西田幾多郎データべース(c) Niels Guelberg 2000


西田幾多郎[著]: 叡智的世界(1928.10)

西田幾多郎全集・第5巻

校異
赤い文字(赤いフォント)は原雑誌論文の、単行本において削除された箇所を示す。
青い文字(青いフォント)は単行本において新たに附加された箇所を示す。


NKZ5-125-4         二

独訳


NKZ5-125-5   自覚的一般者とは如何なるものであるか。我々が自覚に於て自己といふものを意識し、かゝるもの
NKZ5-125-6  を考へた時、その自己とは判断的一般者の超越的述語面を越えてあるものでなければならない。それ
NKZ5-125-7  は判断を自己限定となす判断的一般者の中に於て限定せられないものでなければならない。判断的一
NKZ5-125-8  般者に於て限定せられるものは、単に考へられたものであつて、考へるものとして考へられたもので
NKZ5-125-9  はない、判断の内容となるものであつて、判断するものではないのである。私といふのは、時空的に
NKZ5-125-10  限定せられた個物の底に考へられた個物である。かゝる個物が考へられる以上、かゝる個物の於てあ
NKZ5-125-11  る場所がなければならぬ、かゝる個物を限定する一般者がなければならない。而してかゝる一般者は
NKZ5-125-12  もはや判断的一般者といふことはできない、判断的一般者を包む一般者でなければならない。自覚的
NKZ5-125-13  なるものが之に於てあり、之に於て限定せられるの故を以て、私はかゝる一般者を自覚的一般者と名
NKZ5-125-14  づけるのである。かゝる自覚的一般者の構造限定とは如何なるものであらうか。
NKZ5-126-1   判断的に自己自身を限定するものが具体的一般者であるとするならば、具体的一般者は自己自身の
NKZ5-126-2  中に自己自身の内容を限定する限定面を有つ、それが抽象的一般者と考へられるものである。是故に、
NKZ5-126-3  抽象的一般者は主語となつて述語とならない個物的なるものの述語面的統一と考へられ、具体的一般
NKZ5-126-4  者に於てある個物的なるものの一面を映すものとして抽象的と考へられるのである。併し一般者其者
NKZ5-126-5  の立場から云へば、それは一般者が直に自己自身を限定する限定面と考へることができる、自己自身
NKZ5-126-6  の射影面と考へることができる、一般者が一般者を含むといふ意味を現すものと云ふことができるで
NKZ5-126-7  あらう。判断的一般者が自覚的一般者の中に包まれると考へられた時、判断的一般者の超越的述語面
NKZ5-126-8  と考へられたものは、今は自覚的一般者が自己自身の内容を映す自覚的一般者の限定面となる。前に
NKZ5-126-9  判断的一般者の超越的述語面に於てあるものとして、具体的と考へられ、実在的と考へられたものは、
NKZ5-126-10  抽象的となり、単に意識せられたものとなる。自己自身を意識するもの、即ち自覚的なるものが、「於
NKZ5-126-11  てあるもの」の意義を有し、判断的一般者の内容として之に於てあつたものは、すべて意識内容とし
NKZ5-126-12  て非実在的となる、実在の意義が対象的存在の意義から作用的存在の意義に変ずるのである。判断的
NKZ5-126-13  一般者の形式によつて云へば、自覚的なるものが主語となつて述語とならない実在の意義を有し、判
NKZ5-126-14  断的一般者に於てあるものはすべて述語的意義を有するものとなるのである。斯くの如き意味に於て、
NKZ5-126-15  判断的一般者の内容をその侭に、意識内容となす自覚的なるものが知的自己である。判断的一般者に於ける第二本体に当るものと云つてよい。知的自己とは自
NKZ5-127-1  覚的一般者に於てあるものとしては、尚自己自身の自覚的内容を有せない形式的有たるに過ぎない。
NKZ5-127-2  此故に、知るといふことは、知られたものそのものの内容に何物をも加へないと考へられる、唯知ら
NKZ5-127-3  れたものそのものの存在の意義を変ずるまでである。
NKZ5-127-4   私は是に於て意識の特徴と考へられる志向作用の如何なるものなるかを明にし得ると思ふ。自覚的
NKZ5-127-5  一般者の自己限定面に於てあるものは、判断的一般者の超越的述語面に於てあるものとして、一方に
NKZ5-127-6  対象的と考へられると共に、それは知的自覚の意識面に於てあるものとして意識的と考へられなけれ
NKZ5-127-7  ばならぬ。併し知的自己の意識面に於てあるものは、尚自己自身の自覚的内容を有せないといふ意味
NKZ5-127-8  に於て、かゝる意識面に於てあるものは、尚自己自身の内容を限定し、自己自身の内容を映すもので
NKZ5-127-9  はない、却つて自己自身を超越したものの内容を映して居るのである。例へば、色の感覚といへども、
NKZ5-127-10  物理的光線ではなく、意識現象として自覚的有でなければならぬと共に、その内容は自己意識を超越
NKZ5-127-11  した色自体といふ如きものでなければならぬ。知的自己の立場に純なれば純なる程、その内容は超越
NKZ5-127-12  的となると共に、その意識的実在性は形式的となる、意識は単に映すといふ如き意味しか有せない、
NKZ5-127-13  かゝる関係を志向作用といふのである。意識を働くものと考へるから作用と云はれるのであるが、純
NKZ5-127-14  なる知識の立場に於ては、作用自身の内容といふものは入つて来ない、作用其者は反省せられない、
NKZ5-127-15  如何に色の知覚が個別化せられても、その内容は何処までも対象的たるを免れないのである。自覚的
NKZ5-128-1  なるもの自身の内容が意識せられるには、自覚的一般者に於てあるものの意味が深められねばならな
NKZ5-128-2  い、自己の中に自己を映すといふ自覚的有の意味が現れて来なければならない。而してそれが可能と
NKZ5-128-3  なるには、我々は知的自己の立場から意志的自己の立場(作用の作用の立場)に移り行かねばならぬ、
NKZ5-128-4  従つて我々の意識面も単に判断的一般者の超越的述語面といふ意味から独立して、自己自身の内容を
NKZ5-128-5  映す自覚的意識面といふ意味に変じて行かなければならぬのである。判断的一般者の中に含まれると
NKZ5-128-6  考ふべき抽象的一般者が、単に自己自身の限定を含まない一般者と考へられるのと、それが述語面的
NKZ5-128-7  統一と考へられるのとは、異なつた意味を有たねばならない。前者に於ては、不完全ながらもそれ自
NKZ5-128-8  身が一般者の意義を有し、後者に於ては単に「於てあるもの」の媒介面と考へられるのである。一般
NKZ5-128-9  者が自己の中に自己を限定するといふ意味が深くなればなる程、その限定面は前者の意味から後者の
NKZ5-128-10  意味に移つて行く、かゝる意味に於て自覚的一般者に於ては、知的自己の意識面から意志的自己の意
NKZ5-128-11  識面に到るのである。無論それは何処まで行つても、自覚的一般者に於てあるものとして、志向的と
NKZ5-128-12  いふことを失はないであらう。例へば、色の意識内容が想起とか想像とか種々のノエシスによつて変
NKZ5-128-13  ぜられるのみならず、意志によつて欲せられたものとなるにしても、尚それは一種のノエマと考へる
NKZ5-128-14  ことができるであらう、そこにも尚、志向せられたものといふ性質が存するであらう。併しかゝる意
NKZ5-128-15  識内容は単なる志向作用のノエマではない、単なる知識の立場に於て見られるのではない。若し之を
NKZ5-129-1  しも志向作用によるとするならば、先づ作用自身を志向すると云ふことがなければならぬ、ノエシス
NKZ5-129-2  がノエマとなる、意識が意識を意識すると云ふことがなければならない。私は斯く二種の志向性、二
NKZ5-129-3  種の意識を考へる代りに、判断的一般者に於て判断がその限定作用と考へられる如く、すべての意識
NKZ5-129-4  作用を自覚的一般者に於てあるものの自己限定作用と考へ、所謂志向作用といふ如きものはその抽象
NKZ5-129-5  的一面と考へるのである。自覚的一般者に於てあるといふことが知ると云ふことである、その有が単
NKZ5-129-6  に形式的有なる時、知的意識といふ如きものが考へられるのである。真の意識は意志的意識でなけれ
NKZ5-129-7  ばならぬ、内的志向の外に真の志向はない。意識の本質は所謂志向にあるのではなくして、却つて意
NKZ5-129-8  志にあるのである、志向は弱き意志に過ぎない。意志を一種の作用と考へるから、志向性が意識の本
NKZ5-129-9  質の如くに考へられるのである。

NKZ5-129-10   意志すると云ふことは、知つて働く、働くことを知る、知りつゝ働くことと考へられるから、単に対象の志向と云ふ如き純
NKZ5-129-11  知的態度とは全くその類を異にする様に考へられる。併し働くことは知ることではない。私が働くと云つても、その私は知ら
NKZ5-129-12  れた私であつて、知る私ではない、知る私は働く私を、即ち私の変化を見て居る私でなければならない。志向といふことから
NKZ5-129-13  考へれば、知る私に於ては、志向せられるものが志向するものであり、志向するものが志向せられるものでなければならない。
NKZ5-129-14  かゝる私が働くとは如何なることを意味するか。働くといふことは、先づ変ずると云ふことでなければならない。かゝる私が
NKZ5-129-15  知るといふ性質を維持しながら変ずると云ふには、志向するものに向ふ志向の方向、即ち内に向ふ方向が志向するものに達せ
NKZ5-129-16  ない、志向するものの内容が志向せられる内容より大きいと考へられねばならない、両者の間に間隙がなければならない。併
NKZ5-130-1  し此の二方向が離れてしまへば、私といふものはない、従つて私が働くといふ如きこともない。働く私といふものが考へられ
NKZ5-130-2  るには、変化の一歩一歩が志向せられるものと志向するものと合一する知るものであつて、而もそれが変じて行くものでなけ
NKZ5-130-3  ればならない。かゝる知る私の連続が働く私と考へられるのである。斯くして働く私は知る私を含むと云ふことができる。働
NKZ5-130-4  く私即ち意志するものを、一つの線に譬へて見るならば、その一々の点が知るものであつて、その線の曲率が働く私の内容と
NKZ5-130-5  考へ得るであらう。具体的立場から云へば、志向せられるものが志向するものとして、知るものといふものが考へられる時、
NKZ5-130-6  それは既に線の一点として考へられるのである、知る私は既に意志する私であるのである。単に知る私と云ふものは、曲率零
NKZ5-130-7  の直線の如きものと云ひ得るであらう。斯く考へれば、志向といふことは単に曲線に於ける点の方向とも考へ得るであらう。
NKZ5-130-8   又志向作用といふことから次の如く考へ得るであらう。志向作用の基礎には、実在的なるものがなければならない、即ちノ
NKZ5-130-9  エシス的なるものがなければならない、ノエシスの根概には知る私がなければならない。知る私の根柢には、右に云つた如き
NKZ5-130-10  働く私がなければならない。
NKZ5-130-11   すべて具体的一般者は自己自身の中に自己の内容を限定する限定面を有ち、判断的一般者に於て抽
NKZ5-130-12  象的一般者がそれに当る如く、自覚的一般者に於てそれに当るものは、知的意識面でなければならぬ。
NKZ5-130-13  自覚的なるものは知的意識面に於て自己自身を限定すると考へることができる。此故に意識は志向的
NKZ5-130-14  と考へられる。恰も判断的一般者に於てあるものは、何等かの意味に於て述語を有つと一般である。
NKZ5-130-15  併し抽象的一般者に於てあるものは単に包摂的関係から成り立ち、自己自身を限定するものでない、
NKZ5-130-16  自己自身を媒介せないと考へられる如く、知的意識面に於てあるものは、真に自覚的一般者に於てあ
NKZ5-130-17  るものとして、自己自身を自覚的に限定し、自己自身を媒介するものではない。自己自身を自覚的に
NKZ5-131-1  限定し媒介する作用は、志向的作用ではなくして、意志作用でなければならない。自覚的に自己自身
NKZ5-131-2  の内容を限定する過程が我々に意志と考へられるものである。知的自覚もその実、此の如き意味に於
NKZ5-131-3  て自覚と考へられるのである。志向作用の裡面には知的自覚即ち形式的意志がなければならない。斯
NKZ5-131-4  く考へるならば、自覚的一般者の真の自己限定作用として判断に当るものは、意志作用であり、自覚
NKZ5-131-5  的一般者の場所に於てあるものとして、主語となつて述語とならない個物に当るものは、意志するも
NKZ5-131-6  の、意志的自己でなければならない。抽象的一般者の立場からは、判断の基礎が主語となつて述語と
NKZ5-131-7  ならない個物にあると考へられるが、判断を一般者の自己限定と考へれば、個物が判断的一般者の超
NKZ5-131-8  越的述語面に於てあり、自己自身を判断的に限定するものとして、判断の基礎となると考へられねば
NKZ5-131-9  ならぬ如く、志向作用の立場から見れば、意志するものは超越的とも考へられるが、意識作用を自覚
NKZ5-131-10  的一般者の自己限定と考へるならば、知的自覚の根柢に意志的自覚がなければならぬ。自覚的なるも
NKZ5-131-11  のを基礎づけるものは、意志的なるものであり、真に判断を基礎づけるものは、自覚的なるものであ
NKZ5-131-12  る。判断とは自覚なき志向作用であり、志向作用とは自覚的内容なき意志作用である。斯く考へるな
NKZ5-131-13  らば、嚮に抽象的一般者が個物の述語面的統一と考へられると云つた如く、知的意識面と考へられた
NKZ5-131-14  ものは意志的に自覚するものの媒介面たる性質を帯びて来る。我々の意志的自覚の深まるにつれて、
NKZ5-131-15  かゝる傾向が著しくなつて来るのである。
NKZ5-132-1   自覚的一般者に於ける自己限定面が意志するものの媒介面といふ性質を有つ時、此面に対応してそ
NKZ5-132-2  のノエシス的方向に一つの共同的意志といふものが考へられ、所謂社会的意識といふものが成立する。
NKZ5-132-3  之と共に、自覚的一般者の抽象自己限定面は判断的一般者の超越的述語面たる性質を有すると云ふが故に、
NKZ5-132-4  判断的一般者の超越的述語面と合一する知的意識面の対象界として自然界と考へられたものは、合目
NKZ5-132-5  的的世界と考へられる様になる。合目的的世界とは、意志的なるものの自己限定面と考へられた超越
NKZ5-132-6  的述語面に於て限定せられるものである。此故に、合目的的世界は自然界の如く厳密なる意味に於て
NKZ5-132-7  判断的一般者によつて限定せられるものではない。
NKZ5-132-8  此に云つた社会的意識の考は極めて不完全である。第六の論文参照。

 


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Author: Niels GUELBERG
e-mail: guelberg@waseda.jp
First drafted: 03.01.19
Last updated: 03.05.24