校異:
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NKZ7-217-3 現実の世界とは如何なるものであるか。現実の世界とは単に我々に対して立つのみならず、我々が
NKZ7-217-4 之に於て生れ之に於て働き之に於て死にゆく世界でなければならない。従来、主知主義の立場を脱す
NKZ7-217-5 ることのできなかつた哲学は所謂対象界といふ如きものを実在界と考へた。それは我々の外に見る世
NKZ7-217-6 界に過ぎなかつた。之に対しては我々は単に見るものに過ぎなかつた。併し真の現実の世界は我々を
NKZ7-217-7 包む世界でなければならない、我々が之に於て働く世界でなければならない、行動の世界でなければ
NKZ7-217-8 ならない。かかる世界の論理的構造は如何なるものであらうか。
NKZ7-217-9 此の世界は之を客観主義の立場から見ることもできる。単なる科学の立場からこの世界を考へる人
NKZ7-217-10 や又多くの形而上学者もそれであつた。之に反しこの世界は之を主観主義の立場から見ることもでき
NKZ7-217-11 る。所謂理想主義の人々がそれである。特に近代に於てカント哲学はかかる立場に立つものと云ふこ
NKZ7-218-1 とができる。併し単なる客観主義の立場から主観界を包むことはできない。又単なる主観主義の立場
NKZ7-218-2 からは真の客観界を包むことはできない。主観と客観とを包む真の現実の世界を論ずるには、私は論
NKZ7-218-3 理から出立せなければならないと思ふのである。啻に客観界のみならず主観界といへどもそれが論ぜ
NKZ7-218-4 られる以上、それは考へられるものでなければならない。論理といふのは普通考へられる様に単に抽
NKZ7-218-5 象的思惟の学であつてはならぬ。真の論理は具体的思惟の学でなければならない。真のディヤソク
NKZ7-218-6 ティケーは実在が自己自身を説明する途でなければならない。斯くして真に真理の学といふことがで
NKZ7-218-7 きる。古来唯ヘーゲルがかかる点に着眼した。アリストテレスの論理学といへども、後世に於て考へ
NKZ7-218-8 られる様な単なる形式論理ではなかつた。それは彼の形而上学と離すことのできない関係を有つたも
NKZ7-218-9 のであつた。唯今日の実在と考へられるものはギリシャ哲学の実在ではない。今日の実在に対しては
NKZ7-218-10 アリストテレスの論理学は単なる形式論理に堕せざるを得なかつたのである。併しアリストテレス以
NKZ7-218-11 来の論理学は今日に至るまで要するに単なる主語的論理の立場を脱してゐない。論理的に実在を論じ
NKZ7-218-12 た従来の形而上学者といへども畢竟単なる客観主義の立場を脱してゐない。ヘーゲルといへどもかか
NKZ7-218-13 る立場を脱し得たとは云はれない。ヘーゲルの論理からも真の人格の世界といふ如きものを考へるこ
NKZ7-218-14 とはできない。云ふまでもなくカントは主観から出立した人である。併しカントは単に主観主義の人
NKZ7-218-15 ではなかつた。カントはバークリではない。カントの意識一般の超越的論理は自然科学的実在の論理
NKZ7-219-1 と云ひ得る。併しカント学派の対象論理は、我々がそれに於て生れそれに於て働きそれに於て死にゆ
NKZ7-219-2 く現実の世界の論理ではない、真の客観的実在の論理ではない。現今の現象学といふものはカント哲
NKZ7-219-3 学に比して更に主観的と云ひ得るであらう。表現的なものは客観的であつても、それは唯主観主義の
NKZ7-219-4 立場から考へられて居るまでである。従つて自己自身を限定する客観的なるものを明にすることはで
NKZ7-219-5 きない。直証といつてもそれは単に自己に属するものではない。そこには世界が世界自身を限定する
NKZ7-219-6 といふ意味がなければならぬ、一般者が一般者自身を限定するといふ意味がなければならない。それ
NKZ7-219-7 によつて自己といふものが考へられるのである。
NKZ7-219-8 現実に有るものは自己自身を表現すると共に事実的に自己自身を限定するものでなければならない、
NKZ7-219-9 一般的に自己自身を限定すると共に個物的に自己自身を限定するものでなければならない。事実的に
NKZ7-219-10 自己自身を限定する所に、作用とか個物とかいふものが考へられるのである。物質とか自己とか主客
NKZ7-219-11 の対立とかいふものは根本的なものではない。表現的なるものはロゴス的といふことができる、自己
NKZ7-219-12 自身を表現するものは自己自身を語るものである。而して表現的なるものが事実的に自己自身を限定
NKZ7-219-13 するのが判断である。一般的なるものの個物化、個物的なるものの一般化、そこに判断といふものが
NKZ7-219-14 考へられるのである。すべて事実的なるものは命題として自己自身を表現するのである。真理とは表
NKZ7-220-1 現的一般者の自覚的内容と考へられる所以である。哲学的思惟の源となつたギリシャ哲学はロゴスに
NKZ7-220-2 よつて実在を考へた。ギリシャ哲学の実在はロゴス的であつた。ギリシャ哲学には尚何処までも非合
NKZ7-220-3 理的な物質や、無限に深い自己といふものは考へられなかつた。ギリシャ哲学には尚底の知れない事
NKZ7-220-4 実なるものは考へられなかつた。プラトンのエードスは表象的なるものに過ぎない、見られたものに
NKZ7-220-5 過ぎない、ギリシャ哲学の人生は要するに美的に過ぎなかつた。併し現実に有るものは表現的なると
NKZ7-220-6 共に事実的に自己自身を限定するものでなければならない。現実が現実自身を限定するといふことは
NKZ7-220-7 さういふことでなければならない。故にアリストテレスは個物的なるものを実在と考へた。そして主
NKZ7-220-8 語となつて述語とならないものを個物と考へた。表現的一般者の自己限定といふ如き立場から実在と
NKZ7-220-9 いふものを考へる時、斯く考へる外ない。斯くしてロゴス的に個物といふものが定義せられた。而し
NKZ7-220-10 て我々の現実の世界と考へられるものはかかる個物の世界でなければならない。併し個物といふもの
NKZ7-220-11 は何処までも一般者の限定として考へられねばならぬと共に、単にそれだけにて個物といふものが考
NKZ7-220-12 へられるのではない。個物は自己自身を限定するものでなければならない、働くものでなければなら
NKZ7-220-13 ない、一般を限定する意味を有ったものでなければならない。単に一般的なるものに種差を加へ、最
NKZ7-220-14 後の種を越えて更にその極限に主語となつて述語とならないものを考へても、それだけにて自己自身
NKZ7-220-15 を限定する個物といふものは考へられるのではない。アリストテレスもその「形而上学」に於て更に
NKZ7-221-1 進んでエンテレケイアといふ如きものを考へたと思ふ。自己自身を完成する合目的的なるものを実在
NKZ7-221-2 と考へた、作用的なるものを実在と考へた。真のイデヤは形成作用といふ如きものでなければならな
NKZ7-221-3 い。併し何処までも非合理的にして而も自己自身を合理化すると考へられる個物的なるものをエンテ
NKZ7-221-4 レケイアと考へても、尚それだけで真の個物といふものが考へられるのではない。個物は単に自己自
NKZ7-221-5 身を限定するものではない。個物は唯個物に対して限定せられるのである。真に個物といふものが考
NKZ7-221-6 へられるには非連続の連続といふことがなければならない、互に独立なものの結合といふことがなけ
NKZ7-221-7 ればならない。斯くして真に働くといふことができるのである。そして現実の世界は物と物とが相働
NKZ7-221-8 く世界でなければならない。ロゴス的に実在を考へたギリシャ哲学は、かかる世界を考へることはで
NKZ7-221-9 きなかつた。近世に於てもアリストテレスのエンテレケイアの考に基いたライプニッツのモナド論は
NKZ7-221-10 遂に物と物とが働くといふことを説明することはできなかつた。予定調和の如き仮定を藉らなければ
NKZ7-221-11 ならなかつた所以である。
NKZ7-221-12 近世科学に於て実在と考へられるものは働くものである。ギリシャ哲学に於ては時間的なるものが
NKZ7-221-13 非実在的と考へられたのに反し、近世科学に於て時間的なるものが実在的と考へられた。併し単に時
NKZ7-221-14 間的なるものが実在といふのではない、単に時に於て流れ去るものは実在とは考へられない。物が働
NKZ7-221-15 くといふには物と物とが相対立するといふことがなければならない。そこに同列的関係がなければな
NKZ7-222-1 らない、空間的関係がなければならない。働く物といふのは空間的・時間的でなければならない。物
NKZ7-222-2 力といふのは時間的・空間的でなければならない。そこには既に直線的なると共に円環的、個別的な
NKZ7-222-3 ると共に一般的なるものが考へられねばならない。併しかかるものが如何にして考へられるであらう
NKZ7-222-4 か。物と物とが相対立すると考へられるには、物と物とは互に独立なものでなければならない。独立
NKZ7-222-5 な物と物とが相関係するといふには、その間に媒介者といふものが考へられねばならない。併し媒介
NKZ7-222-6 者といふものは亦物と無関係なものと考へることはできない。関係といふものがなければ項といふも
NKZ7-222-7 のはない。併し項といふものがなければ関係といふものも考へられない。両者は固不可分離的なもの
NKZ7-222-8 でなければならない。之を個物は何処までも個物自身を限定するといふ個物の独立性の方向に徹底す
NKZ7-222-9 れば、働くといふ如きことは棄てなければならない。然るに之を一般者の自己限定の立場に於て個物
NKZ7-222-10 的なるものを包摂しようといふのが近世科学の立場である。是に於て物理的空間といふ如きものが考
NKZ7-222-11 へられねばならなかつた。それは空間的にして時間的なる世界である、四次元の世界である。そこに
NKZ7-222-12 は既に私の所謂場所的限定の意味があるのである、弁証法的一般者の自己限定の意味があるのである。
NKZ7-222-13 右の如き立場から何処までも現実の世界を考へようといふのが近世科学の考へ方である。近世科学は
NKZ7-222-14 かういふ立場から何処までも個物的なるものを考へた。合目的的なる生物の世界も、果ては人格的な
NKZ7-222-15 る人間の世界をも考へて来た。近世科学の世界は働くものの世界である、その底には非合理的なるも
NKZ7-223-1 のがある。物質界とは個物を限定する意味に於ての一般者である。感覚的なるものといふのは個物化
NKZ7-223-2 的限定の原理といふことができる。さういふ意味に於て近世科学の立場はギリシャ哲学のそれに比し
NKZ7-223-3 て、一層現実的といふことができる。併し近世科学の立場といふのは、何処までも一般的なるものが
NKZ7-223-4 自己自身を限定することによつて、個物を限定しようといふ立場である。現実の底に一般的法則を見
NKZ7-223-5 ようとする立場である。かういふ立場から何処までも個物的なるものを考へることはできぬ、真に時
NKZ7-223-6 間的なるもの、生命といふ如きものを考へることはできぬ。而も現実の世界は何処までも個物的でな
NKZ7-223-7 ければならない、現実は生きものでなければならない、何処までも自己自身を決定するものでなけれ
NKZ7-223-8 ばならない。単に一般的なるものは可能の世界たるに過ぎない。真に働くものといふのは生きたもの
NKZ7-223-9 でなければならない。生命といふものを自然科学的に説明するといふことは、之を物理的・化学的世
NKZ7-223-10 界に還元することに外ならない。
NKZ7-223-11 真に働くものは何処までも個物的でなければならない。個物は個物に対して限定せられると共に、
NKZ7-223-12 真に個物的なるものは何処までも自己自身を限定するものでなければならない、何処までも時間的な
NKZ7-223-13 るもの、直線的なるものでなければならない。個物は唯個物から生れるのである。個物が一般から限
NKZ7-223-14 定せられると考へられるかぎり、それは個物ではない。真の個物は個物に対するといふ意味に於て何
NKZ7-223-15 処までも空間的なると共に、個物は唯個物から生れるといふ意味に於て何処までも時間的でなければ
NKZ7-224-1 ならない。生命とは如何なるものであるか。生命といふものは先づ何処までも時間的でなければなら
NKZ7-224-2 ない。さういふ意味に於てベルグソンの純粋持続といふ如きものは最も能く生命の意義を明にしたも
NKZ7-224-3 のと云ひ得る。併し真の生命といふのは単にそれだけで考へられるものではない。生命は一面に於て
NKZ7-224-4 何処までも空間的でなければならない、身体的でなければならない。然らざれば生命は夢幻的なもの
NKZ7-224-5 に堕するの外ない。エラン・ヴィタールも、それが同時存在的なる物質を破つて進む所に考へられる
NKZ7-224-6 のである。それは行動的でなければならない。生物が生きるといふにも環境なくして生きるのではな
NKZ7-224-7 い。生物はその環境に於て生きるのである。食物なくして生物といふものは考へられない。個物が環
NKZ7-224-8 境を個物化し環境が自己自身を個物化すると考へられる所に、真の生命といふものが考へられるので
NKZ7-224-9 ある。かかる生命の働く場所といふものは如何なるものであるか。右の如き生物の生活作用は未だ行
NKZ7-224-10 動といふべきものではなくして、動作といふことができる。動作の場所とは如何なるものでなければ
NKZ7-224-11 ならないか。それは単に物理学者の力の場といふ如きものであることはできない。生物の動作は機械
NKZ7-224-12 的ではなくして合目的的でなければならない。合目的的作用とは如何なるものであるか。単なる因果
NKZ7-224-13 律に於ては、後に来るものが前にあるとは云はれない、終が始に於てあるとは云はれない。併し合目
NKZ7-224-14 的的因果律に於ては終に来るものが始に於てあると考へなければならない。時が過去から未来に流れ
NKZ7-224-15 るばかりでなく、時が未来から過去に向ふと考へられねばならない。時が円環的運動をなすと考へら
NKZ7-225-1 れねばならない。故に生物の動作が合目的的と考へられる限り、それは時間的なると共に時を越えた
NKZ7-225-2 意味を有つてゐなければならない、直線的なると共に円環的意義を有つてゐなければならない。故に
NKZ7-225-3 動作の場所といふのは既に流れゆく時を包むといふ意味を有つてゐなければならない。すべて物が働
NKZ7-225-4 くといふには時間的でなければならない、物は時に於て働くと考へられる。併し私が個物は個物に対
NKZ7-225-5 することによつて個物であるといふ如く、力の場といふものでも既に時を包む意味を有つたものでな
NKZ7-225-6 ければならない。弁証法的一般者の自己限定として働くものといふものが考へられるのである。時を
NKZ7-225-7 包む永遠の現在が現在自身を限定すると考へることによつて働くものといふものが考へられるので
NKZ7-225-8 ある。「於てあるもの」と場所とはいつも不可分離の関係を有つてゐなければならない。唯、物力の
NKZ7-225-9 世界といふ如きものは、時の軸を極小とすることによつて考へられた場所的限定に過ぎない。故にそ
NKZ7-225-10 れは抽象的であり、非現実的である。然るに生物の動作といふものが考へられる場合、そこに既に単
NKZ7-225-11 に流れる時を越えたものが働いて居ると考へなければならない。一歩一歩に時が逆行する意味を有つ
NKZ7-225-12 て居るのである。故にそれが働くものと考へられるのである。私が嘗て「永遠の今の自己限定」に於
NKZ7-225-13 て論じた如く、時といふものも元来単に流れるものではないのである。一瞬一瞬が永遠の今に触れる
NKZ7-225-14 といふ意味に於て時といふものが考へられるのである、永遠の今の自己限定として時といふものが考
NKZ7-225-15 へられるのである。故に単なる一般者の自己限定の立場に立つ物理の世界では真の時といふものは考
NKZ7-226-1 へられない、真に個物的なるものは考へられない。
NKZ7-226-2 現実の世界は個物が環境を限定し環境が個物を限定する生命の世界でなければならぬ、弁証法的一
NKZ7-226-3 般者の自己限定の世界でなければならない。斯くして始めて我々の世界は単に我々に対立する対象界
NKZ7-226-4 といふ如きものではなくして、我々が之に於て生れ之に於て働き之に於て死にゆく我々を包む世界と
NKZ7-226-5 いふことができる。我々も無論一生物として此の世界から生れ此の世界へ死にゆくのである。併し我
NKZ7-226-6 我も生物ではあるが単なる生物ではない。我々の働きも動作ではあるが単なる動作ではない。我々は
NKZ7-226-7 一つの人格でなければならない。我々の動作は行為でなければならない。我々がそれに於て生れそれ
NKZ7-226-8 に於て働きそれに於て死にゆく我々を包む世界、即ち我々の行動の場所といふものは、如何なるもの
NKZ7-226-9 であるか。個物は個物から生れねばならない、生命は直線的でなければならない。我々は親から生れ、
NKZ7-226-10 親は又その親から生れる。併し私の人格は私の親から生れるものではない。人格としては私は親と同
NKZ7-226-11 列的立場に立つのである。親も私の人格を生むことはできない。生物の動作に於ても、それが合目的
NKZ7-226-12 的であるかぎり単に時間的であるのではなく、既に超時間的なるものが現実に働くと考へねばならぬ
NKZ7-226-13 と云つた。併し生物的動作に於ては尚真に永遠なるものが現実であるとは云はれない、一々の動作が
NKZ7-226-14 一々永遠に触れるとは云はれない。それに於て真の瞬間といふものはない、それは決断ではない。永
NKZ7-227-1 遠は唯永遠の未来として現在してゐるのである。物質的世界に於ては永遠は常に過去として現存して
NKZ7-227-2 居るといふならば、生命の世界に於ては永遠は常に未来として現存して居るといふことができる。然
NKZ7-227-3 るに我々の人格的行動に於ては、永遠がいつも現在であるといふことができる。永遠の現在が現在自
NKZ7-227-4 身を限定するといふことができる。我々の行為といふものは何処までも時間的でなければならない、
NKZ7-227-5 直線的でなければならない。若しそれが空間的に、円環的に限定せられるものとするならば、それは
NKZ7-227-6 行為ではなくして運動である。併しそれは単に直線的なものではない。単に直線的なものならば、そ
NKZ7-227-7 れは純粋持続の如きものであつて、行為ではない。我々の行為は主観の客観化、客観の主観化でなけ
NKZ7-227-8 ればならない。それは行動でなければならない。行動に於てはいつも主客合一の意味がなければなら
NKZ7-227-9 ない。故に我々の行動はいつも文化を構成する意味を有つて居るのである、超時間的なるイデヤの世
NKZ7-227-10 界を見ると考へられるのである。働くことが見ることであるといふのも、そこから考へられるのであ
NKZ7-227-11 る。そこには自己が自己自身を否定することによつて自己を見るといふ意味があるのである。芸術家
NKZ7-227-12 の創作作用といふ如きものが、その典型的なものである。そこには一般が一般自身を限定することが
NKZ7-227-13 即個物が個物自身を限定する意味があるといふことができる。人格的行為がイデヤ的と考へられる所
NKZ7-227-14 以である。生理的動作といふものに於ては何処までもかかることは考へられない、永遠は現在ではな
NKZ7-227-15 い。生物は対象界といふものすら有つことはできない。故に生物的生命に於ても個物が環境を限定し
NKZ7-228-1 環境が個物を限定し、生物的生命といふものが既に弁証法的一般者の自己限定として考へられねばな
NKZ7-228-2 らぬと云つても、それは唯生物的生命といふものを考へるための公準たるに過ぎない。合目的的作用
NKZ7-228-3 に於ては始と終とが何等かの意味に於て結合せなければならぬと云つても、それは単に爾考へなけれ
NKZ7-228-4 ばならないと云ふに過ぎない。然るに我々の行為と考へられるものは、如何にしても何等かの意味に
NKZ7-228-5 於て対象界といふものなくして考へられるものではない、意識なくして考へられるものではない。如
NKZ7-228-6 何なる意識も志向的と考へられねばならない。我々の行為が単に合目的的ではなく、目的を意識した
NKZ7-228-7 動作と考へられる所以である。我々の行為がすべて人格的であるといふことに反対する人もあるであ
NKZ7-228-8 らう。文化といふ如きものは階級のイデオロギーに過ぎないといふ人もあるであらう。今それらの論
NKZ7-228-9 は姑く措いて、とにかく我々の行為が意識的であるといふことは、意味充実作用の意義を有つて居る
NKZ7-228-10 と考へることができる。行為は何処までも意味的存在といふことができる。
NKZ7-228-11 併し右の如き云ひ方は誤解せられてはならない。私は我々の人格的行為と考へられるものが、時を
NKZ7-228-12 離れた超越的立場から働くと云ふのではない。私の永遠の現在といふのは単に時を越えたものを意味
NKZ7-228-13 するのでなく、時を包むもの、時が之に於て成立するものを意味するものである、弁証法的一般者と
NKZ7-228-14 いふ如きものを意味するのである。人格的自己といふものも、この現実の世界を離れて考へられるの
NKZ7-228-15 ではない。我々の人格的自己は社会的・歴史的事実に即して考へられるのである。人格的行動は社会
NKZ7-229-1 的・歴史的事実でなければならない。かういふ意味に於て我々の行動は一面に生物的、否物質的とす
NKZ7-229-2 らいふことができる。カントの目的の王国は歴史の底に考へられる終末論的な「神の国」でなければ
NKZ7-229-3 ならない。我々の行動は何処までも直線的なると共に円環的でなければならない、時間的なると共に
NKZ7-229-4 空間的でなければならない。かういふ意味に於て物質的といふことができる。而もそれが合目的的で
NKZ7-229-5 あるといふ意味に於ては生物的でなければならない。併し我々の行動は単にそれだけのものではない。
NKZ7-229-6 我々の行為はイデオロギー的でなければならない、而してイデオロギーは又逆に我々の行為を変じ行
NKZ7-229-7 くのである。単に唯物論的独断の上に立つ人は文化の独自性といふものを認めないであらう、無造作
NKZ7-229-8 に価値の永遠性といふものを否定するであらう、私が嚮に行動によつてイデヤを見るといつた如きこ
NKZ7-229-9 とを否定するであらう。併しすべての文化価値を経済価値とか政治的価値とかいふものに還元するこ
NKZ7-229-10 とは不可能である。それは唯文化価値を否定するといふことに過ぎない。それは歴史的実在の具体的
NKZ7-229-11 な見方ではない。さういふ見方に徹底すれば、真の人間といふものを否定するの外ないであらう。斯
NKZ7-229-12 く云ふも私は単に真理は永遠不変であるとか、イデヤ的なものが実在であるとか云ふのではない。イ
NKZ7-229-13 デヤ的なものは歴史に於て現れるものでなければならない。歴史的なるものの自己限定としてイデヤ
NKZ7-229-14 的なるものが見られるのである。併し歴史といふものが単に唯物論的基礎に於て考へられるものでは
NKZ7-229-15 ない、単にノエマ的に考へられるものではない。それは自己といふものを歴史の外に置いて、歴史を
NKZ7-230-1 対象的に見て居る主知主義の立場に過ぎない。それは真の行為的自己の立場ではない、実践の立場で
NKZ7-230-2 はない。我々の行為が直線的であると共に円環的であると考へられる限り、無限なる弁証法的過程と
NKZ7-230-3 いふものが考へられ、我々の歴史は無限に過去から未来に向いて流れ行くと考へられる、パンタ・レ
NKZ7-230-4 ーの世界が考へられる。歴史の底には永遠の未来といふものがあるのである。歴史は過去の事実と考
NKZ7-230-5 へられるが、歴史は単に過ぎ去つたものではない。歴史はいつも未来を有つものでなければならない。
NKZ7-230-6 歴史は永遠の未来の自己限定として考へられるのである。自然の歴史と考へられるものでも、かかる
NKZ7-230-7 立場こ於て考へられるものでなければならない。我々人間の歴史といふものも、何処までもかかる立
NKZ7-230-8 場を離れられないものである。かういふ意味に於て人間は何処までも生物的であり、被造物であり、
NKZ7-230-9 何処までも神こ対立する、神と人間との間には絶対の断絶がなければならない。上に物質界に於ては
NKZ7-230-10 過去が現存的であると云つたが、単なる過去は何物でもない、それは無に等しい。動くものは未来を
NKZ7-230-11 有つたものでなければならない。物質界が実在的と考へられるかぎり、その底にも永遠の未来の意味
NKZ7-230-12 がなければならない。唯、永遠の現在の自己否定面に於て、さういふものが考へられると云ふに過ぎ
NKZ7-230-13 ない。弁証法的一般者の自己限定のその何処までも個物を否定する一般的限定面に於て、さういふも
NKZ7-230-14 のが考へられるといふに過ぎない。弁証法的一般者に於ては個物的限定即一般的限定、一般的限定即
NKZ7-230-15 個物的限定である。すべて具体的に有るものはさういふものでなければならない。故に無論単なる未
NKZ7-231-1 来といふものもないのである。過去なくして未来といふものもない。それでこの現実の世界は一面に
NKZ7-231-2 物質的であり、我々人間も一面に物質的であり、生物的であると考へられねばならぬと共に、単に爾
NKZ7-231-3 考へられるだけのものではない。人間のみ真の現在を有つのである。人間のみ具体的実在である。現
NKZ7-231-4 実の世界は個物的限定即一般的限定、一般的限定即個物的限定として、無限に過去から未来に向つて
NKZ7-231-5 移り行くと考へられる。現実の世界は永遠の未来に於てあると考へられねばならぬ。併しさういふも
NKZ7-231-6 のが考へられるのは永遠の今の自己限定として考へられるのである。永遠の未来は永遠の過去の意味
NKZ7-231-7 を有つてゐなければならない。現実の世界は過去から未来に向ふと共に、未来から過去に向ふ意味を
NKZ7-231-8 有つてゐなければならない。一般的限定即個物的限定、個物的限定即一般的限定と考へられる所に、
NKZ7-231-9 絶対無の自己限定として無限に創造的なる世界が考へられるのである。故に此の現実の世界は終末論
NKZ7-231-10 的でなければならない。我々人間は終末論的存在として有るのである。それが人間の有り方である。
NKZ7-231-11 故に人間のみが決断を有ち、行為を有つ。我々は一々の行為に於て絶対に面して居るのである。人間
NKZ7-231-12 のみが瞬間を有つのである。普通に瞬間といふものは過去から未来へ亙る直線の一点と考へられて居
NKZ7-231-13 る。併しさういふ瞬間は唯考へられたものに過ぎない。永遠の今の自己限定として時が考へられると
NKZ7-231-14 いふ立場から云へば、現在は無限大なる円の弧線的意義を有つたものでなければならない。かかる弧
NKZ7-231-15 線の極限として瞬間といふものが考へられるのである。故に我々は現在は幅を有つと考へる。人間は
NKZ7-232-1 かかる弧線的存在でなければならない。故に我々の行動はそれが主観が客観を主観化するといふ意味
NKZ7-232-2 に於て無限に直線的であり、客観が主観を客観化するといふ意味に於て無限に円環的であると共に、
NKZ7-232-3 それが主客合一としてそこに現在が現在自身を限定するといふ意味を有たなければならない。我々は
NKZ7-232-4 行動によつてイデヤ的なるものを見ると考へられる所以である、人間は文化を有つ所以である。我々
NKZ7-232-5 が社会的・歴史的であると考へられるのも之によるのである。我々はイデヤを見ることによつて自己
NKZ7-232-6 が自己を失ふと考へられる。そしてかかる意味に於て自己を失ふことは自己を見出すことであると考
NKZ7-232-7 へられる、そこに我々は死することによつて生きると考へられる。併し斯く考へられても、我々が本
NKZ7-232-8 質的にイデヤ的であつて、個物的なる自己が一般的となると云ふのではない。イデヤ的なるものが実
NKZ7-232-9 在的であると云ふのではない。我々はイデヤから働くといふのではない。芸術的生活が実在的生活で
NKZ7-232-10 あると云ふのではない。我々は何処までも個物的でなければならぬ、物質的でなければならぬ、生物
NKZ7-232-11 的でなければならぬ。さういふ意味に於てはイデヤに背くもの、イデヤを否定するものである。併し
NKZ7-232-12 人間は単に物質的・生物的ではなくして、社会的・歴史的存在でなければならない。そこにイデヤを
NKZ7-232-13 見るといふ意味があるのである。イデヤ的なるものは社会的・歴史的実在の自己限定の内容に外なら
NKZ7-232-14 ない。社会的・歴史的実在といふのは単に一般的なるものではなくして、個物的なると共に一般的な
NKZ7-232-15 るものである、弁証法的一般者の自己限定として有るものでなければならない。そして我々はその個
NKZ7-233-1 物的限定として有るのである。我々が行動的自己としてそれに於て有ると云ひ得る世界は、イデヤ的
NKZ7-233-2 に自己自身を限定する世界である。我々はイデヤを見ることはそれによつて静観の世界に入るのでは
NKZ7-233-3 なくして、真の行動の世界に入ることでなければならない、新なる行動がそこから生れる世界に入る
NKZ7-233-4 ことでなければならない。故に我々はイデヤを見ることによつて生きると考へる代りに、我々が行動
NKZ7-233-5 が行動を生む創造的世界に入ることによつてイデヤを見ると考へなければならぬ。自己が自己を没す
NKZ7-233-6 ることによつて生きるといふことは、自己を生む世界に入るといふことでなければならぬ。芸術的創
NKZ7-233-7 作作用といふものも、単に見るといふととではなくして行動が行動を生むといふ意味を有つてゐなけ
NKZ7-233-8 ればならぬ。芸術的作品といふものも単に見られたものでなくして、社会的・歴史的実在として動く
NKZ7-233-9 ものでなければならない。真のイデヤは動的でなければならない。
NKZ7-233-10 現実の世界と考へられるものは個物を包む意味を有つたものでなければならぬ、時間的なるものを
NKZ7-233-11 包括する意味を有つたものでなければならぬ。さういふ意味に於てそれは弁証法的一般者の自己限定
NKZ7-233-12 として空間的・時間的でなければならない、物質的・生物的でなければならない。併し真の現実の世
NKZ7-233-13 界は単にそれだけのものではない。真の現実の世界は我々がそれに於て生れそれに於て働きそれに於
NKZ7-233-14 て死にゆく世界でなければならない、社会的・歴史的世界でなければならない。物質界といふ如きも
NKZ7-234-1 のは云ふまでもなく、生物界と考へられるものであつても、それは尚我々に対して立つ世界に過ぎな
NKZ7-234-2 い、知的自己の対象界に過ぎない、行為的自己の世界ではない、行動の場所ではない。主観に対立す
NKZ7-234-3 る客観は真の客観ではない。それは真の具体的世界ではない、何処までも抽象的たるを免れない。真
NKZ7-234-4 の行為的自己の世界は単に過去から未来に流れるのみならず、未来から過去に流れる意味を有つてゐ
NKZ7-234-5 なければならぬ、否単にそれのみならず現在が現在自身を限定する意味を有つてゐなければならぬ。
NKZ7-234-6 そこに真の行動の場所といふものが考へられるのである。生物の世界であつても、未来から過去に向
NKZ7-234-7 ふといふ意味がなければならないであらう。そこには何等かの意味に於て過去と未来とが結び附き、
NKZ7-234-8 世界全体として現在が現在自身を限定するといふ意味がなければならないであらう。併しそれは唯思
NKZ7-234-9 惟の公準たるに過ぎない。然るに我々の行動の世界と考へられるものに於ては、それは単なる思惟の
NKZ7-234-10 公準でなくして現実でなければならない。現在が現在自身を限定するといふ意味なくして真の行動と
NKZ7-234-11 いふものは考へられないのである。人間のみ真の現在を有つのである。我々の意識の世界と考へられ
NKZ7-234-12 るものは、かかる現在が現在自身を限定するといふ意味に於て、場所的限定として考へられるもので
NKZ7-234-13 なければならない。意識といふものは独我論者の考へる様に、単に個人に属したものではない、又単
NKZ7-234-14 に作用として考へられるものでもない。意識作用といふものは固行為の意味を有つたものでなければ
NKZ7-234-15 ならない。意識の世界と考へられるものには、世界が世果自身を限定するといふ意味がなければなら
NKZ7-235-1 ない。意識内容が非時間的と考へられる所以である。現象学者といふものは、かういふ立場から世界
NKZ7-235-2 を見て居ると云ふことができる。エンゲルスが「反デューリング論」に於て述べて居る様な宇宙発展
NKZ7-235-3 の考は、その根本概念に於て私の所謂永遠の未来を基礎とした生物学的発展の考の残滓を脱してゐな
NKZ7-235-4 い。故に意識といふものの出る所はない、唯脳髄から意識が出るといふ如きことを云ふの外ない。さういふ立場から真の行動といふものは考へられない、歴
NKZ7-235-5 史の世界といふ如きものは論ぜられない。エンゲルスの弁証法の三つの根本的法則といつても、それ
NKZ7-235-6 は彼自身も云つて居る如く唯自然科学者の如くに、所謂経験的事実から抽象したものたるに過ぎない。
NKZ7-235-7 その実在と考へられて居るものは、自然科学者が考へる如き我々の知的自己に対して立つ自然科学的
NKZ7-235-8 実在以上のものではない、行為的自己の実在界ではない、我々を包む世界ではない。感覚的とか物質
NKZ7-235-9 的とか云つても、それは「フォイエルバッハ論」に於て云はれて居る如く所謂感覚的なるものといふ
NKZ7-235-10 のではなくして、実践によつて捉へられるものでなければならない、主体的に捉へられるものでなけ
NKZ7-235-11 ればならない。それは行為的自己の実在でなければならない、我々を我々の行為の底から限定するも
NKZ7-235-12 のでなければならない。そこに真の弁証法的なるものがあるのである。対象的に見られるものには、
NKZ7-235-13 対立といふことがあつても、真にそれ自身に矛盾するといふことはない。真に生きた実在はそれ自身
NKZ7-235-14 に於て矛盾するものでなければならぬ。それは行動によつて捉へられるものでなければならない。動
NKZ7-235-15 くものといふのも唯対象的に考へられるのでなく、思惟の矛盾によつて捉へられるのである。マルク
NKZ7-236-1 スが「資本論」に於て論じた如き商品の見方も、唯私の所謂行動の世界に於ての事物として、爾見ら
NKZ7-236-2 れるのである。弁証法的一般者の限定として弁証法的に動く商品といふ如きものが考へられるのであ
NKZ7-236-3 る。然るにそれが唯一般的限定にのみ基礎附けられて、所謂物質的に考へられて居るかぎり、それは
NKZ7-236-4 真に個物的なるものを包む意味を有つたものではない、対象的に見られた世界である、真の行為の世
NKZ7-236-5 界ではない。従つて単にさういふ立場から真に具体的なる歴史的実在を把捉することはできない、真
NKZ7-236-6 の文化といふものを論ずることはできない。