西田幾多郎データべース(c) Niels Guelberg 2000


西田幾多郎[著]: 生の哲学について(1932.10)

西田幾多郎全集・第6巻

校異
赤い文字(赤いフォント)は原雑誌論文の、単行本において 削除された箇所を示す。
青い文字(青いフォント)は単行本において新たに附加され た箇所を示す。


NKZ6-441-8         二

 
NKZ6-441-9   私は今私の立場から種々なる生の哲学を詳論する暇はないが生の哲学と考へられるものは、その形
NKZ6-441-10  而上学的たると認識論的たるとを論ぜず、皆以上述べた如き生命の意味によつて基礎附けられねばな
NKZ6-441-11  らぬと思ふ。我々が自己の内に絶対の他を見、逆に絶対の他に於て自己を見るといふことによつて、
NKZ6-441-12  行為的自己の自覚として人格的自己といふものが考へられ、絶対の他を汝と見做すことによつて人格
NKZ6-441-13  的自己の生命と考へられるものが成立するのである。斯く考へるならば我々の人格的生命と考へられ
NKZ6-441-14  るものはアガペ的統一として、固社会的といふべく、かゝる社会的統一が成立すると考へられるかぎ
NKZ6-442-1  り、我々に人格的自己の統一即ち内的連続といふ如きものが考へられるのである。斯くして真に生命
NKZ6-442-2  の内容といふべきものは人格的内容といふべく、人格的内容といふものがイデヤ的内容と考へられる
NKZ6-442-3  ものとするならば、我々は行為によつてイデヤを見て行くと考へることができる。べルグソンの純粋
NKZ6-442-4  持続といふ如きものは私の人格的自己の内的連続といふ如き立場を何処までも徹底的に押し進めたも
NKZ6-442-5  のと云ふことができるであらう。行為的自己の自覚の立場に於て自己の底に何処までも自己を否定す
NKZ6-442-6  ると共に自己を生むもの、我々がそれに於て没すると共にそこから生れると考へられるものを見る時、
NKZ6-442-7  無限なる生命の内的連続といふ如きものが考へられるであらう。我々がそれに於て没入することによ
NKZ6-442-8  つて生れるといふ意味に於て、内的生命の創造といふ如きものを考へることもできる。併し我々の真
NKZ6-442-9  の生命といふべきものは、単にかゝる意味に於て考へられるものではない。絶対の他に於て自己を見
NKZ6-442-10  る即ち絶対の死から蘇るといふ所に、真の生命と考へられるものが考へられるのである。時といふも
NKZ6-442-11  のが単なる連続として考へられるのではなく、非連続の連続として考へられねばならぬ如く、真の生
NKZ6-442-12  命といふものも、かゝる意味に於ける連続として考へられるものでなければならない。生命の一面に
NKZ6-442-13  は空間性、物質性がなければならない。ベルグソンの自己といふのは、単なる直観的自己であつて行
NKZ6-442-14  為的自己ではない。ベルグソンの自己には死といふものがないと共に、それは真に生きて働く自己で
NKZ6-442-15  はない、真の客観性といふものを有たない。我々の真の自己は歴史に於て生れ、歴史に於て働くもの
NKZ6-443-1  でなければならない。

 
NKZ6-443-2   知るといふことも、行為的自己の自己限定として、一種の行為と考へられるものでなければならな
NKZ6-443-3  い。行為といふのは、単なる外的運動を意味するものでもなければ、単なる内的意識を意味するもの
NKZ6-443-4  でもない。自己自身の底に絶対の他を見、他に於て自己を見ることによつて、即ち外を内と見ること
NKZ6-443-5  によつて、行為的自己の自己限定といふものが考へられるのである。我々の人格的自己の統一と考へ
NKZ6-443-6  るものがアガペ的限定として社会的意義を有し、絶対のアガペ的限定によつて社会の中に社会が限定
NKZ6-443-7  せられるといふ意味に於て成立すると考へるならば、行為的自己の自己限定の内容と考へられるもの
NKZ6-443-8  は表現の内容の意義を有つたものでなければならない。我々が自己自身の底に絶対の他を見、絶対の
NKZ6-443-9  他に於て自己を見ることによつて自己が自己であると考へる時、自己に対するものはすべて汝の意義
NKZ6-443-10  を有し、自己自身を表現するものと考へられねばならない。我々の個人的自己の自己限定の内容と考
NKZ6-443-11  へられるものも、それが社会的と考へられるかぎり、表現的と考へることもできる。我々は自己自身
NKZ6-443-12  の体験の内容を了解すると考へることもできるのである。我々の体験の内容と考へられるものは、私
NKZ6-443-13  の所謂行為的自己の自己限定の内容と考へるものに外ならない。行為的自己の自己限定の内容と考へ
NKZ6-443-14  られるものが我々の人格的自己の生命の内容と考へられるものであり、アガペ的限定によつて社会的
NKZ6-444-1  統一といふものが考へられるかぎり、体験の内的連続といふ如きものが考へられるのである。行為的
NKZ6-444-2  自己の立場に立つて自己の底に絶対の他を見ると考へる時、すべて自己に対するものは了解の対象た
NKZ6-444-3  らざるものはない。了解とはかゝる意味に於ける行為的自己の自己限定を意味するに外ならない。斯
NKZ6-444-4  くして私の行為的自己の自己限定の立場からディルタイの生の哲学の如きものを考へることができる
NKZ6-444-5  であらう。行為的自己の立場に立つて何処までも自己自身の底に汝を見る時、即ち絶対の他を汝と見
NKZ6-444-6  る時、我々は自己自身の内に歴史を見ると考へることができる。そして構造、聯関といふ如きものは
NKZ6-444-7  社会に於て社会を限定する即ち人格的統一に於て人格的統一を限定するといふ意味に於て考へられる
NKZ6-444-8  と云ふことができるでもあらう。
NKZ6-444-9   併し知るといふことは単に了解することではない。行為的自己の立場に於て汝として私に対して立
NKZ6-444-10  つものは、単に了解の対象たるのみならず、私を私として限定する意味を有つたものでなければなら
NKZ6-444-11  ぬ。個人的自己の自覚に於て此瞬間の私が他の瞬間の私を汝として限定すると共に他の瞬間の私が此
NKZ6-444-12  瞬間の私を汝として限定する意味を有つてゐなければならない。社会的限定として我々の個人的自己
NKZ6-444-13  の自覚が成立するのである。自己に於て他を見ると共に、他に於て自己を見るといふ意味がなければ
NKZ6-444-14  ならぬ。我々の個人的自己の体験の内容と考へられるものは、一面に了解の内容と考へられると共に、
NKZ6-444-15  一面に直観の内容と考へられるものでなければならぬ、私に直証的なるものでなければならない。単
NKZ6-445-1  に汝と考へられるものは、単に了解の対象といふこともできるであらう。併し私に対して私は了解の
NKZ6-445-2  対象となるのみならず、直観の対象と考へられるものでなければならぬ。私が此に直観といふのは各
NKZ6-445-3  瞬間が絶対として他を限定するといふことを意味するのである、各瞬間が永遠の今に接するといふこ
NKZ6-445-4  とを意味するのである。論理的には個物が一般を限定するといふことを意味するのである。それは現
NKZ6-445-5  在に於て無限なる過去と未来との両端が結び付くと考へることもできる。我々の個人的自己の自覚と
NKZ6-445-6  考へられるものは、かゝる直観の過程として成立するのである。人格が人格に於て限定せられ、社会
NKZ6-445-7  が社会に於て限定せられると考へるならば、我々の社会的限定と考へられるものに於てもかゝる直観
NKZ6-445-8  の意義が考へられねばならぬ。社会は自己の中に自己を見て行くと考へることもできる。外を内とな
NKZ6-445-9  す我々の行為的自己の自己限定にはかゝる意味がなければならない。我々が社会に於てあり社会によ
NKZ6-445-10  つて限定せられると考へられるかぎり、我々の知識は単にイデオロギッシュとも考へられるであらう。
NKZ6-445-11  併し歴史は我々に対して単に了解の対象となるのみならず、当為の内容として我々を限定する意味を
NKZ6-445-12  有つてゐなければならない。我々の社会と考へるものに人格的統一といふものが考へられるかぎり、
NKZ6-445-13  斯く考へられなければならない。併し我々の人格的自己の究極的根柢として社会的限定と考へられる
NKZ6-445-14  ものは、上に云つた如く絶対のアガペ的限定として神の人格といふ如きものでなければならない。我
NKZ6-445-15  我の人格的自己の底には絶対の死によつて生きるといふ意味がなければならない。我々の人格的自己
NKZ6-446-1  とは絶対の否定によつて媒介せられるものでなければならない、限定するものなきものの限定として
NKZ6-446-2  限定せられるものでなければならない。そこに我々の人格は単に非合理的なるものを根柢として考へ
NKZ6-446-3  られる所謂社会とか歴史とかいふものを越える意味を有つて居るのである。云はゞ、超時間的なる社
NKZ6-446-4  会的限定といふ如きものを考へることができるのである。我々は行為によつてイデヤを見ると考へる
NKZ6-446-5  ことができる。そして時が永遠の今として限定せられると考へられる如く、歴史といふものが神の人
NKZ6-446-6  格的限定として考へられるとするならば、我々は行為によつて歴史を構成して行くとも考へることが
NKZ6-446-7  できる。環境が個人を限定し個人が環境を限定し、環境と個人との相互限定として歴史が動いて行く
NKZ6-446-8  のである。その一歩一歩に於て絶対の否定に接し、絶対の死から生れるといふ所に、歴史的過程の意
NKZ6-446-9  味があるのである。その一歩二歩にイデヤを見るといふ意味がなければならぬ。歴史的限定を単にノ
NKZ6-446-10  エマ的と考へるならば、歴史主義は相対主義に陥るの外ないであらう。併しそのノエシス的限定の意
NKZ6-446-11  義に於ては、いつもイデヤを見るといふ意味がなければならぬ。絶対の他に於て自己を見るといふ所
NKZ6-446-12  に、イデヤを見るといふ意味があるのである。そこに価値の客観性といふものが立てられるのである。
NKZ6-446-13  アガペ的限定によつて価値の客観性が基礎附けられるのである。かゝるノエシス的限定の意義なくし
NKZ6-446-14  て歴史的限定といふものは考へられないであらう。
NKZ6-446-15   我々の概念的知識と考へられるものは、固、一種の表現的内容と考へられるものでなければならな
NKZ6-447-1  い、ロゴス的内容といふものでなければならない。かういふ意味に於てそれは了解の内容と考へるこ
NKZ6-447-2  とができる。併し単に了解することは認識することではない。知るといふには超越的自己の自覚の意
NKZ6-447-3  味がなければならない。そこには、我々が自己に於て絶対の他を見ると共に、絶対の他に於て自己を
NKZ6-447-4  見るといふ意味がなければならない。それは自己自身の内に中心を有つた社会的限定と考へられるも
NKZ6-447-5  のでなければならない、限定せられた社会的自己の自己限定の意味を有つたものでなければならない。
NKZ6-447-6  右に云つた如く、絶対否定を媒介とすることによつて我々の人格的自己の自己限定といふものが考へ
NKZ6-447-7  られるのであり、絶対否定の立場に於て所謂時を越えた人格的自己の自己限定といふ如きものが考へ
NKZ6-447-8  られねばならない。かゝる限定が広義に於て理性と考へられるものであり、そこに絶対に我々の個性
NKZ6-447-9  を否定する理論的理性の立場といふ如きものも考へられるのである。個性を否定する社会的限定の立
NKZ6-447-10  場に於て、即ち自己自身を否定する人格的自己の立場に於て、知識の立場といふものが考へられるの
NKZ6-447-11  である。かゝる立場に於て、自己の内に絶対の他を見ると考へられる時、了解の立場といふ如きもの
NKZ6-447-12  が考へられ、絶対の他に於て自己を見ると考へられる時、認識の立場といふ如きものが考へられる。
NKZ6-447-13  後者に於ては個物が何処までも一般者によつて限定せられると考へられるのである、社会が社会に於
NKZ6-447-14  て自己自身を限定すると考へられるのである、即ち行為的自己の自覚の意義が見られるのである。我
NKZ6-447-15  我の人格的自己の一面にかゝる意義を有するかぎり我々は認識すると考へるのである。之に反し、了
NKZ6-448-1  解主観の意義に於てはかゝる自覚の意義が含まれない、唯、何処までも自己に於て他を見て行くと考
NKZ6-448-2  へられるのである。従つて、さういふ立場から法則的知識の根拠といふものが明にせられない。それ
NKZ6-448-3  は人格的自己の自己限定の一面として歴史的認識主観の意義を有すると考へられるかも知らぬが、歴
NKZ6-448-4  史を限定するものはそれから出て来ない。併し了解するものも、固歴史に於てあり歴史によつて限定
NKZ6-448-5  せられたものでなければならない。了解するといふことも行為的自己の自己限定として歴史に於ける
NKZ6-448-6  行為の意味を有つてゐなければならない。その根柢には生命の弁証法的限定の意義がなければならな
NKZ6-448-7  い。我々が人格的自己の立場に於て他の一切を汝と見る時、而して自己がかゝる社会的限定の外にあ
NKZ6-448-8  ると考へる時、単なる了解主観といふ如きものが考へられるであらう。併し実際、かゝる超越的なる
NKZ6-448-9  了解主観といふ如きものがあるのではない。了解と認識とは行為的自己の知的自覚の両面といふ如き
NKZ6-448-10  意味を有つて居ると考へなければならない。従来、了解主観を中心とした生の哲学と考へられるもの
NKZ6-448-11  は、かゝる意味に於て一面的であると考へざるを得ない。

 


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Author: Niels GUELBERG
e-mail: guelberg@waseda.jp
First drafted: 03.06.19
Last updated: 03.06.28