校異:
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NKZ5-125-5 自覚的一般者とは如何なるものであるか。我々が自覚に於て自己といふものを意識し、かゝるもの
NKZ5-125-6 を考へた時、その自己とは判断的一般者の超越的述語面を越えてあるものでなければならない。それ
NKZ5-125-7 は判断を自己限定となす判断的一般者の中に於て限定せられないものでなければならない。判断的一
NKZ5-125-8 般者に於て限定せられるものは、単に考へられたものであつて、考へるものとして考へられたもので
NKZ5-125-9 はない、判断の内容となるものであつて、判断するものではないのである。私といふのは、時空的に
NKZ5-125-10 限定せられた個物の底に考へられた個物である。かゝる個物が考へられる以上、かゝる個物の於てあ
NKZ5-125-11 る場所がなければならぬ、かゝる個物を限定する一般者がなければならない。而してかゝる一般者は
NKZ5-125-12 もはや判断的一般者といふことはできない、判断的一般者を包む一般者でなければならない。自覚的
NKZ5-125-13 なるものが之に於てあり、之に於て限定せられるの故を以て、私はかゝる一般者を自覚的一般者と名
NKZ5-125-14 づけるのである。かゝる自覚的一般者の構造限定とは如何なるものであらうか。
NKZ5-126-1 判断的に自己自身を限定するものが具体的一般者であるとするならば、具体的一般者は自己自身の
NKZ5-126-2 中に自己自身の内容を限定する限定面を有つ、それが抽象的一般者と考へられるものである。是故に、
NKZ5-126-3 抽象的一般者は主語となつて述語とならない個物的なるものの述語面的統一と考へられ、具体的一般
NKZ5-126-4 者に於てある個物的なるものの一面を映すものとして抽象的と考へられるのである。併し一般者其者
NKZ5-126-5 の立場から云へば、それは一般者が直に自己自身を限定する限定面と考へることができる、自己自身
NKZ5-126-6 の射影面と考へることができる、一般者が一般者を含むといふ意味を現すものと云ふことができるで
NKZ5-126-7 あらう。判断的一般者が自覚的一般者の中に包まれると考へられた時、判断的一般者の超越的述語面
NKZ5-126-8 と考へられたものは、今は自覚的一般者が自己自身の内容を映す自覚的一般者の限定面となる。前に
NKZ5-126-9 判断的一般者の超越的述語面に於てあるものとして、具体的と考へられ、実在的と考へられたものは、
NKZ5-126-10 抽象的となり、単に意識せられたものとなる。自己自身を意識するもの、即ち自覚的なるものが、「於
NKZ5-126-11 てあるもの」の意義を有し、判断的一般者の内容として之に於てあつたものは、すべて意識内容とし
NKZ5-126-12 て非実在的となる、実在の意義が対象的存在の意義から作用的存在の意義に変ずるのである。判断的
NKZ5-126-13 一般者の形式によつて云へば、自覚的なるものが主語となつて述語とならない実在の意義を有し、判
NKZ5-126-14 断的一般者に於てあるものはすべて述語的意義を有するものとなるのである。斯くの如き意味に於て、
NKZ5-126-15 判断的一般者の内容をその侭に、意識内容となす自覚的なるものが知的自己である。判断的一般者に於ける第二本体に当るものと云つてよい。知的自己とは自
NKZ5-127-1 覚的一般者に於てあるものとしては、尚自己自身の自覚的内容を有せない形式的有たるに過ぎない。
NKZ5-127-2 此故に、知るといふことは、知られたものそのものの内容に何物をも加へないと考へられる、唯知ら
NKZ5-127-3 れたものそのものの存在の意義を変ずるまでである。
NKZ5-127-4 私は是に於て意識の特徴と考へられる志向作用の如何なるものなるかを明にし得ると思ふ。自覚的
NKZ5-127-5 一般者の自己限定面に於てあるものは、判断的一般者の超越的述語面に於てあるものとして、一方に
NKZ5-127-6 対象的と考へられると共に、それは知的自覚の意識面に於てあるものとして意識的と考へられなけれ
NKZ5-127-7 ばならぬ。併し知的自己の意識面に於てあるものは、尚自己自身の自覚的内容を有せないといふ意味
NKZ5-127-8 に於て、かゝる意識面に於てあるものは、尚自己自身の内容を限定し、自己自身の内容を映すもので
NKZ5-127-9 はない、却つて自己自身を超越したものの内容を映して居るのである。例へば、色の感覚といへども、
NKZ5-127-10 物理的光線ではなく、意識現象として自覚的有でなければならぬと共に、その内容は自己意識を超越
NKZ5-127-11 した色自体といふ如きものでなければならぬ。知的自己の立場に純なれば純なる程、その内容は超越
NKZ5-127-12 的となると共に、その意識的実在性は形式的となる、意識は単に映すといふ如き意味しか有せない、
NKZ5-127-13 かゝる関係を志向作用といふのである。意識を働くものと考へるから作用と云はれるのであるが、純
NKZ5-127-14 なる知識の立場に於ては、作用自身の内容といふものは入つて来ない、作用其者は反省せられない、
NKZ5-127-15 如何に色の知覚が個別化せられても、その内容は何処までも対象的たるを免れないのである。自覚的
NKZ5-128-1 なるもの自身の内容が意識せられるには、自覚的一般者に於てあるものの意味が深められねばならな
NKZ5-128-2 い、自己の中に自己を映すといふ自覚的有の意味が現れて来なければならない。而してそれが可能と
NKZ5-128-3 なるには、我々は知的自己の立場から意志的自己の立場(作用の作用の立場)に移り行かねばならぬ、
NKZ5-128-4 従つて我々の意識面も単に判断的一般者の超越的述語面といふ意味から独立して、自己自身の内容を
NKZ5-128-5 映す自覚的意識面といふ意味に変じて行かなければならぬのである。判断的一般者の中に含まれると
NKZ5-128-6 考ふべき抽象的一般者が、単に自己自身の限定を含まない一般者と考へられるのと、それが述語面的
NKZ5-128-7 統一と考へられるのとは、異なつた意味を有たねばならない。前者に於ては、不完全ながらもそれ自
NKZ5-128-8 身が一般者の意義を有し、後者に於ては単に「於てあるもの」の媒介面と考へられるのである。一般
NKZ5-128-9 者が自己の中に自己を限定するといふ意味が深くなればなる程、その限定面は前者の意味から後者の
NKZ5-128-10 意味に移つて行く、かゝる意味に於て自覚的一般者に於ては、知的自己の意識面から意志的自己の意
NKZ5-128-11 識面に到るのである。無論それは何処まで行つても、自覚的一般者に於てあるものとして、志向的と
NKZ5-128-12 いふことを失はないであらう。例へば、色の意識内容が想起とか想像とか種々のノエシスによつて変
NKZ5-128-13 ぜられるのみならず、意志によつて欲せられたものとなるにしても、尚それは一種のノエマと考へる
NKZ5-128-14 ことができるであらう、そこにも尚、志向せられたものといふ性質が存するであらう。併しかゝる意
NKZ5-128-15 識内容は単なる志向作用のノエマではない、単なる知識の立場に於て見られるのではない。若し之を
NKZ5-129-1 しも志向作用によるとするならば、先づ作用自身を志向すると云ふことがなければならぬ、ノエシス
NKZ5-129-2 がノエマとなる、意識が意識を意識すると云ふことがなければならない。私は斯く二種の志向性、二
NKZ5-129-3 種の意識を考へる代りに、判断的一般者に於て判断がその限定作用と考へられる如く、すべての意識
NKZ5-129-4 作用を自覚的一般者に於てあるものの自己限定作用と考へ、所謂志向作用といふ如きものはその抽象
NKZ5-129-5 的一面と考へるのである。自覚的一般者に於てあるといふことが知ると云ふことである、その有が単
NKZ5-129-6 に形式的有なる時、知的意識といふ如きものが考へられるのである。真の意識は意志的意識でなけれ
NKZ5-129-7 ばならぬ、内的志向の外に真の志向はない。意識の本質は所謂志向にあるのではなくして、却つて意
NKZ5-129-8 志にあるのである、志向は弱き意志に過ぎない。意志を一種の作用と考へるから、志向性が意識の本
NKZ5-129-9 質の如くに考へられるのである。
NKZ5-129-10 意志すると云ふことは、知つて働く、働くことを知る、知りつゝ働くことと考へられるから、単に対象の志向と云ふ如き純NKZ5-130-11 すべて具体的一般者は自己自身の中に自己の内容を限定する限定面を有ち、判断的一般者に於て抽
NKZ5-129-11 知的態度とは全くその類を異にする様に考へられる。併し働くことは知ることではない。私が働くと云つても、その私は知ら
NKZ5-129-12 れた私であつて、知る私ではない、知る私は働く私を、即ち私の変化を見て居る私でなければならない。志向といふことから
NKZ5-129-13 考へれば、知る私に於ては、志向せられるものが志向するものであり、志向するものが志向せられるものでなければならない。
NKZ5-129-14 かゝる私が働くとは如何なることを意味するか。働くといふことは、先づ変ずると云ふことでなければならない。かゝる私が
NKZ5-129-15 知るといふ性質を維持しながら変ずると云ふには、志向するものに向ふ志向の方向、即ち内に向ふ方向が志向するものに達せ
NKZ5-129-16 ない、志向するものの内容が志向せられる内容より大きいと考へられねばならない、両者の間に間隙がなければならない。併
NKZ5-130-1 し此の二方向が離れてしまへば、私といふものはない、従つて私が働くといふ如きこともない。働く私といふものが考へられ
NKZ5-130-2 るには、変化の一歩一歩が志向せられるものと志向するものと合一する知るものであつて、而もそれが変じて行くものでなけ
NKZ5-130-3 ればならない。かゝる知る私の連続が働く私と考へられるのである。斯くして働く私は知る私を含むと云ふことができる。働
NKZ5-130-4 く私即ち意志するものを、一つの線に譬へて見るならば、その一々の点が知るものであつて、その線の曲率が働く私の内容と
NKZ5-130-5 考へ得るであらう。具体的立場から云へば、志向せられるものが志向するものとして、知るものといふものが考へられる時、
NKZ5-130-6 それは既に線の一点として考へられるのである、知る私は既に意志する私であるのである。単に知る私と云ふものは、曲率零
NKZ5-130-7 の直線の如きものと云ひ得るであらう。斯く考へれば、志向といふことは単に曲線に於ける点の方向とも考へ得るであらう。
NKZ5-130-8 又志向作用といふことから次の如く考へ得るであらう。志向作用の基礎には、実在的なるものがなければならない、即ちノ
NKZ5-130-9 エシス的なるものがなければならない、ノエシスの根概には知る私がなければならない。知る私の根柢には、右に云つた如き
NKZ5-130-10 働く私がなければならない。
NKZ5-132-8 此に云つた社会的意識の考は極めて不完全である。第六の論文参照。