西田幾多郎データべース(c) Niels Guelberg 2000


西田幾多郎[著]: 弁証法的一般者としての世界(1934.6-8)

西田幾多郎全集・第7巻

校異
赤い文字(赤いフォント)は原雑誌論文の、単行本において削除された箇所を示す。
青い文字(青いフォント)は単行本において新たに附加された箇所を示す。


NKZ7-305-1   弁証法的一般者としての世界


NKZ7-305-2       一


NKZ7-305-3  我々に現実の世界と考へられるものは、個物の世界でなければならない。一般的なるものは、単に
NKZ7-305-4 可能的なるものに過ぎない。実在的なるものは時間的と考へられ、又働くものが実在的と考へるのも
NKZ7-305-5 之によるのである。併し個物的なるものを限定する一般者とは如何なるものでなければならないか。
NKZ7-305-6 個物の世界とは如何なるものであるか。
NKZ7-305-7  個物は一般者の限定として考へられる。一般的なるものに種差を加へて最後の種に至り、更に之を
NKZ7-305-8 越えて極限点として個物といふ如きものを考へることができる。併しかかる考へ方によつて考へられ
NKZ7-305-9 た個物といふものは、真の個物ではない。それは何処までも一般者の一部分といふ意味を脱すること
NKZ7-305-10 はできない。個物は自己自身を限定するものでなければならない。而して個物が自己自身を限定する
NKZ7-305-11 といふことは、逆に個物が一般的なるものを限定するといふことを意味する。個物が種々なる性質を
NKZ7-306-1 有つとか、個物が働くとかいふのは、個物が一般的なるものを限定することを意味するのである。真
NKZ7-306-2 の個物といふべき我々の自己では、対象的なるものを包むとすら考へられるのである。
NKZ7-306-3 個物は一般の限定として考へられると共に、逆に個物は一般を限定すると考へられる。併し単にそ
NKZ7-306-4 れだけにて個物といふものが考へられるのでない。個物は個物に対すると考へられねばならない。個
NKZ7-306-5 物は唯個物に対することによつて個物と考へられるのである。唯一つの個物といふものは考へられな
NKZ7-306-6 い。互に相独立するものが互に相関係するといふことが、物と物とが互に相働くといふことである。
NKZ7-306-7 個物は働くものと考へられる所以である。而して互に独立的なるものが相関係すると云ふには、その
NKZ7-306-8 間に媒介者といふものが考へられねばならない。個物と個物とを媒介する媒介者といふのは、如何な
NKZ7-306-9 るものでなければならぬであらうか。
NKZ7-306-10    (e1, e2, e3, ....../A)M
NKZ7-306-11  M は如何なるものでなければならぬであらうか。媒介せられたものと媒介するものとは、全然無関
NKZ7-306-12 係といふことはできぬ。全然無関係ならば、媒介するといふこともできない。物と物とは空間によつ
NKZ7-306-13 て媒介せられると考へる。物と物とは空間を媒介として相働くと考へられる。併し斯く考へられる時、
NKZ7-306-14 物は空間的性質を有つたものでなければならない、物は延長を有つたものでなければならない。無形
NKZ7-307-1 なるものが空間によつて媒介せられると考へることはできない。かかる考に徹底すれば、媒介せられ
NKZ7-307-2 るものは媒介するものの様相といふに到らなければならない。物理現象が空間の歪とも考へられる所
NKZ7-307-3 以である。而して斯く考へれば、個物といふものはなくなる。然らば如何にして個物が個物自身を雑
NKZ7-307-4 持しながら而も媒介せられると考へることができるか、個物は自己自身の内から媒介せられると考ふ
NKZ7-307-5 べきでもあらうか。我々の意識現象に於ては、各自が独立であると共に、直接に相結合すると考へら
NKZ7-307-6 れる。内的統一といふものは、結合するものなき結合と考へられる。意識の統一が時間的と考へられ
NKZ7-307-7 る所以である。併し斯く内的に自己自身を限定するものは、真の個物と考へられるものでなければな
NKZ7-307-8 らない。絶対に他から限定せられない而も他を限定するものが、真の個物と考へられるのである。内
NKZ7-307-9 的統一といふものは、個物と個物とを媒介するものではなくして、それ自身が一つの個物である。而
NKZ7-307-10 して唯一つの個物といふものは考へられない。我々は個物と個物との媒介者 M を内的統一の如きもの
NKZ7-307-11 と考へることはできない。意識統一に於て各自が独立であると共に一であるとは、固如何なることを
NKZ7-307-12 意味するであらうか。かかることが考へられるには、先づ部分が全体の意義を具すると考へられるで
NKZ7-307-13 あらう。併し如何にしてかかる統一が考へられるであらうか。若しその何かの一点を中心として考へ
NKZ7-307-14 るならば、他は之に従属することとなり、個物と個物との相互限定の意味は失はれるであらう。何の
NKZ7-307-15 一点も全体の意義を有つてはならない、中心と考へられてはならない。全体はいつも部分を越えたも
NKZ7-308-1 のでなければならない、それは中心のない統一でなければならない。然らばかかる全体とは如何なる
NKZ7-308-2 ものであるか、かかる統一は如何に考ふべきであるか。若しそれを各部分を越えて各部分の背後に考
NKZ7-308-3 へるならば、それは右に云つた如き一つの個物といふものであつて、各部分が独立とは云ふことはで
NKZ7-308-4 きない。是故に意識現象は意味によつて統一せられると考へられる、意識の統一は意味的統一と考へ
NKZ7-308-5 られる。併し意識現象が単に意味的統一によつて成立するものとするならば、意識現象は実在的とい
NKZ7-308-6 ふことはできない、意識統一に於て個物と個物とが相限定すると云ふことはできない、個物が働くと
NKZ7-308-7 いふことはできない、意識は M の意味を有つことはできない。意識現象は時間的と考へられる。意識
NKZ7-308-8 は時間的に作用すると考へられる。意識は一つの流と考へられる。意識統一は動的と考へられる。併
NKZ7-308-9 しかかる意味に於ける意識統一とは如何にして考へることができるであらうか。若しそれを前者が後
NKZ7-308-10 者を生ずるといふ様に、因果的に考へられるならば、それは外的統一であつて、内的統一ではない、
NKZ7-308-11 即ち意識統一ではない、物の統一と択ぶ所はない。それを一つの発展的統一と考へるか。合目的的統
NKZ7-308-12 一と考へられるものも、尚外的たるを免れない。合目的的統一に於ては、後のものが前のものを限定
NKZ7-308-13 するといふこともできるであらう。併し有機的統一に於ては、各部分が真に独立とは云はれない、即
NKZ7-308-14 ち個物的とは云はれない。各部分が独立であつて而もそれ等が互に相関係すると考へられる時、意識
NKZ7-308-15 の野といふ如きものが考へられる。意識の野の統一といふ如きものは如何なるものであるか。それは
NKZ7-309-1 右に云つた如き意味的統一といふ如きものと考へるか、然らざれば単なる場所的統一と考へる外ない。
NKZ7-309-2 而してその何れにしても個物と個物との媒介者といふ意味を有つことはできない。
NKZ7-309-3  以上述べた如くにして、何処までも互に相独立すると考へられる個物と個物との媒介者 M は、之を
NKZ7-309-4 外的統一と考へることもできなければ、之を内的統一と考へることもできない。個物は一般者の限定
NKZ7-309-5 として考へられねばならない、少くとも一般者によつて媒介せられると考へられねばならない。併し
NKZ7-309-6 個物は何処までも個物に対立して考へられるのである。個物を否定する意味を有する一般者 A の限定
NKZ7-309-7 として考へられるかぎり、個物といふ如きものは否定せられなければならない。ノエマ的限定として
NKZ7-309-8 考へられるかぎり、私といふものはない。さらばと云つて、個物と個物とは内的に統一せられると考
NKZ7-309-9 へることもできない。内的統一といふことは部分が全体の意義を含んで居ることを意味するのである、
NKZ7-309-10 生産点の如きものを意味せなければならない。個物は直線的に、時間的に自己自身を限定すると考へ
NKZ7-309-11 られる。個物は個物から生れると考へられる。併しかかる場合にも、個物的限定は単に円環的限定に
NKZ7-309-12 対立し、円環的限定を否定するといふのではない。時は単に一瞬一瞬に消えて行くといふのではない。
NKZ7-309-13 時の統一といふものが成立するには、時の前後が何等かの意味に於て結び附かねばならない。そこに
NKZ7-309-14 限定するものなき限定といふものが考へられねばならない、消えて消えないものがなければならない。
NKZ7-309-15 時の統一は曲線的意義を有つてゐなければならない。而してかかる統一に於ては、一々の点が全体の
NKZ7-310-1 意義を有つて居るといふことを意味せなければならない。併し此の如き意味に於て内的統一といふ如
NKZ7-310-2 きものが考へられるかぎり、上に云つた如く真の個物と個物との相互限定といふものは考へられない。
NKZ7-310-3 それで上に云つた如き媒介者 M は、それが個物と個物とを媒介すると考へられるかぎり、非連続の連
NKZ7-310-4 続といふ意味を有つたものでなければならない、個物に対し絶対の否定たると共に絶対の肯定の意味
NKZ7-310-5 を有つてゐなければならない、無なると共に有の意味を有つてゐなければならない。即ちそれは弁証
NKZ7-310-6 法的限定と考へられるものでなければならない。それがノエマ的に一般者 A として個物を限定すると
NKZ7-310-7 考へられるかぎり、それは絶対の否定と考へられねばならない。而もそれが内的統一としてノエシス
NKZ7-310-8 的に個物を限定すると考へられるかぎり、それは絶対に個物を肯定すると考へられねばならない。物
NKZ7-310-9 に対し空間が無と考へられる如くそれは無と考へられると共に、物が物理的にあるといふことは空間
NKZ7-310-10 の歪として考へられねばならない。今、直線的進行即ち時を表はすに T を以てし、円環的限定即ち空
NKZ7-310-11 間を表はすに S を以てすれば、個物が個物自身を限定すると考へられる個物的限定は、いつも T の方
NKZ7-310-12 向に考へられ、T 線は何処までも直線的連行として、個物は個物から生れると考へられる。併しそれ
NKZ7-310-13 が真に内的統一として、真に個物から個物に移る、瞬間から瞬間に移る、真に消えて生れるといふに
NKZ7-310-14 は、却つてそれは円環的意義を有たなければならない。之に反し円環的限定が真の円環的限定として、
NKZ7-310-15 個物を包むといふ意義を有するかぎり、それは直線的限定の意義を有たなければならない。それは単
NKZ7-311-1 に無限大の円ではなくして、中心のない円でなければならない。T と S とは固一つのものでなければ
NKZ7-311-2 ならない、M の両面でなければならない。我々は単に主客対立の立場に立つが故に、内的統一と外的
NKZ7-311-3 統一といふものが何処までも相対立すると考へられるが、内的統一といふのは我々が個物的に自己自
NKZ7-311-4 身を限定すると考へる自己肯定の方向に過ぎない。而してその自己否定の方向が外的と考へられるの
NKZ7-311-5 である。M に於て個物的限定即一般的限定、一般的限定即個物的限定といふことができるのである。


NKZ7-311-6  個物と個物との媒介者 M は右の如き理由によつて非連続の連続と考へられる、絶対の否定即肯定、
NKZ7-311-7 無即有と考へられる。併しかかる意味に於て、真の弁証法的限定といふべきものは如何なるものでな
NKZ7-311-8 ければならぬであらうか。個物と個物とが相限定する、絶対に相独立するものが相限定するといふ時、
NKZ7-311-9 我々は唯二つの個物の相互限定を考へるかも知れない。併し二つの個物の相互限定といふのは、直に
NKZ7-311-10 之を飜して一つのものの自己限定と考へることもできるのである。種々なる性質は各相異なると云つ
NKZ7-311-11 ても、何物かに属して一つの物の性質たるに過ぎない。有機的統一に於ては、各部分が独立的たると
NKZ7-311-12 共に一つの全体を構成すると云つても、それ等は全体の部分たるに過ぎない、全体が全体の意義を失
NKZ7-311-13 ふと共に部分は部分の意義を失ふのである。それ自身に於て発展すると考へられるものに至つては、
NKZ7-311-14 その一歩一歩が唯一的として再び繰り返すことができないとしても、何等かの意味に於て内的統一と
NKZ7-312-1 いふ如きものが考へられるかぎり、それは一つのものの発展といふ意義を脱することはできない、何
NKZ7-312-2 処までも合目的的統一の意義を脱することはできない。その各の段階は真に個物的といふことはでき
NKZ7-312-3 ない。真の個物と個物との間にはアリストテレスが知るものと知られるものとを包む類概念はないと
NKZ7-312-4 云つた如く、両者を包む所謂一般者といふものがあつてはならない。而もその両者が相限定する所に、
NKZ7-312-5 絶対に相反するものの自己同一として、始めて弁証法的限定といふ如きものが考へられるのである。
NKZ7-312-6 私は二つの個物と個物との相互限定といふものは、尚単に主観客観の相互限定といふ如きものと考へ
NKZ7-312-7 られると思ふ。主観と客観とは絶対に相対立するものでなければならない。而も我々の行為といふ如
NKZ7-312-8 きものに於ては、主観が客観を限定し、客観が主観を限定する、主観即客観、客観即主観として、弁
NKZ7-312-9 証法的過程といふ如きものが考へられるのである。併しかかる意味の弁証法的統一に於ては、尚個物
NKZ7-312-10 と個物との相互限定といふことを考へることはできない。絶対に相反するものの同一、主客合一とし
NKZ7-312-11 て、シェーリングの同一シェリングのイデンティテートといふ如きものを考へることができるであらう。併しかかる立場
NKZ7-312-12 に於ては、動くものとか、変ずるものとかいふものも考へることはできない。之に反し無限なる動的
NKZ7-312-13 統一として弁証法的過程といふものが考へられると云つても、そこに或は精神として、或は物質とし
NKZ7-312-14 て、一つの動的統一といふものが考へられるかぎり、それは何処までも一つのものといふ意義を脱す
NKZ7-312-15 ることはできぬ、一元論的立場を脱することはできぬ。かういふ立場に於ては、真に個物と個物との
NKZ7-313-1 限定の世界、真の現実の世界といふものを考へることができぬ、ポイエシスの世界といふものを考へ
NKZ7-313-2 ることはできぬ。それは尚単なる客観的世界といふ意味を脱することはできない、知的自己の対象界
NKZ7-313-3 といふ意味を脱することはできない、我々の自己を包む世界ではない、真の社会的・歴史的世界では
NKZ7-313-4 ない。へーゲルの概念といふのは尚有機的統一の意義を脱してゐない。それが自己自身を否定して自
NKZ7-313-5 己に還ると云つても、尚所謂一般者の意義を脱してゐない、然らざれば唯一つの個物といふ意義を脱
NKZ7-313-6 してゐない。ヘーゲルの弁証法が真の絶対否定の弁証法と考へることのできない所以である。一般的
NKZ7-313-7 なるものが真に自己自身を否定すると考へられる時、それは個物の世界となるといふ意味を有たなけ
NKZ7-313-8 ればならない。単なる過程として自己自身を限定すると考へられるかぎり、それは尚真の絶対否定で
NKZ7-313-9 はない。一般者の自己限定の過程と考へられるものは、却つてそれが個物的なるものを包むといふ所
NKZ7-313-10 に基礎附けられてゐなければならない。真の弁証法的統一といふものは、何処までも主語的方向に、
NKZ7-313-11 ノエマ的方向に考へられるものではない。自己同一と云つても、それが唯主語的方向に、ノエマ的方
NKZ7-313-12 向に考へられるかぎり、それは何処までも唯一つのものといふ意義を脱することはできない。


NKZ7-313-13  右に云つた様に、主客対立の如く如何に相反するものと云つても、唯二つのものの相互限定から真
NKZ7-313-14 の弁証法的限定といふものは考へることはできない。真の弁証法的限定といふべきものは、少くも三
NKZ7-314-1 つのものの相互限定から考へられねばならない。甲が乙に対すると同じく丙にも対する。乙が甲丙に
NKZ7-314-2 対し、丙が甲乙に対するも同様である。私が汝に対する如く彼に対する。汝が私に対し、彼が私や汝
NKZ7-314-3 に対するも同様である。斯く三つのものの相互関係を斯く考へるといふことは、無数の個物を考へる
NKZ7-314-4 といふことに外ならない。斯くして始めて真に相独立するものの相互限定、個物と個物との相互限定
NKZ7-314-5 といふことが考へられるのである。絶対の非連続の連続と考へられるものは、かかる意味を有つたも
NKZ7-314-6 のでなければならない。個物と個物との媒介者 M は場所的限定の意義を有つてゐなければならない。
NKZ7-314-7 私が弁証法的一般者の自己限定として弁証法といふものを考へる所以である、過程的限定を基とせな
NKZ7-314-8 いで場所的限定を基とするといふ所以である。私の一即多、多即一といふのも、かかる場所的限定を
NKZ7-314-9 意味するに外ならない。絶対的弁証法が絶対の否定を媒介とするといふ時、それは絶対の死を媒介す
NKZ7-314-10 るといふことでなければならない、絶対に死して生れることでなければならない。そこに何等の意味
NKZ7-314-11 に於ても内面的連結といふ如きものが考へられてはならぬ、直線的なるもの、過程的なるものは否定
NKZ7-314-12 せられなければならない。然らざれば、それは何処までも観念論的弁証法の立場を脱することはでき
NKZ7-314-13 ない。古来、経験論の強味は此にあるのである。
NKZ7-314-14 併し斯く云ふも、私は単に過程的なるものを否定すると云ふのではない、単に一般者が一般者自身
NKZ7-314-15 を限定するとか、場所が場所自身を限定するとか云ふのではない、単なる直観主義とか神秘主義とか
NKZ7-315-1 いふものを主張するのではない。私の弁証法的一般者といふのは、一般者と云つても、個物的限定に
NKZ7-315-2 反し、個物を否定するものを意味するのではない、個物と個物との相互限定の媒介者といふ意味を有
NKZ7-315-3 つて居るのである。抽象的には、媒介するものと媒介せられるものとは別々に考へられるかも知らぬ
NKZ7-315-4 が、上に云つた如く、無形なるものは有形なるものを媒介することはできず、有形なるものは無形な
NKZ7-315-5 るものを媒介することはできない。媒介せられるものと、するものは、不可分離の関係を有つてゐな
NKZ7-315-6 ければならない。一体、自己自身を限定する一般者、所謂具体的一般者と考へられるものに於ても、
NKZ7-315-7 既に媒介するものと、せられるものとが一であるといふ意味がなければならない。故に個物が一般者
NKZ7-315-8 であるとか、主語が述語であるとか考へられるのである。何等かの意味に於て物といふものなくして
NKZ7-315-9 媒介といふものが考へられないと共に、媒介といふことなくして物といふものも考へられない。何処
NKZ7-315-10 までも独立に自己自身を限定する個物といへども、媒介なくして考へられない。個物は個物に対する
NKZ7-315-11 と考へられるのである。個物は一面に於て一般者の限定として考へられる所以である。個物が個物自
NKZ7-315-12 身を限定する、物が自己自身の内から自己を限定するといふことは、上に云つた如く、我々の意識統
NKZ7-315-13 一に於て考へられる様に、非連続の連続といふ意味を有つてゐなければならない。而してかかる統一
NKZ7-315-14 の極限に於ては、それは直線的ではなくして円環的と考へられねばならない。之と共に、一般的なる
NKZ7-315-15 ものが自己自身を限定すると考へられる時、それは何処までも個物的なるものを包むといふ意味を有
NKZ7-316-1 つてゐなければならない。然らざれば一般者といふ意義を有つことはできない。私が個物と個物との
NKZ7-316-2 媒介者として弁証法的一般者といふのは、かかる意味に於て個物を包み、個物を限定する意義を有つ
NKZ7-316-3 たものである、外的一般者と内的一般者、外的統一と内的統一とが一となつたものである、有即無と
NKZ7-316-4 考へられるものである。故に之に於てあるものは、何処までも個物的に自己自身を限定する、直線的
NKZ7-316-5 に自己自身を限定すると考へられる、時間的と考へられる。それと共に何処までも一般的なるものか
NKZ7-316-6 ら限定せられる、底の底まで一般的なるものから限定せられると考へられる。それは一般的限定即個
NKZ7-316-7 物的限定、個物的限定即一般的限定といふ様に、自己自身を限定するのである。すべて有るものは行
NKZ7-316-8 為するものであるといふことができる。例へば、物理現象の如きものを行為するものと考へるのは、
NKZ7-316-9 異様に感ぜられるでもあらうが、私の行為するものといふのは、右の如く一般的限定即個物的限定、
NKZ7-316-10 個物的限定即一般的限定といふ様に自己自身を限定するものを意味するのである。物理的世界といふ
NKZ7-316-11 如きものも、右の如き弁証法的限定の世界から個物的限定の意義を極小としたものに過ぎない、何処
NKZ7-316-12 までも個物的限定の意義を除去して考へられたものである。之に反し自由なる自己の世界と云つても、
NKZ7-316-13 何処までも一般的限定を離れたものではない。我々の個人的自己といふものも、単に個人的自己とし
NKZ7-316-14 て考へられるのではなく、社会的・歴史的に限定せられたものとして、有ると考へられるのである。
NKZ7-316-15 我々が行為すると考へる時、我々の行為といふものは単に内から発すると考へられるかも知らぬが、
NKZ7-317-1 それは何処までも個物的限定即一般的限定として考へられるものでなければならない。夢といへども
NKZ7-317-2 社会的・歴史的限定を離れたものではない。而して我々は我々を、行為的自己として、我々が有ると
NKZ7-317-3 考へるのである。単なるコギト・エルゴ・スムの自己は抽象的自己たるを免れない。我々の主観的世
NKZ7-317-4 界と考へられるものは、上に我々が内的統一として直線的と考へるものは、その根柢に於て円環的で
NKZ7-317-5 なければならぬと云つた意義に於て、円環的でなければならぬ。而もそれは私の所謂無の場所的限定
NKZ7-317-6 といふ意義を有つてゐなければならない。直線的限定と考へられるものは、かかる限定から考へられ
NKZ7-317-7 るものでなければならない。
NKZ7-317-8  多くの人々は先づ相対立する内界と外界、主観界と客観界といふものを考へ、かかる両界の相互限
NKZ7-317-9 定として現実の世界といふものを考へる。併しかかる対立的世界が固、独立に存在するのではなく、
NKZ7-317-10 かかる両界はいつもこの現実の世界の両方向として、この現実の世界から考へられるものでなければ
NKZ7-317-11 ならぬ。現実の世界といふのは、個物と個物との相互限定の世界と考へられるものでなければならな
NKZ7-317-12 い、媒介者 M の自己限定の世界と考へられるものでなければならない、弁証法的一般者の自己限定の
NKZ7-317-13 世界と考へられるものでなければならない。之に於てあるものは、何処までも個物的に自己自身を限
NKZ7-317-14 定すると共に、何処までも一般的に限定せられると考へられる。個物的限定といふのは、単に一つの
NKZ7-317-15 個物が自己自身を限定するといふことではない。唯一つの個物といふものは考へられない。個物が個
NKZ7-318-1 物自身を限定すると考へられる時、それは一応限定するものなき限定と考へられるであらう。併しそ
NKZ7-318-2 れは単に何等の限定もないといふことではない。個物は単に無媒介的に自己自身を限定するといふこ
NKZ7-318-3 とではない。個物は個物に対して限定せられるのである。而も個物が個物に対して限定せられるとい
NKZ7-318-4 ふことは、唯無数の個物が並列するといふことではない。是に於ては、我々の意識統一に於て考へら
NKZ7-318-5 れる様に内的統一といふものを考へることができる。意識統一に於ては、一々の部分が独立と考へら
NKZ7-318-6 れる。而もそれが全体の意義を有すると考へられるのである。時の連続に於ても、各の瞬間が独立
NKZ7-318-7 あり、絶対であると考へられる。而も斯く各瞬間が独立と考へられることが、流れて還らざる一度的
NKZ7-318-8 なる時の統一を形成すると考へられるのである。時の統一は各の瞬間の自己限定から考へられると云
NKZ7-318-9 ふことができる。かかる限定は一応無限なる直線的限定と考へられねばならぬ。併しかかる限定は単
NKZ7-318-10 に直線的と考へられるものではない。それはやはり曲線的と考へられねばならない、円環的と考へら
NKZ7-318-11 れねばならない。時の各瞬間が単に消え去るならば、時の統一といふものは成立せない。時が永遠の
NKZ7-318-12 現在の自己限定として考へられるといふ所以である。併しそれは一つの中心を有つた円であつてはな
NKZ7-318-13 らぬ、閉ぢられた円であつてはならぬ。如何に無限大の円と考へられても、斯く考へられるかぎり、
NKZ7-318-14 時といふものは考へられない。時は無の一般者の限定として考へられるといふ所以である。而してか
NKZ7-318-15 かる意味に於て無の一般者と考へられるものは、私の所謂弁証法的一般者として、個物と個物との媒
NKZ7-319-1 介者 M の意味を有つたものでなければならない。かかる一般者の限定として、時といふものが考へら
NKZ7-319-2 れるのである。我々は限定するものなき限定として、創造作用といふものを考へる。併し真の創造と
NKZ7-319-3 いふことは内が外、外が内といふことでなければならない。内的統一といふものが考へられるかぎり、
NKZ7-319-4 真の創造といふものは考へられない。単なる内的統一は唯一つの個物 e といふ意味を脱することはで
NKZ7-319-5 きない。之に対して外的統一として、いつも単なる一般者 A といふものが対立するのである。併し M
NKZ7-319-6 に於ては集中が拡散であり、拡散が集中であるといふ意味がなければならない。現実の世界が世界自
NKZ7-319-7 身を限定するのである、現在が現在自身を限定するのである。時といふものも、現在が現在自身を限
NKZ7-319-8 定するといふことから考へられるのである。時を単に直線的と考へる時、時は瞬間が瞬間自身を限定
NKZ7-319-9 するといふことから考へられるとも云ひ得るでもあらう、併し瞬間は固、掴み得るものではない。瞬
NKZ7-319-10 間は現在の自己否定即ち自己拡散によつて成立するのである。故に無数の瞬間が成立するのである、
NKZ7-319-11 各人が各人の時を有つと考へられるのである。現実の世界が世界自身を限定すると考へられる時、無
NKZ7-319-12 数の瞬間が成立するのである。故に時の統一に於て各の瞬間が消えて生れるといふことは、各瞬間が
NKZ7-319-13 無限大の円の周辺を廻るといふ如き意味でなければならない、否中心なき円の周辺を廻るといふ如き
NKZ7-319-14 意味を有たなければならない。非連続の連続といふことは、斯く考へられねばならない。各人が各人
NKZ7-319-15 の時を有つと考へられる我々の個人的自己といふものも、弁証法的に自己自身を限定する世界の自己
NKZ7-320-1 拡散の方向に考へられるものでなければならない。故に我々の行為は歴史の中から生れ、歴史の中に
NKZ7-320-2 失せ行くと考へられるのである。


NKZ7-320-3  内的統一が即外的統一であり、外的統一が即内的統一であり、絶対の肯定が即絶対の否定であり、
NKZ7-320-4 絶対の否定が即絶対の肯定であるといふことを意味する個物と個物との媒介者 M は、弁証法的一般者
NKZ7-320-5 の自己限定として、その内的統一の意味に於て無限に自己自身を限定すると考へられると共に、その
NKZ7-320-6 外的統一の意味に於て無限に自己自身を否定すると考へられねばならない、絶対に縦に自己自身を限
NKZ7-320-7 定すると考へられると共に、絶対に横に自己自身を限定すると考へられねばならない、宇宙時の流
NKZ7-320-8 として自己自身を限定すると共に絶対に自己自身を平面的に限定するのである。それはパスカルの所
NKZ7-320-9 謂周辺なくして到る所が中心となる無限大の球の自己限定の如きものである。故に現実の世界は無限
NKZ7-320-10 に縦から限定せられると考へられると共に、無限に周辺から限定せられて居ると考へられる、主観客
NKZ7-320-11 観の交叉面と考へられる。此の世界に於てあるものは、主観的なると共に客観的、客観的なると共に
NKZ7-320-12 主観的と考へられる。普通にはかかる両界が別々に考へられ、かかる両界の交叉面として現実の世界
NKZ7-320-13 が考へられるのであるが、逆にかかる両界は個物と個物との媒介者 M の世界、弁証法的世界の自己限
NKZ7-320-14 定の両面として考へられねばならない。その自己限定として内在的世界といふものが考へられ、その
NKZ7-321-1 自己否定として超越的世界と考へられる。我々の自己といふものは、かかる世界の自己限定と自己否
NKZ7-321-2 定との間に考へられる個物的なものである。故に我々の自己はパスカルのいふ如く、いつも無限と無
NKZ7-321-3 との二つの深淵に臨んでゐると考へられるのである、全体と無との間にあると考へられるのである。
NKZ7-321-4 我々の自己は現実の世界が現実の世界自身を限定することから考へられるのである。我々の行為は無
NKZ7-321-5 から出て無に返ると考へられると共に、絶対を主体となすといふことができる。時の瞬間が周辺なき
NKZ7-321-6 円の周辺を廻ると考へられる如く、我々の行為も絶対の世界を廻ると考へることもできる。斯くして、
NKZ7-321-7 我々の行為は限定するものなき限定として、すべてポイエシスの意味を有つと云ふことができるので
NKZ7-321-8 ある。


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Author: Niels GUELBERG
e-mail: guelberg@waseda.jp
First drafted: 03.03.02
Last updated: 03.06.12