早稲田大学理工学部の女性教授が国からの研究費のうち1472万円を不正に受け取り、そのうち900万円を投資信託で運用していたというショッキングな事件が発覚した。また、業者との架空取引や研究データの捏造の疑惑も指摘されている。大学の関係者として、また平成18年度の科学技術振興調整費の「女性研究者支援モデル育成」プログラムの早稲田大学側実施責任者(総括責任者は白井総長)として、今回の不祥事のお詫びをするとともに、この問題を単に一研究者の不正や一大学の不祥事として片付けてはいけないと考える。
一つには、わたしたちは同じ大学に所属するものとして、大学としての説明責任が全く果たされていなかったことに大きな衝撃を覚えた。このような研究教育上の重大な問題が大学内では何ら説明も情報提供もされずに、新聞報道やテレビなど外部のメディアを通じて構成員に伝えられることはなんとも異常な事態だ。2006年の4月に内部告発があり、調査委員会が設置されていたにもかかわらず、大学の教学会議体では一切緘口令がしかれ、大学側が事実関係の一部を明らかにしたのは内部告発から2ヶ月近くも経った2006年6月23日の臨時学術院長会であった。
もう一つは、大学の組織としてのコンプライアンスやガバナンス、研究資金の管理体制に大きな問題があったことだ。確かに大学でのコンプライアンスやガバナンスは、企業でのそれとは異なっている。早稲田大学は、国公立大学とちがい、これまで研究資金について科学研究費補助金や科学技術振興調整費など外部資金にあまり依存してこなかった。そのため、お世辞にも、外部資金導入をめぐる大型プロジェクトを実施し処理するだけのスタッフや事務体制が十分に整っているとは言いがたい。しかも、今回のような著名な女性教授を一方で資金集めの広告塔として使い、研究費の使用についてもチェックをせずに放置し、不正が表面化すると冷たく切り捨ている体質にも大きな問題が横たわっている。
大学の世界も、外部評価により格付けが行われ、他の世界以上に二極分化が進みすぎ、大学の組織全体を大きく歪めてしまった。政府が進めたい重点的なテーマ、先端的分野については、競争的研究資金がばらまかれ、これを取れる研究者や研究者グループが高く評価される。これに対して、重点的先端的テーマとされない基礎研究には、研究資金もつかないし、その結果学生たちや教員も集まらない。完全な勝ち組、負け組みの二極化が進む中で、早稲田大学が勝ち組となるために、大型の外部資金の導入を奨励しこれを獲得できる教員を厚遇してきた。
不正を働いたとされる女性教授は、1月まで総合科学技術会議の議員を務め、国の科学技術政策を指導する立場にあった。ここ10年くらいで、国は科学技術基本計画を策定し、研究開発費を増大させるとともに、大学などの研究機関に競争的な研究資金を傾斜配分する政策に転換してきた。その結果、総合科学技術会議が重要だと認めた先端的分野に膨大な研究資金が投入され、研究成果をあげさせることで研究促進を図るというシステムになった。
たとえば、振興調整費だけで、2005年の261億円から2006年には398億円に膨張している。しかしながら、振興調整費を例にとっても、2月に申請、4月にヒヤリング、5月に採択、6月に委託契約の締結、7月に事業開始、10月からの支出で3月までに使い切るというように、スケジュール的にはきわめてタイトであり、大学や研究者は外部資金を導入することのペーパーワークや事務処理に大半の労力を割かれ、自転車操業を余儀なくされている。お金を取れなければ、大学としての評価は落とされ、お金が取れれば取れたで派手な成果を示せなければ、また評価にかかわり、金が来なくなる。研究者たちはこのような成果主義の強迫観念のもとで余裕がなくなり、そこに研究データの盗用や捏造という派生的問題も起こってしまう素地があるのだ。
いずれにしても、大学が研究機関として、社会からも信頼され、構成員からも支持されるためには、個人や箇所の責任問題にすりかえるのではなく、大学としての責任を明らかにし、徹底した事実関係や原因の解明と再発防止策を早急に打ち出すことしかない。早稲田大学は、総長を委員長とする研究費不正防止対策委員会、リスク管理委員会のもとでの調査委員会、競争的研究資金監査委員会、内部通報窓口の設置などを提案し、再発防止を図ろうとしているが、これらは有効な対策とはなりえない。
大学でのコンプライアンスは、企業のコンプライアンスやガバナンスとは異なり、単に重い罰則を科したり、内部通報を奨励して取り締まりや管理監督を強化しただけでは到底実現できない。大学という外界から遮団され自由闊達で、打ち解けた雰囲気の中で、はじめて研究教育の営みが功を奏する。今、良識的な教職員を中心に「早稲田大学の再生を目指す会」が組織され、大型プロジェクトの実施責任者などを集めた全学的なワーキンググループの形成、他大学の外部資金プロジェクトとの連携・交流、外部資金導入をめぐるリスクの洗い出し、中長期的な研究推進戦略と事務処理体制の整備などにつき具体的な対策を検討しており、今回の事件をきっかけに、このような地道で冷静な対応しか信頼を取り戻す道はないと考えている。
【注:この文章は、棚村教授が2006年7月19日(水)の『朝日新聞』朝刊の「私の視点」コーナーに掲載した「研究費流用 個人の問題で終わらせるな」という文章の元になる原稿です。新聞掲載文章は、この原稿を縮約したものになっています。】
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