西田幾多郎データべース(c) Niels Guelberg 2000
西田幾多郎[著]: 形而上学序論(1933.02)
西田幾多郎全集・第7巻
校異:
赤い文字(赤いフォント)は原雑誌論文の、単行本において
削除された箇所を示す。
青い文字(青いフォント)は単行本において新たに附加され
た箇所を示す。
NKZ7-5-1 形而上学序論
此の論文は「私と汝」に於て述べた私の考に、論理的基礎を与へる意味を有つものである。彼の論文に於ては、
未だ個物と個物との相互限定の論理的基礎が明となつて居らぬ。昨日の私と今日の私との関係と、私と他人とし
ての汝との関係との区別が十分でない。環境が環境自身を限定する、世界が世界自身を限定すると云つても、一
般者の自己限定の理由が明でない。此の論文に於ては絶対に相反するものの自己同一といふ考によつて、之を基
礎附けた。それが場所的限定として個物と個物との相互限定を基礎附けるのである。それによつて現在が現在自
身を限定するといふ如き現実の世界が考へられるのである。此の論文の「三」に於てさういふ意味を明にした積
である。
NKZ7-5-2 一
NKZ7-5-3 実在といふのは、色々に考へられる。或者は我々の見るもの聞くもの、即ち感官の対象となるもの
NKZ7-5-4 を実在と考へる。自然科学者の如きがそれである。或者は之に反し理性的なるもの、即ち思惟の対象
NKZ7-5-5 となるものを実在と考へる。プラトンのイデヤの如きものは、かゝる意義に於て者へられた実在と云
NKZ7-5-6 ふことができるであらう。又或者は我々の自己に直接なる経験内容、即ち広義に於て内的知覚の対象
NKZ7-5-7 となるものを実在と考へる。直接経験説とか純粋経験説とかいふものは、かゝるものと考へることが
NKZ7-5-8 できるであらう。此の如き者の人々は主客未分以前の立場に立つと云ふも、要するに内から外を見る
NKZ7-5-9 に過ぎないと云ふことができる。併し私は我々の真の自己といふべきものは働く自己といふものであ
NKZ7-5-10 り、真の実在といふものは行動的自己の対象と考へねばならぬと思ふ。我々は此の世界に生れ、行動
NKZ7-5-11 によつて自己自身を実現して行く。かゝる我々の行動に抵抗するもの、我々と戦ふもの、それが我々
NKZ7-6-1 に対し、真に客観的と考へられるものでなければならぬ。それが真に我々の如何ともすることのでき
NKZ7-6-2 ない、真に我々を越えたものと考へられるものでなければならぬ。真実在といふものは、我々の行動
NKZ7-6-3 的自己の立場から考へられねばならない。無論、見るとか聞くとかいふことも作用であり、考へると
NKZ7-6-4 いふことも作用である。直覚といふことすらも、作用と云はねばならぬかも知れない。単に見るもの
NKZ7-6-5 と見られるものとが一であるならば、直覚といふことすら考へられないのである。種々なる意義に於
NKZ7-6-6 て実在と考へられるものにも、既に行動の対象といふ意味があると云ひ得るかも知れない。併し真の
NKZ7-6-7 行動と考へられるものは、人格的でなければならない。感覚といふも、思惟といふも、それが人格的
NKZ7-6-8 行動の意義を有するによつて、作用と考へられるのでなければならない。況して我々の直接経験とか、
NKZ7-6-9 純粋経験とか考へられるものは固、人格的でなければならない。我々の主観的作用に対立するものと
NKZ7-6-10 して、客観的実在と考へられるものの最も深い意義は、我々の人格的行動に対立するものに求められ
NKZ7-6-11 ねばならない。アリストテレスが論理の立場から、個物的実在を主語となつて述語とならないものと
NKZ7-6-12 考へたのも、その根柢に於てかゝる意味があると考へることができる。そこには我々の判断作用を越
NKZ7-6-13 えるものといふ意味がなければならない。
NKZ7-6-14 実在と考へられるものは、我々に対抗するもの、我々と戦ふものでなければならぬ。併し単にそれ
NKZ7-6-15 だけのものが実在ではない。単に我々を越えたものは、我々に対して何物でもない。実在とは我々を
NKZ7-7-1 限定する意味を有つたものでなければならぬ。対抗するとか戦ふとかいふことは、既にかゝる意味を
NKZ7-7-2 有つてゐなければならぬ。而して相対抗し、相戦ふものは、同じ類概念に於てあるものでなければな
NKZ7-7-3 らぬ。同じ一般者の限定に於て相反するものが考へられるのである。かういふ意味に於て、実在と考
NKZ7-7-4 へられるものは、単に我々を越えたものでなく、何処までも我々を限定する意味を有つたものでなけ
NKZ7-7-5 ればならない。我々を限定し尽すもの、否我々の底から我々を限定するものが、真の実在と考へるこ
NKZ7-7-6 とができる。かゝる立場からは、主客の対立といふ如きものは、実在そのものの中から求められねば
NKZ7-7-7 ならない。アリストテレスの主語となつて述語とならない個物といふものも、単に判断乍用を越える
NKZ7-7-8 ものであるのみならず、之判断を成立せしめる意味を有つたものと云ふことができる。我々の人格的行
NKZ7-7-9 動に対立するものが真の実在と考へられるならば、それは又我々の人格的行動を限定するものでなけ
NKZ7-7-10 ればならぬ。我々の人格的行動を包み、我々がそれに於て人格的に行動する世界が、真の実在界とい
NKZ7-7-11 ふべきものでなければならぬ。従来、一般に行動の世界から知識の世界が考へられる代りに、知識の
NKZ7-7-12 世界から行動の世界が考へられて居ると思ふ。併し感覚の対象たる物質界から我々の自己を限定しよ
NKZ7-7-13 うとするならば、結局我々の自己を否定するの外なく、我々の自己を理性の限定として考へようとし
NKZ7-7-14 ても、個人的自己の自由といふものを説明す考へることはできぬ。人格的なる純粋経験と考へられるもので
NKZ7-7-15 あつても、尚知的対象界たるを免れない。知的対象界と考へられるものは、何処まで深く考へられて
NKZ7-8-1 も、我々の人格的行動を越え、之を包むものと考へることはできぬ。人格的行動はいつも之に対して
NKZ7-8-2 自由である。加之、人格的行動の世界は、単なる知的対象の世界を包み、之を基礎附けるとすら考へ
NKZ7-8-3 ることができる。実在界は私が働くといふことから始まるのである。単なる知的対象の世界は、要す
NKZ7-8-4 るに夢幻の世界とも考へることができる。単に我々の意識に現ずるものは夢であるかも知れない。私
NKZ7-8-5 が考へるといふことから客観界といふものが始まるとも考へられるであらう。併しその場合、私が考
NKZ7-8-6 へるといふことは、人格的自己の行動でなければならぬ。人格的行動の一種として思惟といふものが
NKZ7-8-7 考へられるのである。コギト・エルゴ・スムのスムは働く自己の自己存在でなければならない。或は
NKZ7-8-8 思惟とか感覚とかいふ如き一切の知的作用といふ如きものを、我々の人格的自己の否定作用と見做す
NKZ7-8-9 ことによつて、知的対象の世界を人格的自己の対象界と考へると云ふかも知れない。併しかゝる考に
NKZ7-8-10 徹底すれば、知的作用といふものは人格的自己の作用といふことはできない。従つてさういふ意味に
NKZ7-8-11 於て知的対象の世界と考へられるものは、人格的自己の否定界といふ意味を有つたものでなければな
NKZ7-8-12 らない。之に反し、一切の知的作用と考へられるものが苟も人格的自己の作用といふ意義を有するか
NKZ7-8-13 ぎり、之に対するものは人格的自己に対するものによつて基礎附けられてゐなければならない。真に
NKZ7-8-14 具体的なる実在界は人格的行動の世界でなければならぬ。知的対象界は之から考へられるのである。
NKZ7-8-15 私の考は或はフィヒテのそれに類すると考へられるかも知れない。併しフィヒテの意志といふのは理
NKZ7-9-1 性的であつて、私の考へる如き絶対の非合理性に基礎附けられたる実在的意志ではない。従つて事行
NKZ7-9-2 といふも、私の人格的自己の行動といふものではない。私の人格的自己といふのは、我の中に非我を
NKZ7-9-3 包む絶対我といふ如きものを意味するのではなく、個人的自己としてこの現実の中に働くものを意味
NKZ7-9-4 するのである。近代科学は古代哲学と異なつて現実に動くものを実在と考へた。併し自然科学的実在
NKZ7-9-5 と考へられるものは、尚知的対象たるを免れない。
NKZ7-9-6 人格的行動とは如何なるものであるか。行動といふのは先づ一種の運動と考へることができる。併
NKZ7-9-7 し私が此処に運動といふのは単に物体運動といふ如きものを云ふのではない、すべて時に於て変ずる
NKZ7-9-8 ものを意味するのである。意識作用と考へられるものも、かういふ意味に於て運動と考へることがで
NKZ7-9-9 きる。ギリシヤ語のキネシスとはかゝる意義を有つて居たといふことができる。時に内とか外とかい
NKZ7-9-10 ふ区別が考へられるが、物理学者の時の如く単なる外的時と考へられるものは寧ろ空間的時といふべ
NKZ7-9-11 く、又単なる内的時と考へられるものは可能的時たるに過ぎない。内的即外的、外的即内的なる所に、
NKZ7-9-12 真の時といふものがあるのである。真の時といふのは内外統一の形式と考へることができる。すべて
NKZ7-9-13 有るものは時に於てあり、時に於て働くと考へざるを得ない。時に於て動くもの、働くものとは如何
NKZ7-9-14 なるものであるか。アリストテレスは変ずるものの根柢には変ぜざるものがなければならぬと云つた。
NKZ7-10-1 かゝる意味に於て変ぜざるものとは、如何なるものであるか。物自身が固不変であり、それが部分的
NKZ7-10-2 に自己を顕現し行くと考へるならば、その物は変ずるのではない。物力の世界といふものを考へても、
NKZ7-10-3 デュ・ボアレモンの云つた如く運動の起源を説明することはできぬ。動くものは自己自身の中に自己
NKZ7-10-4 否定を含んだものでなければならない。生命に於ての如く潜在的なるものが顕現的となると云つても、
NKZ7-10-5 それは既に自己自身の中に矛盾を含んだものでなければならぬ。それが他から動かされると考へられ
NKZ7-10-6 るならば、それは物であつて生命ではない。併し我々は如何にして自己自身の中に矛盾を含んだもの
NKZ7-10-7 を考へ得るか。アリストテレスが色は色に変じても色は声に変ぜないと考へた時、色の一般者といふ
NKZ7-10-8 如きものを考へたと云ふことができる。併しかゝる考へ方によつては、何処までも変ずるものとか働
NKZ7-10-9 くものといふのを考へることはできない。色とか音とかいふ如きものの底に横たはる物といふ如きも
NKZ7-10-10 のを考へて見ても、限定せられた一般者の限定としてさういふものが考へられるかぎり、それから変
NKZ7-10-11 ずるものとか働くものとかいふ如きものは考へることはできぬ。自己自身に自己否定を含むもの、自
NKZ7-10-12 己自身に矛盾するものと云ふのは、如何にしても主語的には(或はノエマ的には)考へることのでき
NKZ7-10-13 ないものでなければならない。一般者の限定の極限として個物といふものを考へることができる。ア
NKZ7-10-14 リストテレスは主語となつて述語とならないものを個物と考へた。併しかゝる意味に於て個物と考へ
NKZ7-10-15 られるものは、直に動くものではない。エンテレケイアといつても、自己自身の中に否定を含み、自
NKZ7-11-1 己自身によつて動くものではない。動くものといふのは、何処までも我々の対象界と考へるものを破
NKZ7-11-2 つて、之を変じ行くものでなければならぬ。時は無限の過去から無限の未来に向つて流れると考へら
NKZ7-11-3 れる、時の両端は結び付かないものでなければならぬ。如何なる意味に於ても、その両端が対象的に
NKZ7-11-4 結び付くと考へられるならば、時といふものはなくならねばならぬ。併しアウグスチヌスも云つた如
NKZ7-11-5 く、時の過去と未来とは何等かの意味に於て結び付く、即ち一つのものに於てあると考へられねば、
NKZ7-11-6 時といふものは考へられない。然らば時といふ如きものは、如何にして考へられるか。自己自身の中
NKZ7-11-7 に否定を含み自己自身によつて動くものとは、如何にして考へられるか。単に一般的なるものの自己
NKZ7-11-8 限定として真理といふものは成立せない。客観的知識の基礎は個物に置かれなければならない。アリ
NKZ7-11-9 ストテレスがプラトンに反して、真理の基礎を個物に求めた所以である。感覚的なるものが我々の知
NKZ7-11-10 識に客観性を附与すると考へられるのも、一般概念を越えて、之を外から限定する個物的限定の意味
NKZ7-11-11 を有つものとしてでなければならない。単に与へられたもの、単に受働的なものは、我々の概念的知
NKZ7-11-12 識を制約する力を有するものではない。併し右の如き意味に於て個物と考へられるものは、如何なる
NKZ7-11-13 ものでなければならぬであらうか。真の個物と考へられるものは、一般者の限定の極限として考へら
NKZ7-11-14 れると共に、逆に一般者を限定する意味を有つたものでなければならぬ。真の個物は動く個物でなけ
NKZ7-11-15 ればならぬ。単に一般者の限定の極限として個物といふものを考へるならば、何処までも真の個物の
NKZ7-12-1 概念に到達することはできぬ。従つてさういふ意味に於て考へられた個物は、我々の概念的知識を限
NKZ7-12-2 定する力を有することはできぬ。アリストテレスのエンテレケイアといへども、その根柢に於てイデ
NKZ7-12-3 ヤ的たるを免れない。アリストテレスも遂にプラトンの考へ方を脱して居ない。さういふ意味に於て
NKZ7-12-4 アリストテレスの感覚的なるものは、近世科学のそれではない。アリストテレスの考は近世科学のそ
NKZ7-12-5 れと反対の立場に立つて居ると云ふこともできる。或は我々が何物かを考へるのは一般者の限定とし
NKZ7-12-6 て考へるのでなければならない、自己自身を限定する個物から出立すると云ふのは如何にして可能な
NKZ7-12-7 るかと云ふかも知れない。併し一般者が自己自身を限定すると云ふ時、それはいつも逆に個物が個物
NKZ7-12-8 自身を限定する意味を有つてゐなければならない。現実にあるものは、いつも無限に達すべからざる
NKZ7-12-9 一般者から限定せられて居ると考へられると共に、無限に達すべからざる個物から限定せられて居る
NKZ7-12-10 と考へられねばならぬ。個物が掴むべからざるものと考へられると共に、一般者も掴むことのできな
NKZ7-12-11 いものでなければならない。而も掴むことのできないものが掴まれる所に、ヘーゲルの云ふ如き個物
NKZ7-12-12 が一般者であるといふ意味があり、そこに客観的知識が成立するのである。真の具体的概念と考へら
NKZ7-12-13 れるものは、動く個物といふ意味を有つたものでなければならない。今日論理的知識の基に考へられ
NKZ7-12-14 る客観的表現といふものも、個物が個物自身を限定するといふ立場から考へられるのでなければなら
NKZ7-12-15 ない、掴まれないものが掴まれるといふことに基礎附けられねばならない。所謂概念的限定の外にあ
NKZ7-13-1 るもの、感覚的なるものが自己自身を概念的に限定するといふ所に、客観的表現の意味があるのであ
NKZ7-13-2 る。かゝる立場からは、一般者が一般者自身を限定するといふことも、個物が個物自身を限定すると
NKZ7-13-3 いふことから考へられねばならない。個物自身を限定するといふことは、一般者の限定として達すべ
NKZ7-13-4 からざる尖瑞が掴まれるといふ意味ではない、瞬間が掴まれるといふ意味ではない。かゝる考によつ
NKZ7-13-5 て個物といふものが考へられるのではない。超越的なるものが内在的に自己自身を限定することが、
NKZ7-13-6 個物が個物自身を限定するといふことでなければならぬ。自己自身を限定する現実といふものは、い
NKZ7-13-7 つもかゝる意味を有つてゐなければならぬ。併しかゝることを考へ得る論理的構造とは如何なるもの
NKZ7-13-8 であらうか。
NKZ7-13-9 すべて有るものは、一般が個物を限定し、個物が一般を限定するといふ仕方に於てあるのである。
NKZ7-13-10 真に主語となつて述語とならないヒポケーメノンといふものは、かゝるものでなければならない、単
NKZ7-13-11 に判断を越えるのみならず、之を成立せしめるものでなければならない。時に於てあるもの、時間的
NKZ7-13-12 と考へられるものも、かゝる仕方に於てあるのである。時に於てあるものは、何等かの意味に於て限
NKZ7-13-13 定せられた現在に於てあり、何処までもかゝる現在によつて限定せられるものと考へられねばならぬ。
NKZ7-13-14 併しそれと共に何処までもかゝる現在を破り、かゝる現在を変じ行くものでなければならない。時は
NKZ7-13-15 かゝる意味に於て、すべて有るものの自己限定の形式といふことができるのである。時に於ては、超
NKZ7-14-1 越的なるものが内在的であり、内在的なるものが超越的である。時は現在が現在自身を限定するより
NKZ7-14-2 始まると考へられる所以である。変ずるものといふのは、かゝる意味に於て時に於てあるものとして
NKZ7-14-3 考へることができるであらう。併し働くものといふのは、尚一歩進んで考へられなければならない。
NKZ7-14-4 一般者の限定の極限に於て逆に個物が一般者を限定するといふことは、限定せられた一般者を破ると
NKZ7-14-5 いふ意味を有つてゐなければならない。斯く一般者を破るといふことは、更に新なる一般者を限定す
NKZ7-14-6 ると云ふことでなければならない。然らざれば、逆に個物が一般を限定するといふ意味を成さない。
NKZ7-14-7 かういふ意味に於ては、先づアリストテレスの考へた如く、個物が一般を含むと考へることもできる。
NKZ7-14-8 併し単に斯く云へば、個物を単に唯一なるスブスタンティヤと考へると択ぶ所なく、それは変ずるも
NKZ7-14-9 のでも、動くものでもなくなる。世界が変ずるといふことは、「於てあるもの」が変ずるといふこと
NKZ7-14-10 であり、於てあるものが変ずるといふことは世界が変ずるといふことでなければならない。かういふ
NKZ7-14-11 意味に於て変ずるものといふのが考へられるには、既に非連続の連続といふ意味がなければならぬ、
NKZ7-14-12 変ずるものの世界は生滅の世界でなければならぬ。アリストテレスも生滅するものに於ては実体が変
NKZ7-14-13 ずると考へて居る、そこに既に無が有を限定する意味があるのである。併し真に働くものといふのは、
NKZ7-14-14 単にその於てある世界に対することによつて考へられるのでなく、個物が個物に対すると云ふことに
NKZ7-14-15 よつて考へられるのでなければならぬ。例へば、物が働くといふことでも、それが物理的空間の歪と
NKZ7-15-1 いふ様に考へるならば、物理的現象といふものはすべて物理的空間の変化と考へる外なく、働くもの
NKZ7-15-2 といふものは考へることはできない。力といふ如き概念は物理的世界から除去するの外ないであらう。
NKZ7-15-3 絶対に相独立するものが相対立し、一が他を滅するか他から滅せられるか、両者相争ふ所に働くとい
NKZ7-15-4 ふことが考へられるのである。働くといふことは、単に非連続の連続といふのみならず、相反するも
NKZ7-15-5 のの統一でなければならない。すべて有るものは一般が個物を限定し、個物が一般を限定するといふ
NKZ7-15-6 仕方に於てある。かゝる意味に於てヘーゲルの云ふ如く有るものは真なるものと考へることもできる。
NKZ7-15-7 単なる一般者の限定としては何物も考へられない。包摂判断と考へられるものも、単なる一般者の限
NKZ7-15-8 定として成立するのでない。特殊化の原理と考へられるものは、一方に自己自身を特殊化すると共に、
NKZ7-15-9 一方に自己自身を一般化する意味を有つたものでなければならない。自己自身の中に自己を限定する
NKZ7-15-10 と共に、外に自己自身を表現すると考へることができる。かゝる意味に於て特殊化の原理と考へられ
NKZ7-15-11 るものが、真の一般者といふことができる。ヘーゲルの云ふ如く繋辞は自己の外的表現に於て自己と
NKZ7-15-12 同一である、個物と一般とをその規定となすと云ふことができる(Encyclopädie, I. Teil, §166)。
個
NKZ7-15-13 物が一般であるといふのは、かゝる立場から考へられるのである。判断といふものが一般者の自己限
NKZ7-15-14 定として成立すると考へられる時、特殊化の原理は特殊化の原理として一般者の内容を特殊化すると
NKZ7-15-15 考へられるであらう。併し逆に判断が個物の自己限定によつて成立すると考へるならば、特殊化の原
NKZ7-16-1 理と考へられるものは一般者の外延的限定の意義を有つてゐなければならぬ。個物は唯個物に対して
NKZ7-16-2 自己自身を限定すると云ふことができる。唯一つの個物が自己自身を限定するといふことは意味を成
NKZ7-16-3 さない。個物が個物自身を限定するといふには、私の所謂場所的限定の意味がなければならぬ、絶対
NKZ7-16-4 に相反するものの統一の意味がなければならない。個別化の原理と考へられるものは、非連続の連続
NKZ7-16-5 の意味を有つと云ふことができる。自己自身を外化することによつてフュール・ジヒとなり、更に自
NKZ7-16-6 己に還つてアン・ウント・フュール・ジヒとなると考へられるアン・ジヒといふものは、潜在的なる
NKZ7-16-7 一般者といふものではなくして、自己自身を限定する個物の意味を有つたものでなければならぬ。個
NKZ7-16-8 物は自己の中に自己自身を対象化し更に自己に還ることによつて個物となるのでなく、個物は個物に
NKZ7-16-9 対することによつて、即ち絶対の他に対することによつて個物となるのである。真に個物を媒介する
NKZ7-16-10 一般者の媒介作用と考へられるものは、絶対の否定即肯定、断絶の連結といふ意味を有つてゐなけれ
NKZ7-16-11 ばならない。弁証法的運動は個物が個物自身を限定するといふことから始まらなければならない。無
NKZ7-16-12 論、個物が個物に対して自己自身を限定すると云ふことは、単に個物が一般者の限定を脱して、点が
NKZ7-16-13 点に対する如く相対すると云ふのではない。個物は何処までも一般者から限定せられる意味を有つて
NKZ7-16-14 ゐなければならぬ。加之、互に相対すると云ふには、そこに相互の媒介作用といふものがなければな
NKZ7-16-15 らぬ。かゝる媒介作用と考へられるものは、一面に両者を対立せしめる意味を有すると共に、両者を
NKZ7-17-1 統一する意味を有つてゐなければならぬ。相反するものは却つて極めて相同じきものとすら考へられ
NKZ7-17-2 るのである。併しかゝる意味に於て個物を限定する一般者と考へられるものは、一般が個物を限定し、
NKZ7-17-3 個物が一般を限定するといふ意味に於て、尚連続的に考へられる所謂具体的一般者の限定に対しては
NKZ7-17-4 逆限定の意味を有つてゐなければならぬ、寧ろ之を包む意味を有つてゐなければならぬ、一般者の一
NKZ7-17-5 般者といふ如き意味を有つてゐなければならぬ。私の無の一般者の限定といふものはかゝるものを意
NKZ7-17-6 味するのである。それは絶対否定を媒介として自己自身を限定するものでなければならぬ。之に於て
NKZ7-17-7 あるものは死することによつて生きるといふ意味を有つものである、非連続の連続の意味を有つたも
NKZ7-17-8 のでなければならぬ。かゝる一般者の限定として、何処までも一般者から限定せられると考へられる
NKZ7-17-9 と共に、個物が個物自身を限定することによつて一般を限定するといふ真の個物即ち働くものといふ
NKZ7-17-10 ものを考へることができる。かゝる一般者に於てあるものは、一般者の一般者によつて限定せられる
NKZ7-17-11 ものとして、無限の過去から限定せられると考へられるであらう。併しそれと共に一般者を限定する
NKZ7-17-12 一般者の限定、即ち逆限定によつて限定せられるものとして、何処までも所謂一般者を限定する意味
NKZ7-17-13 を有つと考へることができる。個物が個物を限定する、点が点を限定するといふことは、無媒介的に
NKZ7-17-14 直接に相限定するといふ意味を有すると考へることができる。併しそれは又無限に一般者の一般者か
NKZ7-17-15 ら限定せられると共に、無限に一般者の一般者を限定する意味を有つてゐなければならない。直接に
NKZ7-18-1 無媒介的に相限定するといふことは、一面に無限の一般者によつて媒介せられるといふことを意味し
NKZ7-18-2 てゐなければならない、否、絶対的一般者によつて限定せられることを意味せなければならない。か
NKZ7-18-3 かる一般者の限定といふものが、限定するものなきものの限定として、絶対否定を媒介とすると云ふ
NKZ7-18-4 ことができるのである。すべて物はその根柢に於て同じきものが相反すると考へられる、それ自身に
NKZ7-18-5 於て同一なるものは両極を有つと考へることができる。それ自身に於て同一といふことは無媒介的統
NKZ7-18-6 一といふことでなければならない。而してかゝるものは一般者の限定の極限に於て而も逆に一般者を
NKZ7-18-7 限定する意味を有つたものでなければならない。無媒介的統一こそ自己自身の中に分裂の原理を含む
NKZ7-18-8 ものとして、逆に一般者を限定する意味を有つたものでなければならない。絶対否定を媒介とする非
NKZ7-18-9 連続の連続の限定といふものは、個物と個物とが相限定するといふことから考へられる、即ち働くも
NKZ7-18-10 のから考へられる。真に有るもの即ち具体的実在の論理といふものは、此の如きものでなければなら
NKZ7-18-11 ない。斯くして私は働くものといふものが如何にして考へられるのであるか、その論理的構造を明に
NKZ7-18-12 し得ると思ふ。
NKZ7-18-13 人格的とは如何なることを意味するか。我々は如何にして人格的と考へられるか。人格的なるもの
NKZ7-18-14 は先づ合理的と考へられねばならない、合理的に自己自身を限定するものと考へられねばならない。
NKZ7-18-15 単に非合理的なるものは物であつて人ではない。併し人格的自己とは又単に合理的と考ふべきもので
NKZ7-19-1 もない。単に合理的と考へられるならば、我々の個人的人格といふ如きものは失はれなければならな
NKZ7-19-2 い。而も個人的でない人格といふものはない。単に非合理的なるものは我々の外にあるものと考へら
NKZ7-19-3 れるであらう。併し単なる理性と考へられるものも、我々の内にあるものではない。我々は何処まで
NKZ7-19-4 も個人的でなければならない、我々の底には絶対に非合理的なるものがなければならない。而も非合
NKZ7-19-5 理的なるものが合理的に自己自身を限定する所に、我々の人格的自己の自己限定と考へられるものが
NKZ7-19-6 あるのである。人格的自己の自己限定に於ては個物的なるものが一般的なるものを限定すると考へら
NKZ7-19-7 れるのである、外が内と考へられるのである。例へば、欲求といふものなくして我といふものなく、
NKZ7-19-8 我といふものなくして欲求といふものはない。而も欲求とは我に反するのである。欲求に従ふといふ
NKZ7-19-9 ことは我が我を失ふことである。欲求は死すべく生れ、生れるべく死するのである。かゝるものは固、
NKZ7-19-10 自己自身に於て矛盾するものである。かゝるものが考へられるのは、有るものは何等かの意味に於て
NKZ7-19-11 一般者の限定としてあるといふ考へ方によつて考へられるのではない、即ち所謂合理的に考へられる
NKZ7-19-12 のではない。一般が個物を限定し個物が一般を限定すると云つても、かゝる過程が連続的と考へられ
NKZ7-19-13 るかぎり、即ち単に一般者の一般者の限定と考へられるかぎり、人格的自己の自己限定といふ如きも
NKZ7-19-14 のは考へられない。かゝる限定が考へられるのは、非連続の連続として考へられるのでなければなら
NKZ7-19-15 ない、限定するものなきものの限定として考へられるのでなければならぬ。加之、我々の人格と考へ
NKZ7-20-1 られるものは唯一つのものとして考へられるのでない。人格は唯、人格に対することによつてのみ考
NKZ7-20-2 へられるのである。カントが道徳的行為に於ては他人を目的そのものと見做さねばならぬと云つた如
NKZ7-20-3 く、我々は唯、他人の人格を認めることによつて、自己が人格的となるのである。真に個人的なる人
NKZ7-20-4 格と考へられるものは、絶対否定によつて媒介せられたものでなければならぬ。唯一なるものと考へ
NKZ7-20-5 られるものは、自己自身に同一なるものでなければならぬ。自己自身に同一なるものといふのは変じ
NKZ7-20-6 て変ぜざるものでなければならぬ、否変化を包むものでなければならぬ。それは所謂一般者の限定を
NKZ7-20-7 逆にしたものの意味を有つたものでなければならぬ。真に変じて変ぜざるものと云ふのは、ノエマ的
NKZ7-20-8 方向に考へることはできぬ、非連続の連続としてノエシス的限定の意味を有つたものでなければなら
NKZ7-20-9 ぬ。而してかゝるノエシス的限定と考へられるものは、私の底に汝を見、汝の底に私を見るといふ絶
NKZ7-20-10 対否定の統一によつて基礎附けられねばならない。個人は唯、個人に対して限定せられるのである。
NKZ7-20-11 斯く考へるならば、真に個物といふべきものは、我々の個人的人格と考へられるものの外になく、す
NKZ7-20-12 べて個物的と考へられるものは、之によつて基礎附けられてゐなければならない。従つて個物と個物
NKZ7-20-13 との関係として働くといふことも、人と人の関係に基礎附けられてゐなければならない。すべて実在
NKZ7-20-14 的と考へられるものは、私の云ふ如き意味に於ての人格的自己の自己限定によつて基礎附けられて居
NKZ7-20-15 るものでなければならない。かういふ意味に於て、それは非連続の連続といふものでなければならな
NKZ7-21-1 い。単に連続的なるものは考へられたものに過ぎない。
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Author: Niels GUELBERG
e-mail: guelberg@waseda.jp
First drafted: 00.05.19
Last updated: 03.06.12