1-179-12 るのではない。我々に与へられたる直接経験の事実は唯この意識現象あるのみである。空間といひ、
NKZ1-179-13 時間といひ、物力といひ皆この事実を統一説明する為に設けられたる概念にすぎない。物理学者のい
NKZ1-179-14 ふ様な、すべて我々の個人の性を除去したる純物質といふ如き者は最も具体的事実に遠ざかりたる抽
NKZ1-179-15 象的概念である。具体的事実に近づけば近づく程個人的となる。最も具体的なる事実は最も個人的な
NKZ1-180-1 る者である。此故に原始的説明は神話に於ての様に凡て擬人的であつたが、純知識の進むに従ひ益々
NKZ1-180-2 一般的となり抽象的となり遂に純物質といふ如き概念を生ずるに至つたのである。併しかくの如き説
NKZ1-180-3 明は極めて外面的で浅薄なると共に、かゝる説明の背後にも我々の主観的統一なる者の潜んで居るこ
NKZ1-180-4 とを忘れてはならぬ。最も根本的なる説明は必ず自己に還つてくる。宇宙を説明する秘鑰は此自己に
NKZ1-180-5 あるのである。物体に由りて精神を説明せうとするのはその本末を顛倒した者といはねばならぬ。
NKZ1-180-6 ニュートンやケプレルが見て以て自然現象の整斉となす所の者もその実は我々の意識現象の整斉に
NKZ1-180-7 すぎない。意識はすべて統一に由りて成立するのである。而して此統一といふのは、小は各個人の日
NKZ1-180-8 日の意識間の統一より、大は総べての人の意識を結合する宇宙的意識統一に達するのである(意識統
NKZ1-180-9 一を個人的意識内に限るは純粋経験に加へたる独断にすぎない)。自然界といふのはかくの如き超個
NKZ1-180-10 人的統一に由りて成れる意識の一体系である。我々が個人的主観に由りて自己の経験を統一し、更に
NKZ1-180-11 超個人的主観に由りて各人の経験を統一してゆくのであつて、自然界はこの超個人的主観の対象とし
NKZ1-180-12 て生ずるのである。ロイスも自然の存在は我々の同胞の存在の信仰と結合されて居るといつて居る
NKZ1-180-13 (Royce, The World and the Individual, Second Series, Lect. IV)。それで自然界の統一といふの
NKZ1-180-14 も畢竟意識統一の一種にすぎないといふことになる。元来精神と自然と二種の実在があるのではない、
NKZ1-180-15 この二者の区別は同一実在の見方の相違より起るのである。直接経験の事実に於ては主客の対立なく、
NKZ1-181-1 精神物体の区別なく、物即心、心即物、唯一箇の現実あるのみである。唯かくの如き実在の体系の衝
NKZ1-181-2 突即ち一方より見ればその発展上より主客の対立が出てくる。換言すれば知覚の連続に於ては主客の
NKZ1-181-3 別はない、唯この対立は反省に由つて起つてくるのである。実在体系の衝突の時、その統一作用の方
NKZ1-181-4 面が精神と考へられ、之が対象として之に対抗する方面が自然と考へられるのである。併し所謂客観
NKZ1-181-5 的自然も其実主観的統一を離れて存することはできず、主観的統一といふも統一の対象即ち内容なき
NKZ1-181-6 統一のある筈はない。両者共に同一種の実在であつて唯其統一の形を異にするのである。且つかく孰
NKZ1-181-7 れか一方に偏せるものは抽象的で不完全なる実在である。かゝる実在は両者の合一に於て始めて完全
NKZ1-181-8 なる具体的実在となるのである。精神と自然との統一といふものは二種の体系を統一するのではない、
NKZ1-181-9 元来同一の統一の下にあるのである。
NKZ1-181-10  斯く実在に精神と自然との別なく、従うて二種の統一あることなく、唯同一なる直接経験の事実其
NKZ1-181-11 物が見方に由りて種々の差別を生ずるものとすれば、余が前にいつた実在の根柢たる神とは、この直
NKZ1-181-12 接経験の事実即ち我々の意識現象の根柢でなければならぬ。然るにすべて我々の意識現象は体系をな
NKZ1-181-13 した者である。超個人的統一に由りて成れる所謂自然現象といへども此形式を離れることはできぬ。
NKZ1-181-14 統一的或者の自己発展といふのが凡ての実在の形式であつて、神とはかくの如き実在の統一者である。
NKZ1-181-15 宇宙と神との関係は、我々の意識現象とその統一との関係である。思惟に於ても意志に於ても心象が
NKZ1-182-1 一の目的観念に由り統一せられ、凡てがこの統一的観念の表現と看做される如くに、神は宇宙の統一
NKZ1-182-2 者であり宇宙は神の表現である。この比較は単に比喩ではなくして事実である。神は我々の意識の
NKZ1-182-3 最大最終の統一者である、否、我々の意識は神の意識の一部であつて、その統一は神の統一より来る
NKZ1-182-4 のである。小は我々の一喜一憂より大は日月星辰の運行に至るまで皆この統一に由らぬものはない。
NKZ1-182-5 ニュートンやケプレルもこの偉大なる宇宙的意識の統一に打たれたのである。
NKZ1-182-6  然らばかくの如き意味に於て宇宙の統一者であり実在の根柢たる神とは如何なる者であらうか。精
NKZ1-182-7 神を支配する者は精神の法則でなければならぬ。物質といふ如き者は上にいつた様に、説明の為に設
NKZ1-182-8 けられたる最も浅薄なる抽象的概念に過ぎない。精神現象とは所謂知情意の作用であつて、之を支配
NKZ1-182-9 する者は亦知情意の法則でなければならぬ。而して精神は単に此等の作用の集合ではなく、その背後
NKZ1-182-10 に一の統一力があつて、此等の現象はその発現である。今此統一力を人格と名づくるならば、神は宇
NKZ1-182-11 宙の根柢たる一大人格であるといはねばならぬ。自然の現象より人類の歴史的発展に至るまで一々大
NKZ1-182-12 なる思想、大なる意志の形をなさぬものはない、宇宙は神の人格的発現といふこととなるのである。
NKZ1-182-13 併しかくいふも余は或一派の人々の考ふる様に、神は宇宙の外に超越し、宇宙の進行を離れて別に特
NKZ1-182-14 殊なる思想、意志を有する我々の主観的精神の如き者と考へることはできぬ。神に於ては知即行、行
NKZ1-182-15 即知であつて、実在は直に神の思想であり又意志でなければならぬ(Spinoza, Ethica, I Pr. 17 Schol.
NKZ1-183-1 を見よ)。我々の主観的思惟及意志といふ如き者は種々の体系の衝突より起る不完全なる抽象的実在
NKZ1-183-2 である。かくの如き者を以て直に神に擬することはできぬ。イリングウォルスといふ人は「人及神の
NKZ1-183-3 人格」と題する書中に於て、人格の要素として自覚、意志の自由、及愛の三つをあげて居る。併しこ
NKZ1-183-4 の三つの者を以て人格の要素となす前に、此等の作用が実地に於て如何なる事実を意味し居るかを明
NKZ1-183-5 にして置かねばならぬ。自覚とは部分的意識体系が全意識の中心に於て統一せらるゝ場合に伴ふ現象
NKZ1-183-6 である。自覚は反省に由つて起る、而して自己の反省とはかくの如く意識の中心を求むる作用である。
NKZ1-183-7 自己とは意識の統一作用の外にない、この統一がかはれば自己もかはる、この外に自己の本体といふ
NKZ1-183-8 やうの者は空名にすぎぬのである。我々が内に省みて一種特別なる自己の意識を得る様に思ふが、そ
NKZ1-183-9 は心理学者のいふ如くこの統一に伴ふ感情にすぎない。かくの如き意識あつてこの統一が行はれるの
NKZ1-183-10 ではなく、この統一あつてかくの如き意識を生ずるのである。この統一其者は知識の対象となること
NKZ1-183-11 はできぬ、我々は此者となつて働くことはできるが、之を知ることはできぬ。真の自覚は寧ろ意志活
NKZ1-183-12 動の上にあつて知的反省の上にないのである。若し神の人格に於ける自覚といふならば、この宇宙現
NKZ1-183-13 象の統一が一々その自覚でなければならぬ。たとへば三角形の総べての角の和は二直角なりといふは
NKZ1-183-14 何人も何の時代にもかく考へねばならぬ。これも神の自覚の一つである。すべて我々の精神を支配す
NKZ1-183-15 る宇宙統一の念は神の自己同一の意識であるといつてよからう。万物は神の統一に由りて成立し、神
NKZ1-184-1 に於ては凡てが現実である、神は常に能働的である。神には過去も未来もない、時間、空間は宇宙的
NKZ1-184-2 意識統一に由りて生ずるのである、神に於ては凡てが現在である。アウグスチヌスのいつた様に、時
NKZ1-184-3 は神に由りて造られ神は時を超越するが故に神は永久の今に於てある。この故に神には反省なく、記
NKZ1-184-4 憶なく、希望なく、従つて特別なる自己の意識はない。凡てが自己であつて自己の外に物なきが故に
NKZ1-184-5 自己の意識はないのである。
NKZ1-184-6  次に意志の自由といふことにも色々の意味はあるが、真の自由とは自己の内面的性質より働くとい
NKZ1-184-7 ふ所謂必然的自由の意味でなければならぬ。全く原因のない意志といふ様のことは啻に不合理である
NKZ1-184-8 ばかりでなく、此の如きものは自己に於ても全く偶然の出来事であつて、自己の自由的行為とは感ぜ
NKZ1-184-9 られぬであらう。神は万有の根本であつて、神の外に物あることなく、万物悉く神の内面的性質より
NKZ1-184-10 出づるが故に神は自由である、此意味に於ては神は実に絶対的に自由である。かくいへば、神は自己
NKZ1-184-11 の性質に束縛せられ其全能を失ふ様に見えるかも知らぬが、自己の性質に反して働くと云ふのは自己
NKZ1-184-12 の性質の不完全なるか或はその矛盾を示すものである。神の完全にして全知なることと彼の不定的な
NKZ1-184-13 る自由意志とは両立することはできまいと思ふ。アウグスチヌスも神の意志は不変であつて時に欲し
NKZ1-184-14 時に欲せず、況んや前の決断を後に翻へす如きものにあらずといつて居る(Conf. XII. 15)。選択的
NKZ1-184-15 意志といふが如きは寧ろ不完全なる我々の意識状態に伴ふべきものであつて、之を以て神に擬すべき
NKZ1-185-1 ものではない。例へば我々が充分に熟達した事柄に於ては少しも選択的意志を入るゝの余地がない、
NKZ1-185-2 選択的意志は疑惑、矛盾、衝突の場合に必要となるのである。勿論誰もいふ如く知るといふ中には已
NKZ1-185-3 に自由といふことを含んでをる、知は即ち可能を意味して居るのである。併しその可能とは必ずしも
NKZ1-185-4 不定的可能の意味でなければならぬことはない。知とは反省の場合にのみいふべきではない、直覚も
NKZ1-185-5 知である。直覚の方が寧ろ真の知である。知が完全となればなる程反つて不定的可能はなくなるので
NKZ1-185-6 ある。かく神には不定的意志即ち随意といふことがないのであるから、神の愛といふのも神は或人々
NKZ1-185-7 を愛し、或人々を憎み、或人々を栄えしめ、或人々を亡ぼすといふ如き偏狭の愛ではない。神は凡て
NKZ1-185-8 の実在の根柢として、其愛は平等普遍でなければならず、且つその自己発展其者が直に我々に取りて
NKZ1-185-9 無限の愛でなければならぬ。万物自然の発展の外に特別なる神の愛はないのである。元来愛とは統一
NKZ1-185-10 を求むるの情である、自己統一の要求が自愛であり、自他統一の要求が他愛である。神の統一作用は
NKZ1-185-11 直に万物の統一作用であるから、エッカルトのいつた様に神の他愛は即ちその自愛でなければならぬ。
NKZ1-185-12 我々が自己の手足を愛するが如くに神は万物を愛するのである。エッカルトは又神の人を愛するは随
NKZ1-185-13 意の行動ではなく、かくせねばならぬのであるといつて居る。
NKZ1-185-14  以上論じた様に、神は人格的であるといふも直に之を我々の主観的精神と同一に見ることはできぬ、
NKZ1-185-15 寧ろ主客の分離なく物我の差別なき純粋経験の状態に比すべきものである。この状態が実に我々の精
NKZ1-186-1 神の始であり終であり、兼ねて又実在の真相である。基督が心の清き者は神を見るといひ、又嬰児の
NKZ1-186-2 若くにして天国に入るといつた様に、かゝる時我々の心は最も神に近づいて居るのである。純粋経験
NKZ1-186-3 といふも単に知覚的意識をさすのでない。反省的意識の背後にも統一があつて、反省的意識は之に由
NKZ1-186-4 つて成立するのである、即ちこれも亦一種の純粋経験である。我々の意識の根柢にはいかなる場合に
NKZ1-186-5 も純粋経験の統一があつて、我々はこの外に跳出することはできぬ(第一編を看よ)。神はかゝる意
NKZ1-186-6 味に於て宇宙の根柢に於ける一大知的直観と見ることができ、又宇宙を包括する純粋経験の統一者と
NKZ1-186-7 見ることができる。かくしてアウグスチヌスが神は不変的直観を以て万物を直観するといひ又神は静
NKZ1-186-8 にして動、動にして静といつたのも解することができ(Storz, Die Philosophie des HL. Augustinus, §
NKZ1-186-9 20)、又エッカルトの「神性」Gottheit 及ベーメの「物なき静さ」Stille ohne Wesen といへる語の
NKZ1-186-10 意味も窺ふことができる。すべて意識の統一は変化の上に超越して湛然不動でなければならぬ、而も
NKZ1-186-11 変化はこれより起つてくるのである、即ち動いて動かざるものである。又意識の統一は知識の対象と
NKZ1-186-12 なることはできぬ、総べての範疇を超越して居る、我々はこれに何等の定形を与ふることもできぬ、
NKZ1-186-13 而も万物は之に由りて成立するのである。それで神の精神といふ如きことは、一方より見ればいかに
NKZ1-186-14 も不可知的であるが、又一方より見れば反つて我々の精神と密接して居るのである。我々はこの意識
NKZ1-186-15 統一の根柢に於て直に神の面影に接することができる。故にベーメも天は到る処にあり、汝の立つ処
NKZ1-187-1 行く処皆天ありといひ又最深なる内生に由つて神に到るといつて居る(Morgenröte)。
NKZ1-187-2 或人はいふであらう、右の如く論じた時には、神は物の本質と同一となり、縦し精神的なりとする
NKZ1-187-3 も理性又は良心と何等の区別なく、その生きた個人的人格を失ふやうになるではなからうか。個人性
NKZ1-187-4 は唯不定的自由意志より生ずることができるのである(これ嘗て中世哲学に於てスコトゥスがトーマ
NKZ1-187-5 スに反対せる論点であつた)。かゝる神に対して我々は決して宗教的感情を起すことはできぬ。宗教
NKZ1-187-6 に於では罪は単に法を破るのではない、人格に背くのである、後悔は単に道徳的後悔ではない、親を
NKZ1-187-7 害し恩人に背いた切なる後悔である。アルスキン Erskine of Linlathen は宗教と道徳とは良心の背後
NKZ1-187-8 に人格を認むると否とに由つて分れるといつて居る。併しヘーゲルなどのいつたやうに、真の個人性
NKZ1-187-9 といふのは一般性を離れて存するものではない、一般性の限定せられたもの、bestimmte Allgemein-
NKZ1-187-10 heit が個人性となるのである。一般的なる者は具体的なる者の精神である。個人性とは一般性に外よ
NKZ1-187-11 り他の或者を加へたのではない、一般性の発展したものが個人性となるのである。何等の内面的統一
NKZ1-187-12 もない単に種々の性質の偶然的結合といふやうな者には個人性といふべきものはない。個人的人格の
NKZ1-187-13 要素たる意志の自由といふことは一般的なる者が己自身を限定する selfdetermination の謂である。
NKZ1-187-14 三角形の概念が種々の三角形に分化し得る様に、或一般的なる者が其中に含める種々なる限定の可能
NKZ1-187-15 を自覚するのが自由の感である。全く基礎のない絶対的自由意志よりは反つて個人的自覚は起らぬで
NKZ1-188-1 あらう。個性に理由なし ratio singularitatis frustra quaeritur といふ語もあれど、真にかくの如き
NKZ1-188-2 個人性は何等の内容なき無と同一でなければならぬ。唯具体的なる個人性は抽象的概念にて知ること
NKZ1-188-3 ができぬまでである。抽象的概念に現はすことのできない個人性でも画家や小説家の筆にて鮮かに現
NKZ1-188-4 はすことができるのである。
NKZ1-188-5  神が宇宙の統一であるといふのは単に抽象的概念の統一ではない、神は我々の個人的自己のやうに
NKZ1-188-6 具体的統一である、即ち一の生きた精神である。我々の精神が上に云つた意味で個人的であるといひ
NKZ1-188-7 得るやうに、神も個人的といひ得るであらう。理性や良心は神の統一作用の一部であらうが、その生
NKZ1-188-8 きた精神其者ではない。かくの如き神性的精神の存在といふことは単に哲学上の議論ではなくして、
NKZ1-188-9 実地に於ける心霊的経験の事実である。我々の意識の底には誰にもかゝる精神が働いて居るのである
NKZ1-188-10 (理性や良心はその声である)。唯我々の小なる自己に妨げられて之を知ることができないのである。
NKZ1-188-11 例へば詩人テニスンの如きも次の如き経験をもつてをつた。氏が静に自分の名を唱へて居ると、自己
NKZ1-188-12 の個人的意識の深き底から、自己の個人が溶解して無限の実在となる、而も意識は決して朦朧たるの
NKZ1-188-13 ではなく最も明晰確実である。此時死とは笑ふべき不可能事で、個人の死といふ事が真の生であると
NKZ1-188-14 感ぜられるといつて居る。氏は幼時より淋しき独居の際に於て屡々かゝる事を経験したといふ。又文
NKZ1-188-15 学者シモンヅ J. A. Symonds の如きも、我々の通常の意識が漸々薄らぐと共に其根柢にある本来の
NKZ1-189-1 意識が強くなり、遂には一の純粋なる絶対的抽象的自己だけが残るといつて居る。其外、宗教的神秘
NKZ1-189-2 家のかゝる経験を挙げれば限もないのである(James, The Varieties of Religious Experiences, Lect.
NKZ1-189-3 XVI, XVII)。或はかゝる現象を以て尽く病的となすかも知らぬがその果して病的なるか否かは合理
NKZ1-189-4 的なるか否かに由つて定まつてくる。余が嘗て述べた様に、実在は精神的であつて我々の精神はその
NKZ1-189-5 一小部分にすぎないとすれば、我々が自己の小意識を破つて一大精神を感得するのは毫も怪むべき理
NKZ1-189-6 由がない。我々の小意識の範囲を固執するのが反つて迷であるかも知れぬ。偉人には必ず右の様に常
NKZ1-189-7 人より一層深遠なる心霊的経験がなければならぬと思ふ。


NKZ1-189-8    

第四章 神と世界


NKZ1-189-9  純粋経験の事実が唯一の実在であつて神はその統一であるとすれば、神の性質及世界との関係もす
NKZ1-189-10 べて我々の純粋経験の統一即ち意識統一の性質及之と其内容との関係より知ることができる。先づ我
NKZ1-189-11 我の意識統一は見ることもできず、聞くこともできぬ、全く知識の対象となることはできぬ。一切は
NKZ1-189-12 之に由りて成立するが故に能く一切を超絶して居る。黒にあうて黒を現んずるも心は黒なるのではな
NKZ1-189-13 い、白にあうて白を現んずるも心は白なるのではない。仏教はいふに及ばず、中世哲学に於てディオ
NKZ1-190-1 ニシュース Dionysius 一派の所謂消極的神学が神を論ずるに否定を以てしたのもこの面影を写したの
NKZ1-190-2 である。ニコラウス・クザヌスの如きは神は有無をも超絶し、神は有にして又無なりといつて居る。
NKZ1-190-3 我々が深く自己の意識の奥底を反省してみる時は嘗てヤコブ・ベーメが、神は「物なき静さ」である
NKZ1-190-4 とか、「無底」Ungrund であるとか又は「対象なき意志」Wille ohne Gegenstand であるとかいつた
NKZ1-190-5 語に深き意味を見出すこともでき、又一種崇高にして不可思議の感に打たれるのである。其他神の永
NKZ1-190-6 久とか遍在とか全知全能とかいふやうのことも、皆この意識統一の性質より解釈せねばならぬ。時間、
NKZ1-190-7 空間は意識統一に由つて成立するが故に、神は時間、空間の上に超絶し永久不滅にして在らざる所な
NKZ1-190-8 しである。一切は意識統一に由りて生ずるが故に、神は全知全能であつて知らぬ所もなく能はぬ所も
NKZ1-190-9 ない、神に於ては知と能と同一である。
NKZ1-190-10  然らば右の如き絶対無限なる神と此世界との関係は如何なるものであらうか。有を離れたる無は真
NKZ1-190-11 の無でない、一切を離れたる一は真の一でない、差別を離れたる平等は真の平等でない。神がなけれ
NKZ1-190-12 ば世界はないやうに、世界がなければ神もない。固より茲に世界といふのは我々の此世界のみをさす
NKZ1-190-13 のではない。スピノーザのいつた様に神の属性 attributes は無限であるから、神は無限の世界を包含
NKZ1-190-14 して居らねばならぬ。唯世界的表現は神の本質に属すべきものであつて決してその偶然的作用ではな
NKZ1-190-15 い、神は嘗て一度世果を創造したのではなく、その永久の創造者である(ヘーゲル)。要するに神と
NKZ1-191-1 世界との関係は意識統一と其内容との関係である。意識内容は統一に由つて成立するが、又意識内容
NKZ1-191-2 を離れて統一なる者はない。意識内容と其統一とは統一せられる者とする者との二あるのではなく、
NKZ1-191-3 同一実在の両方面にすぎないのである。すべて意識現象はその直接経験の状態に於ては唯一つの活動
NKZ1-191-4 であるが、之を知識の対象として反省することに由つてその内容が種々に分析せられ差別せられるの
NKZ1-191-5 である。若しその発展の過程より云へば、先づ全体が一活動として衝動的に現はれたものが矛盾衝突
NKZ1-191-6 に由つてその内容が反省せられ分別せられたのである。余は是に於てもベーメの語を想ひ起さずには
NKZ1-191-7 居られない。氏は対象なき意志ともいふべき発現以前の神が己自身を省みること即ち己自身を鏡とな
NKZ1-191-8 すことに由つて主観と客観とが分れ、之より神及世界が発展するといつて居る。
NKZ1-191-9  元来、実在の分化と其統一とは一あつて二あるべきものではない。一方に於て統一といふことは、
NKZ1-191-10 一方に於て分化といふことを意味して居る。例へば樹に於て花はよく花たり葉はよく葉たるのが樹の
NKZ1-191-11 本質を現はすのである。右の如き区別は単に我々の思想上のことであつて直接的なる事実上の事では
NKZ1-191-12 ないのである。ゲーテが自然は核も殻も持たぬ、すべてが同時に核であり殻である Natur hat weder
NKZ1-191-13 Kern noch Schale, alles ist sie mit einem Male. といつた様に、具体的真実在即ち直接経験の事実に
NKZ1-191-14 於ては分化と統一とは唯一の活動である。例へば一幅の画、一曲の譜に於て、その一筆一声何れも直
NKZ1-191-15 に全体の精神を現はさゞるものはなく、又画家や音楽家に於て一つの感興である者が直に溢れて千変
NKZ1-192-1 万化の山水となり、紆余曲折の楽音ともなるのである。斯の如き状態に於ては神は即ち世界、世界は
NKZ1-192-2 即ち神である。ゲーテが「エペソ人のディヤナは大なるかな」といへる詩の中にいつた様に、人間の
NKZ1-192-3 脳中に於ける抽象的の神に騒ぐよりは、専心ディヤナの銀龕を作りつゝパウロの教を顧みなかつたと
NKZ1-192-4 いふ銀工の方が、或意味に於て反つて真の神に接して居たともいへる。エッカルトのいつた様に神す
NKZ1-192-5 らも失つた所に真の神を見るのである。右の如き状態に於ては天地唯一指、万物我と一体であるが、
NKZ1-192-6 曩にもいつた様に、一方より見れば実在体系の衝突により、一方より見ればその発展の必然的過程と
NKZ1-192-7 して実在体系の分裂を来すやうになる、即ち所謂反省なる者が起つて来なければならぬ。之に由つて
NKZ1-192-8 現実であつた者が観念的となり、具体的であつた者が抽象的となり、一であつた者が多となる。是に
NKZ1-192-9 於て一方に神あれば一方に世界あり、一方に我あれば一方に物あり、彼此相対し物々相背く様になる。
NKZ1-192-10 我等の祖先が知慧の樹の果を食うて神の楽園より追ひ出だされたといふのも、此真理を意味するので
NKZ1-192-11 あらう。人祖堕落はアダム、エヴの昔ばかりではなく、我等の心の中に時々刻々行はれて居るのであ
NKZ1-192-12 る。併し翻つて考へて見れば、分裂といひ反省といひ別にかゝる作用があるのではない、皆是統一の
NKZ1-192-13 半面たる分化作用の発展にすぎないのである。分裂や反省の背後には更に深遠なる統一の可能性を含
NKZ1-192-14 んで居る、反省は深き統一に達する途である(善人なほ往生す、いかにいはんや悪人をやといふ語が
NKZ1-192-15 ある)。神はその最深なる統一を現はすには先づ大に分裂せねばならぬ。人間は一方より見れば直に
NKZ1-193-1 神の自覚である。基督教の伝説をかりて云へば、アダムの墜落があつてこそ基督の救があり、従つて
NKZ1-193-2 無限なる神の愛が明となつたのである。
NKZ1-193-3  扨、世界と神との関係を右の様に考へることより、我々の個人性は如何に説明せねばならぬであら
NKZ1-193-4 うか。万物は神の表現であつて神のみ真実在であるとすれば、我々の個人性といふ如き者は虚偽の仮
NKZ1-193-5 相であつて、泡沫の如く全く無意義の者と考へねばならぬであらうか。余は必ずしもかく考ふるには
NKZ1-193-6 及ばぬと思ふ。固より神より離れて独立せる個人性といふ者はなからう。併し之が為に我々の個人性
NKZ1-193-7 は全然虚幻とみるべきものではない、反つて神の発展の一部とみることもできる、即ちその分化作用
NKZ1-193-8 の一とみることもできる。凡ての人が各自神より与へられた使命をもつて生れてきたといふ様に、我
NKZ1-193-9 我の個人性は神性の分化せる者である、各自の発展は即ち神の発展を完成するのである。此意味に於
NKZ1-193-10 て我々の個人性は永久の生命を有し、永遠の発展を成すといふことができるのである(ロイスの霊魂
NKZ1-193-11 不滅論を看よ)。神と我々の個人的意識との関係は意識の全体とその部分との関係である。凡て精神
NKZ1-193-12 現象に於ては各部分は全体の統一の下に立つと共に、各自が独立の意識でなければならぬ(精神現象
NKZ1-193-13 に於ては各部分が end in itself である)。万物は唯一なる神の表現であるといふことは、必ずしも各
NKZ1-193-14 人の自覚的独立を否定するに及ばぬ。例へば我々の時々刻々の意識は個人的統一の下にあると共に、
NKZ1-193-15 各自が独立の意識と見ることもできると一般である。イリングウォルスは一の人格は必ず他の人格を
NKZ1-194-1 求める、他の人格に於て自己が全人格の満足を得るのである、即ち愛は人格の欠くべからざる特徴で
NKZ1-194-2 あるといつて居る(Illingworth, Personality human and divine)。他の人格を認めるといふことは即
NKZ1-194-3 ち自己の人格を認めることである、而してかく各が相互に人格を認めたる関係は即ち愛であつて、一
NKZ1-194-4 方より見れば両人格の合一である。愛に於て二つの人格が互に相尊重し相独立しながら而も合一して
NKZ1-194-5 一人格を形成するのである。かく考へれば神は無限の愛なるが故に、凡ての人格を包含すると共に凡
NKZ1-194-6 ての人格の独立を認めるといふことができる。
NKZ1-194-7  次に万物は神の表現であるといふ如き汎神論的思想に対する非難は、如何にして悪の根本を説明す
NKZ1-194-8 ることができるかといふのである。余の考ふる所にては元来絶対的に悪といふべき者はない、物は総
NKZ1-194-9 べて其本来に於ては善である、実在は即ち善であるといはねばならぬ。宗教家は口を極めて肉の悪を
NKZ1-194-10 説けども、肉慾とても絶対的に悪であるのではない、唯その精神的向上を妨ぐることに於て悪となる
NKZ1-194-11 のである。又進化論の倫理学者のいふ様に、今日我々が罪悪と称する所の者も或時代に於ての道徳で
NKZ1-194-12 あつたのである。即ち過去の道徳の遺物であるといふこともできる、唯現今の時代に適せざるが為に
NKZ1-194-13 悪となるのである。さればもの其者に於て本来悪なる者があるのではない、悪は実在体系の矛盾衝突
NKZ1-194-14 より起るのである。而して此衝突なる者は何から起るかといへば、こは実在の分化作用に基づくもの
NKZ1-194-15 で実在発展の一要件である、実在は矛盾衝突に由りて発展するのである。メフィストフェレスが常に
NKZ1-195-1 悪を求めて、常に善を造る力の一部と自ら名乗つた様に、悪は宇宙を構成する一要素といつてもよい
NKZ1-195-2 のである。固より悪は宇宙の統一進歩の作用ではないから、それ自身に於て目的とすべきものでない
NKZ1-195-3 ことは勿論である、併し又何等の罪悪もなく何等の不満もなき平穏無事なる世界は極めて平凡であつ
NKZ1-195-4 て且つ浅薄なる世界といはねばならぬ。罪を知らざる者は真に神の愛を知ることはできない。不満な
NKZ1-195-5 く苦悩なき者は深き精神的趣味を解することはできぬ。罪悪、不満、苦悩は我々人間が精神的向上の
NKZ1-195-6 要件である、されば真の宗教家は此等の者に於て神の矛盾を見ずして反つて深き神の恩寵を感ずるの
NKZ1-195-7 である。此等の者あるが為に世界はそれだけ不完合となるのではなく、反つて豊富深遠となるのであ
NKZ1-195-8 る。若し此世から尽く此等の者を除き去つたならば、啻に精神的向上の途を失ふのみならず、いかに
NKZ1-195-9 多くの美しき精神的事業は亦之と共に此世から失せ去るであらうか。宇宙全体の上より考へ、且つ宇
NKZ1-195-10 宙が精神的意義に由つて建てられたるものとするならば、此等の者の存在の為に何等の不完全をも見
NKZ1-195-11 出すことはできない、反つてその必要欠くべからざる所以を知ることができるのである。罪はにくむ
NKZ1-195-12 べき者である、併し悔い改められたる罪程世に美しきものもない。余は是に於てオスカル・ワイルド
NKZ1-195-13 の獄中記 De Profundis の中の一節を想ひ起さゞるをえない。基督は罪人をば人間の完成に最も近き
NKZ1-195-14 者として愛した。面白き盗賊をくだくだしい正直者に変ずるのは彼の目的ではなかつた。彼は嘗て世
NKZ1-195-15 に知られなかつた仕方に於て罪及苦悩を美しき神聖なる者となした。勿論非人は悔い改めねばならぬ。
NKZ1-196-1 併しこれ彼が為した所のものを完成するのである。希臘人は人は己が過去を変ずることのできないも
NKZ1-196-2 のと考へた、神も過去を変ずる能はずといふ語もあつた。併し基督は最も普通の罪人も之を能くし得
NKZ1-196-3 ることを示した。例の放蕩子息が跪いて泣いた時、かれはその過去の罪悪及苦悩をば生涯に於て最も
NKZ1-196-4 美しく神聖なる時となしたのであると基督がいはれるであらうといつて居る。ワイルドは罪の人であ
NKZ1-196-5 つた、故に能く罪の本質を知つたのである。


NKZ1-196-6    

第五章 知と愛


NKZ1-196-7   此一篇は此書の続として書いたものではない。併し此書の思想と連絡を有すると思ふから此に附加する こととした。


NKZ1-196-8  知と愛とは普通には全然相異なつた精神作用であると考へられて居る。併し余は此二つの精神作用
NKZ1-196-9 は決して別種の者ではなく、本来同一の精神作用であると考へる。然らば如何なる精神作用であるか、
NKZ1-196-10 一言にて云へば主客合一の作用である。我が物に一致する作用である。何故に知は主客合一であるか。
NKZ1-196-11 我々が物の真相を知るといふのは、自己の妄想臆断即ち所謂主観的の者を消磨し尽して物の真相に一
NKZ1-196-12 致した時、即ち純客観に一致した時始めて之を能くするのである。例へば明月の薄黒い処のあるは兎
NKZ1-196-13 が餅を搗いて居るのであるとか、地震は地下の大鯰が動くのであるとかいふのは主観的妄想である。
NKZ1-197-1 然るに我々は天文、地質の学に於て全然かゝる主観的妄想を棄て、純客観的なる自然法則に従うて考
NKZ1-197-2 究し、爰に始めて此等の現象の真相に到達することができるのである。我々は客観的になればなるだ
NKZ1-197-3 け益々能く物の真相を知ることができる。数千年来の学問進歩の歴史は我々人間が主観を棄て客観に
NKZ1-197-4 従ひ来つた道筋を示した者である。次に何故に愛は主客合一であるかを話して見よう。我々が物を愛
NKZ1-197-5 するといふのは、自己をすてゝ他に一致するの謂である。自他合一、其間一点の間隙なくして始めて
NKZ1-197-6 真の愛情が起るのである。我々が花を愛するのは自分が花と一致するのである。月を愛するのは月に
NKZ1-197-7 一致するのである。親が子となり子が親となり此処に始めて親子の愛情が起るのである。親が子とな
NKZ1-197-8 るが故に子の一利一害は己の利害の様に感ぜられ、子が親となるが故に親の一喜一憂は己の一喜一憂
NKZ1-197-9 の如くに感ぜられるのである。我々が自己の私を棄てゝ純客観的即ち無私となればなる程愛は大きく
NKZ1-197-10 なり深くなる。親子夫妻の愛より朋友の愛に進み、朋友の愛より人類の愛にすゝむ。仏陀の愛は禽獣
NKZ1-197-11 草木にまでも及んだのである。
NKZ1-197-12  斯の如く知と愛とは同一の精神作用である。それで物を知るには之を愛せねばならず、物を愛する
NKZ1-197-13 のは之を知らねばならぬ。数学者は自己を棄てゝ数理を愛し数理其者と一致するが故に、能く数理を
NKZ1-197-14 明にすることができるのである。美術家は能く自然を愛し、自然に一致し、自己を自然の中に没する
NKZ1-197-15 ことに由りて甫めて自然の真を看破し得るのである。又一方より考へて見れば、我は我友を知るが故
NKZ1-198-1 に之を愛するのである。境遇を同じうし思想趣味を同じうし、相理会する愈々深ければ深い程同情は
NKZ1-198-2 益々濃かになる訳である。併し愛は知の結果、知は愛の結果といふ様に、此両作用を分けて考へては
NKZ1-198-3 未だ愛と知の真相を得た者ではない。知は愛、愛は知である。例へば我々が自己の好む所に熱中する
NKZ1-198-4 時は殆ど無意識である。自己を忘れ、唯自己以上の不可思議力が独り堂々として働いて居る。此時が
NKZ1-198-5 主もなく客もなく、真の主客合一である。此時が知即愛、愛即知である。数理の妙に心を奪はれ寝食
NKZ1-198-6 を忘れて之に耽ける時、我は数理を知ると共に之を愛しつゝあるのである。又我々が他人の喜憂に対
NKZ1-198-7 して、全く自他の区別がなく、他人の感ずる所を直に自己に感じ、共に笑ひ共に泣く、此時我は他人
NKZ1-198-8 を愛し又之を知りつゝあるのである。愛は他人の感情を直覚するのである。池に陥らんとする幼児を
NKZ1-198-9 救ふに当りては、可愛いといふ考すら起る余裕もない。
NKZ1-198-10  普通には愛は感情であつて純粋なる知識と区別されねばならぬといふ。併し事実上の精神現象には
NKZ1-198-11 純知識といふ者もなければ純感情といふ者もない。斯の如き区別は心理学者が学問上便宜の為に作つ
NKZ1-198-12 た抽象的概念にすぎない。学理の研究が一種の感情に由つて維持せられねばならぬ様に、他を愛する
NKZ1-198-13 には一種の直覚が基とならねばならぬ。余の考を以て見ると、普通の知とは非人格的対象の知識であ
NKZ1-198-14 る。たとひ対象が人格的であつても、之を非人格的として見た時の知識である。之に反し、愛とは人
NKZ1-198-15 格的対象の知識である、たとひ対象が非人格的であつても之を人格的として見た時の知識である。両
NKZ1-199-1 者の差は精神作用其者にあるのではなく、寧ろ対象の種類に由るといつてよろしい。而して古来幾多
NKZ1-199-2 の学者哲人のいつた様に、宇宙実在の本体は人格的の者であるとすると、愛は実在の本体を捕捉する
NKZ1-199-3 力である。物の最も深き知識である。分析推論の知識は物の表面的知識であつて実在其者を捕捉する
NKZ1-199-4 ことはできぬ。我々は唯愛に由りてのみ之に達することができる。愛は知の極点である。
NKZ1-199-5  以上少しく知と愛との関係を述べた所で、今之を宗教上の事に当てはめて考へて見よう。主観は自
NKZ1-199-6 力である、客観は他力である。我々が物を知り物を愛すといふのは自力をすてゝ他力の信心に入る謂
NKZ1-199-7 である。人間一生の仕事が知と愛との外にないものとすれば、我々は日々に他力信心の上に働いて居
NKZ1-199-8 るのである。学問も道徳も皆仏陀の光明であり、宗教といふ者は此作用の極致である。学問や道徳は
NKZ1-199-9 個々の差別的現象の上に此他力の光明に浴するのであるが、宗教は宇宙全体の上に於て絶対無限の仏
NKZ1-199-10 陀其者に接するのである。「父よ、若しみこゝろにかなはゞこの杯を我より離したまへ、されど我が
NKZ1-199-11 意のまゝをなすにあらず、唯みこゝろのまゝになしたまへ」とか、「念仏はまことに浄土にむまるゝた
NKZ1-199-12 ねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり」と
NKZ1-199-13 かいふ語が宗教の極意である。而してこの絶対無限の仏若しくは神を知るのは只之を愛するに因りて
NKZ1-199-14 能くするのである、之を愛するが即ち之を知るである。印度のヴェーダ教や新プラトー学派や仏教の
NKZ1-199-15 聖道門は之を知るといひ、基督教や浄土宗は之を愛すといひ又は之に依るといふ。各自其特色はない
NKZ1-200-1 ではないが其本質に於ては同一である。神は分析や推論に由りて知り得べき者でない。実在の本質が
NKZ1-200-2 人格的の者であるとすれば、神は最人格的なる者である。我々が神を知るのは唯愛又は信の直覚に由
NKZ1-200-3 りて知り得るのである。故に我は神を知らず我唯神を愛す又は之を信ずといふ者は、最も能く神を知
NKZ1-200-4 り居る者である。


前へ目録へ

Author: Niels GUELBERG
e-mail: guelberg@waseda.jp
First drafted: 00.12.11
Last updated: 03.05.21