excursion、あるいは思想は土地に根ざす



上沼 正明
20.03.2006
経済社会学会ニューズレター39号巻頭言より

長年、東部事務局を担当していて西部部会を羨むことがある。それは、部会研究会の際に時折、工場や施設などの見学プログラムを組み込むやり方である。

思想や発想は土地に根ざすものだ、と当然のことを今更ながら思う。

昨年の同志社大学での全国大会の前日、夕方からの役員会の前に、地下鉄東西線の蹴上駅に降り立った。
琵琶湖疏水記念館を初めて訪れるためである。
しばし、館の前の舟だまりからインクラインに続く絶景に見惚れてしまった。ただ館内の展示は期待外れだった。明治の北垣知事や田邊博士、工事に従事した人々の偉業を描いた京都市上下水道局のウェブサイトや、偶々読んだ「槙村正直と町衆たち」を副題に持つ本を事前に読んでいたせいだろう。

            

在外研究で滞在した英国では、例えばナショナル・トラストが施設を復元・維持して、訪れる低学年生用の教育プログラムを提供し、ミュージアムショップも充実していた。また、地区の市民図書館では、どこでも地区の歴史を書いた本やリーフレットがあり、購入できた。

館を出て、遠い昔、先輩・友人と湯豆腐を食べた南禅寺へと歩き、「水路閣」を見上げる。
階段を上がると疎水の水路沿いに歩道があり、豊かな水量の流れ、蹴上発電所や田邊博士の像、落差のある地形で舟を運んだインクラインを見ることができた。

 

この南禅寺の隣には永観堂があり、その奥に若王子神社、さらに奥に「同志社共葬墓地」、その中に新島襄の墓がある。

新島襄先生の墓碑
同志社大学の創立者新島襄先生は、1890(明治23)年1月23日に神奈川県大磯で46才で天に召され、1月27日の葬儀のあと学生たちに担がれて此処に埋葬されました。そして翌年1月 鞍馬産の自然石に、勝海舟翁の揮毫になる碑銘を刻んだ墓碑が建立されました。
それから90余年をへて、次第に墓碑の風化が進んだため再建が協議されましたが、たまたま1986(昭和61)年6月不慮の事故によって倒壊しました。
そこで新島先生がアメリカ留学から帰国される際に「日本にキリスト教主義学校を」と声涙倶に下る募金演説をされたゆかりの地であるヴァーモント州ラットランド産の花崗岩をもって、1987(昭和62)年1月16日にこれを再建しました。
碑銘は先の墓碑から写し刻んだものであります。
2004年4月
学校法人 同志社

ところで、嘗て芭蕉が琵琶湖の情景を偲び詠んだ早稲田の田んぼの地にも、隅田川に流れ込む神田川から江戸時代に上水を提供した神田上水の遺構や当時の信仰を伝える水神社がある(詳しくは、水道橋にある東京都水道歴史館や『よみがえれ東京の源流 神田川』参照)。

日本大学、同志社大学と2年続いた共通論題に見える、人々のネットワークとかソーシャル・キャピタルというのは土地に育った資産のこと、だと思えてくるのだ。

ただ、昭和初期の40年体制とか総動員体制の記憶が、土地の、共同体の繋がりについて語ることをネガティブにしている。このゆがみが悲劇だと、内山節も『「里」という思想』で書いている。

いつか、東部部会でも施設見学を企画しようと思う。

本エッセイは、経済社会学会『ニューズレター39号』巻頭言のテキストに、画像や資料、リンクなどを加筆したものです。