松原みき(1959-2004)

 

 松原みきがいなくなっていた。

 夕飯の支度をしている途中、ふと、新聞を手にとってながめていると、その平仮名の名が目の隅にはいってきた。

  嘘だろう、と、あらためて新聞を握りなおして、確認した。

  ほんとうだった。

  亡くなったのは200410月7日、すでに2ヵ月以上前のことだ、という。享年44歳。45の誕生日まであとわずかだった。

 松原みきといっても、大方のひと、特に若いひとは知らないだろう。

  この10年くらいは、アニメーションや特撮テレビの主題歌を「スージー松原」名で書いていて、

  もっぱら活躍は作曲においてだった。だが、ぼくにとっては歌手、おない齢で、20代を同伴していた歌手だった。

 20代――おそらく同時代のポップスをもっとも聴いていた時期だ。

  そのなかでもっとも共感を抱いていたのが松原みきだった。

  20歳で《真夜中のドア》がヒット。CFに使われた曲もいくつかあった。

  いわゆる「ニューミュージック」の歌手だったのに、ジャズ・スタンダードのアルバムも作っていた。

  ハスキーな声、ジャジーなリズム感、そして目のはしが少しあがった猫的な表情。

  カセットにダヴィングし、一体どのくらい聴いただろう。

  ぴったりと自分の大学時代時代から会社員生活のはじめの頃、

  ちょうどぼくがもっとも音楽とはなれていた時期と重なっていたなかで、松原みきの名は特別だった。

  はじめてパリに行ったときも、たった1本、『Lady Bounce』のテープだけは持っていた。

 新しいレコードがリリースされなくなってから、新宿のけっして大きくはないライヴハウスに何回も出向いた。

  スーツを着て、連れもいないライヴハウスは、かならずしも居心地のいいものではなかったが、

  すぐそこに松原みきがうたうこと、いるということ、が、ささやかではあってもひとつの希望のようにして、あった。

  もしかするとその頃、音楽はいまよりもっとあたりまえのもので、親しいものだったかもしれない。

  松原という姓、みきという名が、まったく別の文脈で現れても、ちょっと気になってしまうのは、その頃からだろうか。

 30代、どうしているのかと気になっても、知るすべはなかった。

  音楽関係者でも、その方面に詳しいひとは身近にいなかった。

  そんななか、偶然見つけたのが、映画館で公開されたアニメーション『ダーティペア』の主題歌だったか。

  そうか、こういう仕事をしているのか。こういうふうに自らの位置を変えていくことがあるんだ。

 ぼく自身が移動してきた位置のことを重ね合わせていたのは、当然のことだ。

 あと、これもまた偶然だが、滅多に聴かないFM番組で、その声が聞こえたこと、

 奥井香がDJを担当する番組で、ゲストとして出演していたのに出会ったこともあった。

インターネットが普及するなかで、松原みきを応援するサイトや、活動について調べているサイトがあるのをみつけた。

もしかしたら、そのうち会う機会もあるかもしれない。そんなふうに思うようになっていた。

そう遠くないうちにいつか。そのときにはただのファンとして、どんなふうにあなたの声を聴いてきたか、話したい。

最後に、あらためてネットでその名を検索したのはそれほど前ではない。もうそのときはこの世から去っていたのではなかったか。

ひとが亡くなって、はじめて、そのひとが自分のなかで占めていた位置が、大きさがわかる。

このひとの亡くなった記事は、ぼくがひとつの持続のなかで生きていること、

1020年前とつながっていて、ひとつの感情をどこかに保ちつづけていたことを気づかせた。

そして、それはたまらないことだった。別々のところではあっても、おなじ時間のながれのなかにいて、生きてきた。

たまに垣間見える姿に、ああ、そこにいるんだな、と感じていた。

それがなくなる。

もちろん知らなければ知らないままで、こちらはこちらの勝手なおもいこみでやっていったのだろうが。

おそらくこの喪失感は、年齢がおなじだということも少なからず影響していたのだろう。

44歳、自分だって、もういつどうなるかしれないというおもいがつよくある。

ごくたまに誘われて出掛けるカラオケで、《真夜中のドア》は、ほとんど変わらぬレパートリーだった。

歌詞とメロディがずれることなく歌えるのはほとんどこの曲だけだ。

これから先もこの曲をぼくは歌うのだろうか。

そのとき、平静でいられるのだろうか。そのとき、ぼくは、どこにいるのだろうか。

 

 

ホセ・マセダ(1917-2004)

 

ホセ・マセダと会ったのは何回だろう。

最初は199711月の京都。その後は長野で、東京で、会った。

もう80を過ぎていたが元気で、いつもにこにこと、親しげに話してくれた。

訃報は新聞で読むことができなかった。ひとつもでなかった、とも聞く。

「日経アジア賞」も授与しているのに、日経にも記事はなかったのだろうか。

ぼくはたまたま必要があってホセ・マセダの名を検索していた。

すると、高橋悠治さんが追悼文を書いているのに出会った。

2004年5月5日に亡くなっていので、半年近く知らなかったことになる。

海外の作曲家で、もっとも親しく話をしたのは、マセダしかいない。

親というより、祖父母にちかい世代だったのに、何か親しみを感じていたのは、

もちろん音楽の大きさもあるし人柄もあるけれど、フランス語で話ができたからだろう。

まわりの人たちが英語で言葉を交わすなか、どうしても流暢に話せないぼくは、

いつでもフランス語か、あるいは英語とちゃんぽんで話していた。そんなところを哀れに思ったか、面白く思ったか。

その名は随分70年代から知っていた。

やはり悠治さんの文章からだったろうか、

当時作曲を志していたぼくが読んでいた音楽雑誌のなかで見掛けたのは「トランソニック」誌だったろうか。

悠治さん自身からその頃名を聞いたことはない。

ぼく自身が耳にしたことのない作品、アジアの作曲家に、まだ関心を持てずにいたからだ。

実際にマセダの思考に触れたのは、もう音楽から遠ざかって、会社員生活をしていたときだった。

『ドローンとメロディー』を読んで、その思考の厳密さとつよさ、それでいて感じられる柔軟さに、とても惹かれた。

だが、マセダの音楽は容易に聴けるものではなかった。

ラジオを何百台も使うとか、町中でゴングをならすとか、そうした作品が、どうして日本で演奏されよう。

90年代、マセダは日本で《ウドゥロッ・ウドゥロッ》を奈良で演奏する機会を得た。

大勢の音楽を専門にやっているわけではない人たちにその場で指示して、長大な曲を演奏する。

シンプルなフィリピンの民族楽器を手に、指示があると、パターンを変えたり、休んだりして、

身体感覚とひびきとが大気のなかに融けこんでゆく曲だ。

こうした試みがおこなわれたのを知ったのは、すでに終わった後。

ただ、テレビで放映されたその光景で、マセダの笑顔を見ることができた。

以後、マセダはいくつか、通常のコンサートホールで演奏される作品も発表してきた。

可能なかぎり、ぼくはそれを聴きにいった。

そしてそのたびにこれまで知っていた音楽とは異なった質感とおおらかさ、自由さに、感動するのだった。

感動――そうした語を使うことはほとんどない。

でも、ホセ・マセダの音楽には、通常使われているのとは違った意味を含ませるために、この語を敢えて使いたい。

 たしか、最後に会ったのは、

サントリーホールでなんとも美しいオーケストラ作品《色のない色》が演奏されたときではなかったか。

その日は、アジアの作品がいくつか演奏されたのだったが、

ホセ・マセダがやはり同日作品がプログラムにあった伊福部昭と、すでに少なくない観客がいなくなってしまった客席で、

握手をしていたのがつよく印象に残っている。

いつか、ホセ・マセダの名が、少なからぬひとに、すぐわかってもらえるようになるのだろうか。

そういうときがあるとしたら、それは、どんな生活がおくられ、どんな文化がいとなまれる、どんな時代なのだろうか。

 

 

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