帰 去 来(かえりなんいざ)(1)

上沼 正明
98.03.03
ゼミ論文集に寄せて

その通りだ、コウロギよ(2)  昨年末のこと、季節の挨拶の返礼なのか N先生から「『リビングカンパニー』(日経BP社刊)を読みましたか?シェル のシナリオが出ています。」というメッセージが留守録に残されていた。

 訳あって早稲田を去ったわが助手時代の指導教授の久しぶりの声は、最近 体調が万全でないという心配を打ち消すほど張りがあった。否、その出し抜け ぶりは、泣かされた昔のままで(今度は私が同じ様にしてゼミ生を泣かしている のでしょう、きっと)、懐かしくもあったが、それ以上に驚かされたのは、学者 気質で着想を突き進んでトロい助手の論文など目を通さないと思っていたN先生が 拙論「巧みな技術としての社会科学をめざして」(3)を読んで頭の片隅に十年近く 留めておいてくれた事であった(この師弟関係に比べ、高い学費を払っている のだから大学の施設・サービスをフルに利用しようというセコいポリシー?から 今年度後期に実施したメディア・ネットワーク・センター(MNC)でのパソコン 授業で、検索エンジンを解説してくれたU君が、この拙論を引用した奇特な論文を いとも簡単に‘発見’し、一同が驚嘆した後で何故か困惑し、そしてキー一つで 画面からもゼミ生の頭からも同様にいとも簡単に消え去った、そのなんと小気味よい 程に現代的なことか!?)。

以下の事は我がゼミ論文集の創刊号かでのインタビュー記事で触れたこと があるのだが、「政策科学」という科目はこのN先生の発案だった。当時、社 学で「社会システム論」を担当するN先生は、その科目名から当然予想される 様に学問の体系性を重視する数少ない教員であった。幅広く、しかも(E君の 様に)理系に通じて早稲田でいち早く「システム論」を講義した、新しい研究 分野や着想に精力的に挑む教員であった。

今でも思い出す。円を描いて、内側にS(システム)を外側にE(環境) を書き込んで、個人にもその集団にも自然界にも、そして後年には「意味」世 界にも成立する熱力学法則(エントロピー逓減)の同型性(秩序と崩壊、物質 代謝と情報のやり取り)をK・ボールディング等の本をテキストに講義し、当 時他学部生だった私も農業や生態学に興味を持つ友人に誘われてモグリで聴講 したことがあった。N先生は、ある時助手に社会科学総合分野の体系性(つま りシステム性)を、人間誰しも経験する四苦でもって示唆されたことがあった。 毛筆ペンで京大式カードにささっと描いて。それは、「四苦八苦する」の四苦 のことで、仏教で生・老・病・死の四つの苦痛を指すが(因みに「八苦」はこ れらに愛別離苦<愛する者と別れる苦しみ>、怨憎会苦−“おんぞうえく”<怨み 憎む者に会う苦しみ>、求不得苦−“ぐぶとくく”<求め欲するものを得られな い苦しみ>、五陰盛苦−“ごおんじょうく”<五陰(4)から生じる心身の苦しみ>、の 四つを加えたものを指す)、その四苦のそれぞれに社会科学総合分野の科目を 対応させようという構想で、「政策科学」は環境や意味世界に働きかけ変えて いく実践的分野だと示唆されたのである。

しかし、当時は、宮川公男訳のY・ドロアの味気ない教科書しかなく、 英語世界で活躍するS・ナーゲルの形式的に過ぎる仕事をさして面白くもなく 読んでいた。それは、医療・教育・住宅・労働などの公共的政策課題に関する 問題の所在や対応を各分野の専門家が明らかにするだけの、そして方法論的に は経済学に毛の生えた様なもので、血沸き肉踊るものでは決してなかった。

何故なら社学の助手に採用される前の学部生から修士課程の院生の頃、既 に、因果の法則性(一般命題に初期条件を加えれば問題の事象が論理的に導か れるが、これを事象の「説明」としまた「予測」とするもの)の因果を逆転し て原因=手段、結果=目的、とすれば政策論になる、しかも目的は社会が与え、 決めるものであって科学は立ち入らずに価値中立的であるべきだ、否、もっと 積極的には、目的さえ与えられれば合理的に効率よく達成する手段を道具箱か らとり揃えてみせる、とする経済学の伝統にも我慢がならなかった。非現実的 な仮定を張り巡らして客観性を装い、悪いのは非合理な現実の方だと常に安全 な場所から発言し、自身を<いまここ>で相対化することもなく、水俣病(T 君の薬害問題の様に)や南北問題にもそれは価値観の、つまり政治の問題だと し、限定された仮定の範囲での効率性でしか解答出来ないダメさ加減に。

そうした考えに取り憑かれるようになった背景については、「窮すれば 通ず」(政経学部「ひろば」1992年41号、上沼ゼミ論文集93年3月刊行にも所 収)で触れたが、内ゲバの過ぎ去ったキャンパスで「ソシオ・エコノミクス」 と近代批判の「構造主義」の洗礼を受けた学部生は、それしかないかの様に修 士課程で経済学の方法論批判に向かい、当時流行だしたパラダイム論を使い、 その方法論の仕組みと欠陥を写像理論で明らかにし、理論の社会的文脈依存性 を主張することで時代ごと棄却しようという修論を書くことになる。登られた 後は不要になる梯子に自らの研究の意味を例えたL・ウィトゲンシュタインの 様に生きたくて仕方なかった。外側から超越的に批判するのではなく内側から 限界付ける生き方を。

 しかし、経済学の論文を書かなくてはならない博士課程でのこと、風変わ りな経済学者G・L・S・シャックルの奇妙な著作に出会い、また、フランス の構造主義者アルチュセールに触発されたK.トライブやB.ヒンデスが独自の科 学論を展開してパラダイム論の系譜を批判していた英国の雑誌「経済と社会」 を知り、それらを飽かずに読んだ。そして、この頃、ある学会で先輩に紹介さ れて高名な経済学者の大N先生(不出世の天才と言われ東京帝大助教授を経て、 昭和41年に社学に招かれて、総合分野の学問体系の基礎を築いた)に、また、 バイトの某研究所でもう一人の大物Nさん(大阪知事を歴任した千葉出身の父 親は渋沢栄一の家系で奥方は福沢諭吉の娘という昭和のご意見番であった。晩 年には故郷の芝山町―F君の論文に登場した地名だ―に別荘を建てた)に出会 いその後長く教えを請うことになった(そう、29―7号館107研究室にあ る額縁入りの古色蒼然とした記念写真の中央に座す二人こそ、この大N先生と 大物Nさんだと、問われるままに答えたら質問した当のゼミ生は、「ところで 上沼先生はどこに写っているんですか?」と真顔で聞いた。この写真は昭和3 6年5月5日に池袋・護国寺で開かれた「全国新農村建設同志会結成準備会」 で撮影されたなものであった。序でに、その大N先生が眠る墓碑銘は「寂」の 一文字で、(I君が愛した古都)鎌倉の地の円覚寺に眠る小津安二郎の「無」 を想わせるが、この2月末の本庄合宿のレクの散策で校地の新幹線沿いの古寺 で偶然発見した墓には大きな御影石に「廣松渉の墓」とあり二度ビックリした。

 そんな博士課程に在学しながら助手でもあった頃に「ロゴスのおもむく ままに」書いたのが、冒頭の「巧みな技術としての社会科学をめざして」であ った。昔観たTV番組「燃えよ、カン・フー!」(Kung Fu)の主人公デヴィッ ド・キャラダインが少林寺で修行していた子供時代―主人公の両腕の傷跡は、 修行の最終試験として獅子や龍を胴体に彫った熱い釜を両腕で持ち上げた時の もので、そうしないと門が開かず外へ出られない仕組みであった―を回想する 場面でのこと。袈裟を纏い髭をたくわえた盲目の老師が、修行に励む子供達に こう言うのだ。「その通りだ、コウロギよ」、「よく聞け、コウロギよ」と。 嗚呼!我が恩師のN先生達は、今なら何て言うのだろうか...。

ハリねずみと狐 昨年の中頃のこと。あの馬場駅前の映画館「東映 パラス」が閉館した。君たちはO・ヘップバーンやH・ホンダが演じた「戦争 と平和」を観ただろうか、あるいはトルストイの原作を読んだだろうか?

 昨年末(97.11.16)に亡くなった歴史学者のI・バーリン(5) の作品『ハリ ねずみと狐』は、そのトルストイの「戦争と平和」を素材に歴史家の使命や歴 史の方法を論じたもので、次の様な刺激的な着想から語り始められている。長 くなるが、略さずに引用しよう。

ギリシャの詩人アルキロコスの詩作の断片に、「狐はたくさんのことを知っ ているが、ハリねずみはでかいことを一つだけ知っている」という一行がある。 この謎めいた言葉をどう解釈すべきかについては、学者の意見はさまざまであ った。それは、ずる賢い狐も、防禦一本槍のハリねずみには負けてしまうとい うことしか意味していないのかもしれない。しかし比喩的に解すれば、その言 葉に作家と思想家、ひいてはおそらく人間一般を大別するもっとも深い一つの 差異を指し示すような意味を持たせることもできるであう。
というのは、一方では、いっさいのことをただ一つの基本的なヴィジョン、 いくらか論理的に、またはいくらか明確に表明された体系に関連させ、それに よって理解し考え感じるような人々―ただ一つの普遍的な組織原理によっての み、彼らの存在と彼らのいっていることがはじめて意味を持つ―と、他方では、 しばしば無関係でときには互いに矛盾している多くの目的、もし関連している としてもただ事実として、なんらかの心理的ないし生理的な理由で関連してい るだけで、道徳的、美的な原則によっては関係させられていない多くの目的を 追求する人々とがあり、その両者の間には、大きな裂け目が存在しているから である。後者の部類に属する人々が送っている生活、彼らの演ずる行為、彼ら の抱いている理念は、求心的でなくて遠心的であり、彼らの思想は散乱したり 拡散したり、多くの次元を駆けめぐって、きわめて多様な経験と対象の本質を あるがままに把えようとする。しかも意識的にも無意識的にも、なんらかの一 定不変で無限抱擁的な内的ヴィジョン、ときにはそれ自身で矛盾していて不完 全で、またときには熱狂的な統一的ヴィジョンの型に多様な経験と対象とをは め込もうとはしないし、またそれをヴィジョンから排除しようともしない。
第一の部類の知的、芸術的人間像はハリねずみ族に属しており、第二の部類 は狐族に属している。...(6)

そう、この伝でいけば、恐らく前述の大N先生やNさんは「ハリねずみ 族」に、N先生や少なくとも私は「狐族」に属しているのだろう、と思う。比 較自体がおこがましいということや、この文章があちこちに飛んで散乱し遠心 的に見えること、編集委員との〆切の約束を何度も違えたこと等を別にすれば、 何故、私が「狐族」かと言えば、前に触れた様にウィトゲンシュタインの様に 考えるからであろう。正確には、黒崎宏を通しての彼の思考方法に、いまもな おシックリするからである。哲学者・黒崎宏は、ある本でこの「ハリねずみと 狐」の話を引いてウィトゲンシュタイン自身を「ハリねずみ族」に当然にも属 させるのだが、彼ウィトゲンシュタインが知っている「でかい一つのこと」の 記述になると、それは「狐族」の世界を指しているとしか私には思えないのだ。 冗長になるが、大事なことなので以下に示しておきたい。
あれは院生時代のこと。大きな衝撃を受けた論文に、"後期のウィトゲンシ ュタインの哲学の核心を、最初に把握したイギリスの哲学者"と言われるJ・ ウィズダムの「ケイス・バイ・ケイスの方法(case-by-case procedure)」を 素材にした黒崎宏の「「パラダイム論」の必然性―反公理主義の立場―」があ った。それは、数学の法則や論理の法則といった「一般法則」に訴えて個別を 導く(演繹する)のだという常識に反して、演繹的推論も帰納的推論(幾つも の個別から一般法則を導く)と同様に、個別あっての一般法則でしかも一般法 則はお飾り的でしかない代物だと主張し、それを数学や論理学の例で証明して みせる。そして黒崎は、その証明から次の様な結論を引き出す。

...一般法則を理解するという事は、それが表現せんとする形式を示して いる個々の事例を理解する事、に外ならない。事例抜きの一般法則の理解とい うものは、あり得ないのである。しかも、事例の理解を通して獲得した一般法 則の理解は、その後も常に事例の理解に裏打ちされているのであり、その逆で はない。一般法則の理解には、事例の理解が先行し、常に先行し続けるのであ る。
ここで「事例」を「パラダイム・ケイス」で置き換えれば、以上で言われた 事は、言うなれば、理論に対する「パラダイム・ケイスの優先」、という事で ある。...もはや、「パラダイム論」の必然性は明らかであろう。それは、 物事を徹底して、個別において、具体において、ケイス・バイ・ケイスに見よ うとする方法―ウィズダムの言う「ケイス・バイ・ケイスの方法」―の必然的 結果であり、いわば「下からの方法」の必然的結果であって、物事を一般にお いて、抽象において見ようとする方法、いわば「上からの方法」、に対して、 対極をなすものである。...(7)

これと同じ事を後に黒崎は、あの良寛や道元の宗教にも見て取るのであ る。例えば、道元の大著「正法眼蔵」に「現成公案」という巻がある。道元は その書き出しで、まず、すべてを肯定し、次に、すべてを否定し、その上さら に再びすべてを肯定する。黒崎はそれを次の様に解して言うのだ。

...しかし、「しかもかくの如くなりといえども、」華は愛惜に散り、草 は棄嫌に生うるのみ―すなわち、花は愛され惜しまれて散り、草は嫌われ捨て られながら、生えるばかり―なのです。これは、要するに、道元は、確かに 「理(ことわり)」としては、そのような絶対的な「肯定・否定・肯定」の局 面があろうとも、現実の具体的な今ここの「事(こと)」としては、「華は愛 され惜しまれて散り、草は嫌われ捨てられながら、生えるばかりである。」と 言っているのではないでしょうか。もし、そうであるとすれば、結局のところ 禅の究極は、「理」にとらわれることなく、今ここの「事」に徹する、という ことになります。言い換えれば、一般論を否定し、今ここの個別に徹する、と いうことになります。我々は、結局は、ある段階で一般論から離れなくてはな らないのです。...
ところで、現実の我々にとって最も大切なこと、深刻なこと、価値あること、 意味あること....は、けっして一般論ではあり得ません。それは、「今こ こ」の現実の事実なのです。例えば、ある病を得て死の床にいる人にとっては、 ...(一般に手術をすれば六割が助かるという)一般論は、その(決定する) 時の助けにはなりますが、決定するのはその人自身なのです。
この際、六割の成功率に「賭ける」べきか否か、に解決を与えるもう一つの 別の一般論が存在するわけではありません。何故なら、たとえそのような一般 論があったとしても、その一般論に従うべきか否かを決めるのは、結局その人 自身なのですから。...その意味で人間の行為は、結局は本人の決断によっ て行われるのであり、その底に別の根拠があるわけではないのです。
人間の行為は、その意味で、究極的には絶対的に無根拠であるわけです。絶 対的に「無底」であるわけです。そのような底の底―言うなれば「無底の底」 ―においては、一般論はまったくの無力なのです。
ウィトゲンシュタインという哲学者は「哲学的探求」という本の中で、この ことを「規則は行為の仕方を決定できない。」(第201節)と言って表現し ました。(8)

どうですか?ウィトゲンシュタインが知っていた「でかい一つのこと」と は、世界は私の世界であり、すべては言語的表現であること、更なる根拠を求 めても無限後退に陥るだけであり、それは言語の使用における罠に陥っている のであり、だからその罠(蝿取り壷)から蝿を逃がしてやりさえすばよいこと、 その為には言語の使われ方をその文脈において分析すること、である。それに しても、束縛から解放された世界の何と多元的で多様で、しかもすがすがしい ことか?

ガバナンスの問題 ところで、この「ハリねずみと狐」の話に戻る と、この喩えを最初に知ったのはケインズ・ファンダメンタリストの一人、G ・L・S・シャックルの著作を読んでいる時であった。彼の父親がJ・M・ケ インズに数学を教えたと伝えられるシャックルは、とても変わった人物で、書 き方も哲学者か詩人のように難解である。その彼が、著名な経済学者達をハリ ねずみと狐のどちらに分けたかは記憶だけに頼って書いている今の私には定か ではないが、ある小さな本 で「政策」と「詩作」が似ていると言ったそのフレ ーズだけを何故か良く覚えている。そして、何かを決断する事前と事後の世界 はまるで「万華鏡」の如く変わること、従って、恰も「時間」が可逆的かの様 に扱う主流派経済学はそれだけでもう根本的に批判されるべきであり、彼らの 祖とされるA・マーシャルは彼らと違って時間の問題を十分考えていたと指摘 し、時間をどう位置付けているかで著名な経済学者達を分類し評価するのであ った。そして、「決断」とは何かを博識と造語を用いて表現しようとした。決 断する人の想像する可能性の行為の経路の束が、「快」と「不快」を両極端の 範囲として描き出されたのである(9)。ウィトゲンシュタインと同様に、ここにも 「決断」(decision)の「言語分析」がある。

だが、当時、シャックルの著作は邦訳されておらず、僅かに神戸大学の 林浩一先生が大学の紀要で論究しているのみであった。それを頼りに苦心して 造語の大海を泳いでいる内に、シャックルを記念して編まれた論文集に、ロイ ヤル・ダッチ・シェル石油でアナリストだった人物が寄稿し、シャックルの選 択の理論がシェル石油のシナリオ・ライティング法と同型であると主張してい るのが目にとまった。あの難解な議論が世界的多国籍企業の現実の経営戦略の 中で見ると、かくも分かり易くなるとは心底驚き興奮したのを思い出す。早速、 シェルの日本法人の企画調査部に連絡をとり、資料を得たり研究者を紹介して 貰った。しかし、それに留まらなかった。何故だか、シャックルの考え方があ の大N先生のそれに類似していると思ったのだ。大N先生は言う。「全体を部 分に分け、普遍の中に特殊を包摂させる」判断力ではなくて、悟性が把えた自 然に関する複数の経験的法則を「巧み(geschicklich)に結成し、一つの像と して直観の中に表現する」能力、即ち構想力こそ、「必然と自由の、したがっ て因果論と目的論の綜合を可能ならしめ、自然を人間に従属させることによっ て、文化と歴史を実現させるもの」である。そして、「根源的な人間の能力と しての構想力にもとづいて必然(第一の世界)と自由(第二の世界)の間に第 三の世界を築いて行く、そこに技術がある」のだ、と。そして、

技術は、必然と自由の中間にあって、両者を媒介するものであ る。それは、自然の世界における必然的な因果法則を、いかに巧み(geschicklich) に、自由の世界の実現に役立てるかを構想し、案出するところに、その課題を もっている。...翻って考えてみれば、人生の在り場所は、実はこの第三の 世界に集約されているのではなかろうか。...経済生活も政治生活も、技術 と同様に、道は一つしかないのではなく、あの方法もこの方法も考えられる、 その中からbetterなものを選ぶという形で営まれる他ない。このよりよく、よ り巧みに、ということが人生に固有な原理ではなかろうか。ものを製作するこ とだけではない、一つの家計、企業を運営して行くことも、国の政治を行うこ とも、すべてより巧みにというGeschicklichkeitの原理のもとになされている のである(10)

かくして、「巧みな技術としての社会科学をめざして」が書かれたので ある。そして、ここから、M・フーコーの言う各時代・社会が編み出してきた 「社会の技術」、あるいは「統治の問題」への関心までは、ほんの数歩である。

大量生産・大量消費の体制は、戦後の政・労・使(資)の妥協を成立させ、 前世紀から存続する福祉国家の規模の飛躍的増大を可能にしたが、先進国社会 内の人口動態の変化や階層分化に基づく財政危機や社会的合意の弱体化、及び 発展諸国の追い上げ、また環境保護思想の普及等により70年代より崩壊し出 した時、世界の国々の内部で地域内の伝統的諸資源を結合させて市場競争力の ある独自製品をクラフト生産し、地域の文化と雇用とをマクロレベルの停滞を よそに維持し発展させている例が、注目を集めたのである。ある研究者達は、 その成功の秘密を探り、「柔軟な専門化(flexible specialization)」戦略と 名付けた。

その一つに、かつて「世界のサカキ」と持て囃され国内は無論のこと世界 から研究者や政府・実業人が訪れた「坂城詣で」で知られる長野県埴科郡坂城町 の事例がある。ゼミの合宿で何回か訪れた菅平セミナーハウスへ向かう18号線 を上田よりさらに長野方面へ進むと千曲川と山に挟まれて扇状に広がる中小企業 の工場群に出会う。三百を超す中小企業が、戦前からの、また戦時疎開した数社 を親会社としてそこからスピンオフして枝分かれして独立し、技能習得や融資や 受注や機械設備を融通しあって、一大機械・樹脂加工の集積産地を形成し、個人 所得も県平均より上位に推移してきたのであった。その坂城町もバブル期に規模 を拡大し過ぎたり、垂直的な受注関係に深入りしたり、あるいは手狭な当地から 広い敷地や豊富な労働者を求めて離れるなどで、停滞を余儀なくされる。そこで、 近年(Y君の研究の様に)商工会を中心に「(財)さかきテクノセンター」を作 り、技能教育や製品の共同開発の拠点とし、地域振興に力を入れ始めたのである。 最近、産地内の企業間関係に注目した「柔軟な専門化」論に代わって、「競争的 市場をあくまで媒介としながら、そのもとで、家族、地域コミュニティ、教育、 技能蓄積、さらには政治的過程といった社会的要素を前提とし、それらの力によっ て企業の集積と連係結合関係を形成している」(11)とする「市場の社会 的構築(social construction of market)」論が唱えられ出したのも、当然と言 えるかもしれない。

このいわゆる大量生産・大量消費のフォーディズムに象徴される企業、地域、 国家、あるいは家族や対人関係に支配してきた「統治(governance)」の在り方が 今、問われそれに代わるものが求められているのである。そして、前述の「柔軟な 専門化」論を、あの院生時代から読んできた雑誌「経済と社会」の編集主幹兼執筆 者として精力的に紹介し、私の関心を導いてくれもしたロンドン大学バーベック・ カレッジのP・ハースト教授は、「絶対的命令」、「市場」、「交渉」のこれまで の管理方法に代わって、「中間団体による民主主義(associative democracy)」 を主張するのである (12)

それにしても、今回のアジア通貨危機が示した通り、ドル本位制は前述の 「柔軟な専門化」にも環境問題にも躓きの石である。関曠野が論じてきた様に(13) 、 外貨(ドル)を稼がなければ、従って米国に輸出出来る製品を作らなければ、自国 の発展の為の原材料や資本を得られない、だがそれは、資源浪費的で環境破壊的な 巨大市場の米国の生活様式が世界に広がり、各地の独自文化を衰退させることにな る。嘗て、ケインズが構想し敗れた世界通貨「バンコール」が必要な国々に配分さ れ、それで必要なものが輸入されれば、例えば以前、TVで「アジア染色紀行」を 観たが、その地域の織物が、特産物同士が、米国市場(ドル)を介さずにもっと容 易に取引され、多様な文化が共生するようになるだろう(もう一人のY君が東北地 方に拘った様に)。

その様な世界が来るまでは、前述の「柔軟な専門化」や「中間団体による民 主主義」をさらに鍛え、そして(もう一人のT君とK君よ)アマゾンの僻村の使用 済みココナッツで内装材を作るメルセデス・ベンツ (14)の様な存在に注目し、学ぼう ではないか。

はれ、ときどきブタ わが家の下の坊主が好きな童話に『はれときどき ブタ』がある。十円安というあだ名の小学3年生の主人公が書く「あしたの日記」 が巻き起こす奇想天外な(ヘビがトイレに出現したり、ブタが降ってくる)話だが、 著者の矢玉四郎は、馬鹿な考えと笑ってはいけない。多数決でみんなが間違ってい て変な考えの一人が正しいことだってある。学校には教科書があるが、大人にはな い。自分で作らなければいけない。その為に子供の時から、自分の考えを持つこと が大事だ、と後書きで書いている (15)

帰去来。だが、何処へ帰るべきか。社学に御世話になってからの軌跡を長々 と書き連ねて来たのは、結局、それを探す為であったように思う。脚本家の竹山洋 が、子供の頃に母に秘密で別居中の父に会い観た映画「自転車泥棒」の舞台をロー マに訪ねて涙に声を詰まらせ、また、地中海を臨むシチリア島の丘の先端に残る美 しい映画館の前の広場で、若き日にあの「ニュー・シネマ・パラダイス」の主人公 の様に自転車をこいでフィルムを運んだエピソードを実演して見せたように...(16)

最後に、在外研究に出る前では恐らく最後の巻となるだろう(次回は電子版 になろう)論文集の編集に携わった学生諸君に、心から感謝したい。そして、いつ もの付録として、わが坊主、圭の「はれときどきサル」と、葛西臨海水族館でガラ ス越しに見る娘、史の絵と版画を載せることにしよう。


(1)晋の陶淵明の文。ある土地の県令を最後に宮仕えをやめ、故郷の田園に帰 った折りの心境を述べた帰去来辞による。「広辞苑」[戻る]

(2)英語では、Precisely, Grasshopper. で、ある本では「その通りだ、キ リギリス」と訳されている。しかし、私の記憶ではコウロギで、その鳴き声が聞こ えた気がする。すると、虫の声を解さないという米国人には、アリと対にされるキ リギリスなのだろう、多分。[戻る]

(3)拙稿、「早稲田社会科学研究」第28号、昭和59年3月[戻る]

(4)五陰とは現象界の存在の五種の原理で[色]物質・肉体、[受]感受 作用、[想]表層作用、[行]意志や記憶、[識]認識をいう。[戻る]

(5)追悼集が「みすず」443号、98年2月号にある。[戻る]

(6)I・バーリン、河合秀和訳、中央公論社、昭和48年、pp.7-8.[戻る]

(7)黒崎宏「科学の誘惑に抗してーウィトゲンシュタイン的アプローチー」 勁草書房、1987年、pp.101-103.[戻る]

(8)黒崎宏「「語り得ぬもの」に向かってーウィトゲンシュタイン的アプロ ーチー」勁草書房、1991年、pp.205-209.[戻る]

(9)G.L.S.Shackle,Imagination and the Nature of Choice,Edinburgh U.P. 1979.[戻る]

(10)前注(3)の拙稿に引用した大N先生の論考より。[戻る]

(11)三井逸友「中小企業研究の「貿易収支」とグローバリゼーション考」 駒沢大学経済学論集、第27巻第号p.78.[戻る]

(12)Paul Hirst,From statism to pluralism,UCL Press,1997.[戻る]

(13)関曠野「ドルよ、驕るなかれ」同朋舎、1997年。[戻る]

(14)泊みゆき、原後雄太「アマゾンの畑で採れるメルセデス・ベンツ」築 地書館、1997年。[戻る]

(15)矢玉四郎「はれときどきぶた」岩崎書店、1980年。[戻る]

(16)NHK,BS2「世界・わが心の旅ーイタリア・父の面影、旅人・竹山洋ー」 1997年10月25日。[戻る]