「僕の歩んできた道(社会人時代その2)」

社会人時代その2(茨城大学時代・勤務開始から6年程度)

今現在も勤務している組織なので,少し書きにくい感じがするが,読者の方からの要望もあるので,茨城大学に赴任して6年間程度での出来事を書いてみる.大学に赴任する頃の気持ちは“以前よりももっと研究に没頭できるかな”というものであったと思う.研究所勤務が長かったせいか,そんな風に考えていた.もちろん,教育があることは分かっていたが,研究と教育を比べると,研究の比重の方が高いものを想像していた.ここでいう研究はもちろん“僕個人の研究”であった.しかし,大学赴任直後,それが大きな間違いであったことを知った.高水準の教育をするためには,自分自身が最先端の研究者でなければならない.したがって,自分の研究を推進しなければならないが,これは高水準の教育をするために,精進しなければならないことということである.

このようなことに気付かせてくれた人は,僕が大学赴任して直ちに指導担当となった大学院生である.この大学院生は,僕が大学に転任してきたことで,指導教員が代わってしまったのである.大変だったと思う.ついつい以前の職場でのやり方から,指示を出してしまいがちであった当時,この大学院生は自分で納得しなければ行動しなかった.研究所では,責任は僕が持つわけなのだから,「僕の指示通りに迅速に対応して欲しい」という思いがあった.このままの思いで大学に転出し,研究指導をしてしまっていた.これじゃダメですね.この大学院生から多くのことを教えてもらった.よくよく考えてみれば,“そりゃ,そうだ”と思うようになった.大学で行っている研究は,学生さんのものであり,そのような姿勢で研究活動をしなければ,高水準の“教育”として意味がないことを教えてくれた.

もう一人,大学赴任直後に指導を担当した4年生からも,いろいろ気付かせてもらった.僕が今までもっとも得意とする研究分野を卒論テーマに選んだ,この学生さんと議論していたときである.ある実験を考えたが,実施しても良い成果が得られない可能性があると考えていた.そこで僕は,その実験の優先順位を下げるよう指導したのであるが,その4年生は“やりたい”と主張した.先の大学院生からの教えも,その頃にはしっかりと僕自身,身についていたので,4年生の判断に任せていた.そうしたら,なんと素晴らしい研究成果が得られてしまった.その結果は学術論文集に掲載され,また特許申請にまでつながったのである.素晴らしい!!そんなこんなで,果たして今現在はどうであろうか?今は“僕たちの研究”という感じである.

それから,もう一つ.

大学に赴任して2年目に,クラス担任を拝命した.クラス担任というけれども,1学科一クラスなのだから,学年担任というのが正確かもしれないが,“クラス担任”と呼ばれている.拝命当初,「え〜,大学生にもなって担任が必要なのかよぉ」という気持ちだった.もしかしたら,入学したての新入生だった学生諸君も,「何で大学に入って,担任の先生なんているんだぁ,子ども扱いしやがって・・・」と思っていた人もいるかもしれない.でも僕は,このクラスを担任として受け持ってとても幸せだった.自分で勝手に小峯組と名づけ,とにかく一致団結することを目指した.そうこうしていると,学生一人ひとりの顔と性格が見えてくるのである.もちろんすべてが分かるというわけではないが,なんとなく心が通じてくるような気がする.そうなってくると,講義をしていても,自分の思いが比較的うまく学生に伝わっていくような気がする.自分の担任の学年に講義をするとき,とても楽しかった.講義というのは,教員と学生の心が通じ合うことによって,その効果は大きなものになるように思う.「もっと,しっかり勉強しろ」,「なんだ,面白くもねぇことを小難しく教えやがって」などという気持ちが双方にあっては,講義の効果は半減してしまう.お互いの考えをぶつけ合って,対話しながら進めなければ講義の効果は上がらないと感じさせてくれた,そんな自分の担任クラスであった.もう卒業してしまったが,今でもみんなどうしているかなと思う,そんな仲間のようである(担任教員の僕だけかもしれないが).