西田幾多郎データべース(c) Niels Guelberg 2000


西田幾多郎[著]: 私と汝(1932.07)

西田幾多郎全集・第6巻

校異
赤い文字(赤いフォント)は原雑誌論文の、単行本において 削除された箇所を示す。
青い文字(青いフォント)は単行本において新たに附加され た箇所を示す。


NKZ6-341-1     私と汝

 
NKZ6-341-2        一

 
NKZ6-341-3   私は現在私が何を考へ、何を思ふかを知るのみならず、昨日何を考へ、何を思うたかをも直ぐに想
NKZ6-341-4  起することができる。昨日の我と今日の我とは直接に結合すると考へられるのである。之に反し、私
NKZ6-341-5  は他人が何を考へ、何を思ふかを知ることはできない。他人と私とは言語とか文字とかいふ如き所謂
NKZ6-341-6  表現を通じて相理解するのである。私と汝とは直に結合することはできない、唯外界を通じて相結合
NKZ6-341-7  すると考へられるのである。我々は身体によつて物の世界に属し、音とか形とかいふ物体現象を手段
NKZ6-341-8  として相理解すると考へられるのである。併し物体界とは如何なるものであるか。物体界といふもの
NKZ6-341-9  も、我々の経験的内容と考へるものを時間、空間、因果の如き形式によつて統一したものと考へるこ
NKZ6-341-10  とができる。内界と外界といふものが本来相対立したものでなく、一つの世界の両面といふ如きもの
NKZ6-341-11  に過ぎない。両界は同じ材料から構成せられて居るのである。すべて実在的なるものは時に於てある
NKZ6-342-1  と考へられ、時は実在の根本的形式と考へられる。内界と考へられるものも、外界と考へられるもの
NKZ6-342-2  も、それが実在的と考へられるかぎり、時の形式に当嵌つたものと考へられねばならぬ。然るに、時
NKZ6-342-3  は現在が現在自身を限定するといふことから考へられるのである。而して現在が現在自身を限定する
NKZ6-342-4  といふことから時が限定せられるといふことは、時は永遠の今の自己限定として考へられると云ふこ
NKZ6-342-5  とを意味してゐなければならない。時は永遠の今の自己限定として到る所に消え、到る所に生れるの
NKZ6-342-6  である。故に時は各の瞬間に於て永遠の今に接するのである。時は一瞬一瞬に消え、一瞬一瞬に生れ
NKZ6-342-7  ると云つてよい。非連続の連続として時といふものが考へられるのである。時といふものが斯くして
NKZ6-342-8  考へられると考へるとするならば、時は各の瞬間に於て二つの意味に於て永遠の今に接すると考へる
NKZ6-342-9  事ができる。永遠の今と考へられるものは、一面に於ては絶対に時を否定する死の面と考へられると
NKZ6-342-10  共に、一面に於ては絶対に時を肯定する生の面と考へられねばならない。時の限定の背後に永遠の死
NKZ6-342-11  の面といふものを置いて考へる時、永遠なる物体の世界といふものが考へられ、その背後に永遠の生
NKZ6-342-12  の面といふものを置いて考へる時、永遠なる精神の世界といふものが考へられるのである。内界と外
NKZ6-342-13  界とは時の弁証法的限定の両方向に考へられる、永遠の今の両面に過ぎない。すべて具体的に有るも
NKZ6-342-14  のは弁証法的に自己自身を限定する、即ち時間的に自己自身を限定するのである。時に内外の別があ
NKZ6-342-15  るのでなく、時は固一つでなければならぬ。真の時は歴史時といふべきものであり、具体的なる実在
NKZ6-343-1  界は歴史的と考へることもできるであらう。かゝる世界が弁証法的に自己自身を限定するに当り、そ
NKZ6-343-2  の両方向に抽象的なる二つの世界が考へられるのである。我々の意識現象と考へられるものが朝から
NKZ6-343-3  晩まで種々に変化するに関らず、一つの内面的統一を保つと考へられるのみならず、昨日の我と今日
NKZ6-343-4  の我とは直接に結合すると考へられ、そこに我々の内界といふものが考へられる。併しかゝる内面的
NKZ6-343-5  統一といふものが成立するには、既に表現的限定の意義がなければならない。我々の意識の統一と考
NKZ6-343-6  へられるものは、一面に於て実在的連続と考へられると共に、一面に於て意味的結合でなければなら
NKZ6-343-7  ない、意識現象に於ては意味即実在と考へられるのである。かゝる結合に於ては、一々の点が自己自
NKZ6-343-8  身を表現するものでなければならない。表現するものと表現せられるものと一であるといふことが、
NKZ6-343-9  意識統一の真の意義と考へることもできる。私と私とが心の内にて話し合ふのである。真の時といふ
NKZ6-343-10  べきものは、単なる連続として考へられるのでなく、上に云つた如く非連続の連続として考へられる
NKZ6-343-11  のでなければならぬ。而してかゝる時の連続と考へられるものは限定するものなきものの限定として、
NKZ6-343-12  表現的限定の意義を有つてゐなければならぬ。昨日の私と今時の私とは、私と汝との如く共に表現の
NKZ6-343-13  世界に於てあるのである。
NKZ6-343-14   個物といふものは如何にして考へられるのであるか。個物といふものが考へられるには、先づ何等
NKZ6-343-15  かの意味に於て一般者の限定といふものが考へられねばならない。個物はかゝる限定の極限として考
NKZ6-344-1  へられるのである。個物は何処までも限定せられたものでなければならぬ。限定せられない個物とい
NKZ6-344-2  ふものはない。併しかゝる意味の限定に於ては何処までも個物に達することはできず、単にかゝる意
NKZ6-344-3  味に於て限定せられたものは真の個物ではない。個物は自己自身を限定するものでなければならぬ。
NKZ6-344-4  個物的なるものの自己限定によつて判断が成立すると考へられる如く、個物は一般者を限定するとい
NKZ6-344-5  ふ意味を有つてゐなければならぬ。個物と一般者との間には弁証法的限定といふ如き意味がなければ
NKZ6-344-6  ならぬ。かゝる意味に於て個物が限定せられると云ふには、有の一般者の限定として考へられるので
NKZ6-344-7  なく、限定するものなきものの限定として無の一般者の限定として考へられねばならない。無の一般
NKZ6-344-8  者の限定といふのは単に限定するものがないといふ意味ではない。有るものは何かに於てあると考へ
NKZ6-344-9  られる如く、物は環境を有つと考へられねばならない。而もかゝる環境は無限に広く無限に深く考へ
NKZ6-344-10  られるものでなければならない。物がその環境から限定せられると考へられるかぎり、それは有の一
NKZ6-344-11  般者の限定と考へられるものであり、何処までも真の個物といふものは考へられない。唯、例といふ
NKZ6-344-12  如きものがあるのみである。物と環境との間に所謂合理的関係といふ如きものが考へられるかぎり、
NKZ6-344-13  個物といふものは考へられない。個物は環境に包まれ何処までも環境から限定せられるといふ意味を
NKZ6-344-14  有すると共に何処までも環境から限定せられないものであり、却つて環境を限定する意味を有つたも
NKZ6-344-15  のでなければならない。環境は個物に対して単にその働きの場所といふ如き意味を有つてゐなければ
NKZ6-345-1  ならない。如何に大きく深く環境を考へて行つても、単に環境から限定せられると考へられるかぎり、
NKZ6-345-2  個物といふものは考へられない。かゝる意味に於ての環境を越えた環境に於て、自己自身を限定し行
NKZ6-345-3  く個物といふものが考へられるのである。故に個物と環境との間は互に非合理的と考へられる、個物
NKZ6-345-4  に対して環境は偶然的と考へられ、環境に対して個物は偶然的と考へられる。斯くして同一の環境に
NKZ6-345-5  対して自由に自己自身を限定し行く無数の個物が考へられるのである。而も環境と個物とは固、無関
NKZ6-345-6  係ではない。環境なくして個物といふものもなければ、個物なくして環境といふものもない。時の限
NKZ6-345-7  定に於ても、瞬間といふものが限定せられるには、何等かの意味に於て限定せられた現在から出立せ
NKZ6-345-8  なければならない。かゝる現在の限定の極限として、瞬間といふものが考へられるのである。而もか
NKZ6-345-9  かる意味の限定に於ては、真の現在、即ち瞬間は掴むことのできないものであり、現在のない時は真
NKZ6-345-10  の時ではない。時は現在が現在自身を限定するといふことから考へられねばならない。而してかゝる
NKZ6-345-11  意味に於て真の時といふものが考へられるには、嚮に環境的と考へられた現在は永遠の今といふ意味
NKZ6-345-12  を有つたものでなければならない。斯く超越的環境の意味を有つた永遠の今の自己限定として、之に
NKZ6-345-13  於て、無数に自己自身を限定する現在といふものが考へられるのである。かゝる意味に於て環境と考
NKZ6-345-14  へられるものは、死の面ではなくして生の面でなければならない。無の一般者の限定として個物と環
NKZ6-345-15  境との相互限定と考へられるものは、生命の流といふ如き意味を有つたものでなければならない。環
NKZ6-346-1  境が個物を生み、個物が環境を変じて行くといふ個物と環境との関係は生命と考へられるものでなけ
NKZ6-346-2  ればならない。非合理的なるものの合理化として弁証法的と考へられるものは、その根柢に於て生命
NKZ6-346-3  と考へられるものでなければならない。へーゲルの弁証法はノエマ的であつたと云ひ得る。従つて弁
NKZ6-346-4  証法が唯、過程的に考へられたと云ひ得るであらう。併し真の弁証法はかゝる意味に於て考へられる
NKZ6-346-5  ものでない。かゝる意味に於て弁証法といふものが考へられるならば、それは何処までも連続的発展
NKZ6-346-6  の意義を脱することはできない。真に絶対の死より生きるといふ真の弁証法的意義は出て来ない。真の弁
NKZ6-346-7  証法といふものが考へられるには、物が環境に於てあり、環境が物を限定し、物が環境を限定すると
NKZ6-346-8  いふ考から出立せなければならぬ、即ち場所的限定の立場から出立せなければならぬ。物が何等かの
NKZ6-346-9  意味に於て環境に含まれて居ると考へられるかぎり、弁証法的運動といふものは考へられない。真の
NKZ6-346-10  弁証法的運動といふものが考へられるには、物が絶対に環境から死し去らねばならぬ。物と環境との
NKZ6-346-11  間には何等の作用的関係もなくならねばならぬ。環境は物に対して単なる場所といふ如き意味を有た
NKZ6-346-12  ねばならぬ。物と環境とは互に偶然的でなければならぬ。而もかゝる死の面が即ち生の面であるとい
NKZ6-346-13  ふ所に、限定するものなきものの限定として真の弁証法的運動が考へられるのである。絶対の否定が
NKZ6-346-14  即肯定である真の弁証法といふものが考へられるには、此の如き場所的限定の意義がなければならぬ。
NKZ6-346-15  斯くして環境が個物を限定し、個物が環境を限定するといふ弁証法的過程が考へられ、場所的限定の
NKZ6-347-1  意義に於て偶然的なる無数の個物といふものが考へられるのである。概念の外延的関係といふ如きも
NKZ6-347-2  のは此に基くと考へねばならぬ。単に主語的なるものに就いて、有即無として過程的に考へ行く時、
NKZ6-347-3  真の弁証法的運動といふものは成立しない。真の弁証法的運動といふものが考へられるには、場所的
NKZ6-347-4  切断がなければならない。故に真の弁証法的過程は物と環境との間に考へられるのである。例へば、
NKZ6-347-5  WerdenGewordensein既成在としてEtwas定有となると云ふにも、私の所謂場所的限定の意味がなければならないと考へるの
NKZ6-347-6  である。特に場所的限定の意義なくして質より量の出て来やうがない。弁証法的運動は物が場所に於
NKZ6-347-7  てあるといふことから始まらなければならない。私はかういふ意味に於て、有るものは何かに於てあ
NKZ6-347-8  るといふプラトンのパルメニデスに於てかゝる弁証法的運動の発端が含まれて居るではないかと思ふ
NKZ6-347-9  のである。
NKZ6-347-10   私と汝との関係について種々なる難問は、内界と外界とが対立し、各自が絶対的に自己自身に固有
NKZ6-347-11  なる内界を有つと考へるから起るのであると云ふことができる。我々が厳密なる意味に於て個人的自
NKZ6-347-12  己の意識といふものから出立するならば、遂に独我論に陥るの外ない。併し個人は個人自身によつて
NKZ6-347-13  生れるのではない。若し個人が絶対ならば個人といふものもない。個人といふものが生れるには、個
NKZ6-347-14  人が生れる地盤がなければならない。即ちその環境といふものがなければならない。個物は何処まで
NKZ6-347-15  も環境から限定せられたものでなければならない。而も環境を限定する所に個物といふものがあるの
NKZ6-348-1  である。而して斯く環境が場所的限定として之によつて個物が限定せられると考へる時、右に云つた
NKZ6-348-2  如くそこに無数の個物が考へられるのである。私を私として限定するものは、汝を汝として限定する
NKZ6-348-3  ものであり、私と汝とは同じ環境から生れ、同じ一般者の外延として之に於てあるといふ意味を有つ
NKZ6-348-4  と云ふことができる。発生的に考へても、我々の自己は個人から始まるのではない。多くの原始民族
NKZ6-348-5  に於て見られる如く共同意識から始まるのである。個人は社会から生れると云つてよい。如何なる意
NKZ6-348-6  味に於て個人的意識に先立つて社会的意識といふものが考へられ、更に如何にして物体界から意識の
NKZ6-348-7  世界が生れると考へられるであらうか。すべて有るものは時に於てあるのであり、具体的に有るもの
NKZ6-348-8  はすべて歴史的と云ふべく、単なる物質の世界といふものはない。主観を離れた単なる客観界といふ
NKZ6-348-9  ものがあるのではない。宇宙進化論的に考へれば、意識現象も物質から出て来ると考へなければなら
NKZ6-348-10  ぬかも知らぬが、それはデュ・ボアレモンの云つた様に世界の不可思議の一でなければならぬ。物質
NKZ6-348-11  の世界といふものが我々の自己を生む環境となるのではなく、私の所謂「於てあるもの」と環境との
NKZ6-348-12  間には特殊と一般との関係がなければならぬ。単なる物質の世界と考へられるものは、我々の自己に
NKZ6-348-13  対して環境の意味を有つものでない。唯、時といふものが考へられるには、上に云つた如く何等かの
NKZ6-348-14  意味に於て限定せられた現在から出立せなければならない。かゝる現在の自己限定の極限として瞬間
NKZ6-348-15  といふものが考へられ、逆に瞬間が瞬間自身を限定するといふ意味に於て、真の時といふものが考へ
NKZ6-349-1  られるのである。即ち限定せられた現在といふものが、いつも私の所謂環境といふ意味を有つたもの
NKZ6-349-2  でなければならない。かゝる意味に於て何処までも限定せられた現在、永遠に限定せられた今といふ
NKZ6-349-3  ものが、すべてのものがそれによつて限定せられ、それから生ずると考へられる環境と考へることが
NKZ6-349-4  できる。かゝるものをすべてのものの環境と考へられる物体界と考へることができるであらう。我々
NKZ6-349-5  がすべての実在の根柢として考へる物体界といふものは、かゝる意味に於て何処までも限定せられた
NKZ6-349-6  現在の世界でなければならぬ。それに於ては瞬間といふものはない、自己自身の中心を有たない時の
NKZ6-349-7  世界、即ち空間的時の世界といふべきである。すなはち所謂物質界と考へられるものが無の限定とし
NKZ6-349-8  て現在が現在自身を限定する意味を有し、既に歴史的世界といふ意味を有することによつて、それか
NKZ6-349-9  らすべてのものが発展すると考へられるのである。それは既に弁証法的意義を有つたものでなければ
NKZ6-349-10  ならない、生きたものでなければならない。限定せられた現在の自己限定、即ち有の一般者の自己限
NKZ6-349-11  定として時といふものが考へられる時、何処までも過去から現在が限定せられると考へられるが、逆
NKZ6-349-12  に限定するものなくして自己自身を限定する瞬間の自己限定から時が始まるといふ立場から見れば、
NKZ6-349-13  終のものは始にあると云ふことができる。時は未来から限定せられると考へることができる、真の生
NKZ6-349-14  命と考へられるものは一面に於て未来から過去への逆流と考へることもできる。唯物論者は脳髄が出
NKZ6-349-15  来たから意識が生じたと考へるが、却つてべルグソンの如く我々の感官といふ如きものはエラン・ヴ
NKZ6-350-1  イタールが物質界を貫通した跡方と考へることができる、視力の流の跡に眼といふものが出来たと考
NKZ6-350-2  へることができる。視力的生命との関係に於てでなければ眼といふものは理解せられない、然らざれ
NKZ6-350-3  ば単に細胞の偶然的なる結合と考へる外ないであらう。本当は我々の世界と考へるものは、瞬間が瞬
NKZ6-350-4  間自身を限定することから始まると云ふことができる。瞬間が瞬間自身を限定するといふことは、単
NKZ6-350-5  に何物もない所から忽然、物が出て来るといふことではなく、そことも環境が個物を限定し、個物が
NKZ6-350-6  環境を限定するといふ意味がなければならぬ。点から点に移り行く真の個物と考へられるものは此の
NKZ6-350-7  如き弁証法的過程として考へられるのである、一方に於て自己が過去の過去から限定せられると考へ
NKZ6-350-8  られると共に、一方に於て自己は未来の未来から自己を限定する意味を有つてゐなければならない。
NKZ6-350-9  過去もなく未来もなく、到る所が今であり、到る所に時が始まる永遠の今の自己限定として世界が始
NKZ6-350-10  まると云ふことができる。而してかゝる限定が我々の人格的生命と考へられるものであり、我々の世
NKZ6-350-11  界は人格的生命の自己限定から始まると考へることもできるであらう。我々の個人的自己の環境と考
NKZ6-350-12  へられる社会的意識と考へられるものも、かゝる意味に於て永遠の今の意味を有つたものでなければ
NKZ6-350-13  ならない。而して世界の根柢として考へられる物質界と考へられるものは、社会的意識の身体といふ
NKZ6-350-14  如き意味を有つたものでなければならぬ。
NKZ6-350-15   限定するものなきものの限定として弁証法的運動と考へられるものが、右の如く環境が「於てある
NKZ6-351-1  もの」を限定し、逆に「於てあるもの」が環境を限定すると云ふことであり、環境といふものがかゝ
NKZ6-351-2  る限定に欠くべからざる一面であるとすれば、私は之によつて我々の意識と考へるものが如何にして
NKZ6-351-3  生じ、如何なる意味を有するものなるかを明にすることができると思ふ。物は環境に於てあり、個物
NKZ6-351-4  は環境的限定の極限として考へられねばならぬ。而も単にかゝる意味に於て個物といふものが考へら
NKZ6-351-5  れるのでなく、逆に個物が環境を限定するといふ意味がなければならぬ。かゝる逆限定といふものが
NKZ6-351-6  考へられるかぎり、そこに中和的環境といふものが考へられねばならない、過程的限定を離れた単な
NKZ6-351-7  る場所的限定といふ如きものを考へることができる。弁証法的限定といふものを、唯、過程的に考へ
NKZ6-351-8  るならば、単に否定即肯定、死即生といふ如きことにて足るであらう。併しかゝる意味に於ての弁証
NKZ6-351-9  法と考へられるものは尚主語的有に即したものと云ふべく、連続を基として考へられた非連続の連続
NKZ6-351-10  たるを免れない、真に絶対否定を基とした弁証法ではない。従つてかゝる弁証法に於ては、分離的な
NKZ6-351-11  るものを考へることはできぬ。真の弁証法といふのは、始より蘇生を期待して死するのでなく、真に
NKZ6-351-12  死することによつて生きるといふことでなければならぬ、絶対の死に入ることによつて蘇るといふこ
NKZ6-351-13  とでなければならぬ。「於てあるもの」に対して、場所的限定といふものが対立的意義を有つてゐな
NKZ6-351-14  ければならぬ。かゝる意味に於て何処までも環境から限定せられ行くと考へられる個物が、その極限
NKZ6-351-15  に於て之を越えると考えられる時、場所的限定と考へられるものは、単に個物的過程を映す我々の意
NKZ6-352-1  識面といふ如き意味を有つと考へることができるのである。個物が環境を越えると考へられる時、場
NKZ6-352-2  所的限定が之につれて消え失せるのではない、場所的限定は何処までも之に対して逆限定の意味を有
NKZ6-352-3  たなければならぬ。而もそれはもはや之を限定するといふ意味を有つことはできない、単に之を映す
NKZ6-352-4  といふの外ないのである。斯くして実在界を離れた浮泛的なる映像の世界といふ如きものが考へられ
NKZ6-352-5  るのである。時間的なるものに対して非時間的なるものの世界と考へられるものは、かゝる意味を有
NKZ6-352-6  つたものでなければならぬ。併しかゝる世界といへども、全然、個物が個物自身を限定するといふ意
NKZ6-352-7  味を失つたものではない、単に一般的なる場所的限定の世界ではない。苟もそれが有ると考へられる
NKZ6-352-8  かぎり、一般が個物を限定し、個物が一般を限定する弁証法的限定の意義を有つてゐなければならな
NKZ6-352-9  い。意識は誰かの意識でなければならない、何人の意識でもない意識といふものは考へられない、各
NKZ6-352-10  人が各人の意識面を有つのである。環境的限定の極限に於て個物が之を越えるといふ時、即ち個物が
NKZ6-352-11  場所に対して自由となると考へられる時、無の限定の立場に於て之に対する逆限定として、即ち個物
NKZ6-352-12  が個物自身を限定するといふ意味に於て、無数の個物的限定といふものが考へられねばなちぬ。併し
NKZ6-352-13  場所が何処までも環境的限定の意義を有つと考へられる時、自己自身を限定する個物と考へられるも
NKZ6-352-14  のは、単に映すもの、単に各自の意識面を有つものと考へる外ない。我々の自己は此場合、全然受働
NKZ6-352-15  的と考へられるのである、単に環境を映すもの、即ち感官と考へられるのである。我々の内部知覚的
NKZ6-353-1  世界と考へられるものは斯くして考へられるのである。環境的限定を離れて各自が各自の内面的世界
NKZ6-353-2  を有つと考へられるのである、単なる環境的場所の自己限定として我々の感覚的意識の世界といふ如
NKZ6-353-3  きものが考へられるのである。併し意識の世界といへども、右に云つた如く実在界を離れて浮遊する
NKZ6-353-4  のではない、受働も一種の作用でなければならぬ。我々は限定せられた一般者の自己限定として個物
NKZ6-353-5  といふものを考へて行く時、その限定の極限に於て之を越えると考へなければならぬ。併し私の所謂
NKZ6-353-6  環境的限定の意味はそこに止まるのではない、何処までもその意味がなければならぬ。上に云つた如
NKZ6-353-7  く、すべてのものが物質界から生ずると考へられる時、その物質界と考へられるものは、時間的とし
NKZ6-353-8  て既に無の限定の意味を有つてゐなければならない。斯くして始めて物質の弁証法的運動といふこと
NKZ6-353-9  が理解せられ、物質から意識が生ずるといふ如きことも云ひ得るのである。単なる物質界と考へられ
NKZ6-353-10  るものは、唯、環境的限定の極限に考へられた抽象面たるに過ぎない。真の物質と考へられるものは、
NKZ6-353-11  固、歴史的物質でなければなら〔な〕い。具体的に有るものは、始から無の限定として、環境が個物を限定
NKZ6-353-12  し、個物が環境を限定するといふ弁証法的運動としてあるのである。かゝる弁証法的運動と考へられ
NKZ6-353-13  るものが、連続的過程としてでなく、絶対否定によつて非連続の連続として考へられねばならぬので
NKZ6-353-14  あるから、かゝる過程の一面として意識といふ如きものが考へられるのである。意識から物質は出な
NKZ6-353-15  いが、物質から意識がでると考へることもできぬ。個人的意識を生むと考へられる歴史的物質は、固、
NKZ6-354-1  弁証法的として始から意識面を有つたものでなければならない。環境的限定の極限として個物といふ
NKZ6-354-2  ものが考へられるといふ代りに、個物が個物自身を限定することによつて環境が限定せられるといふ
NKZ6-354-3  立場から云へば、物質界といふ如きものは、個物的限定の極限に於て、その逆限定として考へられる
NKZ6-354-4  のである。個物の自己限定の極限に於て絶対の否定面に撞着すると考へられる所に、物質界といふも
NKZ6-354-5  のが考へられねばならぬ。故にギリシャ哲学に於ての様に、物質は単なる無と考へられ、又単に映す
NKZ6-354-6  鏡とも考へられるのである。意識界と考へられるものが一面に於て物質界であり、物質界と考へられ
NKZ6-354-7  るものが、一面に於て意識界であるとも云ふことができる。個物が個物自身を限定するといふ意味に
NKZ6-354-8  於て具体的に有ると考へられるものが行為するものといふ如きものであり、行為するものが個物的に
NKZ6-354-9  自己自身を限定するといふ意味に於て、自己限定面と考へられるものがその意識面といふものであり、
NKZ6-354-10  更に之を越えた環境的限定面と考へられるものが物質界と考へられるものである。而して絶対の死の
NKZ6-354-11  面は即生の面なるが故に、行為的自己として我々の於てある世界といふ如きものは、一面に於て何処
NKZ6-354-12  までも物質的と考へられると共に、一面に於て何処までも意識的として表現的世界の意義を有つと云
NKZ6-354-13  ふことができる。我々の於てある世界といふものは環境的限定としては物質の世界、生物の世界とい
NKZ6-354-14  ふべく、個物的限定の立場に於ては歴史的世果と考へることができるであらう。単なる環境的限定の
NKZ6-354-15  立場から何処までも環境を越え行く個物を限定しようとする時、環境的限定は物質的、生物的として
NKZ6-355-1  宇宙的生命の意味を有たなければならぬが、自己自身を限定することによつて環境を限定する意味を
NKZ6-355-2  有する動く個物を限定する環境的限定と考へられるものは、歴史的と云はねばならぬ。

 
NKZ6-355-3   以上述べた如く、何等かの環境なくして個物といふものなく、我々は何等かの環境に於てあり、環
NKZ6-355-4  境が我々を限定すると共に、我々が環境を限定する。環境なくして個物がないと共に、個物なくして
NKZ6-355-5  環境といふものもない。かゝる過程的限定の根柢に何処までも単なる環境的限定といふものを置いて
NKZ6-355-6  考へれば、物質界の自己限定といふ如きものが考へられ、それが何処までも我々の個人的自己を限定
NKZ6-355-7  するといふ意味に於ては、宇宙的生命と考へることもできるであらう。併しすべて時に於てあるもの
NKZ6-355-8  は既に無の限定の意義を有し、かゝる弁証法的運動も、固、死即生なる絶対無の限定面的限定として
NKZ6-355-9  考へられるのであり、具体的にはかゝる環境的限定といふのも社会的限定といふ如き意味を有し、歴
NKZ6-355-10  史的に自己自身を限定して行くと云ふことができる。かういふ意味に於ては、単なる物質界と考へら
NKZ6-355-11  れるものも歴史の世界、表現の世界の一面といふことができる。唯、かゝる弁証法的限定の底には、
NKZ6-355-12  絶対に死して生れるといふ絶対面に撞着するといふ意味があり、そこに自己自身を限定する真の個人
NKZ6-355-13  的自己といふものが考へられるのである。単なる環境的限定としての物質界といふものも、そこから
NKZ6-355-14  考へられるのである。個人的自己に対し絶対的否定面として物質界といふものが考へられるのである。
NKZ6-356-1  かういふ意味に於て、物質といふものを所謂物質といふ意味ではなく、絶対の非合理性を意味すると
NKZ6-356-2  すれば、表現的限定の底に物質といふものを置くこともできるであらう。社会的・歴史的限定の極限
NKZ6-356-3  として考へられる我々が、死即生の絶対面に撞着すると考へられる時、絶対に非合理的なるものと云
NKZ6-356-4  ふべき物質といふ如きものに撞着すると共に、我々は限定せられた環境的限定を脱して、各人が各人
NKZ6-356-5  の意識面を有つといふことができるのである。そしてそこから個物が環境を限定し、我々は歴史的に
NKZ6-356-6  我々の社会を変じ行くと考へることができる。社会的・歴史的限定の極限として考へられる我々の個
NKZ6-356-7  人的自己は、逆に歴史を限定し、社会を改造する創造的意義を有つのである。社会は自己自身の限定
NKZ6-356-8  の尖端と考へられる個人的自己の自己限定を通じて動くのである。偉人といふ如きものは社会的意識
NKZ6-356-9  の焦点と考ヘることができるのである。
NKZ6-356-10   私は是に於て真の生命の過程といふものを明にして置かねばならぬ。真の生命といふべぎものは、
NKZ6-356-11  ベルグソンの創造的進化といふ如き単に連続的なる内的発展ではなくして、非連続の連続でなければ
NKZ6-356-12  ならぬ。死して生れるといふことでなければならぬ。生命の飛躍は断続的でなければならぬ。ベルグ
NKZ6-356-13  ソンの生命には真の死といふものはない。故に彼の哲学に於て空間的限定の根拠が明でない。真の生
NKZ6-356-14  命といふのは、唯私の所謂死即生なる絶対面の自己限定としてのみ考へ得るものでなければならぬ。
NKZ6-356-15  真に限定するものなきものの自己限定としてのみ考へ得るのである。然らざれば、何処迄も対象的限
NKZ6-357-1  定の意義を脱することはできない。我々は我々の個人的自己の自己限定の底に於て、絶対の無に撞着
NKZ6-357-2  するのである、明日の我として蘇るものを越えて、永遠に再び自己として蘇らないもの、唯、他人として蘇
NKZ6-357-3  るものに撞着するのである。そこに絶対に非合理的にして合理的なるものを生む真の物質といふ如き
NKZ6-357-4  ものも考へられるであらう、永遠に死して生れないもの、唯一度的なるものに触れるといふことがで
NKZ6-357-5  きる。かゝる限定を個物と環境との関係から見れば、それはすべてを包む無限大の環境の自己限定と
NKZ6-357-6  考へることができるであらう。時の瞬間といふ如きものは無限大なる円の自己限定の中心と考へるこ
NKZ6-357-7  ともできる。而して更に瞬間から瞬間に移る時間的系列を限定するものは、かゝる無限大の円を包む
NKZ6-357-8  もの、即ち周辺なき円と考へねばならぬであらう、一般者の一般者といふことができる。かゝる意味
NKZ6-357-9  に於て、一面に於て非合理的として物質と考へられるものは、一面に於て無限の生命と考へることが
NKZ6-357-10  できる。一度的なるものを限定するものは、一歩一歩が創造的なる永遠の生命と考へることができる。
NKZ6-357-11  併しかゝるものも、尚真に絶対無の限定といふべきものではない、絶対の死即生なる絶対面的限定と
NKZ6-357-12  いふべきものでない。真の絶対無の限定と考へられるものは、単に周辺なき円といふ如きものではな
NKZ6-357-13  くして、その到る所が中心となるものでなければならぬ。かゝる一般者の自己限定として絶対に死し
NKZ6-357-14  て蘇るといふ弁証法的に自己自身を限定するものが限定せられるのである、個物が環境を限定し環境
NKZ6-357-15  が個物を限定するものが考へられるのである。かういふ立場から見れば、一度的に自己自身を限定す
NKZ6-358-1  る永遠の生命と考へられるものも、尚ノエマ的に限定せられた一つの特殊なる生命といふ意義を脱す
NKZ6-358-2  ることはできない、真の永遠の生命といふことはできない。周辺なくして到る所が中心となる円の自
NKZ6-358-3  己限定としては、之に於て無数の自己自身を限定する円が限定せられると考へることができる。無数
NKZ6-358-4  の今が限定せられると考へることができる。我々の個人的自己と考へるものは、皆かゝる絶対無の限
NKZ6-358-5  定面的限定として之に於て限定せられるのである。かゝる円の周辺的限定として、一面に自己自身を
NKZ6-358-6  限定する無数の無限大の円が限定せられると考へることができるであらう。無数の無限大の円が之に
NKZ6-358-7  包まれると考へることができる。而してそれが周辺なき円の自己限定として、即ち無の一般者の限定
NKZ6-358-8  として、個物が個物を生み、点より点に移る一度的なる無限の系列と考へねばならぬであらう。斯く
NKZ6-358-9  して永遠の過去から永遠の未来に流れる無限の時の流といふものが考へられるのである。到る所が中
NKZ6-358-10  心となる無辺の円の自己限定として、之に於てあると考へられる我々の個人的自己は、それが周辺的
NKZ6-358-11  に自己自身を限定すると考へられるかぎり(ノエマ的に自己自身を限定すると考へられるかぎり)、環
NKZ6-358-12  境的には何処までもかゝる無限大の環境によつて限定せられて居ると考へられねばならない、永遠に
NKZ6-358-13  流れる時によつて限定せられると考へられねばならぬ。昨日の我と今日の我とが直に結合して一つの
NKZ6-358-14  個人的自己といふものが考へられるかぎり、それはかゝる時に於てあると考へられねばならないので
NKZ6-358-15  ある。我々の個人的自己がノエシス的限定の底に死即生なる絶対面に触れると考へられるといふこと
NKZ6-359-1  は、ノエマ的にかゝる時によつて限定せられると云ふことを意味せねばならない。併し我々の生命の
NKZ6-359-2  真の実在性はかゝる環境的限定に於てあるのではない、絶対に死して生れる所にあるのである。我々
NKZ6-359-3  は絶対の底から生れるのである。かゝる意味に於て我々の生命は過去から生れるのでなく、未来から
NKZ6-359-4  生れるといふことができる、否、永遠の今の自己限定として現在が現在自身を限定するといふ意味に
NKZ6-359-5  於て生れるのである。我々の生命は非連続の連続として限定せられるのである。そこに我々の生命の
NKZ6-359-6  社会性といふものがなければならない、子は親から生れないといふ意味がなければならぬ、親と子と
NKZ6-359-7  同列的なる意義がなければならない。べルグソンは画家のパレットの上に盛られた色を見れば、我々
NKZ6-359-8  は大概如何なる画を措くかを想像することができるが、実際如何なる画が出来るかは画家自身も知る
NKZ6-359-9  ことはできないと云ふ。併しかゝる意味に於て非合理的と考へられるものは、尚、主客合一の非合理
NKZ6-359-10  性、芸術的非合理性といふ如きものでなければならぬ。我々の生命はかゝる所から生れるのではない。
NKZ6-359-11  かゝる生命は非実在的なるイデヤ的生命に過ぎない。真の生命に於ては我々は絶対に非合理的なるも
NKZ6-359-12  の、物質といふ如きものに撞着するのである。そこには真に限定するものなきものの自己限定として、
NKZ6-359-13  唯、事実が事実を限定するといふの外ない。我々は、唯、之を映すと考へるのみである。対象的には
NKZ6-359-14  我々は我々自身を失つて単に非合理的なる自然といふ如きものも考へられる。合理的なるものと非合
NKZ6-359-15  理的なるものと、所謂形式と質料との対立といふ如きものも、かゝる立場に於て考へられるのである。
NKZ6-360-1  そこに環境的限定と個物的限定とが分裂すると考へられるのである。而もかゝる死の底から蘇るとい
NKZ6-360-2  ふ所に、我々の真の実在的生命の意義があるのである。かういふ意味に於てべルグソンの生命といふ
NKZ6-360-3  如きものは実在的ではない、身体のない生命である。ベルグソンに於ては身体は生命の道具たるに過
NKZ6-360-4  ぎない。私は自然科学者の考へる如き意味に於て生命の基礎に物質を置くのではないが、非合理的な
NKZ6-360-5  るものを基礎とするといふ意味に於て、寧ろ実在的生命は身体的と考へたいと思ふ。身体なくして実
NKZ6-360-6  在的生命といふものはない。而して我々の真の生命といふものを斯く絶対の死から蘇ることであると
NKZ6-360-7  するならば、それは内面的持続といふ如きものに求むべきではなくして、実践的行為といふ如きもの
NKZ6-360-8  に求むべきであると思ふ。行為に於ては我々は過去から限定せられるのではなくして、未来から限定
NKZ6-360-9  するのである。否、限定するものなき限定として現在が現在自身を限定するといふことが行為といふ
NKZ6-360-10  ことでなければならない。環境が個物を限定し、個物が環境を限定するといふ意味に於て、弁証法的
NKZ6-360-11  に自己自身を限定するものが、行為するものでなければならない。べルグソンの純粋持続の生命とい
NKZ6-360-12  ふ如きものも、かゝる限定に基礎附けられたものでなければならぬ。而も環境と個物とが一つの流と
NKZ6-360-13  なることによつて弁証法的意義を失つたものと云ふことができる。
NKZ6-360-14   我々の真の生命と考へられるものが、死即生なる絶対面的限定として、以上述べた如きものとする
NKZ6-360-15  ならば、生命といふものが一つの大なる流と見られる前に、その根柢にすべてを包む空間的限定とい
NKZ6-361-1  ふ如きものが考へられねばなちぬ。周辺なくして到る所が中心となる円の自己限定として、永遠の今
NKZ6-361-2  の限定といふ如きものが考へられねばならない。その到る所が中心として、之に於て自己自身の限定
NKZ6-361-3  面を有つた無数の円が空間的に限定せられると考へられると共に、周辺なき円の限定として、即ち一
NKZ6-361-4  般者の一般者の限定として、之に於てあるものが無限の流によつて限定せられると考へられるのであ
NKZ6-361-5  る。大なる生命の流は死即生の絶対面の中に廻転しつゝあるのである。時は永遠の今の中に生れ永遠
NKZ6-361-6  の今の中に消え去ると考へられる如く、歴史は永遠の今の中に廻転しつゝあると考へることができる。
NKZ6-361-7  我々はいつでも永遠の今に接して居るのである。我々は各の時代に於て絶対面に触れて居る故に、環
NKZ6-361-8  境が個物を限定し、個物が環境を限定するといふ我々の世界と考へられるものは、いつも永遠の今の
NKZ6-361-9  自己限定の意味を有つたものでなければならぬ。現在が現在自身を限定するといふ事から我々の世界
NKZ6-361-10  といふものが考へられねばならぬ。時は何等かの意味に於て限定せられた現在から考へられると考へ
NKZ6-361-11  られる所以である。力学的全体として時代といふものが考へられるのも、此の如き時を包む永遠の今
NKZ6-361-12  の自己限定の意味に於て考へられねばならない。かゝる限定を単に死の面に即して考へる時、又単に
NKZ6-361-13  生の面に即して考へる時、いづれも非現実的にして考へられた世界たるを免れない。我々は各の瞬間
NKZ6-361-14  に於て永遠に未来なるもの、永遠に過去なるものに接して居るのである、否、永遠の今に接して居る
NKZ6-361-15  のである。我々はいつも我々の底に死即生なる絶対面に接して居るのである。我々は現実の底に於て
NKZ6-362-1  いつも絶対の死、即ち絶対に非合理的なるものに触れて居る。そこでは事実が事実自身を限定し、我
NKZ6-362-2  我は感官的として唯、之を映すと云ふことができる。之を物質といふならば、我々は物質に直接する
NKZ6-362-3  と云ひ得るであらう。之と共に、我々は現実の底にいつも永遠の生に接して居るのである。時を越え
NKZ6-362-4  て而も時に於て自己自身の内容を限定するものに撞着するのである。そこに我々の個人的生命といふ
NKZ6-362-5  ものがあるのである。而して個人的生命といふものなくして実在的生命といふものはない。併しかゝ
NKZ6-362-6  る実在的生命と考へられるものは、瞬間が瞬間自身を限定する意味に於て、個人的と考へざるを得な
NKZ6-362-7  いと共に、周辺なき円のノエマ的限定、即ち一般者の一般者の限定として無限の流に於てあると考へ
NKZ6-362-8  ざるを得ない。かゝる意味に於て無限の時の流と考へられるものは、限定するものなきものの限定と
NKZ6-362-9  して、之に於てあるものから繰り返すことができないと考へられると共に、之を死の面に即して考へ
NKZ6-362-10  れば、過去から未来への無限の流と考へられ、之を生の面に即して考へれば、逆に未来から過去に向
NKZ6-362-11  つての無限の流と考へられる。無限なる時の流と考へられるものは、その実、過去から始まるのでも
NKZ6-362-12  なければ、未来から始まるのでもない。時は永遠の今の自己限定として、現在が現在自身を限定する
NKZ6-362-13  といふことから考へられるのである。かゝる限定は到る所が中心となり周辺なき円の自己限定を意味
NKZ6-362-14  し、一般者の一般者の限定を意味するのである。かゝる円に於てある無限大の円と考へられる我々は、
NKZ6-362-15  何処までも現在が現在自身を限定すると考へられる一般者の一般者によつて限定せられると考へるこ
NKZ6-363-1  とができる。我々はいつでも何等かの与へられた環境に於てあるのである、与へられた現在に於てあ
NKZ6-363-2  るのである。而もかゝる現在と考へられるもの、即ち環境と考へられるものは、絶対の無の限定とし
NKZ6-363-3  て何処までも固定したものではない、閉ぢられた円ではない。環境が個物を限定すると共に、個物が
NKZ6-363-4  環境を限定するのである。環境は自己自身を否定すると共に、自己自身を肯定する意味を有つてゐな
NKZ6-363-5  ければならぬ。現在が現在自身を限定するといふことは、いつもかゝる意味を有つてゐなければなら
NKZ6-363-6  ない。かゝる限定の無限なる重畳として、無限大なる時の流といふものが考へられるのである。現在
NKZ6-363-7  が現在自身を限定することから、時の流といふものが考へられるのである。それ故に、無限なる流と
NKZ6-363-8  考へられるものは、永遠の今の自己限定の立場からは、空間的に無限大の円の無限の重畳と考へるこ
NKZ6-363-9  とができる。現在が現在自身を限定する意味に於て、円環的に自己自身を限定する時の流といふもの
NKZ6-363-10  は、永遠の今が自己の中に自己を映す永遠の今の姿といふことができる。永遠の今と考へられるもの
NKZ6-363-11  が、かゝる意味に於て時を包み時を基礎附けるものとして、我々は瞬間が瞬間自身を限定すると考へ
NKZ6-363-12  られる自己限定の底に於て、いつも永遠の今の自己限定に触れると考へることができるのである。真
NKZ6-363-13  に個物的に我々を限定するものは、すべてを包む一般者でなければならない。此故に我々は死即生の
NKZ6-363-14  絶対面に撞着するものとして、一面に絶対に非合理的なるもの、物質に撞着すると考へられると共に
NKZ6-363-15  一面に永遠の生命に接すると考へることができる、時を越えたものに触れると考へられるのである。
NKZ6-364-1  而も我々はすべてを包む絶対的環境の環境的限定に於てあるものとして無限の環境から限定せられて居ると考へざ
NKZ6-364-2  るを得ない、現在が現在自身を限定する意味に於て又無限の果から限定せられて居ると考へられるの
NKZ6-364-3  である。

 

NKZ6-364-4   我々は何処までも環境的に限定せられろといふ意味に於て、絶対の環境的限定として過去から未来に亙る宇宙的発展といふ如
NKZ6-364-5  きものが考へられ、それが我々の生命をも包み、我々の生命をも限定するものとして宇宙的生命とも考へられるが、時は絶対無
NKZ6-364-6  の限定として永遠の今の中に包まれ、永遠の今の中に廻転するといふ意味に於て、かゝる限定の背後に空間的なるものがなけれ
NKZ6-364-7  ばならぬ。而も自覚的限定として時といふものが考へられるといふ意味に於ては、かゝる空間的限定と考へられるものは、寧ろ
NKZ6-364-8  社会的といふべきものであり、宇宙的発展と考へられるものも歴史的といふことができる。絶対的環境の限定と考へられるもの
NKZ6-364-9  は、固、死即生なる絶対無の自己限定に於ける死の面と考ふべをものであり、各自の意識面を有つた我々の個人的自己と考へら
NKZ6-364-10  れるものは、かゝる死即生の絶対的限定面に沿うて考へられるのである。故に我々の自己の自己限定の底には、時を越えた意味
NKZ6-364-11  がなければならぬ。空間的・社会的意義がなければならない。真の生命といふものも、かゝる意味に於て考へられるのである。
NKZ6-364-12  生命の根柢には流れて流れざるものがなければならぬ。絶対の死の面と考へられるものが物質界と考へられるものであり、我々
NKZ6-364-13  は一面に於ていつも物質界に接して居ると考へられると共に、死の面即生の面といふ意味に於て一面に意識的であり、表現の世
NKZ6-364-14  界、歴史の世界に接して居るといふことができる。我々は行為するものとして真に自已自身の生命を有し、真に生きるといふこ
NKZ6-364-15  とができるのである。我々は絶対面的限定として、一方に絶対の環境的限定によつて限定せられ、無限なる時の流に於てあると
NKZ6-364-16  考へられなければならぬであらう。併し我々は単にかゝる意味に於てあるのではない、絶対無の場所的限定としてあるのである。
NKZ6-364-17  外延的限定としてあるのである。かゝる考の基礎附については、此論文の「三」の後方に於て述べた所を参照せられんことを望
NKZ6-364-18  む。我々の自覚的限定に於て、自己自身の底に絶対の他を見るといふことによつて自己が自己となると考へられ、そして我々の
NKZ6-365-1  於てある世界と考へられるものが、かゝる自覚的限定によつて限定せられたものとするならば、我々の世界と考へるものの根柢
NKZ6-365-2  に社会的限定の意味があると云はねばならぬ。過程的弁証法的限定として過去から未来に亙る無限の時の流と考へられるものの
NKZ6-365-3  底に、一即多として場所的限定の意義があるとすれば、現在が現在自身を限定することによつて自己自身を限定する瞬間の底に
NKZ6-365-4  永遠の今の空間的限定の意味がなければならぬ。

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Author: Niels GUELBERG
e-mail: guelberg@waseda.jp
First drafted: 03.02.27
Last updated: 03.06.28