西田幾多郎[著]:哲学論文集2

西田幾多郎全集・第8巻

校異
赤い文字(赤いフォント)は原雑誌論文の、単行本において 削除された箇所を示す。
青い文字(青いフォント)は単行本において新たに附加され た箇所を示す。

NKZ8-273-1   一 論理と生命

NKZ8-273-2       一

独訳

NKZ8-273-3  私は論理とは如何なるものなるかを、その既に出来上つた形式から考へないで、その生成から考へ
NKZ8-273-4 て見るべきではないかと思ふ。論理といふものも、歴史的世界に於て生成したものであり、一種の形
NKZ8-273-5 成作用といふベきものであると云ふことができる。それは歴史的世界に於て如何にして生成し、歴史
NKZ8-273-6 的実在の世界に於て如何なる地位と役目とを有するものであらうか。併し斯く云ふも、論理の生成を
NKZ8-273-7 心理学的に考へるとか社会学的に考へるとか云ふのではない。此等の科学は既に論理的に構成せられ
NKZ8-273-8 たものなのである。

NKZ8-273-9  言表といふことは直に思惟といふことではなく、思惟といふことは直に言表といふことではない。
NKZ8-273-10 併し何等かの意味に於て言語的なるものなくして、思惟することは不可能である。プラトンは時に洒
NKZ8-273-11 落てディアノイアは声なき会話だと云つて居る。判断は命題である。唯、如何なる命題が真であり、
NKZ8-274-1 如何なる命題が偽であるか。そこに論理学といふものがなければならない。プラトンが真知識の方法
NKZ8-274-2 としてディアレクティケと云つたものは、既に我々が今日論理と考へて居る如きものであつた。それ
NKZ8-274-3 がアリストテレスによつて完成せられ、論理学として今日に至るまで学問的方法の基礎となつたと思
NKZ8-274-4 ふ。
NKZ8-274-5  真知識の方法として一種の論理学といふものが成立した時、命題の真偽はそれによつて決せられる
NKZ8-274-6 と考へられるであらう。併し真なる命題といふのは、プラ卜ンが「ソフィスト」に於て云つて居る様
NKZ8-274-7 に、固、実在的なるものの言表であつた。アリス卜テレスの論理学でも、所謂形式論理学といふもの
NKZ8-274-8 ではなくして、その形而上学と密接の関係を有つてゐたと云ふことができる。推論式の媒語には、事
NKZ8-274-9 物の根源といふものが相当すると考へることができる。ギリシャ哲学に於ては、実在はロゴス的なも
NKZ8-274-10 のであつた。故に根柢的にロゴスと実在の分裂はなかつたと云つてよい。然るに実在は単にギリシャ
NKZ8-274-11 哲学に於ての如き意味に於てロゴス的ではない(表象的ではない)。近世科学に於ての実在は却つて
NKZ8-274-12 非ロゴス的といふことができる。是に於てロゴスと実在とは分裂せざるを得ない。アリストテレスの
NKZ8-274-13 論理は形式論理学に堕するに至つた。併し知識は何等かの意味に於て実在の言表ならざるべからざる
NKZ8-274-14 と共に、論理的でなければならない。自然科学といへども論理的でなければならない。カント哲学と
NKZ8-274-15 いふのは科学の論理である。併しカン卜哲学に於ては、知識は唯主観的となり、物自体は超越的とな
NKZ8-275-1 る。知識は実在の言表といふ意味が失はれるのである。無論、カン卜は知識を単に主観的と云つたの
NKZ8-275-2 ではない。併し知識の客観性の根拠といふものを、意識一般の総合統一に求めたのである。
NKZ8-275-3 私は毫も科学の客観性を否定せうとするものではない、又科学が如何に我々の生活を規定し、歴史
NKZ8-275-4 的世界の進展に於て如何に重大なる力を有するかを知るものである。併し我々は今日更に深且つ大な
NKZ8-275-5 る実在の問題に撞着して居ると思ふ。歴史的実在といふものは単なる対象論理によつて考へることは
NKZ8-275-6 できない。対象論理の対象界の中には、働く自己といふものは入ることはできない。然るに、歴史的
NKZ8-275-7 実在の世界は働く自己を含んだものでなければならない。無論、対象論理の立場からも、歴史学とい
NKZ8-275-8 ふものが成立するであらう。又我々の行為的自己を対像とする社会的科学といふものも成立するであ
NKZ8-275-9 らう。併しそれ等は我々の自己を単に客観的に対象化することによつて成立するのである、行為的自
NKZ8-275-10 己を知的自己の立場から見たものである。或は何処までも自己自身を限定する行為的自己といふ如き
NKZ8-275-11 ものは、論理的に考へられるものでないとも云はれるであらう。考へるものが考へるものを考へるこ
NKZ8-275-12 とはできない、眼は眼を見ることはできないと云ふであらう。併しそれは要するに自己は対象論理的
NKZ8-275-13 に考へられないと云ふことであらう。然るに我々の自己はかゝる矛盾的存在として歴史的世界に於て
NKZ8-275-14 あるのである。斯く云ふも、私は対象論理を無視するのではない。論理は一面に何処までも対象論理
NKZ8-275-15 的でなければならない。然らざれば、論理ではない。又自己といふ如きものの成立について、限定す
NKZ8-276-1 るものなき限定といふも、単に対象がないと云ふのでない。無の一般者と云つても、単に何物もない
NKZ8-276-2 と云ふのではない。唯、歴史的実在界といふのは、既に有つたものが現れるといふのではなくして、
NKZ8-276-3 創造的でなければならない。有るものは、生成そのものが即本質、本質そのものが即生成でなければ
NKZ8-276-4 ならない。
NKZ8-276-5  ヘラクレイトスのロゴスといふのは、色々に考へられるものでもあらう。併し兎に角、万物は流転
NKZ8-276-6 し我々は再び同じ流に入らないと考へた彼が、始めてロゴスといふことを云つたのは、我々をして考
NKZ8-276-7 へさせざるを得ない。無限に変ずるもののロゴス的不変、そこに深い論理の根柢があるかに思はれる
NKZ8-276-8 論理は一種の形成作用である。従来の論理から実在を考へる前に、我々は尚一度実在から論理を見直
NKZ8-276-9 してみなければならない。真の弁証法とは、従来の論理の形式を深め広め行くことではなくして、実
NKZ8-276-10 在の論理化でなければならない。


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Author: Niels GUELBERG
e-mail: guelberg@waseda.jp
First drafted: 02.09.10
Last updated: 03.05.21