校異:
赤い文字(赤いフォント)は原雑誌論文の、単行本において削除された箇所を示す。
青い文字(青いフォント)は単行本において新たに附加された箇所を示す。
NKZ5-9-1 二
NKZ5-9-2 私が或物を見て居る時、私といふものがないとは云はれない。併し私といふものはまだ意識せられ
NKZ5-9-3 て居ない。直に之を反省して私が何々を見て居たといふ時、私といふものが意識せられるが、その私
NKZ5-9-4 といふのは知られたもの私で、知るもの私ではない。無論、知られた私といつても、知る私の対象化せられた
NKZ5-9-5 ものとして、知られたものと同列的とは云はれない、他を限定する意味を有つてゐなければならぬ。
NKZ5-9-6 併し後の私は前の私と私ならざるものとを知つて居るのである。私が知るといふことは、知られたものが私の意識内に於てあると云ふことを意味するならば、真に知るものは両者を包んで居るだものと
NKZ5-9-7 云ふことができる。私が私を知る、知るものが知るもの自身を知るといふ場合でも現在の私がその私
NKZ5-9-8 自身を対象として居るのである我に於て我と非我とが対立して居るのである、。私が或物を見て居る時、対象化せられた私といふものが潜在的であ
NKZ5-9-9 つたが、此場合逆に物が潜在的となつて居るのである。「於てあるもの」と之を包むものその場所とが一となるの
NKZ5-9-10 である。
NKZ5-9-11 我々が物を知るといふ場合、知るものと知られるものとが対立する、即ち意識内といふものが限定
NKZ5-9-12 せられて、その外といふものが考へられ、物は意識の外に於てあると考へられるのである。併し意識
NKZ5-9-13 の外といふも、或意味に於て知られたものでなければならぬ、非我も或意味に於て我に於てなければ
NKZ5-9-14 ならない。全然、我の外にあるものに対しては知るといふことはなく、又すべてが我の内にあるもの
NKZ5-10-1 のみならば、知るといふことはない。自覚自己が自己の中に自己を映すことによつて自己の内容を限定す
NKZ5-10-2 るといふことが知るといふことの根本的形式である。単に私が物を見て居たといふ如き場合、私とい
NKZ5-10-3 ふものが意識せられてゐないとしても、後に意識してゐたと考へられるのは、やはり右の如き形式に
NKZ5-10-4 於てあつたと考へられる故でなければならぬ。我と非我との対立及びその統一が明になつてゐないと
NKZ5-10-5 しても、既にかゝる反省の可能が含まれて居なければならない。
NKZ5-10-6 知るといふことが、右の如きものであるとするならば、かゝる意味に於て知るといふことは、如何
NKZ5-10-7 なることを意味して居るであらうか。知ることを知ることはできないと云はれるかも知らぬが、苟も
NKZ5-10-8 知るといふことが考へられる以上、それが如何にして考へ得られるかが明にせられねばならぬ。意識
NKZ5-10-9 せられたもの、せられないものと云へば、対象に属する目印となるかも知らぬが、知るとか、意識す
NKZ5-10-10 るとかいふことは、知るものと知られるものとの関係でなければならぬ。如何なる関係が知ると考へ
NKZ5-10-11 られるのであらうか。対象化せられた二つの物と物との間の関係に於て、その一が他を知るといふこ
NKZ5-10-12 とはない。少くとも同列的なる物と物との関係に於て、知るといふことはない。同列的なる物と物と
NKZ5-10-13 の間に於ては、互に相働くといふことはあるであらう、一つの物が変ずることによつて、他の物が変
NKZ5-10-14 ぜられると考へることができるであらう、併し知るといふことはそれから出て来ない。変ずるものは
NKZ5-11-1 相反するものに変じ行くと云はれる如く、変ずるものの根柢に変ぜざるものがなければならぬ。此の
NKZ5-11-2 如き一般的なるものが対象的に限定し得られるかぎり変ずるものが考へられるのである。併しかゝる
NKZ5-11-3 ものが判断の主語として対象的に限定せられるかぎり、それは知るものとは云はれないのである。
NKZ5-11-4 同列的なる二つの物の関係から、知るといふことが考へられないとすれば、知るものは知られるも
NKZ5-11-5 のに対して高次的なるものでなければならぬ、同列的対象としては考へられないものでなければなら
NKZ5-11-6 ぬ。而も知るといふものが考へられる以上、それは単なる無であるとは云はれない。或は自己によつ
NKZ5-11-7 て自己を限定するものとして、知るといふものを考へることができると云ふでもあらう。併し自己自
NKZ5-11-8 身を限定するものと云つても、それが何等かの意味に於て知られるものと対象的関係を有するかぎり、
NKZ5-11-9 知るものとは云はれない。知られるものに対して、知るものは対象的関係に於ては、全然無でなけれ
NKZ5-11-10 ばならぬ、何等の対象的関係に入り込まないものでなければならぬ。非我に対する我は真に知る我で
NKZ5-11-11 はない、真に知るものは両者を包んだものでなければならぬ。知るものといふものを対象化すること
NKZ5-11-12 はできぬ、対象化することができれば、それだけ知られたものであつて、知るものではない。既に対
NKZ5-11-13 象化すべきものではなく、従つて知られるものと対象的関係に入り込むことができないとすれば、如
NKZ5-11-14 何にして知るものとか、意識するものとかいふものを考へることができるであらうか。対象といへば、すぐに認識作用の目的と考へられるかも知らぬが、私が此に対象といふのは判断の主語として考へられるものを意味するのである。かういふ対象化的方向
NKZ5-11-15 或は判断の主語的方向に於て意識を考へようとする人は単なる無と考へるの外はない、否、意識する
NKZ5-12-1 とか、知るとかいふ考も出て来ない筈である。単に映すものとか、意識の場所とか考へても、映すも
NKZ5-12-2 のと映されるものとの間、場所と「於てあるもの」との間には、何等かの関係がなければならぬ。而
NKZ5-12-3 もそれが対象的関係でないとすれば、かゝる関係は如何に考ふべきであるか。見ることを見ることはない、と云ふも、見ることも意識せられ、考へられるのである。
NKZ5-12-4 それでは、如何にして我々は知るものといふものを考へるのであるか、又考へねばならぬのである
NKZ5-12-5 か。苟も知識があると考へる以上、知るものといふものが考へられねばならぬ。是に於て、我々は深
NKZ5-12-6 く概念的知識自身の構造について反省して見なければならない。苟も判断的知識が成立する以上、主
NKZ5-12-7 語となるものについて述語することが可能でなければならぬ。述語するといふことは、主語が述語に
NKZ5-12-8 於てあるといふことを意味する、特殊が一般に於てあるといふことを意味するのである。外延的関係
NKZ5-12-9 に於ては、判断とは或物が或物に於てあるといふことを意味せなければならない。勿論、すべての判
NKZ5-12-10 断が包摂判断であるといふのではないが、何等かの意味に於て述語可能であるといふことは、主語と
NKZ5-12-11 なるものが述語的なるものに於てあるといふことを意味せなければならぬ、斯くして後、更に種々な
NKZ5-12-12 る範疇的限定が成立するのである。アリストテレスが本体を根本的範疇と考へたのも斯く解することもできる。併し斯く判断的知識の根柢に何処までも一種の包摂的関係が考へ
NKZ5-12-13 られねばならぬと共に、概念的知識は単なる包摂的関係によつて成立するものではない。真の概念は
NKZ5-12-14 抽象的概念ではなくして、具体的概念でなければならぬ。所謂抽象的概念と考へられるものも、苟も
NKZ5-13-1 それが概念的知識として考へられる以上、自己自身の中少くとも潜在的に特殊化の原理を含んだものでなければな
NKZ5-13-2 らぬ、之によつて判断的知識が成立するのである。
NKZ5-13-3 概念は具体的でなければならぬ、然らざれば之によつて知識が構成せられるとは云はれない。併し
NKZ5-13-4 それが単に自発自展的自己限定的なる客観的原理といふ如きものであるならば、それは尚客観的なる一種の有で
NKZ5-13-5 あつて、概念ではない。概念的知識成立の根柢には、特殊が一般に於てあるといふ包摂関係がなけれ
NKZ5-13-6 ばならぬ。一般者は単に自己自身を分化発展限定するのみならず、自己自身の発展限定を内に含むものでなければ
NKZ5-13-7 ならぬ。特殊と一般との関係には自ら判断の主語と述語との関係を含むと考へざるを得ない。かゝる
NKZ5-13-8 関係を何処までも推し進めて行けば、所謂主語となつて述語とならざる個物に至つても、尚述語的一
NKZ5-13-9 般者に於てあると云ふことができる。かゝる意味に於て何処までも内に判断的関係を包むものが具体
NKZ5-13-10 的概念でなければならぬ。かゝる具体的一般者が限定し得らるゝかぎり、所謂対象的知識が構成せら
NKZ5-13-11 れるのである。併し判断の主語と述語との関係を、何処までも主語的方向に進め行くと考へ得ると共
NKZ5-13-12 に、何処までも述語的方向に之を包むものを考へることができる。主語となつて述語とならないもの
NKZ5-13-13 に反し、主語とならない超越的述語面ともいふべきものが我々の意識面と考へられるものである、即
NKZ5-13-14 ち知るものであるのである。要するに、具体的一般者の超越的述語面といふものが意識面と考へられ
NKZ5-13-15 るのである。
NKZ5-14-1 此に超越的述語面として意識面といふのは、意識一般の意識面といふ如きものでなければならぬ、その自覚的限定によつて
NKZ5-14-2 判断的知識が成立するものを意味するのである。述語面的限定を意識的限定と考へることは既に「働くものから見るものへ」
NKZ5-14-3 に於て論じた。判断が一般者の自己限定として成立し、判断的に知るといふことが一般者の自覚と考へられる時、斯く考へ得
NKZ5-14-4 るのである。
NKZ5-14-5 無論、超越的述語面が直に意識一般の意識面の意味を有つのではない。それには、自覚的一般者の限定即ち所謂意識的限定
NKZ5-14-6 を越えて、之を内に包む意味を有たなければならぬ。判断的限定から考へられた超越的述語面即ち判断的一般者の場所といふ
NKZ5-14-7 如きものは、意識一般的自己の対象面といふべきものである。併しこゝでは未だそこまで考へて居ない。
NKZ5-16-1 超越的述語面が自己自身を限定するとか、場所が場所自身を限定するとか云ふことは単に論理的に考へられるのではない、
NKZ5-16-2 論理的には唯、自己の中〔に〕自己自身の矛盾を包むといふ如きこと以上に出ることはできないであらう。かゝる限定を裏附
NKZ5-16-3 けるものは我々の自覚である。「総説」に於て云つた如く、判断的限定といふのは自覚的限定によつて基礎附けられたもので
NKZ5-16-4 あり、判断的限定は自覚的限定の一種と云つてよい。自覚的限定に於ては、一般者が一般者自身を限定するものとして、主観
NKZ5-16-5 界と対象界とが対立すると考へることができる。後に云ふ推論式的一般者の限定に於ても、既に小語面と大語面とが対立する
NKZ5-16-6 のである。