西田幾多郎データべース(c) Niels Guelberg 2000


西田幾多郎[著]: 弁証法的一般者としての世界(1934.6-8)

西田幾多郎全集・第7巻

校異
赤い文字(赤いフォント)は原雑誌論文の、単行本において削除された箇所を示す。
青い文字(青いフォント)は単行本において新たに附加された箇所を示す。


NKZ7-321-9        二


NKZ7-321-10  個物的なるものは一般的なるものの自己限定として考へられねばならぬ。而も個物は単に一般の自
NKZ7-321-11 己限定として考へられるのでなく、個物は自己自身を限定するものでなければならない。而して個物
NKZ7-321-12 が自己自身を限定するといふことは、個物が一般として自己自身を限定することでなければならない。
NKZ7-321-13 故に具体的論理に於ては、個物が一般である、主語が述語であると考へられる。実在的なるものは、
NKZ7-321-14 かかる論理的構造を有つてゐなければならない。かかる意味に於て弁証法的統一と考へられるものが、
NKZ7-322-1 真に自己自身に同一なるもの、自己同一と考へられるものでなければならない。自己自身に同一なる
NKZ7-322-2 ものといふものは、単に一つの物といふ如きものであつてはならぬ、単に主語となつて述語とならな
NKZ7-322-3 いものと云ふだけのものであつてはならぬ。然らざれば、それは一つの極限点とか、一つの中心とか
NKZ7-322-4 いふ如きものに過ぎない、要するに一つの点と択ぶ所はない。自己自身に同一なるものは、主語とな
NKZ7-322-5 つて述語とならないと共に、自己自身について述語するものでなければならない、述語的に自己自身
NKZ7-322-6 を限定するものでなければならない。逆にそれは述語が主語となるもの、述語的にして主語的に自己
NKZ7-322-7 自身を限定するものでなければならない。それに於ては、一即多、多即一といふことができる。真に
NKZ7-322-8 自己自身に同一なるものは、一にして多なるもの、多にして一なるものでなければならない。而して
NKZ7-322-9 同一判断が直覚的なるものを主語となすすると考へられる如く、自己自身に同一なるものは主語的には、
NKZ7-322-10 対象的には直観的と考へられるものでなければならない。真に直覚的と考へられるものは、普通考へ
NKZ7-322-11 られる如く単に見られたものといふ如きものではなく、自己を自己によつて限定するものでなければ
NKZ7-322-12 ならない。否それは自己が自己自身を言ひ表すといふ自覚的意義を有つたものでなければならない。
NKZ7-322-13 之に反し我々の自覚が自己同一の意義を有つと考へられるのは、自己が自己自身を見ると考へられる
NKZ7-322-14 故でなければならない。更に我々の自覚に於ては自己が自己に於て自己を見ると考へられる。我々の
NKZ7-322-15 自覚が勝義に於て自己同一と考へられる所以である。
NKZ7-323-1  右に云つた如く、自己自身に同一なるものが、一にして多、多にして一なるものであるならば、真
NKZ7-323-2 に自己自身に同一なるもの、真に自己自身を限定するもの、真に自覚的なるものに於ては、その多は
NKZ7-323-3 真の多でなければならない、絶対に相独立するものの多でなければならない、無数の個物の意味を有
NKZ7-323-4 つてゐなければならない。即ち真に自己同一なるものは、個物と個物との媒介者 M の意味を有つたも
NKZ7-323-5 のでなければならない、私の所謂弁証法的一般者の意味を有つてゐなければならない、場所的限定と
NKZ7-323-6 考へられるものでなければならない。普通に自己自身に同一なるものと云へば、ノエマ的方向に、主
NKZ7-323-7 語的方向に一つのものを考へる、一といふ方向に重点を置いて考へる。併しかかる意味に於て考へら
NKZ7-323-8 れた自己同一といふのは、真の自己同一ではない。それは何処までも唯一つの物といふ意義を脱せな
NKZ7-323-9 い。真に自己自身に同一なるものは単なる一般者 A として考へることもできない、単なる個物 e とし
NKZ7-323-10 て考へることもできないものでなければならない、何処までも直線的限定としても考へられないと共
NKZ7-323-11 に、円環的限定としても考へられないものでなければならない。さういふ意味に於ては、それは絶対
NKZ7-323-12 に無と考へられるものでなければならない。真に自己同一なるものは、唯現在が現在自身を限定する
NKZ7-323-13 ことから考へられるのである、場所が場所自身を限定することから考へられるのである。我々の個人
NKZ7-323-14 的自覚といふものも、単に直線的に自己自身を限定する個人の自己限定から考へられるのでなく、却
NKZ7-323-15 つて社会的・歴史的限定から考へられるものでなければならない。社会といふものなくして自己とい
NKZ7-324-1 ふものはない。私は汝に対することによつて私であるのである。直覚的なるものと云つても、真に直
NKZ7-324-2 覚的なるものは、我々の行為によつて見られるといふ意味を有すると共に、逆に我々の行為を限定す
NKZ7-324-3 る意味を有つたものでなければならない。芸術的直観の如きものが勝義に於て直覚的と考へられる所
NKZ7-324-4 以である。


NKZ7-324-5  我々は現実の世界の底を知ることはできない。併し現実の世界はそれ自身の統一を有つたものでな
NKZ7-324-6 ければならない。何等の統一をも有たないものは一つの世界といふことはできない。而してすべて有
NKZ7-324-7 るものは、かかる世界に於てあるのである。かかる世界の統一は如何に考へられるものであらうか。
NKZ7-324-8 それは単に直線的に、時間的に統一せられたものではない。世界は単に流れ去るものではない。然ら
NKZ7-324-9 ばと云つて、それは単に円環的に、空間的に統一せられたものでもない。世界は単に永遠不変なるも
NKZ7-324-10 のでもない。世界は各の時代に於て、それ自身の統一を有つ。それは一であると共に多として自己自
NKZ7-324-11 身を限定し、それは多であると共に一として自己自身を限定する、即ち自己同一的に自己自身を限定
NKZ7-324-12 する。而も各の時代がいつもそれ自身に於て完成せられたものでなく、一定の発展に達すると共に、
NKZ7-324-13 即ち時が熟すると共に、自己自身の中から自己を否定して、次の時代に移つて行く。斯くして無限に
NKZ7-324-14 世界が世界自身を限定して行くと考へられるのである。世界が世界自身を限定すると考へられる世界
NKZ7-325-1 の連続とは、上に云つた如き意味に於ての自己同一的でなければならぬ、場所が場所自身を限定する
NKZ7-325-2 場所的限定の意味に於ての連続でなければならない。普通に世界の連続といへば、単に直線的なるも
NKZ7-325-3 のが考へられる。併し単に直線的連続と考へられるものは、主観的世界の連続たるに過ぎない。それ
NKZ7-325-4 は単に一つの個物が個物自身を限定するといふ個物的限定の意味しか有つことはできない。歴史は主
NKZ7-325-5 観的に構成せられたものではない。主観的に構成せられたものは歴史ではない。ランケが歴史の各の
NKZ7-325-6 時代は神に直接して居り、各の時代はその存在に於てそれ自身の価値を有つ、歴史家は事物を見なけ
NKZ7-325-7 ればならぬといふ所以である。
NKZ7-325-8  我々の歴史的世界は何等の足溜もなく、唯連続的に無限の過去から無限の未来へ流れ行くものと考
NKZ7-325-9 へられる。併しかかる考を徹底すれば、歴史的世界といふも、連続的な一直線的進行といふ如きもの
NKZ7-325-10 に過ぎない、唯、一つの個物が個物自身を限定するといふの外に出ない。かかる歴史は唯考へられた
NKZ7-325-11 歴史的世界に過ぎない。真の歴史の世界に於ては、我々が客観を限定し、客観が我々を限定するので
NKZ7-325-12 ある。歴史の世界は行為の世界でなければならない。而して働くといふには足溜といふものがなけれ
NKZ7-325-13 ばならない。歴史の世界を唯、一直線的進行の如く考へるのは、歴史的世界の進行を我々の個人的自
NKZ7-325-14 覚の形式に当嵌めて考へる故である。その自己統一を内部知覚的統一の如きものと考へる故である。
NKZ7-325-15 又我々は普通考へる如く時の進行を単に連続的直線の如きものと考へ、かかる意味に於て歴史的世界
NKZ7-326-1 を時間的実在と考へることから、然考へられるのである。併し我々の個人的自覚の統一と考へられる
NKZ7-326-2 ものに於ても、それが行為的自己の自覚と考へられるかぎり、単に爾考へ得るものではない。働くと
NKZ7-326-3 いふには、足溜がなければならない。我々の自己は現在の世界に於てあり、我々の行為的自覚の野と
NKZ7-326-4 いふものが現在の世界であり、現在の世界が現在の世界自身を限定するといふことから、行為的自己
NKZ7-326-5 の自覚といふものが考へられるのである。故に上に云つた如く我々は行為に於て絶対の世界を廻ると
NKZ7-326-6 考へることもできるのである。場所が場所自身を限定するといふ意味を有するかぎり、我々は行為的
NKZ7-326-7 自覚を有つのである。内部知覚的自己の統一といふ如きものであつても、意識の野が自己自身を限定
NKZ7-326-8 するといふことから考へられねばならない、単に直線的連続として考へられるものではない。我々の
NKZ7-326-9 省みられた自己は各の瞬間に於て意識の野に於てあると考へられる、現在に於てあるのである。かか
NKZ7-326-10 る意識の野の自己限定として、内部知覚的自己といふものが考へられるのである。意識作用といふも
NKZ7-326-11 のは、すべてかかる意味を有つたものである。我々は普通に各の自己が、否その各の瞬間に意識面と
NKZ7-326-12 いふものを有ち、意識面といふものは各の自己に、否各の自己の各の瞬間に属するものの如くに考へ
NKZ7-326-13 て居るのであるが、意識面といふのは一つの世界でなければならない、弁証法的世界の一面でなけれ
NKZ7-326-14 ばならない。故に意識は志向的と云ひ得るのである。各自の意識といふものは、かかる意識面の自己
NKZ7-326-15 限定として考へられるものでなければならない。時の形式といふ如きものも、上に云つた如く単に直
NKZ7-327-1 線的連続として考へられるものでなく、時は現在が現在自身を限定するといふことから考へられねば
NKZ7-327-2 ならない。時は M の自己限定として考へられねばならない。そこに時の自己同一性があるのである。
NKZ7-327-3 ドロイゼンはその「史学研究法」に於て次の様に云つて居る。歴史に於て与へられたものと云ふのは、
NKZ7-327-4 単に過ぎ去つたものではない、過ぎ去つたものではあるが、尚現在に於て過ぎ去らないものである、現
NKZ7-327-5 在から思ひ起されるものである。有限なる我々の精神は唯、此処此時から考へる。併しいつも前を見、
NKZ7-327-6 後を顧みる、未来と過去とを結合して永遠の相を有つて居ると。又我々は理解によつて何処までも自
NKZ7-327-7 己を拡げて行く、内から外を理解し、外から内を理解する。個物が全体から理解せられ、全体が個物
NKZ7-327-8 から理解せられる。理解は分析的であると共に綜合的である。而も理解作用 Akt des Verständnisses
NKZ7-327-9 は理解の論理的機械作用 logischer Mechanismus と異なつて、魂が魂の中に潜る如く直覚的である。
NKZ7-327-10 而して人は他を理解し他から理解せられることによつて全体となると云つて居る。此の如き歴史の世
NKZ7-327-11 界は右に云つた如き意味に於ての自己同一として考へられなければならぬ、即ち弁証法的一般者の限
NKZ7-327-12 定として考へられなければならぬ。我々が行為するといふのも、かかる世界に於てでなければならな
NKZ7-327-13 い。行為的自己の立場から見られる世界は、此の如きものでなければならない。歴史的認識に於ては、
NKZ7-327-14 一般的なるものは、自然科学的認識に於ての様に、単に自己に対立するものではない、自己に対立す
NKZ7-327-15 ると共に自己がそれに於てあるものである。歴史的認識に於ては、自然科学に於ての如き客観性がな
NKZ7-328-1 いと考へられる所以である。西南学派に於ては、歴史は個性を中心として構成せられると云ふが、個
NKZ7-328-2 性といふものは、私の云ふ如き意味に於て、自己同一として考へられるものでなければならない。


NKZ7-328-3  歴史の世界は表現の世界と考へられる、了解の対象界と考へられる。併し歴史の世界は自己限定す
NKZ7-328-4 るものでなければならない、我々の行為を限定するものでなければならない、我々がそれから生れ、
NKZ7-328-5 それへ死に行くとも考へられるものでなければならない。表現的なるものが如何にして自己自身を限
NKZ7-328-6 定すると云ひ得るか。表現の内容といふものは、ボルツァーノ以来客観的と考へられるが、それはそ
NKZ7-328-7 れ自身に何等の限定もない単なる了解の対象とも考へられる、郷土なき対象とも考へられる。ロゴス
NKZ7-328-8 はドクサでもあり、世間話でもあり得るのである。私は是に於て我々の話し合ふことのできる世界、
NKZ7-328-9 表現の世界といふものが、その根柢に於て如何なるものかを考へて見なければならない。言語の起源
NKZ7-328-10 については、コントの如く我々は我々の思想を伝へるために言表するのではなく、言表するが故に我
NKZ7-328-11 我は互に思想を伝へると考へることができる。言語の起源は情緒的生活に求められなければならない。
NKZ7-328-12 ドイツのロマンティーケルは言語の起源を人類の原始詩作に求めたと聞く。言語は単なる知的内容の
NKZ7-328-13 表現ではない。言語は固独語ではなくして、会話でなければならない。言表は先づ命題といふ如きも
NKZ7-328-14 のではなくして、命令と応答といふ如きものでなければならない。我々の社会的生活そのものの自己
NKZ7-329-1 限定の内容として、表現の内容といふものが成立するのである。各自の意識内容の表現から表現の世
NKZ7-329-2 界といふものが成立するのでなくして、我々は固社会的なるが故に表現することができるのである。
NKZ7-329-3 我々が社会的であるといふことは同時に我々は言語を有つといふことを意味する。ゾーン・ポリティ
NKZ7-329-4 コンであるといふことは、同時に我々は言語を有つ、ゾーン・ロゴン・エコーンであるといふことを
NKZ7-329-5 意味する。而して社会的ならざる人間といふものはない、単なる個人といふものはない。人はホモ・
NKZ7-329-6 ファーベルであると共に、ゾーン・ロゴン・エコーンでなければならない。人間の行動といふものは、
NKZ7-329-7 すべて表現的意義を有するのである。
NKZ7-329-8  それで如何にそれ自身の限定を有たない世間話の如きものといへども、その成立の根柢に、社会と
NKZ7-329-9 いふものがなければならない。かかるロゴスを有つた社会、表現の世界といふものは、如何にして考
NKZ7-329-10 へられるものであらうか。我々はその底に単に我々の意識を超越した物質界といふ如きものを考へる
NKZ7-329-11 ことはできぬ。又それは単に所謂生命の世界といふ如き合目的的世界と考へることもできぬ。否、普
NKZ7-329-12 通考へられる様に、単にノエマ的に社会とか歴史とかいふものを考へるのでも、かかる自己自身を表
NKZ7-329-13 現する世界を考へることはできぬ。それは私が右に云つた如き意味に於て自己同一的に自己自身を限
NKZ7-329-14 定する世界でなければならない。無限に自己同一的に自己自身を限定する世界は、無限に時間的に自
NKZ7-329-15 己自身を限定すると考へられると共に、無限に空間的に自己自身を限定すると考へられねばならない、
NKZ7-330-1 無限に縦に自己自身を限定すると考へられると共に、無限に横に自己自身を限定すると考へられなけ
NKZ7-330-2 ればならない。而もそれが M の自己限定として現在が現在自身を限定すると考へられる時、無限なる
NKZ7-330-3 縦の限定と考へられるものは、無限なる横の限定と考へられるものでなければならない。我々の行為
NKZ7-330-4 的自己は時を包む一般者に於て自己自身を限定するのである。行為の世界に於ては、我々は縦に見る
NKZ7-330-5 ものを横に見るのである。そこに我々はいつも現在の世界を囲む無限の周辺を見る。ジェームスは意
NKZ7-330-6 識の縁暈といふこともの云つた考へたが、現実の世界は実に無限の縁暈を有つのである。そこには何等の限定
NKZ7-330-7 するものなき単なる無の世界といふものが考へられる、ハイデッゲルの所謂「人」の世界といふ如き
NKZ7-330-8 ものを考へることができる、単なる世間話の世界といふものを考へることができる。而してそれが又
NKZ7-330-9 何等かの意味に於て我々を限定する意味を有するかぎり、我々はかかる世界の底に無限の不安を感ず
NKZ7-330-10 るのである。併し現実の世界はいつも閉ぢられたものではなく、単に統一せられたものではないと云
NKZ7-330-11 つても、それは単に無統一とか、無限定とかいふのではない、無限に自己同一的に自己自身を限定す
NKZ7-330-12 るものとして、いつもその時代その時代に統一を有つたものでなければならない。斯く現在が現在自
NKZ7-330-13 身を限定するといふことが、現実の世界が無限の周辺を有つといふことを意味するのである。而して
NKZ7-330-14 かかる世界は弁証法的一般者の自己限定の世界として、いつも一面に個物が個物自身を限定するとい
NKZ7-330-15 ふ意味を有つてゐなければならぬ。個物的自己の自己限定の世界の縁暈として「人」の世界といふも
NKZ7-331-1 のが成立するのである。我々の自己はいつも個人的なると共に、非個人的なる人の世界に属すると考
NKZ7-331-2 へられる所以である。物が表現的であるとか、我々が客観的に表現の世界を見るとかいふことは、唯
NKZ7-331-3 かかる世界に於て考へられるのである。この世界は無限に自己同一的に自己自身を限定すると共に、
NKZ7-331-4 無限に自己自身を否定し、無限の周辺を有つと考へられるが故に、この世界に於てあるものは、何処
NKZ7-331-5 までも無限なる周辺の世界に於てあると考へられる、無限なる縁暈を有つと考へることができる。而
NKZ7-331-6 してその無限なる周辺と考へられるものは、その極限に於てそれ自身に何等の自己限定を有たない、
NKZ7-331-7 単なる無とも考へられるものなるが故に、於てあるものは単なる記号として、何等それ自身の限定を
NKZ7-331-8 有たない単なる意味の世界といふ如きものが考へられるのである。私の所謂場所的限定として、之に
NKZ7-331-9 於てあるものは、始に意識統一について云ふ如く部分が全体の意味を有つて居る、部分が全体を代表
NKZ7-331-10 して居ると考へることができる。場所が自己同一的に自己自身を限定するものとして、部分と全体と
NKZ7-331-11 が一であると考へられるかぎり、それは直覚面的限定として、表現的に自己自身を限定するものの世
NKZ7-331-12 界、行為的自覚の世界といふものが考へられるが、その自己否定の方向に於て、いつも無自覚的世界
NKZ7-331-13 といふものが考へられるのである。併し如何に周辺的なる無自覚的世界といつても、それは人と人と
NKZ7-331-14 が話し合ふ世界、社会的に自己自身を限定する世界の意義を有つてゐなければならない、自己同一的
NKZ7-331-15 に自己自身を限定する意義を有つてゐなければならない。併し私が斯く云ふのは、個人といふものが
NKZ7-332-1 先づあつて、それから言表といふものが成立するといふのではない。個人といふものは、かかる世界
NKZ7-332-2 の自己同一的限定として考へられるものに過ぎない。我々の意識は却つて社会的意識から始まるので
NKZ7-332-3 ある。言語の起源がパトス的であると考へられるならば、パトスといふことは既に未だ行為的自覚に
NKZ7-332-4 到らない自己同一的限定の意義を有つたものでなければならない。


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Author: Niels GUELBERG
e-mail: guelberg@waseda.jp
First drafted: 03.03.02
Last updated: 03.06.12