校異:
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NKZ4-9-1 直接に与へられるもの
NKZ4-9-3 直接に与へられたものとは如何なるものを云ふのであるか。我々は此問題を論ずるに当つて、先づ
NKZ4-9-4 その意味を明にせねばならぬ。既に与へられると云へば、何物かに対して与へられるといふことでな
NKZ4-9-5 ければならぬ。こゝに与へられるといふのは、我に対して与へられると云ふ意味である。我といふに
NKZ4-9-6 も種々の意味があるであらう。こゝに我といふのは、考へる我、即ち思惟我を意味するのである。そ
NKZ4-9-7 れで直接に与へられたものといふのは、未だ思惟せない前の経験といふことでなければならぬ。思惟
NKZ4-9-8 作用といつても、単に思惟対象を映宿す心理的作用と考へるならば、思惟対象といふ如きものも、之に
NKZ4-9-9 対して与へられたものと云ひ得るであらう。併しこゝに与へられるといふのは思惟によつて構成せら
NKZ4-9-10 るベく与へられるといふ意味である、即ち構成的思惟の所与といふ意味である。而してその与へられ
NKZ4-9-11 るものといふのは、単なる思惟対象の如きもの、非実在的なものをいふのではない、又過去にあつた
NKZ4-10-1 もの、未来に起るべきものをいふのでもない、現実に与へられるものをいふのである。現実に我に対
NKZ4-10-2 して与へられるものと云へば、直に実在界といふ如きものが考へられるかも知らぬが、意識はかゝる
NKZ4-10-3 世界に於て因果的に生ずるとも考へられる。併しのではない、所謂実在界といふのは思惟によつて構成せられたものに過ぎ
NKZ4-10-4 ない。
NKZ4-10-5 普通には、右の如き意味に於て、直接に与へられたものとして、感覚とか、知覚とか、又は芸術的
NKZ4-10-6 直観とかいふものが考へられる。併し単一なる精神的要素としての感覚といふ如きものは、思惟の所
NKZ4-10-7 作たることは心理学者も認めて居る。思惟に対して与へられる具体的意識としては、少くとも知覚の
NKZ4-10-8 如きものを考へねばならぬ。知覚とは如何なるものであるか。心理学者は之を感覚の構成せられたも
NKZ4-10-9 のと考へる。併し知覚といふのは、単に主観的なる感覚要素の結合ではなくして、その中に客観的意
NKZ4-10-10 義を有って居なければならぬ、客観的対象を含んで居なければならぬ。例へば、空間的知覚にしても、
NKZ4-10-11 感覚が空間的に構成せられて居るのではなく、此等の要素の結合によつて空間的延長が意識せられて
NKZ4-10-12 居なければならぬ。空間的知覚が延長を有って居るのではなく、延長を意識して居るのである、延長
NKZ4-10-13 が意識内容として感覚を統一して居るのである。勿論、知覚に於ては、空間といふものが、未だ概念
NKZ4-10-14 的に意識せられて居ないと云ひ得るであらう、客観的空間といふ様なものが未だ認識せられて居らぬ
NKZ4-10-15 と云ひ得るでもあらう。併し物が判断の対象となる、明かに之を知ると云ひ得るかも知らぬが、概念
NKZ4-11-1 的に知られた時、始めて意識せられるのではない。事実の知識では、我々は知覚の中に含まれたるも
NKZ4-11-2 のを判断の形に構成するのである。知覚の中に含まれたるものは、概念的知覚としては潜在的であり、
NKZ4-11-3 不分明であるとも考へ得るであらう、併し之がために知覚内容を知覚内容として不分明と考へること
NKZ4-11-4 はできない、知覚の立場からしては、概念は却つてそのあはき影といふこともできる。空間的知覚の
NKZ4-11-5 例について云へば、数学的空間と異なつた物理的空間といふ如きものは、知覚の中に含まれた空間を、
NKZ4-11-6 概念的に構成したものでなければならぬ、知覚せられた空間を離れて客観的空間はない。若し知覚の
NKZ4-11-7 中に客観的なものが映じて居らぬと云ふならば、物理的真理の如きものは成立し得ない、思惟のみに
NKZ4-11-8 よつて物理的真理を構成することはできないのである。屡々云はれる心理学者の云ふ如く、若し知覚の中に含まれ
NKZ4-11-9 たる延長の意識が、他の感覚要素と同列的なる筋肉や関節の感覚といふ如きものとするならば、それ
NKZ4-11-10 は内面的統一の用を成すことすらできない、従つて知覚といふ如きものも成立することはできないの
NKZ4-11-11 である。
NKZ4-11-12 右の如き理由によつて、客観的意義を含むと考へられる知覚とは、如何なるものであるか。普通に
NKZ4-11-13 知覚といへば、或有限なる限定せられた経験内容と考へられる。併しそれは如何なる意味に於て限定せられて
NKZ4-11-14 をると云ふのであるか。時間、空間、個人によつて限定せられたものとするならば、それは限定せら
NKZ4-11-15 れた経験内容といひ得るであらう。併し斯くいふ場合に知覚といふのは、心理学的に作為せられた意
NKZ4-12-1 識現象であつて、真に思惟我に対して与へられたといふ意味に於ての知覚ではない。我々の自己を空
NKZ4-12-2 間、時間、因果の世界に対象化し、かゝる世界に於て我と物と相働き、知覚とは物が我に働くことに
NKZ4-12-3 よつて生ずる経験的自己の現象に過ぎないと考へるならば、それは時間、空間、個人によつて限定せ
NKZ4-12-4 られて居るのは云ふまでもなく、物の第二次的性質の意識とも考へ得るであらう。この場合、我々が
NKZ4-12-5 之に就いて思惟するといふことは、之を越えて第一次的性質を知ることである、思惟の対象界に入る
NKZ4-12-6 ことである、思惟作用といふのは、自己の作用であるとともに、知覚を越えて知覚外を知る作用とも
NKZ4-12-7 考へ得るのである。思惟といふにも種々の意義を考へ得るであらう、普通に考へられる如く、それを
NKZ4-12-8 反省的思惟の意味に解するならば、思惟といふのは、単に主観的意識作用であつて、之に対しては知
NKZ4-12-9 覚の如きものも直接の所与と考へ得るであらう。併し思惟といふのを、カント哲学で云ふ如き構成的
NKZ4-12-10 思惟の意義に解するならば、主観的意識に対して客観的世界即ち経験界と考へられるものが、既に構
NKZ4-12-11 成せるられたものであり、主観的なる意識現象といふものも、思惟によつて構成せられたものと云ふの
NKZ4-12-12 外はなからう。此の如き思惟に対しては、所謂知覚といふ如きものは構成せられたものであつて、与
NKZ4-12-13 へられたものではない。此の如き思惟に対して与へられるものは、認識構成以前のものでなければな
NKZ4-12-14 らぬ、カントの所謂物自体の如きものでなければならぬ。併し物自体といふものが、全く認識以前と
NKZ4-12-15 して、何等の意味に於ても我々の意識に含まれて居ないものとするならば、我々の認識の限界として
NKZ4-13-1 考へることすらも不可能である、何となれば、限界といふことは、高次的立場の自覚に於て始めて云
NKZ4-13-2 ひ得るのである、真に構成的思惟に対して与へられたものは、構成的思惟の内容を内に含んだもので
NKZ4-13-3 なければならない。無論、構成作用に対して与へられるといふには、単に材料として与へられると考
NKZ4-13-4 へることもできるであらう。此の如き場合、与へられるものは、偶然的と考へられるであつて、形式と材料とは互
NKZ4-13-5 に外的と考へられ、材料は形式作用に対して全然受働的たるを免れない。併し厳密に考へれば形式と
NKZ4-13-6 材料とは何処までも無関係とは考へられない、全然受働的なる材料はない、全然受働的なるものは材
NKZ4-13-7 料となることもできない。特に芸術の理念の如きものに至つては、材料を離れてあるのではない、色
NKZ4-13-8 や形を離れて画家の理念はなく、音を離れて音楽の理念はない、芸術的理念は形式と材料との統一にあるのであるで
NKZ4-13-9 なければならぬ。我々の思惟が認識の形式として経験内容を構成するといふのは、如何なる意味に於
NKZ4-13-10 て構成するのであるか。与へられたる経験内容は単なる材料として与へられるのではない、単に受働
NKZ4-13-11 的なるのではない。直接に与へられたる経験の中に含まれたる関係によつて我々の経験界が定められ
NKZ4-13-12 るのである。此意味に於て構成的思惟の作用は一種の芸術的形成作用の性質を有すると考へることが
NKZ4-13-13 できる。感覚的性質は往々物理学的立場から見て、主観的とか偶然的とか考へられる、併し感覚の客
NKZ4-13-14 観性、必然性によつて物理的世界が立せられるのである、物理的世界の立せられるには、感覚間に不
NKZ4-13-15 変の関係があると考へられねばならぬ。而して此の如き不変の関係が単に一個人の意識範囲内に於て
NKZ4-14-1 のみならず、各人の感覚の間にも共通であると考へられねばならぬ、斯くして始めて物理的世界が立
NKZ4-14-2 せられるのである。勿論、異なれる人と人との間に感覚の異同を直接に比較することはできぬ、時に
NKZ4-14-3 は或人が赤と感ずるものを、他の人が青と感じて居ることがないとも云へない。併し感覚的性質が単
NKZ4-14-4 にそれだけの意味のものであるならば、客観的実在としての物理的世界は成立し得ない。我々が一つ
NKZ4-14-5 の物理的世界を信ずるならば、二人の人の間の感覚の相違といふのは、生理学的に説明せられねばな
NKZ4-14-6 らぬ。眼の生理的欠陥から色盲があるといふことは、却つて同一の物理的原因から同一の感覚が生ず
NKZ4-14-7 るといふ感覚自身の連続性を証明することとなるのである。他人と自分との感覚的性質の異同は直ち
NKZ4-14-8 に比較できないかも知れない。併しすべての人の間に同一の物理的原因から同一の感覚を生ずるとい
NKZ4-14-9 ふ感覚自身の客観的連続性が認められて、始めて物理的世界が立せられるのである。物理学的因果と
NKZ4-14-10 いふのは、単に或一個人の意識内に於て、同一の感覚的結合が繰返されるといふのではない、如何な
NKZ4-14-11 る人の意識に於てでもといふ意味でなければならぬ。斯く考へねばならぬとするならば、物理的世界
NKZ4-14-12 の成立するには超個人的意識の統一、即ち純粋自我の統一といふ如きものが基礎とならねばならぬ。
NKZ4-14-13 物理学的法則といふのは、超個人的意識の立場から見た感覚間の不変の関係でなければならぬ。併し
NKZ4-14-14 斯く云ふ場合、超個人的意識といふのは単なる論理的意識であつてはならぬ、カントの云つた如く、
NKZ4-14-15 範疇と「図式」時との結合によつて、経験的知識の構成原理が成立するのである、単なる形式的思惟
NKZ4-15-1 にては、経験其者の内面的連続性に客観性を有する物理的世界の構成せられないのは云ふまでもなく、
NKZ4-15-2 時間、空間、運動の根本概念の上に成立する力学的世界をも構成することはできぬ。同じく思惟とい
NKZ4-15-3 つても、客観界を構成する客観的思惟と、意識の一作用としての主観的思惟とは同一でない。客観的
NKZ4-15-4 思惟は創造的でなければならぬ、範疇と図式「時」とを綜合する純我の統一は創造作用でなければな
NKZ4-15-5 らぬ。二つの独立せる形式の単なる結合から独立せる一つの客観的世界が成立することはできぬ、私
NKZ4-15-6 はカントの純粋統覚の徹底せる意義をフィヒテの事行の概念に求めたいと思ふ。一方から見れば形式
NKZ4-15-7 的思惟の立場は構成的思惟に対して、一般的と考へられ、構成的思惟の内容は形式的思惟の単なる材
NKZ4-15-8 料とも考へられるであらう。併し構成的思惟の内容が客観的対象として主観的思惟の目的となり、主
NKZ4-15-9 観的思惟が之に合ふことによつて真理となると云ふには、形式的思惟の立場は構成的思惟の立場の中
NKZ4-15-10 に含まれて居ると考へねばならぬ。すべて客観的真理を認識するといふこと、即ち認識作用といふの
NKZ4-15-11 は、或一つのアプリオリの立場から、アプリオリのアプリオリの立場に於て、之を包容する一層高次
NKZ4-15-12 的立場に移り行くことでなければならぬ。構成的思惟と反省的思惟との間に、既に右の如き関係があ
NKZ4-15-13 ると思ふのであるが、所謂物理的世界は単に構成的思惟によつて構成せられるのではない。物理的世
NKZ4-15-14 界の成立するには感覚との結合がなければならぬ、而してかゝる結合は唯行為的主観、意志的自覚の立場に於て
NKZ4-15-15 可能なるのである、運動によつて思惟と感覚とが結合するのである。意志の自覚なくして力の概念は成立しない。私が意志するといふことは、私の考を経験界に実現しようとすることである。意志の概念は我々の思惟と経験内容との結合から成立つ、意志を実現するといふのは経験界を自己の考の如く変ずることである。我々が意志として自覚する現象の成立するには、思惟と経験内容とを統一するアプリオリがなければならぬ。或は此の如き意志の現象といふ如きものは主観的幻覚に過ぎないとも考へ得るであらう。併し意志といふのは、単なる概念でもなければ、又力の世界に還元せらるべき現象でもない。意志は思惟と感覚との単なる複合物ではない。思惟は経験を超越して居る。是故に思惟の内容は一般的と考へられ、思惟の作用は自由とも考へられる。併し全然私が意志的自覚の立場といふのは経
NKZ4-16-1 験界を思惟内容の内面的発展と見る立場である、経験其者の奥に之を超越する思惟内容を見る立場で
NKZ4-16-2 ある。経験界を自己の考の如く変ずると考へる我々の意志の意識は、かゝる立場の自覚に外ならない。
NKZ4-16-3 私は前の著書「芸術と道徳」に於て私の所謂意志的主観の立場とか行為的主観とかいふものについて
NKZ4-16-4 論じて置いた。思惟の内容は超感覚的なるが故に、思惟の作用も超感覚的と考へられるが、現実の感
NKZ4-16-5 覚的意識を超越せるものは、思惟対象であつて思惟作用ではない。私が考へるといふことは、現実の
NKZ4-16-6 意識の中に超現実的な意識内容を含むといふことでなければならぬ。斯く現実の意識の中に超現実的
NKZ4-16-7 な内容を含むといふことは、現実の意識の中に現実ならざるものがあることを意味して居る、現実の
NKZ4-16-8 意識の中に超現実的立場の含まれ居ることを意味して居るのである、現実とはかゝる統一点をいふの
NKZ4-16-9 である。我々が思惟する時、一方に現実を離れると考へられると共にがその実、現在の感覚を離れるのではない。
NKZ4-16-10 而して此の如き思惟作用が成立するには、既にその根柢に於て廣義の意志のアプリオリが認められね
NKZ4-16-11 ばならぬのであるが、啻に現実に於て超越的対象を含むのみでなく、現実其者を考へる時、思惟はそ
NKZ4-16-12 の根元たる意志の内容を目的とせねばならない、所謂経験的知識の世界は斯くして成立するのである。
NKZ4-16-13 対象の内在を本質とする我々の意識現象は、それが感覚であつても、知覚であつても、皆意志のアプ
NKZ4-16-14 リオリに於て成立するのである。所謂意識現象とは最初に与へられる経験界である、意識現象が直ち
NKZ4-16-15 に直接経験とか純粋経験とか考へられるのもこれに由るのである。併し所謂意識現象といふのは意志
NKZ4-17-1 のアプリオリによつて構成せられたもの、即ち意志の射影であつて、意志自身が自覚した時、意志我
NKZ4-17-2 に対しては、与へられたものでなく、構成せられたものである。我が所謂意識の中にあるのではなく、
NKZ4-17-3 意識が我の中にあるのである。所謂意識現象とは、何処までも、それ自身に於て全きものではない、
NKZ4-17-4 その背後はいつでも超意識界に連続して居る。我の意識が成立し、我の意識界といふものを知つた時、
NKZ4-17-5 我は既に我の意識界を超越して居るのである。我々が客観界を知るといふことは、自覚に於て自己の
NKZ4-17-6 内に反省して行く如く、超意識界に進み行くのである。此過程を我々は経験内容を思惟し行くと云ふ
NKZ4-17-7 のである。我々が性質の範疇に当はめて「此物が赤い」といふ時、今見て居る「赤」の色が物の客観
NKZ4-17-8 的性質であるといふことを意味して居なければならぬ。而して現在見て居る「赤」の色が、何等かの
NKZ4-17-9 意味に於て客観的であるといふには、その物が我々の主観的なる思惟や意志によつて如何ともするこ
NKZ4-17-10 とのできない、それ自らに於て独立のものであるといふことを意味して居らねばならぬ。それが単に
NKZ4-17-11 意識内の現象であるとしても因果的に何等かの客観的根拠を有つたものでなければならぬ。而して経
NKZ4-17-12 験内容がそれ自身に於て客観性を有つといふことは、それ自身に於て連続的であるといふことを意味
NKZ4-17-13 して居らねばならぬ。無論単に客観的といへば、数理の如きものは云ふまでもなくのみならず、表象自体の如きもので
NKZ4-17-14 あつても、客観的と云ひ得るであらう。縦、表象自体の如きものは、我々の思惟に対して何等の力を有た
NKZ4-17-15 ず、寧ろ客観的思惟の所作と考へられるかも知らぬがとしても、数理の如きものに至つては、明にそれ自身の中に
NKZ4-18-1 一種の内面的連続性を有つといふことができる。すべて我々が或事実的真理を認めるといふ場合は、
NKZ4-18-2 その客観性の根拠が数理の如く単に理性の創造ではなく、思惟によつて達することのできない、それ
NKZ4-18-3 以上の独立せる連続性を有つと考へねばならぬ。感覚なくして思惟作用はない、見方によつては、感
NKZ4-18-4 覚が思惟の対象となるのみならず、又思惟の原因となるとも考へ得る、単なる対象は作用として働く
NKZ4-18-5 ことはできないのである。苟も感覚が何等かの客観性を有し、認識を制約するといふには、それ自身
NKZ4-18-6 に於て統一ある連続として、構成的思惟を之に従へ得るものでなければならぬ。感覚が「知覚予料の
NKZ4-18-7 原理」に当はまつて客観性を得ると考へられるのも、思惟は感覚と結合することによつて、客観性を得る之に由るのである、感覚が思惟に対して要求
NKZ4-18-8 Anspruchとして与へられると云ふのは、此立場から云ひ得るのである。我々の構成的思惟に対して
NKZ4-18-9 真に与へられるといふべき感覚は、此の如き超思惟的連続でなければならぬ。一方から見れば、思惟
NKZ4-18-10 の内容は一般的にして、特殊なるものを含むと考へ得るでもあらうが、具体的実在に於ては、一般的
NKZ4-18-11 なるものは特殊的なるものの中に含まれ、その関係の形式となる、即ち否その発展の手段となるのである。
NKZ4-18-12 右の如き経験内容自身の内面的連続の立場に於て、感覚の背後にも無限なる内面的連続を見る時力の
NKZ4-18-13 概念が成立し、物理的世界が構成せられるのである。前に云つた如く我々が我々の主観的意識界を越
NKZ4-18-14 えて、経験内容其者の客観的世界を信じ得るのは之に由るのである。或一つの感覚内容が自己同一と
NKZ4-18-15 して考へられるのは、同一の範疇に当はまつて、斯く考へられると云ひ得るでもあらう。併し何故に
NKZ4-19-1 之を斯く自己同一として考へねばならぬのであるか。若しそれが我々の自由であるといふならば、経
NKZ4-19-2 験界の客観性といふ如きものは失はれなければならぬ。縦、それが既に思惟によつて構成せられたも
NKZ4-19-3 のなるが故としても、単に構成的思惟によつて経験界の客観性を立することはできぬ、そこには感覚
NKZ4-19-4 の制約がなければならぬ。元来、自己同一といふのは、実在を認識する構成的思惟の範疇でなければ
NKZ4-19-5 ならぬ、而して此の如き範疇は自覚の体験なくして成立することはできぬ。構成的思惟の範疇は即ち唯純
NKZ4-19-6 我の自覚の形式である。併し経験内容が自己同一の範疇に当はまつて、客観的実在が構成せられると
NKZ4-19-7 いふ時、そこに思惟と感覚とを包む先験的統一がなければならぬ。而してそれは単なる純我といふ様
NKZ4-19-8 なものではなくして、純粋意志といふ如きものでなければならぬ。我々の自己は所謂自覚に於て真に
NKZ4-19-9 自己を知るのではない、単なる知的自己は尚対象化せられたものである、真の自覚は意志の体験其者
NKZ4-19-10 でなければならぬ、即ち意志自由の自覚にあるのである。真の我は知る我ではなくして働く我である、
NKZ4-19-11 知るといふことも働くことでなければならぬ。見ることも、聞くことも、考へることも、我の働きで
NKZ4-19-12 ある、見又は聞く我は考へる我である、我は此等の作用の統一でなければならぬ。思惟と感覚との統
NKZ4-19-13 一は、此の如き働く我の立場に於て成立するのである。此立場に於て、感覚内容が「同一」の範疇に
NKZ4-19-14 当はまつて一つの連続体と考へられるのである。働く我は考へる我を含むが故に、働く我の立場に於
NKZ4-19-15 て現れるものは、思惟の範疇を含んだものでなければならぬ。感覚の自己同一は、働く我の自己同一
NKZ4-20-1 である、之によつて感覚の連続の世界が考へられるのである、感覚は思惟に対して非合理的なると共
NKZ4-20-2 に、之を制約して客観界を構成するのである。意志我の立場に於て現れ来るものは、すべて力でなけ
NKZ4-20-3 ればならぬ、我々の意志といふのは主観的現象であつて、意志の自由といふ如きことは、幻覚か錯覚
NKZ4-20-4 に過ぎないと考へられるから、意志のアプリオリによつて、力の世界が構成せられるといふのは、異
NKZ4-20-5 様に感じられるのであるが、単なる真理の世界から作用の世界は出て来ない。超越的思惟によつて真
NKZ4-20-6 理の世界が見られる如く、超越的意志の立場によつて力の世界が見られるのである。主観的意志とい
NKZ4-20-7 ふのも、此立場に於て成立する一面の現象に過ぎない。主観的意志は之を対象化し得るかも知らぬが、
NKZ4-20-8 純粋意志を対象化することはできぬ。否、主観的意志といへども、作用を対象化する意志の立場に立つこ
NKZ4-20-9 とによつてのみ、之を対象視することができるのである。
NKZ4-20-10 構成的思惟によつて経験界が構成せられるといふ時、形式と内容との関係は互に偶然的ではない。
NKZ4-20-11 我々の経験界を構成するアプリオリは、思惟と感覚との内面的統一でなければならぬ、此点に於て私が芸術家の
NKZ4-20-12 創造作用とその性質を同じうすると思ふ云ふのは此故である。構成的思惟も既に創造的と云ひ得るでもあ
NKZ4-20-13 らうが、感覚内容を含む創造作用ではない。我々の経験界とは、之に反し思惟が経験内容の内から構
NKZ4-20-14 成したものである、思惟によつて見られた経験内容の世界である。純粋視覚によつて芸術家が成形美
NKZ4-20-15 術の世界を見出す如く、構成的思惟によつて我々は客観的経験を見出すのである。成形芸術家が手を
NKZ4-21-1 加へた眼を以て見る如く、物理学は思惟を加へた感官によつて見るのである。若し我々の意志が感覚
NKZ4-21-2 の中に思惟を包むとするならば、両者共に意志の立場に於て成立するのである。芸術の対象界は主観
NKZ4-21-3 的と考へられるが、その客観的たる点に於て所謂認識対象界と譲る所はない、否一層客観的と考へる
NKZ4-21-4 ことができる。それで構成的思惟に対して直接に与へられるものは、所謂知覚の世界の如きものでは
NKZ4-21-5 なくして、芸術家の見る如き直観の世界でなければならぬ、即ち意志の対象界でなければならぬ。我
NKZ4-21-6 我が思惟によつて構成して行くといふのは、既にその中に含まれたものを見出して行くことである。
NKZ4-21-7 我々の認識作用といふのは此の如き直接に与へられたものの発展の過程と見ることができる。すべて
NKZ4-21-8 我々の主観的作用に対して、直接に与へられるといふべきものは、此作用の立場を包み而も此立場に
NKZ4-21-9 よつて達すべからざる高次的立場の対象界でなければならぬ。反省的思惟に対して、構成的思惟の世
NKZ4-21-10 界が此意味に於て与へられた客観界となり、構成的思惟に対して意志の世界が此意味に於て与へられ
NKZ4-21-11 た客観界となるのである。或一つの立場に於ては、その対象界はそれ自身に全きものと見ることがで
NKZ4-21-12 きる、他の立場によつて与へられるものはこれに対して外的たる材料に過ぎない。各の知識のアプリ
NKZ4-21-13 オリが独立であつて、此等を統一するアプリオリのアプリオリといふべき立場がなかつたならば、一
NKZ4-21-14 つの立場に対して客観的に与へられるといふべきものはない。知識が自己自身を完成するため、その
NKZ4-21-15 客観的目的として与へられるものは、アプリオリのアプリオリの立場に於てでなけれ与へられねばならぬ。形
NKZ4-22-1 式と内容とを内面的に統一して、新なるアブリオリを構成するのは、この立場でなければならぬ、そ
NKZ4-22-2 こには一種の芸術的創造作用の面影がある。或一つの知識の立場に対して、客観的に与へられるもの
NKZ4-22-3 は、芸術的創造作用と同様の立場に於て与へられねばならぬ。内容ある知識の成立は単に論弁的悟性
NKZ4-22-4 diskursiver Verstandによるのではなく、直覚的悟性intuitiver Verstandによらねばならぬ。外に自
NKZ4-22-5 然界を構成する力や生命は、自己の中に於て直観せられたものである。与へられたものは求められた
NKZ4-22-6 ものであるといふが、一つのアプリオリはそれ自身に於て全きものであつて、他を求める必要はない。
NKZ4-22-7 認識発展の要求はアプリオリのアプリオリの立場に於ける認識作用自身の目的から起つて来なければ
NKZ4-22-8 ならぬ。たとひ或数理の問題が我に対して解くべく与へられるといふ場合でも、数理的思惟が我を包んで居
NKZ4-22-9 なければならぬ。我が数理其者たらば、之に対して数理の問題が与へられる要はない、又我が時間、
NKZ4-22-10 空間によつて限定せられた単なる心理的現象ならば、之に対して数理の如きものが与へられ様はない。
NKZ4-22-11 知識の客観性の要求として無限に求められ、与へられるといふのはアプリオリのアプリオリの立場に
NKZ4-22-12 於て云ひ得るのである。すべて我々の意識現象は此立場に於て成立するのである、意識現象はそれが
NKZ4-22-13 如何に小なるものであつてもその中に無限の発展を含み、その本質に於て創造的である。意識現象が一度的と考へられるのも之に由るのである。構成的思惟
NKZ4-22-14 に対して客観的に与へられるといふものが、芸術的内容と同性質と考へるには、多くの異論があるか
NKZ4-22-15 も知らぬが、構成的思惟が客観的経験界を構成するには、その根柢に主客合一の立場、事行の立場が
NKZ4-23-1 なければならぬ。此立場から見れば所謂芸術的内容は部分的であるが、却つて具体的客観的といふことができる。此立場に於て与へられるものは、芸術的直観の如き形に於て与へられるのである。
NKZ4-23-2 以上論じた如き訳であるから、思惟我に対して直接に与へられた客観的或物として立つものは、思
NKZ4-23-3 惟によつて構成せられた知覚の如きものではなく、主客合一の芸術的直観の如きものでなければなら
NKZ4-23-4 ぬ、即ち思惟に対立する外界ではなく、劫つて之を包んだものでなければならぬ、思惟我を含んだも
NKZ4-23-5 のでなければならぬ。此の如きものを所謂直接経験とか純粋経験とかいふべきものであらう。此の如
NKZ4-23-6 き直接に与へられた意識の内容は時間、空間、個人の範疇によつて限定せらるべきものではない。我
NKZ4-23-7 我の現実の意識は単に認識対象の世界に連なつて居るばかりでなく、直ちに超認識の世界に連なつて
NKZ4-23-8 居る。現実の意識は無限に深く大なるものの中に浮んで居るのである。我々が之を限られたものとし
NKZ4-23-9 て考へるのは、構成せられた有限の自己を中心として考へるが故である。我々は通常我々の身体と結
NKZ4-23-10 合した心理学的自己を中心として考へる、併し此の如き自己が意識して居るのでないことは云ふまで
NKZ4-23-11 もない。自己の背後に附着せる物質的陰影を除去して、純粋な意識の内面的統一としての自己を考へ
NKZ4-23-12 るとしても、それが有限なる意識の一統一として見られた時、それは既に対象化せられた自己であつ
NKZ4-23-13 て、現実に意識する自己ではない、それは省みられた自己ではない、現実に意識する自己は、何処ま
NKZ4-23-14 でも省みることのできない自己である。或は自己が後から省みられた時、過去に射影せられて対象と
NKZ4-24-1 なるも、その当時に於ては、それが意識する自己であつたと云ふでもあらう、併し真の我はその時、
NKZ4-24-2 その時に無限であり、自由である、此の如き我の全体は記憶の対象として後に省み得べきものではな
NKZ4-24-3 い。後に想起せられた我の内容は、有限でもあらう、併しその為に前に働いた主観の内容が有限であ
NKZ4-24-4 つたとは云はれない。我々が働く自己を一度的と考へるのは、その内容の無限なるが故である、正し
NKZ4-24-5 く云へば、働く自己は対象化せられた自己に対して、高次的なるが故である。高次的なるが故に達す
NKZ4-24-6 べからざる極限となる、一度的にして繰返すことのできないといふのは自己を認識対象として考へる
NKZ4-24-7 故である。以上は意識の背後に統一的主観といふ如きものを置いて考へたのであるが、又所謂純粋経
NKZ4-24-8 験論者の如く、直接の経験に於ては未だ主客の区別ない単に経験といふ如きものがあつて、其等のも
NKZ4-24-9 のが後に如何に相関係するにせよ、その時に於ては有限なるものとも考へ得るであらう。併し我々が
NKZ4-24-10 或経験内容を有限として見るには、何等かの立場によつて限定して居るのでなければならぬ、即ちそ
NKZ4-24-11 れは既に直接の経験とは云はれないのである。時間、空間の形式は、カントも之を直覚の形式と考へ
NKZ4-24-12 た如く、経験は之によつて与へられると信ぜられ、我々が直接の経験を限られたものとして見る時、
NKZ4-24-13 之によつて限定して居るのである。併し真に直接の経験を与へる「時」は、カントの云ふ如き形式的
NKZ4-24-14 なる「時」ではなくして、却つてべルグソンの所謂純粋持続の如きものでなければならぬ、上に云つ
NKZ4-24-15 た如く、与へられた現実の経験の内に、超時間的なものを含んで居るのである。或は直接経験の内容
NKZ4-25-1 は時間空間の形式によつて限定すべきものでないとしても、意識せられたものは、未だ意識せられな
NKZ4-25-2 い無限の内容に対して有限と考へざるを得ないと云ふでもあらう。心理学者が考へる如く、我々は意
NKZ4-25-3 識について種々の程度とか、範囲とかいふものを考へ得るであらう。意識の焦点にあるものを最も明
NKZ4-25-4 に意識して居ると考へるのであるが、単に焦点にあるもののみが意識せられて居るのではなく、その
NKZ4-25-5 周囲にジェームスの所謂意識縁暈といふ如きものが附着して居ると考へ得る。而して更に此範囲を越
NKZ4-25-6 ゆれば、全然無意識の世界となり、意識せられざる世界の内容は、我々の有限なる意識の範囲に対し
NKZ4-25-7 て無限と考へられる。併し我々は是に於て一つの解き難き矛盾に撞着せざるを得ない。我々は如何に
NKZ4-25-8 して意識の内外を比較し、意識せられたものを有限と考へることができるのであるか。かゝることが
NKZ4-25-9 可能なるには、我は意識の内外を統一し比較し得る立場に立つて居なければならぬ。一方に於て、我
NKZ4-25-10 は意識内のみを知り得ると考へ得ると共に、我は意識外を知り得ると考へねばならぬ。アウグスチヌスが我々は神を求めるが故に、既に神を知つて居るのであるといふ意味も此になければならぬ。普通には、我
NKZ4-25-11 我は思惟によつて意識外を知り得ると考へ、感覚以内を意識内と考へて居る、感覚なくして意識のな
NKZ4-25-12 いことは云ふまでもない、思惟も意識として何等かの感覚を伴はねばならぬ、感覚が思惟内容を代表
NKZ4-25-13 することによつて、思惟し得るのである。併し所謂感覚からは、思惟の作用の生じないのは云ふまで
NKZ4-25-14 もなく、之によつて思惟内容を代表することすら不可能である、所謂感覚といふのは、却つて意識内
NKZ4-25-15 容の限定せられたものに過ぎない。此意味に於ては意識は感覚内にあるのではなく、感覚は意識内に
NKZ4-26-1 あるのである。我々が意識を限定せられたものとして考へた時、之を限定する意識がなければならぬ。
NKZ4-26-2 所謂意識の内外といふのは、限定する方面と、限定せられる方面との対立に過ぎない。而して意識を
NKZ4-26-3 限定するものは意識の外にない、所謂意識の背後には、之を包み、之を限定する意識がなければなら
NKZ4-26-4 ぬ。所謂意識の根柢には、主客合一の意識即ち直観があり、純粋活動の意識がある、所謂意識は此立
NKZ4-26-5 場の上に於て成立するのである。真に与へられた直接経験とか、純粋経験とかいふべきものは、此の
NKZ4-26-6 如き意味に於て無限の内容を含んだものと考へねばならぬ。我々がこの深底に入込めば入込む程、そ
NKZ4-26-7 こに与へられた現実があるのである。それは主観的に云へば対象化することのできない自己であり、
NKZ4-26-8 客観的に云へば反省し尽すことのできない直接の所与である。そこに主客合一の直観、純粋活動の意
NKZ4-26-9 識があり、すべての知識の根源があるのである。現実に働く我に対して与へられたもの、否主客合一
NKZ4-26-10 の立場に於て与へられたものは、所謂意識界ではなく、その背景に超意識界を含んだものでなければ
NKZ4-26-11 ならぬ。我々が行為的主観、即ち働く自己の立場の上に立つ時、我は既に超意識界を対象として居る
NKZ4-26-12 のである。而して真に現実の所与といふのは、この働く自己に対して与へられたものの外にない、我
NKZ4-26-13 我が後に想起し、思惟するものは、皆此に含まれて居るのである。物を見て居る時我々は視野に現れ
NKZ4-26-14 て居るものだけを見て居ると考へる、併し真の我は単に見る我ではない、かゝる我は考へられた我で
NKZ4-26-15 ある、思惟的我を離れ、我を忘して見る我は、行為と結合した我でなければならぬ、表出運動と結合
NKZ4-27-1 した純粋視覚の如きものでなければならぬ、此の如き視覚内容は超知識的でなければならぬ。普通に
NKZ4-27-2 見る我といふのは、後から知的内容に直し得る視覚の内容の統一を考へるのである、併し此の如き主
NKZ4-27-3 観は要するに考へられた主観に過ぎない。私が現在、物を見て居る時、私は知的主観として知的内容
NKZ4-27-4 を有すると共に、精神的実在として無限の根柢の上に立ち、種々の対象界を有つて居る。我は「時」
NKZ4-27-5 によつて限定せられて居るのではなく、却つて「時」は我によつて限定せられて居るのである、無内
NKZ4-27-6 容なる「時」といふ如きものは単なる坐標に過ぎない、真の「時」は人格的でなければならぬ。
NKZ4-27-8 上に述べた如く、思惟に対して直接に与へられるものは、所謂感覚とか知覚とかいふ如きものでは
NKZ4-27-9 ない、感覚とか知覚とかいふ如きものは、却つて思惟によつて構成せられたものである。啻にかゝる
NKZ4-27-10 ものでないのみならず、有限なる意識の範囲といふ如きものも、既に思惟の構成によると云ひ得るで
NKZ4-27-11 あらう。無論思惟といふのを、単に反省的思惟の意義に解するならば、所謂経験も之に対して与へら
NKZ4-27-12 れたものと考へられるであらうが、構成的思惟に対して与へられるものは、所謂経験界ではなくして、
NKZ4-27-13 主客合一の直観界でなければならぬ。或はこれをリッケルトの「間なき肯定」das fraglose Jaの立場
NKZ4-27-14 の対象界とも考へ得るかも知らぬが、真に主客合一の直観の立場、純粋活動の立場はかゝる立場に対
NKZ4-28-1 立するものでなく、寧ろかゝる立場を包むものでなければならぬ。主客合一の立場に於て、主客対立
NKZ4-28-2 の立場が成立するのである。然らざれば、我々は「問なき肯定」を意識することはできぬ。或は主客
NKZ4-28-3 合一の立場は如何にして意識し得るかと云ふでもあらう。主客合一の立場に於ては、知即行である、
NKZ4-28-4 フィヒテの云つた如く働くことが知ることである、我々は我々の自覚の意識に於てその証明を有つて
NKZ4-28-5 居るのである。此立場は知的立場を包むが故に、知的内容に分析することのできない無限に深い対象
NKZ4-28-6 界を有つ、而して我々は知的立場を顧みないで、直ちに芸術的内容の世界に入込むことができるので
NKZ4-28-7 ある。与へられたものは「所与の範疇」に当はまつて知識となると云ひ得るであらうが、「所与の範
NKZ4-28-8 疇」は単なる思惟の形式ではない。此物が赤いとか、青いとかいふには、思惟以上の直観が加はらね
NKZ4-28-9 ばならぬ、此範疇をして範疇たらしめるのは、かゝる直観の客観性、超越性によるのである、直観的
NKZ4-28-10 内容との一致といふことが、この範疇の意義であり、目的である。思惟に対する極限は単に思惟より
NKZ4-28-11 成立するのではない、そこには何時でも思惟よりも高次的な立場がなければならぬ。此立場は啻に思
NKZ4-28-12 惟より高次的であるのみならず、却つて之を包容し、思惟も此立場に於て成立するのである、大なる
NKZ4-28-13 思惟の基には大なる直観があるのである。
NKZ4-28-14 直観を右の如く考へるには、多くの異論のあることであらう。私はその意義を明にするため、少し
NKZ4-28-15 く想起との関係を論じて見よう。普通には、我々が直観したものを、後に想起すると考へる、一度意
NKZ4-29-1 識から消え去つたものでも、記憶の中に保存せられ、幾度にても意識の中に呼び起し得ると考へる。
NKZ4-29-2 我々が思惟によつて直接の経験内容を構成するといふにも、此の如き作用をその間に挟まねばならぬ。
NKZ4-29-3 アウグスチヌスは記憶について最深い意義を認めた。我々は我々を創造したものを求めて記憶の宮殿
NKZ4-29-4 に到る、そこには我々の知覚したすべての物のみならず、考へるすべての物がたくはへられる、それ
NKZ4-29-5 は広く、測り知ることのできない奥院であると云つて居る(Confessiones. X. 8.)。併し所謂現実の意
NKZ4-29-6 識の背後に超現実的なものが含まれて居ないならば、如何にして我々は後に此意識を想起し、種々な
NKZ4-29-7 る関係に於て、之を組織し統一することができるであらうか。若し意識がその時々のものならば、何
NKZ4-29-8 者が過去の意識と現在の意識とを結合するであらうか。之を結合するものが亦意識であるとすれば、
NKZ4-29-9 その意識も亦現在の外に出ることはできない。過去の意識のを想起し之と現在の意識とを比較するもの
NKZ4-29-10 は、超時間的意識でなければならぬ。我々は是に於て如何にしても過去を直観する意識といふものを
NKZ4-29-11 考へねばならぬ、而してそれは又未来を見るものでなければならぬ。或は此の如き意識の基にも何等
NKZ4-29-12 かの感覚的意識があると考へるであらうかも知れない、意識の意識とは意識の縁暈の如きものと考へるかも知
NKZ4-29-13 らぬが、併し我々の意識はいつでも一つでなければならぬ、二つの意識が同時に存在するのではない。
NKZ4-29-14 我々が過去を想起する時、感覚は感覚の意味を失うて、之を構成する的要素となつて居なければならぬ、更に
NKZ4-29-15 思惟の立場に進めば、種々なる記憶表象といふ如きものも、之を構成する材料となるのである、或一
NKZ4-30-1 の意識が明になればなる程、他の意識の独立性は失はれるのである。普通に感覚が意識の基となると考へら
NKZ4-30-2 れるも、所謂感覚が意識の基となるのではない、具体的意識はいつも衝動の形に於て成立するのであ
NKZ4-30-3 る、即ち広義の意志でなければならぬ。斯くして始めて意識は内面的統一によつて成立するとか、対
NKZ4-30-4 象を内に含むとか云ひ得るのである。而して衝動とか意志とかいふ形に於て、我々の意識は所謂空間、
NKZ4-30-5 時間を超越して居ると考へることができる。意識が所謂「時」の中にあるのではなく所謂「時」は意
NKZ4-30-6 識の中にあるのである、意識の能働的統一、「真の時」は意識の中に於て対象化することはできぬ、而
NKZ4-30-7 してかゝる統一の自覚が我々の意志に外ならぬのである。我々の衝動的意識の中には超時間的なるも
NKZ4-30-8 のの意識が含まれて居る、物力の意識も実は之によつて成立するのである、物力は「所謂時」に対し
NKZ4-30-9 て不変であり永久である。我々は衝動に於て物力に直接して居るのみならず、之を内に包んで居るの
NKZ4-30-10 である、物が永遠に現在なるが如く、衝動も永遠に現在である。我々の所謂時とは真の時ではない、四次元の世界に於ける坐標の一つの軸に過ぎない。物は「物自身の時」を有つが、世界線に於ての「時」は知ることはできない。現在といふのは、一方からは斯くい
NKZ4-30-11 ふ瞬間にも既に過ぎ去つたものと考へねばならぬと共に、一方からはジェームスの云つた如く我々が
NKZ4-30-12 その上に坐して、「時」の両方向をながめ得る鞍の背の様なものであると考へることができる。意識の
NKZ4-30-13 現在と云つても、一直線の或一点といふ如きものではない、数学者の点といふ如きものではない。対象を内に含むと考ふべき意識は自ら動
NKZ4-30-14 的である、自分の中に包まれない内容を有つて居る、全体を部分の中に含んで居る。動くものは或一
NKZ4-30-15 定の方向に向つて動かねばならぬ、是に於て一次元的系列が構成せられ、之によつて過去と未来とが
NKZ4-31-1 対立し、その中心として現在といふものが考へられる。此故に我々の意識が自己の現在の中に無限に
NKZ4-31-2 深きものを含むといふことによつて、時の意識、否時其者が成立するのである。私は此に於ても亦アウグスチヌス
NKZ4-31-3 の深い考を想起せざるを得ない。元来過去とか、現在とか、未来とかいふものはない、唯過去に関す
NKZ4-31-4 る現在、現在に関する現在、未来に関する現在といふものがあるのみである、過、現、未は我々の心
NKZ4-31-5 の中に存在して居る、過去は記憶に於て、現在は直覚に於て、未来は希望に於て現在であると云つて
NKZ4-31-6 居る(Confessiones. XII.20.)。過去は既に過ぎ去つたものであり、未来は未だ来らないものと考へら
NKZ4-31-7 れるが、所謂現在とは達すべからざる数学的点の如きものに過ぎない、真の現在は所謂過、現、未を
NKZ4-31-8 含んだ一つの活動でなければならぬ。此立場に於ては何時でも現在である、具体的意識は単なる直覚
NKZ4-31-9 ではない、記憶と希望とを含んだものである、永遠なるもののみ実在である。現在とはこの実在の深
NKZ4-31-10 き底を指すに過ぎない、それは達すべからざる深底たると共に、我はいつもその中にあるのである。
NKZ4-31-11 我々が現在から未来に移り行くといふのは、小なる中心から大なる中心に移り行くに過ぎない。我々
NKZ4-31-12 はいつでも現在を中心として過去と未来と順序立てて行くが、此時現在は我の外より来り我の外に出
NKZ4-31-13 で行く一線の上を動いて行くのではない、現在は深く深く我の中に入つて行くのである。具体的経験
NKZ4-31-14 は我々の内に向つて流れるべルグソンの所謂内面的持続の如きものである。所謂意識一般の立場によ
NKZ4-31-15 つて、之を認識対象界に映した時、かかる対象界と内面的時との接続点が現在となる。此結合点が超
NKZ4-32-1 越的意識として、外面的方向に於て認識主観であり、内面的方向に於て超越的意志である。アウグス
NKZ4-32-2 チヌスの云ふ如く、時はいつでも現在を中心として考へられるのであるが、その内容によつて種々の
NKZ4-32-3 時が成立するのである。主によつて種々の客観的世界が構成せられ、我々が一つの客観的世界を見て
NKZ4-32-4 居る時、我の背後にいつでもかういふ「時」の流がある。所謂認識主観の立場即ち意志の自己否定の
NKZ4-32-5 立場によつて、此流が閉ぢられた時、そこに客観的対象界を見、此流が開かれたる時、そこに意識の
NKZ4-32-6 流の世界、内面的持続の世界を見るのである。我々の意識現象は之を認識主観の立場に於て見た時、
NKZ4-32-7 所謂「時」の範疇に当はまつたものであるが、一方に於てはいつでも超時間的なものに接して居る。
NKZ4-32-8 「時」を去って還ることなき無限の系列と考へられるのは、反省することのできない無限に深きもの
NKZ4-32-9 への関係を示すのである。知的主観といふも一つの点ではなく一つの線である。我々が自己の主観的
NKZ4-32-10 作用を時間の上に生滅すると考へるのは、此の深き反省することのできない底より見て居るのである。
NKZ4-32-11 或は時を超越する意識といふ如きものは、考へることができぬと云ふであらう。併し我々がこの深き
NKZ4-32-12 奥底に入れば入る程、時を超越し又自他を超越するのである、私が此机が私の眠れる間にも、儼存在し
NKZ4-32-13 て居たと信ぜざるを得ないのは、之によるのである、この立場に於て客観的記憶が可能となる、記憶
NKZ4-32-14 の一般的妥当性が成り立つのである。然らば、如何にして私が眠れる間にも此机の意識があつたか、
NKZ4-32-15 如何なる形に於て意識せられて居たかといふ疑問が起るであらう。併し我々が或目的を意識して事を
NKZ4-33-1 成す時、この目的は始より終りまで働いて居ると考へねばならぬ、目的が已自身を発展し完成しつゝ
NKZ4-33-2 あると云ひ得るのである。我々の意識に統一といふものが無いと云ふならばとにかく、若し我々の意
NKZ4-33-3 識が統一によつて成立し得るとするならば、我々の根柢には所謂眠れる間にも覚めたるものがなけれ
NKZ4-33-4 ばならぬ。意識一般は何時でも現在である、前後の意識の間に間隙があつたと知るのも、亦此意識に
NKZ4-33-5 よるのである。目的的統一としての自己の根柢は流れ去るものではない、何時でも働いて居るのであ
NKZ4-33-6 る、元来意識統一といふのは目的的統一を意味するのである、而して目的的統一には何時でも現実を
NKZ4-33-7 越えて志向するものがなければならぬ。現れただけにて全いものとすれば、それはもはや目的を有つ
NKZ4-33-8 たものではない、目的的統一は何時でも無限の根柢に結合して居なければならぬ、自己といふのは此
NKZ4-33-9 の如き無限の流への結合点に過ざない。例へば、真理知識は何処までも、未完成のものである、無限の進
NKZ4-33-10 行である、我々が或一つの真理を考へる時、「真理への意志」の上に立つて居るのである、此意志は時
NKZ4-33-11 を超越して居る、何時でも現在である。知的主観に於ては、尚我々が考へない時があると云ひ得るで
NKZ4-33-12 あらう、併し我々は如何にしても意志主観を離れることはできぬ。我々に無意識の時間があつたと考
NKZ4-33-13 へるのは、知的主観の立場の上に立つ故である、自己は無意識の間にも生長しつゝあるのである、此
NKZ4-33-14 机が昨夜私の眠れる間にも連続して居たといふ確信も、此上に成り立つのである。此の如き主観は仮
NKZ4-33-15 定に過ぎないといふかも知れない、併し此の如き仮定は避けることができない、何となれば、斯く云
NKZ4-34-1 ふ時、既に此立場の上に立つて居るのである、之を仮定とするならば、すべての主観も仮定に過ぎな
NKZ4-34-2 い。感覚を離れて意識現象はないといふも単に感覚のみの意識はない、具体的意識に於ては、感覚の
NKZ4-34-3 底こ無限なるものがなければならぬ、感覚といふも無限なるものの自己限定の過程である、何処まで
NKZ4-34-4 も限定せられて行くべきものである。我々の感覚は何処までも行先を有つて居る、我々の感覚の底に
NKZ4-34-5 含まれて居る無限なるものは、永遠の過去から永遠の未来に亙つて動きつゝあるものである。かゝる
NKZ4-34-6 作用其者は瞬時も止むことなきものである、物力が働かざる時のないのと一般である。心理学者は意
NKZ4-34-7 識の範囲を有限と考へ、極微知覚の如きものを仮想として反対するも、昨日の知覚は直に今日の知覚
NKZ4-34-8 に連なり、昨日の思惟は直に今日の思惟に連なる、之を断たれたものと見るのは、外より考へるが故
NKZ4-34-9 である、その間を繋ぐ為に考へられた物質こそ、仮定たるを免れない。心理学者の所謂意識の範囲と
NKZ4-34-10 か、程度とかいふのは、後に反省し得る範囲を云ふに過ぎない、又反省し得ないとしても、意識があ
NKZ4-34-11 つたと推論し得る範囲をいふのである。併し意識の根柢は斯くして尽すことはできない、知的対象界
NKZ4-34-12 に持ち来し得るものは既に対象化せられたものである、その背後には永遠に働きつゝあるものがある、
NKZ4-34-13 永遠の現在がある、何処までも深い奥底がある。反省によつて達することのできない此の深き奥底が、
NKZ4-34-14 反省せられた時、或はそれが本能と考へられ、或は物力と考へられる、而して本能や物力は絶えず働
NKZ4-34-15 きつゝあると考へられる。絶えず働きつゝあると云ふことは、知識の立場から云へば達することので
NKZ4-35-1 きない深い奥底といふことである、「時」によつて之を断つことはできない、「時」はその中に消え行
NKZ4-35-2 くのである。我々が真に「時」のない立場に到達した時、自己の意識に対して見たる本能や物力の陰
NKZ4-35-3 影は消え失せて、主客合一の一直観となるのである。無論直観の立場に於ても、直観の中に入つたものと、入らないもの、即ち直観せられたものと、せられないものとの区別が考へられるであらう。例へば、如何なる芸術的創作も芸術的内容の一部分を示すものである、芸術的内容其者は無限でなければならぬ。併しかういふ場合、思惟の場合に於ての様に、我々は是に於て超個人的主観に結合するのである、超個人的主観が働くのである。此立場に於ては、恰も黒きも色の一種であるかの様に、無意識も積極的意義を有するのである。意識の根本的形式を意志と見れば、無意識はいつでも意志の一部分を成して居るのである。
NKZ4-35-4 我々が直観するといふ時、直観の内容として現れるものは、単に所謂感覚の内容ではなくして、如何
NKZ4-35-5 なる場合にも具体的経験の内容でなければならぬ、すべての立場を含んだ全我の意識内容でなければ
NKZ4-35-6 ならぬ、後に想起せらるべきもの、思惟せらるべきものが、既に含まれて居るのである、我々が後に
NKZ4-35-7 想起し、思惟するものは、皆此立場より発展し来ると考へねばならぬ。若し我々の心が永遠なる心の
NKZ4-35-8 流の中にあるものとすれば、我々の知識は昔プラトーの云つた如く、すべてがイデヤの世界の想起と
NKZ4-35-9 も考へ得るでもあらう。アウグスチヌスの云つた如く、神の創造以前に「時」はない、「時」も神の創
NKZ4-35-10 造したものでなければならぬ。我々は此立場の中に於て、自己の人格的歴史を構成し、更に進んで客
NKZ4-35-11 観的歴史をも構成するのである。我々は現在をのみ直観すると考へられるが、我々が過去を想起する
NKZ4-35-12 といふのは過去を直観するのである。如何にしてかゝることを云ひ得るか。思惟に於ては我々は時を
NKZ4-35-13 越えて永遠の真理を直観すると考へることができる、この場合、真理は何処に保たれてゐるのである
NKZ4-35-14 か、それは当為の世界に於てと考へねばなるまい。過去の事実も真理としては此世界に保たれるので
NKZ4-36-1 ある、此故に我々は過去の事実を幾度も想起することができるのである。記憶に於て繰返されるもの
NKZ4-36-2 は、感覚其者ではなくして、感覚の背後に含まれてゐたものである、後に之を想起するといふことは
NKZ4-36-3 既に此かゝる超感覚的立場に於て含まれたものが発展することである。無論、記憶の内容は単なる思惟の内
NKZ4-36-4 容ではない、記憶の内容は既に意志のアプリオリの参加によつて成り立つ事実の知識である、それは
NKZ4-36-5 繰返されるのではなく、我々が深く自己の奥底に入込むことによつて構成せられるのである、記憶が
NKZ4-36-6 記憶自身を保存するといふのは、自己自身を直観し行くことである。思惟の対象に対しては作用は外
NKZ4-36-7 的と考へられるが、記憶の内容に対し於ては作用自身が含まれて居る、作用が作用自身を省みるのである。
NKZ4-36-8 歴史家が過去の歴史を構成する如く、知ることによつて前のものが構成せられるといふことができる。
NKZ4-36-9 これは背理の様ではあるが、我々は時が何処に始まるかを知るのではない、現在の一点より一次元的
NKZ4-36-10 に前と後とに順序づけて行くのである。此線が繰返すことができないと考へられた時、それが「時」
NKZ4-36-11 である、而して繰返すことができないといふことは、自己との関係に於てのみ考へ得るのである。何
NKZ4-36-12 故に自己は繰返すことができないと考へられるのであるか、主と客と合一するが故である、知るもの
NKZ4-36-13 が知られるものなるが故である。主と客と離れた時、即ち我々が一つの対象界を外に見る時、それは
NKZ4-36-14 如何に大なるものであつても、之を繰返し得ると考へることができるのである。併し前にも云つた如
NKZ4-36-15 く、真に主客合一の立場に於ては、すべてが現在である、時はその中に跡形を絶つのである、creans
NKZ4-37-1 et non creataの神は同時にnec creans nec creataの神である。昔アナキシマンデルの云つた如く、Der Ursprung der Dinge ist das Grenzenlose. Woraus sie entstehen, darein vergehen sie auch mit Notwendigkeit. Denn sie leisten einander Busse und Vergeltung für ihr Unrecht nach der Ordnung der Zeitといふべきである。反省的知識の立場こ於ては繰返す
NKZ4-37-2 ことはできないと考へられるも、直観に於ては終が始に含まれて居る終と始とが共にあるのである。
[注記]:此論文では自分がはじめ言ひ表さうとしたものを十分言ひ表し得なかつたのみならず、論証も極めて不十分である。徒らに雑誌の紙数をみたすまでである。