西田幾多郎データべース(c) Niels Guelberg 2000


西田幾多郎[著]: 生の哲学について(1932.10)

西田幾多郎全集・第6巻

校異
赤い文字(赤いフォント)は原雑誌論文の、単行本において 削除された箇所を示す。
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NKZ6-428-1     生の哲学について

 
NKZ6-428-2      一

 
NKZ6-428-3   古来、哲学と称せられるものは、何等かの意味に於て深い生命の要求に基かざるものはない。人生
NKZ6-428-4  問題といふものなくして何処に哲学といふべきものがあるであらう。かういふ意味に於て、私は生の
NKZ6-428-5  哲学と云はれるものに対して多大の同情を有つものである。併し生命といふ如きものを根本概念とし
NKZ6-428-6  て一つの哲学を組織しようと云ふには、先づ生命といふものが如何なるものなるかを明にして置かね
NKZ6-428-7  ばならぬ、生命と論理との関係が極められてゐなければならない。無論、生命といふ如きものは論理
NKZ6-428-8  的に証明することもできなければ、概念的に捕捉することのできるものでもない。而も生命は直接の
NKZ6-428-9  事実として何人もそれを知らないものはないと云ふでもあらう。併し生の哲学といふものが一つの哲
NKZ6-428-10  学的体系として学問性といふものを要求するには、生命の論理的意義といふ如きものが深く掴まれて
NKZ6-428-11  ゐなければならない。生命といふものが単に論理を越えたものであるならば、哲学の根本概念とする
NKZ6-429-1  こともできない。今日、生の哲学と考へられるものには色々の種類があり、それぞれの立場に於てそ
NKZ6-429-2  れぞれの意義を有するものであらうが、唯、その根本概念たる生命と論理との深い内面的関係につい
NKZ6-429-3  て考へられて居ない。そこに生の哲学と云はれるものの根本的弱点があり、哲学の学問性を要求する
NKZ6-429-4  人々から生の哲学に加へられる批難もそこに基くと思ふ。生命の論理的捕捉といふ如きことは固より
NKZ6-429-5  所謂論理的に能くし得ることではなく、そこに弁証法的論理といふ如きものが考へられるのであらう。
NKZ6-429-6  へーゲルの哲学は所謂生の哲学といふ中に入るべきものでないかも知らぬが、かういふ意味に於て却
NKZ6-429-7  つて真の生の哲学の意義を有つと考へることもできるであらう。併し何処までも理想主義の立場に立
NKZ6-429-8  つてゐたへーゲルは弁証法の真意義を掴むことができなかつたと共に、真に生命を論理的に掴むとい
NKZ6-429-9  ふこともできなかつたと云ひ得るでもあらう。

 
NKZ6-429-10   私は真の生命といふものは、唯、我々の人格的自己の自覚から考へられるものと思ふ。我といふも
NKZ6-429-11  のなくして真の生命といふものなく、人格的といふことなくして真の我といふものはない。真の生命
NKZ6-429-12  といふものはノエマ的に知られるものではなくして、ノエシス的に知られるものでなければならない。
NKZ6-429-13  我々は普通に生物の有機作用といふものによつて生命といふものを考へる。併し目的的因果は直に生
NKZ6-429-14  命ではない、生物的現象といふ如きものは、科学的には畢竟機械的因果に還元するの外なく、その合
NKZ6-430-1  目的性といふ如きものは要するに我々の主観によつて附与したものと考へる外ない。意識なくして生
NKZ6-430-2  命といふものはない。如何なる意味に於ても自然に還元のできない生命と考へられるものは、我々の
NKZ6-430-3  意識の事実に求めるの外ない。心理学者は自覚的意識なくして意識現象といふものがあると考へるで
NKZ6-430-4  あらう。自覚的意識といふのは却つて一種の意識に過ぎないとも云ふであらう。併し意識統一といふ
NKZ6-430-5  ものなくして意識といふものはない。意識の統一に於ては、統一するものが統一せられるものの外に
NKZ6-430-6  あるのではない、部分の中に全体が含まれて居るのである、一歩一歩が全体の意味を具して居るので
NKZ6-430-7  ある。所謂自覚的意識として考へられる特殊の意識といふものが、我々の意識を統一する自己ではな
NKZ6-430-8  い。さういふ意味に於ては、我々の自己は何処までも意識せられないものでなければならない。真の
NKZ6-430-9  自覚といふべきものは自己が自己に於て自己を見る無限の過程と考へられるものに過ぎない、無限な
NKZ6-430-10  る過程の行先がその出立点に含まれて居るといふことを意味するに外ならない。かゝる意味に於て有
NKZ6-430-11  ると考へられるものは、全体から部分が考へられるのでなく、部分から全体が考へられるといふ意味
NKZ6-430-12  を有つたものでなければならぬ。一般者の自己限定として個物が考へられるといふ意味に於て考へら
NKZ6-430-13  れるのでなく、逆に個物が個物自身を限定することによつて一般者が考へられるといふ意味に於て考
NKZ6-430-14  へられるものでなければならぬ、点から点に移るといふ意味を有つたものでなければならぬ、非連続
NKZ6-430-15  の連続として考へられるものでなければならぬ。意識の統一といふものなくして意識現象といふもの
NKZ6-431-1  なく、意識統一といふものは右の如き意味を有つたものでなければならない。自己といふものなくし
NKZ6-431-2  て意識現象といふものがないと考へられる所以である。具体的意識と考へられるものは、いつも自己
NKZ6-431-3  自身の底から自己を限定する意味を有つたものでなければならない、限定するものなきものの自己限
NKZ6-431-4  定の意味を有つたものでなければならない。単なる無自覚的意識といふ如きものは、ノエシス的限定
NKZ6-431-5  を極小とすることによつてノエマ的方向の極限に考へられた意識の一面に過ぎない。
NKZ6-431-6   自己といふものなくして意識といふものなく、自己といふものが右の如きものとするならば、我々
NKZ6-431-7  は尚一層深く我々の自己といふものについて考へて見なければならぬ。真の自覚的限定といふものは
NKZ6-431-8  如何なるものであらうか。我々は普通に知的自覚といふものを自覚と考へて居る。併し我々の自己は
NKZ6-431-9  単に所謂内部知覚といふ如きものによつて意識せられるのでもなく、又単なる思惟の意識といふ如き
NKZ6-431-10  ものでもない。我々の自己は自由なるものでなければならぬ、働くものでなければならぬ。内部知覚
NKZ6-431-11  的自己の自覚と考へられるものも、その実、行為によつて裏附けられて居るものでなければならない。
NKZ6-431-12  行為といふものなくして自己といふものはない。真の自覚と考へられるものは行為的自己の自己限定
NKZ6-431-13  の意味を有つたものでなければならぬ。従来、内省的事実に基いて内的連続として自己といふものが
NKZ6-431-14  考へられた。我々の自己といふものは単に外に考へられるものでないことは云ふまでもないが、然ら
NKZ6-431-15  ばと云つて単に所謂意識内に考へられるものではない。我々の自己の底には自己自身を超越するもの
NKZ6-432-1  がなければならない。内が外であり外が内である所に、真に具体的なる意識の事実が考へられるので
NKZ6-432-2  ある。それでは、我々の行為的自己と考へられるものは如何なるものであり、如何にして考へられる
NKZ6-432-3  ものであらうか。行為的自己の自己限定の底には何処までも自己を越えたものがなければならぬ、非
NKZ6-432-4  合理的なるものがなければならない。我々の真の自己と考へられるものは、単に理性といふ如きもの
NKZ6-432-5  でもなければ、内的連続として所謂意識的自己といふ如きものでもない。行為的自己として我々は客
NKZ6-432-6  観的なるものに、否、非合理的なるものに基礎附けられて居なければならない。併し自己の根柢に単
NKZ6-432-7  に非合理的なるものが考へられるならば、自己といふものはない。如何なる意味に於ても、単に自然
NKZ6-432-8  と考へられるものから我々の自覚は出て来ない。かゝる立場からは、我々の行為と考へるものも、要
NKZ6-432-9  するに単なる運動と考へられる外はない。我々に真に自覚といふものが考へられるかぎり、我々は何
NKZ6-432-10  処までも我々自身の底に他を見ると考へなければならない。我々の知識とか行為とか考へられるもの
NKZ6-432-11  は、かゝる自覚に基礎附けられて居るのである。是に於て我々の行為的自己の自覚の根柢として客観
NKZ6-432-12  的精神といふ如きものを考へることができる。そして我々の自己がそれに於て自己自身を没入するこ
NKZ6-432-13  とによつて自己自身を見出すと考へる。併しかゝる意味に於て客観的精神と考へられるものは、如何
NKZ6-432-14  なるものでなければならぬであらうか、如何なる意味に於て客観的存在と考へられるものであらうか。
NKZ6-432-15  それは如何なる存在形式に於て存在と考へられねばならぬものであらうか、我々の個人的自己と考へ
NKZ6-433-1  られるものと如何なる関係に立つものであらうか。それを我々が自己の底に何処までも他を見るとい
NKZ6-433-2  ふ意味に於て、所謂内的自己の深められ広げられたものと見るならば、それによつて行為的自己の客
NKZ6-433-3  観的根拠を基礎附けることはできない。之に反し、それが我々の個人的自己を超越する客観的存在と
NKZ6-433-4  して大なる精神的原理といふ如きものと考へられるならば、我々はそれによつて我々の個人的自己の
NKZ6-433-5  自由といふものを説明することはできぬ。而も個人的自己の自由といふものなくして真の行為的自己
NKZ6-433-6  の自覚といふものはない。単なる一般者の自己限定として何処まで行くも個物に到達することのでき
NKZ6-433-7  ないと同様である。
NKZ6-433-8   是に於て、我々は我々の人格的自己の生命と考へられるものが如何なる意味に於て成立するかを深
NKZ6-433-9  く考へて見なければならぬ。我々の人格的自己の生命と考へられるものは、先づ時に於て流れるもの
NKZ6-433-10  と考へられるであらう。併し真に我々の人格的自己の生命といふべきものは、所謂内的持続といふ如
NKZ6-433-11  きものではなくして、その一瞬一瞬が独立であり自由であると考へられるものでなければならぬ。そ
NKZ6-433-12  の一歩一歩が絶対に接すると考へられるものでなければならぬ。人格的自己の生命と考へられるもの
NKZ6-433-13  は、かゝる非連続の連続として考へられるのである。故に現在の私から見れば、昨日の私も汝であり、
NKZ6-433-14  明日の私も汝でなければならぬ、否、我々は各瞬間に於て斯く考へねばならぬ。かういふ意味に於て
NKZ6-433-15  我々の全人格の統一と考へられるものには、社会的といふ意味がなければならぬ。而もそれは非連続
NKZ6-434-1  の連続として、時間的に自己自身を限定すると考へられるのである。我々の人格的自己の生命と考へ
NKZ6-434-2  られるものは社会的・歴史的に自己自身を限定すると考へることができる。私が人格的統一の原理と
NKZ6-434-3  してアガペといふ如きものを考へる所以である。この瞬間の私を私として限定するものは、単なる自
NKZ6-434-4  然といふ如きものではなくして、前の私でなければならぬ。而もそれは単なる私といふ如きものでは
NKZ6-434-5  なくして、この瞬間の私に対して汝の意味を有つたものでなければならぬ。又合目的的に後の私が今
NKZ6-434-6  の私を限定すると考へられる場合にも、それは単にエンテレケイアといふ如きものではなくして、や
NKZ6-434-7  はり汝の意味を有つたものでなければならぬ。之に反し、私が未来の私を限定すると考へられる場合
NKZ6-434-8  でも、それは単に後の私を限定するといふ意味ではなくして、後の私に対して今の私は汝に対する意
NKZ6-434-9  味を有つてゐなければならぬ。我々の人格的自己の生命と考へられるものに於ては、各瞬間の私に対
NKZ6-434-10  して他の各の瞬間の私が汝の意味を有つてゐなければならぬ。我々は自己の中に汝を見ることによつ
NKZ6-434-11  て我々の人格的統一といふものが成立すると云ふことができる。我々の自己自身に対する自敬の念は
NKZ6-434-12  此に基くのである。自敬といふものなくして、我々の人格的自己の生命といふものはない。
NKZ6-434-13   我々の個人的自己の人格的生命といふものは右の如くにして成立すると考へられねばならぬが、我
NKZ6-434-14  我の人格的生命と考へられるものは単に個人的と考へることはできない。我々の個人的自己は生れる
NKZ6-434-15  もの、死するものでなければならぬ。単に不生不死なるものは生きたものではない。生命の連鎖の一
NKZ6-435-1  環として我々の個人的生命といふものが考へられるのである。我々の人格的自己と考へられるものも、
NKZ6-435-2  歴史に於て生死するものでなければならない。而もかゝる生命の根柢に単なる自然といふ如きものが
NKZ6-435-3  考へられる時、又単なる理性といふ如きものが考へられる時、否、客観的精神といふ如きものが考へ
NKZ6-435-4  られても、それから個人的自己の人格的生命といふものは出て来ない。個人的自己の人格的生命に於
NKZ6-435-5  ては、右に云つた如く各瞬間が私と考へられるに対し、他の瞬間が汝と考へられねばならぬ。即ちそ
NKZ6-435-6  の根柢に社会といふ如きものが考へられねばならぬ、アガペが考へられねばならぬ。それと同じく、
NKZ6-435-7  私に対するものがすべて汝と考へられることによつて、即ち我々の個人的自己の自己限定の底に絶対
NKZ6-435-8  のアガペを考へることによつて、神的社会といふ如きものを考へることによつて、我々の個人的自己
NKZ6-435-9  の人格的生命といふものが考へられるのである。個人的自己の人格的生命と考へられるものに於ても、
NKZ6-435-10  我々は各瞬間に於て独立であり自由であり、一歩一歩絶対に触れると考へられるが、更に私と汝との
NKZ6-435-11  間に於ては、如何なる意味に於ても、ノエマ的連続といふ如きものを認めることはできぬ。而も私は
NKZ6-435-12  汝を認めることによつて私であり、汝は私を認めることによつて汝である。我々の個人的自己が個人
NKZ6-435-13  的自己であるには、自己自身の底に絶対に非合理的なるものを認めねばならぬ、絶対の他を見なけれ
NKZ6-435-14  ばならぬ。而もそれが単なる他と考へられるならば、自己といふものはない。それは絶対に他なると
NKZ6-435-15  共に、私をして私たらしめるものでなければならない、即ちそれは汝といふ意味を有つたものでなけ
NKZ6-436-1  ればならない。汝と考へられるものは、絶対の他として私を否定すると共に、私を肯定する意味を有
NKZ6-436-2  つたものでなければならない。私と汝とは絶対の否定を通して相見るのである。絶対の否定を通すと
NKZ6-436-3  いふことは、一面に直接に相見るといふ意味を有つて居るのである。そこにゴーガルテソも云ふ如く
NKZ6-436-4  私と汝と相遇ふといふことによつて歴史が成立すると考へられると共に、我々は歴史に於て相見ると
NKZ6-436-5  いふ意味があるのである。私と汝との関係と云へば普通に抽象的なる意識的自己と意識的自己との関
NKZ6-436-6  係と考へられる。従つて歴史的限定を離れて私と汝との関係が考へられる如く思はれるのであるが、
NKZ6-436-7  私と汝との関係は最も個物的なるものの具体的関係として歴史的限定を離れてかゝる関係が考へられ
NKZ6-436-8  るのではない。個物は唯、一般者の自己限定の極限として考へられるのである。カントの目的の王国
NKZ6-436-9  といふ如きものは理性の世界であつて、行為的自己の社会といふべきものではない、従つて生きた人
NKZ6-436-10  格的自己の社会ではない。
NKZ6-436-11   私のアガペといふのは所謂愛といふ如きものを意味するのではない、死することによつて生きると
NKZ6-436-12  いふことを意味するのである、犠牲の意味を有つて居るのである、エロスと反対の方向に考へられる
NKZ6-436-13  ものである。我々が自己の底に絶対の他を見ることによつて自己が自己であると考へられる時、我々
NKZ6-436-14  は絶対の他から限定せられて居ると考へなげればならぬ。この瞬間に於けるこの私と考へられるもの
NKZ6-436-15  は、無限の過去から限定せられて居ると考へられねばならぬ。すべて有るものは何かに於てあり、我
NKZ6-437-1  我は無限の環境から限定せられて居ると考へられるのである。かゝる意味に於てはアガペは絶対の死
NKZ6-437-2  の原理といふことができる、私を否定するのみならず汝をも否定すると云ふことができる。それは何
NKZ6-437-3  処までも時を否定することによつて、空間的世界を限定するとも考へることのできる永遠の今の否定
NKZ6-437-4  面といふ如き意味を有つと考へることができる。併し我々は単に自己自身の底に絶対の他を見、他に
NKZ6-437-5  よつて限定せられると考へることによつて私が私であるのではなく、私が絶対の他に於て私を見ると
NKZ6-437-6  いふ意味に於て私が私であるのである。絶対の他は絶対に他であると共に、私をして私たらしめるも
NKZ6-437-7  のでなければならぬ、即ち汝といふ意味を有つたものでなければならぬ。各瞬間の私に対して他の各
NKZ6-437-8  瞬間の私が汝の意義を有たねばならぬ如く、絶対に非連続的なるものの連続として私と汝とが限定せ
NKZ6-437-9  られるのである。絶対の否定を通さなければ、汝は汝ではなくして単なる私であり、斯く汝が汝でな
NKZ6-437-10  くなると共に私が私でなくなるのである。絶対の他の限定と考へられるものは、非連続の連続として、
NKZ6-437-11  限定するものなきものの限定と考へられるものでなければならない。絶対の他の媒介と考へられるも
NKZ6-437-12  のは、絶対の無の媒介と考へられるものでなければならない。それで、私と汝との関係から成立して
NKZ6-437-13  居ると考ふべき我々の社会と考へられるものは、之に於てあるものに対しては一面に死の原理たる意
NKZ6-437-14  味を有つて居ると共に、一面に生の原理たる意味を有つたものでなければならぬ、即ち弁証法的原理
NKZ6-437-15  の意味を有つたものでなければならない。我々の人格的生命の根柢に考へられる客観的精神といふ如
NKZ6-438-1  きものも、かゝる意味に於て社会と考へられるものでなければならない。我々が自己自身の底に他を
NKZ6-438-2  見ると考へる極限に於て、その他が自己であるといふ弁証法的自覚の意義によつて、客観的精神の自
NKZ6-438-3  己限定といふ如きものが考へられるのである。我々の個人的自己の自覚が社会的として一つの人格と
NKZ6-438-4  考へられる如く、それも人格性を有つと考へられるでもあらう。但し両者は自覚的限定の相反する方
NKZ6-438-5  向に考へられるものでなければならない。我々がそれに於てありそれによつて限定せられる社会と考
NKZ6-438-6  へるものの底には、深い非合理性といふものが考へられるであらう。歴史は闘争と罪悪の歴史と云ふ
NKZ6-438-7  こともできる。併し社会的限定の底に、何等かの意味に於て自然といふ如きものが考へられるならば、
NKZ6-438-8  それから人格的生命といふものは出て来ない。闘争や罪悪の根源たる自愛と考へられるものも、アガ
NKZ6-438-9  ペの一面でなければならない。而して真に自己自身を愛することは、自己自身を否定することでなけ
NKZ6-438-10  ればならない。自愛そのものが矛盾である。そこには理性の詭計といふものも考へられるのである。
NKZ6-438-11   以上述べた如く考へるならば、我々は我々の人格的生命の底に、絶対のアガペ的統一として、神の
NKZ6-438-12  社会といふ如きものを考へざるを得ない。そしてそれが神の人格と考へられるものでなければならな
NKZ6-438-13  い。個人的自己の人格的生命に於て、各瞬間の私が他の瞬間の私を汝と見做すことによつて私の人格
NKZ6-438-14  的統一といふものが成立すると云つた如く、歴史的発展の各の点に於て、何処までも歴史に於てあり
NKZ6-438-15  歴史によつて限定せられた私が、すべての他なるものを汝と見做すことによつて神の人格的統一とい
NKZ6-439-1  ふものが成立すると云ふことができる。各瞬間の私が他の瞬間の私を汝と見るといふことは、逆に私
NKZ6-439-2  が他に於て私自身を見るといふことを意味し、自己自身の内に絶対の他を見るといふことによつて我
NKZ6-439-3  我の個人的人格といふものが考へられる。その様に、歴史的に唯一なるものとして限定せられた私が
NKZ6-439-4  絶対に他なるものを汝として絶対の他に於て私を見るといふことは、神の人格を意味するものでなけ
NKZ6-439-5  ればならぬ。キリスト教に於て云ふ如く、アガペは神のものでなければならぬ、神のアガペによつて
NKZ6-439-6  人間のアガペが成立するのである。個人的自己の立場からはアガペといふものは考へられない。而も
NKZ6-439-7  アガペといふものなくして我々の人格的自己といふべきものはない。我々の人格的統一と考へられる
NKZ6-439-8  ものは神の人格によつて基礎附けられて居るものでなければならない。個人的自己の自覚と考へられ
NKZ6-439-9  るものは人格のカウザラティオ・コグノスセンディとなるかも知らぬがそのカウザラティオ・エスセンディではな
NKZ6-439-10  い。絶対のアガペ的限定として社会的と考ふべき神の人格的限定によつて、之に於て無数に社会的な
NKZ6-439-11  る人格が限定せられるのである。恰も永遠の今の自己限定として無数の時が限定せられると一般であ
NKZ6-439-12  る。而してかゝる絶対のアガペによつて限定せられると考へられる我々の自覚的自己の立場から、自
NKZ6-439-13  己自身の底に絶対の他を見て行くと考へる時、我々を限定する無限の社会的限定といふものが考へら
NKZ6-439-14  れなければならない。我々は何処までも社会的・歴史的に限定せられて居ると考へられねばならない。
NKZ6-439-15  而もそれが我々を否定すると共に我々を生むといふ意味を有するかぎり、人格的として客観的精神と
NKZ6-440-1  いふ如きものが考へられるのである。その内容は一なる人格的内容とも考へられるのである。而して
NKZ6-440-2  かゝる社会的・歴史的発展の過程は何処までも弁証法的と考へられなければならない。私のアガペと
NKZ6-440-3  いふのは感傷的なる所謂人類愛といふ如きものを意味するのではない。絶対の否定を含む所に、真に
NKZ6-440-4  アガペのアガペたる所以があるのである。テルトゥリヤヌスと共に神の一面に物質性を認めることも
NKZ6-440-5  できる。神の社会といふも天上に於ける天使の国を意味するのではない。それは歴史の底に我々の人
NKZ6-440-6  格的生命を基礎附けるものでなければならない。但し単なる非合理性とか単なる物質性といふ如きも
NKZ6-440-7  のから何物も出て来ない。弁証法的運動といふ如きものもそれから考へられない。
NKZ6-440-8   私は我々の人格的生命と考へるものを以上述べた如きものと考へ、種々なる意味に於て生命と考へ
NKZ6-440-9  られるものはかゝる立場から考へられねばならぬと思ふのである。すべて具体的有と考へられるもの
NKZ6-440-10  はかゝる意味に於て自己自身を限定すると考へられなければならない、私の云ふ如き意味に於て社会
NKZ6-440-11  的・歴史的でなければならない。物質とか自然とか考へられるものも、それが時間的に自己自身を限
NKZ6-440-12  定し、それからすべてのものが出て来ると考へられるかぎり、かゝる意味を有つたものと考へなけれ
NKZ6-440-13  ばならぬ。自己の底に絶対の他を見ると考へられる人格的自己の自己限定の絶対否定の方向に於て、
NKZ6-440-14  物質とか自然とかいふものが考へられるのである。合目的的世界といふ如きものも、人格的自己の自
NKZ6-440-15  覚の立場から自己自身を対象化することによつて考へられるのである。アガペといふ如きものをかゝ
NKZ6-441-1  る形而上学的原理と考へるには、多くの異論があるでもあらう。併し私のアガペといふのは弁証法的
NKZ6-441-2  なる歴史的限定を基礎附ける社会的原理を意味するものに外ならない。屡云つた如く、自己の内に絶
NKZ6-441-3  対の他を見、逆に絶対の他に於て自己を見るといふことによつて真に人格的自己の自覚といふものが
NKZ6-441-4  考へられるのである。絶対の他に即することなくして真の自覚といふものは考へられない。人格的自
NKZ6-441-5  覚の要素として衝動的欲求と考へられるものも、理性的当為と考へられるものも、皆アガペの契機と
NKZ6-441-6  して考へられるのである。而して人格的自己の世界といふものの外に、真に具体的なる実在界と考へ
NKZ6-441-7  られるものはあり得ない。

 


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Author: Niels GUELBERG
e-mail: guelberg@waseda.jp
First drafted: 03.06.19
Last updated: 03.06.28