西田幾多郎データべース(c) Niels Guelberg 2000


西田幾多郎[著]: 所謂認識対象界の論理的構造(1928. 04)

西田幾多郎全集・第5巻

校異
赤い文字(赤いフォント)は原雑誌論文の、単行本において削除された箇所を示す。
青い文字(青いフォント)は単行本において新たに附加された箇所を示す。


NKZ5-5-1    所謂認識対象界の論理的構造

NKZ5-5-2     此論文に於ては、既に「働くものから見るものへ」の後編に論じた多くのものが、前提となつて居るのである。「総説」に
NKZ5-5-3    於て述べた如く、私の一般者の自己限定といふのは本来、自覚的限定を意味するものである。判断的一般者の限定といふのは
NKZ5-5-4    その対象化せられたものに過ぎない、ノエマ面的限定を意味するものである。併し概念的知識といふのは判断的一般者の限定
NKZ5-5-5    として成立するものであり、少くともかゝる限定の可能が予想せられねばならぬものであるから、私は先づ判断的一般者の上
NKZ5-5-6    に立つて一般者其者を反省し、かゝる立場に於て如何なる知識内容が限定せられるかを考へて見たのである。
NKZ5-5-7     苟も一般者の自己限定によつて判断的知識が成立すると考へられるかぎり、一般者の自己限定といふのは既に意識一般的自
NKZ5-5-8    己の自覚的限定の意味を有つて居なければならぬ、規範的意識の意味を有つて居なければならぬ。一般者の自己限定の底には、
NKZ5-5-9    後の「叡智的世界」に於て述べた如き自己自身を見るものの直観的限定といふものが予想せられねばならないのである。無論
NKZ5-5-10    それは主語的なるものが述語面の底に超超するといふことによつて、単に論理的に考へられるのではなく逆に一般者の自己限
NKZ5-5-11    定を自覚的限定となすことによつて考へられるのである。一般者が何処までも自己自身の限定の底に深まつて行くといふこと
NKZ5-5-12    は、それが本来、自覚的なるが故である。一般者の限定を基礎附けるものは我々の自覚に外ならない。
NKZ5-5-13     若し然らば、判断的一般者の自己限定といふ中にも、既に種々なろ関係が含まれねばならない。先づ超超的述語面の自己限
NKZ5-5-14    定を知るものと考へ、「五」以下に於て、判断的一般者の自己限定の関係に於て自己とか実在界とかいふものを考へ、主客の対
NKZ5-5-15    立、合理非合理の対立の如きもかゝる限定に於て含まれて居ると考へたのである。
NKZ5-6-1     判断的一般者の自己限定を右の如く考へるならば、判断的知識即ち概念的知識と考へられるものはすべて判断的一般者の自
NKZ5-6-2     己限定として成立し、判断的知識の種々なる構造及び種々なる階段は判断的一般者の限定から明にせられなければならない。
NKZ5-6-3     判断的一般者の超越的述語面といふのは主語となつて述語とならない個物の於てある場所であつて、判断的一般者に於てある
NKZ5-6-4     ものは述語的に自己自身を限定し、即ち判断的に自己自身を限定し、所謂述語面といふのは判断的一般者が自己自身に於てあ
NKZ5-6-5     るものの内容を限定する一般者自身の自己限定面と考へることができる。かゝる判断的一般者から自己限定の意義を極小にし
NKZ5-6-6     て唯、潜在的に判断的限定を含むと考へられるものが、抽象的一般者と考へられるものである。抽象的なるものは他の述語と
NKZ5-6-7     なるものであり、判断的一般者の述語面といふものがすぐ抽象的一般者と考へられるかも知らぬが、それに於て分類的知識の
NKZ5-6-8     成立する抽象的一般者は、寧ろ判断的一般者の無媒介的なるものと考ふべきである、自己自身の限定を含まない超越的述語面
NKZ5-6-9     即ち主語的に限定せられた場所と云ふことができる。併し抽象的一般者が具体的なる判断的一般者に於て含まれて居ると考へ
NKZ5-6-10     られる時、一方に於て判断的一般者に於てあるものが自己自身を限定する述語的統一面と考へられると共に、それ自身が判断
NKZ5-6-11     的一般者に於てある第二本体の如きものとも考へることができるのである。斯く一方に判断的限定の萎縮せる抽象的一般者と
NKZ5-6-12     いふものを考へ得ると共に、一方に述語面的限定が既に自覚的限定の意義を有つた推論式的一般者といふものを考へることが
NKZ5-6-13     できるのである。
NKZ5-6-14      推論式的一般者に於ては、その述語面が既に自覚的限定の意義を有つて居るのである。推論式的一般者の場所といふのは意
NKZ5-6-15     識一般の意識面に相当するのである。自覚的限定といふのは、自己が自己に於て自己を見るといふことである。「自己が」か
NKZ5-6-16     ら見れば「自己に於て」は自己によつて限定せられた自己限定面であつて、「自己を」から云へば自己はかゝる限定面に於て限
NKZ5-6-17     定せらるべきものである。かゝる自覚的限定からノエシス的限定の意義を除去したものが推論式的一般者となるのである。か
NKZ5-6-18     かる推論式的一般者の場所其者の自己限定が意識一般的自己の限定と考へられるものであり、それが述語面的限定たるの故を
NKZ5-6-19     以て、又範疇的限定と云ひ得るであらう。而してかゝる場所其者の直接限定の内容が認識対象界と考へられるものである。認
NKZ5-7-1     識対象界の論理的構造は推論式的一般者の自己限定として明にすべきである。
NKZ5-7-2      推論式的一般者に於て私は屡小語面とか大語面とかいふことを云つたが、小語面といふのは推論式的一般者の場所其者の直
NKZ5-7-3     接なる限定として小前提的内容を限定するものであり、大語面といふのは推論式的一般者の限定面として一般法則的なる大前
NKZ5-7-4     提的内容を限定するものを意味するに過ぎない。推論式的一般者に於ける特殊と一般との対立を云ひ表したまでである、判断
NKZ5-7-5     的一般者に於ける主語と述語との対立に当るものである。推論式的一般者といふのは判断的一般者の一般者といふ意義を有す
NKZ5-7-6     るを以て、特殊と一般との対立も判断的一般者と判断的一般者との対立の形を成すのである、故に面と云つたのである。普通
NKZ5-7-7     では大語面が小語面を包むと考ふべきであるが、帰納法的一般者に於ては、小語面的なるものが場所其者の直接限定として大
NKZ5-7-8     語面的なるものを限定する意味を有つて居るのである。演繹法的一般者に於ても、それが推論式的一般者の意義を有するかぎ
NKZ5-7-9     り、直覚面的限定といふものがなければならぬ、然らざれば無意義の形式に陥るの外ないのである。小語面的に限定せられた
NKZ5-7-10     判断的内容は無論大語面に包まれるといふ意義を有するが、小語面的限定其者は場所其者の限定として範疇的限定の意義を有
NKZ5-7-11     するのである。一般者の場所と考へられるものは自覚的限定の意義を有し、之に於てあるものが自己によつて限定せられたも
NKZ5-7-12     のたると共に自己自身の内容を限定する意味を有するのである。判断的一般者に於ても、主語的なるものは特殊として一般に
NKZ5-7-13     よつて限定せられる意義を有すると共に、場所に於てあるものとして自己自身を限定する意義を有つて居るのである。
NKZ5-7-14      すべて種々なる判断的一般者の限定と考へられるものは、「総説」の附論に於て云つた如き表現的一般者の中に含まろべきも
NKZ5-7-15     のである。表現的一般者に於て行為的自己の知的自覚の意義が見られるかぎり、判断的一般者の限定といふものが見られるの
NKZ5-7-16     である。推論式的一般者の限定といふのは知的叡智的自己の自覚によつて成立する表現的一般者の限定と考ふべきものである。

    
NKZ5-7-17          一
NKZ5-8-1      私は認識主観を離れてそれ自身に於て存在する超越的実在、即ちカントの所謂物自体の如きものが、
NKZ5-8-2     如何なるものなるかを論じようとするものではない。私はさういふ意味に於ての形而上学者でない。
NKZ5-8-3     私は何処までも概念的知識自身の自省の立場に立ちたいと思ふのである。その意味に於て、私は寧ろ
NKZ5-8-4     カントの批評主義の途を歩みつゝあるものと信ずる。唯、私は何等の独断的仮定のない純なる概念的
NKZ5-8-5     知識自身の自省の立場から出立して見たい。所謂認識論者といへども、その出立点に於て、尚反省す
NKZ5-8-6     べき独断的仮定を遺して居ると思ふのである。
NKZ5-8-7      知るといふことは、認識論の拠つて立つ根本概念でなければならぬ。知るとは、如何なることを意
NKZ5-8-8     味するか。普通には、知るものと知られるものとが対立し、知るといふのは一種の作用の如くに考へ
NKZ5-8-9     られる。併し働くといふことは知るといふことではない、我々は働くものをも知るのである。働くと
NKZ5-8-10     は尚対象と対象との間に於ける一種の関係を意味するに過ぎない。知るものがカント哲学に於ての様
NKZ5-8-11     に純なる論理的意義にまで純化せられ、知るといふことは形式によつて与へられた質料を綜合統一す
NKZ5-8-12     ることであると考へられても、尚主客の対立とか作用とかいふ意義が全然除去されたとは云ひ得ない。
NKZ5-8-13     我々は此等の独断的立場の残壘を棄てて、尚一度その出発点に還つて深く考へて見なければならぬ。
NKZ5-8-14     形式によつて質料を構成するといふことから、知るといふことは出来ない。知ると云ふには、変ず
NKZ5-8-15     るものの根柢に変ぜざるものがなければならぬ、変ずるものを見るものがなければならぬ。

    


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Author: Niels GUELBERG
e-mail: guelberg@waseda.jp
First drafted: 03.02.14
Last updated: 03.05.25