逍遥@早稲田界隈

夜の大隈像

Always, now under Construction.
 このページは、早稲田界隈を散策していて寄り道した場所を記録したものです。世紀を跨ぐ2年間の英国、ロンドンでの在外研究中、歴史的出来事や有名人が嘗て住んでいたことを記念するブルーやブラウン色の「プラーク」を頼りに、歴史的建物や遺跡を探しては度々、散策を楽しみました。『ロンドンのプラークを探す』(SHIRE出版)によると、その1/3があるという地域のフラットに住んだせいもあります。由来を知ることは、初めての土地で戸惑う心の疲れを癒してくれました。殆どの駅の近くに地域の小図書館があり、地元の郷土史家達による往時の写真入りの本があり、ローカル新聞とともに手に取って読んだものです。
 帰国後、偶然、手元不如意のため思い立って池袋から歩いたのですが(昔、ゼミ生と逆方向に辿ったことがありましたが)、小道や横道の空間は、馬場から早稲田通りにかけての雑踏とは違い、帰国後に患った逆カルチャー・ショックを和らげてくれました。海外も大いに結構ですが、ローカルを大切にするワセダの学生であって欲しいとも、思います。(上沼)

社学14号館

 14号館前のイチョウ並木は落葉して、2001年暮れの寒気のなかに聳える。外階段一杯に雛壇のように学生さんが座り込んだ情景やタバコの吸殻の落ち葉はdisgustingだが、学生さんも憩う場所がないのだ。3号館前のキンモクセイのように、14号館のビルの狭間に植えられた竹が成長したら、見事になるのだろうか。

夜の14号館

 号館の北側に位置する研究室から、赤い屋根組みの図書館越しに池袋方面を望む。真ん中の白い建物は、サンシャイン。

研究室から池袋方面

 東側のエレベーターホールの窓から望む。懐かしい1号館、3号館のエンジ色の屋根の上に大隈講堂の時計。画像にはないが、更に北側には、目白台の教会のカテドラルを見ることが出来る。時折、見物にきた学生カップルの嬌声がうるさい。

東側方面に講堂


水稲荷神社と甘泉園

 西門通りを前野書店まで進み、西早稲田交差点を渡り、早稲田通りに平行する裏道に向かい、すぐ右手に入って行くと、水稲荷神社の流鏑馬広場に出て(その端に堀部安兵衛の碑がある)、甘泉園へと下りて行くことができて、学部生の頃、休講の時は(当時は登校して初めて知る)、ここで休んだもの。夏は涼しく、秋は紅葉が楽しめる貴重な空間。
 甘泉園について、ガイド本では次のように紹介されている。

江戸時代は徳川三卿の一つ清水家の下屋敷、そして奥州相馬家の邸となったところで、南斜面と湧水を巧みに取り入れた池泉回遊式庭園になっている。(『ブルーガイドニッポンα217 東京街歩きガイド』実業の日本社、2000年)

甘泉園の紅葉

堀部安兵衛の碑

 甘泉園から水稲荷神社に戻る。神社の表参道入口の案内板に、大隈公が当時日々参拝したという「北野神社」への言及を見つけ、2004年新年に参拝した。護国寺と同様に、神社の奥の入口の一つに早稲田大学銘入りの鳥居がある道理に気付いた(北野神社の近くに富塚古墳があり、戸塚の町名の由来だとの案内板もある)。神社前には、太田道灌の駒繋ぎと伝承の木がある。

北野神社

大隈公が日々参拝した北野神社


グランド坂下の海産物店

 学生時代に、必修科目だった(保健)体育の授業で、中学で部活にしていた野球を履修し、日本の労働者政党の創立者を記念した安部球場を利用した。15号館との間の坂は、グランド坂と呼ばれたが、坂に近い場所に更衣室用建物があった。全学共通科目であり、他学部生と一緒に、また、野球部員が補助スタッフにつき、汗をかいて野球をし、石でできた観覧応援席で野球部員の練習試合のスコアを付けたりした。
 グランド坂を下って、新目白通りに交差する真向かいにある辻定海産物店。周囲の再開発や喧騒をよそに、昔のまま商う。梅干、ひじき、昆布、干し杏、ピーナッツ、丹波黒豆、昆布などを買う。

辻定海産物店




面影橋と東京染ものがたり博物館

 乾物屋の近くに都電荒川線の駅ターミナルがある。新目白通りを少し歩くと、面影のないコンクリートの橋から、神田川を望む。隅田川へと流れる川の両側は、桜並木の歩道として整備され、桜の季節は壮観で見物客で賑やかに。

面影橋から神田川

 面影橋を渡った川沿いの歩道を右手に数分歩くと富田染工芸の工房に出会う。「東京染めものがたり博物館」は、手前の近代的ビルの地下階。畳み部屋にパネルや染め道具、製品と展示され、詳しく説明を聞くことも出来る。
 江戸幕府の武士が着用した裃に、小紋染めが取り入れられて盛んとなり、この地に地場産業が形成されたという。博物館のパンフレットに次のようにある。

 徳川家康によって幕府が開かれると、江戸は多くの人口を抱える世界的な大都市になりました。人々が日常着る着物は(ママ)、武士の裃に代表される小紋染や中近東から渡来した更紗などを染める染色業者が多数登場し、特に神田や浅草に居を定めたのでした。これは、当時染色に必要な良質の水が豊富に使えたためでした。
 しかし、明治時代以後しだいに川の汚れが目立つようになったため、染色に適した弱アルカリ性〜中性の水を求めて、染色業者は神田川をさかのぼり、江戸川橋へ落合へと移転していったのでした。富田染工芸が現在の場所で創業したのは、大正3年(1914)のことです。
 これ以後、神田川と支流の妙正寺川の流域には染色とその関連産業者が多数あつまり、新宿の地場産業として、江戸以来の伝統を守りつづけているのです。
 助手時代に近辺の神田川沿いに住み、見上げる物干し台から布を干している風景を見た覚えがあり、博物館の人に今見かけなくなったがと聞くと、昭和34年の河川浄化法(条例)で川での洗いは禁止され、以降は浴衣屋さんが洗って干すのみで、そのお店も今年(2001年)8月に店じまいして残るは干し台のみと、教えてくれた。今はイベントとして川での洗い作業をやるが、落合浄水場の薬品のせいで洗うとゴワゴワになって商品にならない、のだとも。良きものは消え去るのみ。
 工房の隣には、木造の趣のある二階家があり、いつもは門を閉じていて、「八雲荘」とだけ見える。3月末から4月始めの桜の時期に、門を開き、1階に着物など展示し、2階への急な階段を上がると、お茶を頂きながら神田川の桜を間近に鑑賞できるカフェとなる。

東京染めものがたり博物館横の工房

染めもの工房内部

東京染めものがたり博物館


山吹の里

 染めものがたり博物館から面影橋に戻ると、角はオリジン電気の広大な敷地。その門前の一隅に碑が建つ。隣に次の通り、区の解説がある。

 新宿区山吹町から西方の甘泉園の一帯を通称。太田道灌が鷹狩に出かけて雨に会い農家の若い娘に蓑をかりようとした時ヤマブキをひとえだ差し出された故事に因む。のちになって「七重八重、花は咲けど山吹の、みの(実)ひとつだに無きぞ悲しき」という古歌に懸けたものと教えられ無学を恥じて和歌の勉強を始める。・・・江戸中期の18世紀前半に成立の伝承。
 無学を恥じて学ぶとは、この大学の地に良く似合う。

山吹の里の碑

ヤマブキの花




南蔵院

 山吹の里の碑から歩いて直ぐ、左手に、この地の総鎮守の氷川神社があり、右手に南蔵院。氷川神社の入り口には高田砂利場の碑が見える。南蔵院は有名で、ガイド本に以下の通り紹介されている。

 梅やヤマブキの花が美しい寺だ。山吹ノ里弁財天の碑、彰義隊の首塚、ニ子山、花籠ら力士の墓もあるが、円朝の「乳房榎」ゆかりの寺でもある。(『ブルーガイドニッポンα217 東京街歩きガイド』実業の日本社、2000年)

氷川神社の高田砂利場碑 南蔵院門 彰義隊隊士慰霊石


高田砂利場村の金乗院

 ロンドン北部にあるバーネット区のフィンチリー通りが、ノースサーキュラーという環状道路と交差する手前に、日本人経営の安売り店があった。そこで、時々、藤沢周平や平岩弓枝の文庫を古本で買った(買い漁った)。次は、平岩「二十六夜待の殺人」(文春)の冒頭である。遠くの異国で、自分の足元の地について読んだ。

 雑司ヶ谷音羽町の西側は、なだらかな大地が、江戸川に沿って長く伸びている。/古くは関口村と呼び、殆どが畑地であったが、やがて町屋が許されて、町方と代官の両支配になった。/武家屋敷も多く、大名の下屋敷もある。/が、総じて、閑静なものであった。/高台から見渡すと、早稲田の村や、高田の森を望み、春は菜の花に蓮華草の咲く一面の花畑が、夏は蛍見物、秋は虫の音を訊ね、紅葉を愛で、冬は枯野に積もる雪の風情と、四季それぞれの景望は、よく文人の筆になった。/その関口駒井町の西に、目白不動、新長谷寺の末寺で、寺地は千七百九十二坪、御本尊の不動明王は弘法大師の作といわれ、参詣人は少なくない。
 ここから、この地一帯が目白台と呼ばれる。大名屋敷の跡に、講談社や目白台の大学、山縣有朋の椿山荘が、そして川沿いの低地に染物業者や下請製紙会社、印刷会社が、そして、大隈の専門学校が配置される構図が良くわかる。閑話休題。しかし、目白不動堂は昭和時代に廃寺となって、御本尊がここ金乗院に移ってきた。当院から頂いた「しおり」から抜粋しよう。
 目白不動堂は東豊山浄滝院新長谷寺と号し、金乗院より東へ約1キロメートルほどの早稲田方面を望む高台、文京区関口駒井町にあったが、昭和20年5月25日の戦災にて焼失したため、金乗院に合併し、本尊目白不動明王を金乗院に移した。・・・寛永年中、三代将軍家光公は特に本尊不動明王に目白の号を贈り、江戸五街道守護の五色不動(青・黄・赤・白・黒)のひとつとし、以後は目白不動明王と称することになった。またそのあたり一帯を目白台と呼ぶこととなった。元禄年中には五代将軍綱吉公および同母桂昌院の篤い帰依を受け、・・・・。

金乗院門

 目白不動明王の御開帳大護摩供は、年に数回行われ、一度素知らぬ顔で参列したことがある。
 当院境内には、見るべきもの多く、寛文6年(1666)建立の不動明王の法形を現わした庚申塔、倶利伽羅不動庚申(青面金剛の化身の龍。下部には人間の罪を天の神に伝えないという三猿)や、寛政12年(1800)に建てられた刀剣の供養塔、鍔塚がある。
 また、当院の裏手の墓地には慶安4年(1651)由比正雪の乱で処刑された宝蔵院流の槍の名人丸橋忠弥の供養塔や、仙台出身で医者となり、傍ら紛糾をさばいて報酬を得て財をなし、天保2年(1831)に二万巻余の書を集めて仙台に日本最初の図書館「青柳館文庫」を創った青柳文蔵の墓が、夫人の出身地高田村の関係で、当院にある。

倶利伽羅不動庚申 鍔塚 丸橋忠弥の供養塔 青柳文蔵の墓


鎌倉街道の宿坂

 金乗院の山門(約二百年前建立、昭和に再建)の横は、宿坂道と呼ばれ、目白通りへと一方通行の上り坂である(写真中央の屋根の下に秘仏・目白不動尊が安置されている)。山門横の豊島区教育委員会の解説板には次のように書かれている。

 中世の頃“宿坂の関”と呼ばれる所が、このあたりにあった。・・・鎌倉街道の道筋にあった。いまから300年程前このあたりには樹木が生い茂り昼なお暗くくらやみの坂道として狐狸が飛び跳ねて通行人を化かした。


宿坂


都電荒川線

 宿坂を上りきり、目白通りを横断して「鬼子母神参道商店街通り」を行くと、都電荒川線「鬼子母神駅」に出る。踏切を渡れば鬼子母神堂へ。線路脇歩道を右に行けば雑司ヶ谷墓地へ。途中、サンシャインビルを背景に都電を撮影。夜は車体の不粋な宣伝を隠して情緒あり。昼間に一度、荒川線沿いで、ドラマのロケ現場に遭遇した。

池袋を背景に夜の都電




鬼子母神

 踏切を渡ってY字を右へ、欅並木を進めば突き当たり左に鬼子母神。稲荷と樹齢六百年の公孫樹。境内では地元のご婦人方による清掃や、骨董市などに出会う。ガイド本には次のようにある。

 入谷の鬼子母神と並ぶ子育て信仰のメッカで、重量感のある本堂は寛永6(1666)年に建立された江戸期の代表的な建造物だ。神木の子育てイチョウは、樹齢600年といわれる大樹で、紅葉と落葉のカーペットがみごとだから晩秋に訪ねてみたい。
 境内の一隅に昔懐かしい駄菓子屋があり、その軒下に下がっているのが東京の郷土玩具のススキみみずく。「江戸名所図会」にも出てくる古くからの土産物で、本堂右手出口前の音羽屋でもこれを作り売っている。(『ブルーガイドニッポンα217 東京街歩きガイド』実業の日本社、2000年)

紅葉の鬼子母神

樹齢600年公孫樹

 ススキミミズクを買うと、その由来書きがついていた。近くに住む貧しい母子があって、病の母の回復を、貧しくて医者にもかかれず鬼子母神に祈るしかない娘が、願掛けした満願の日に、夢の中でのお告げで、辺り一面のススキからミミズク人形を作って売ったところ、忽ち売れて薬代もでき、母親も平癒したという伝説。二百五十年前にはもう江戸の玩具となっていたそうな。

音羽屋のススキミミズク

 神社の境内では、四季折々に祝いの行事があり、また、時々、骨董市や唐十郎の赤テントの芝居が見られる。2004年2月には、節分の準備に遭遇した。

節分

唐組赤テント小屋


法明寺

 ミミズクの音羽屋を左に見て、真っ直ぐ進むと法明寺の入り口と参道に出る。突き当たり左奥に、墓地が広がり、この辺りを支配していた平氏一族の豊島氏楠木正成息女の墓と伝えられる石や、明治期の名人落語家・橘家円喬の墓などがある。豊島氏は区名のもとか。前出の太田道灌に滅ぼされ、一族は離島を任地に生き延びたという区の解説があった。

法明寺参道

平姓豊島氏墓所 楠木正成息女墓石 橘家円喬墓

 墓地入り口の右手、塀沿いに細い路地を進めば、池袋駅東口の南側に位置する東通り商店街に出合う。しかし、いまは方明寺から引き返して、門入り口から右手に音羽屋、鬼子母神を見ながら、左手の路地を進む。両側に東京音楽大学校舎。その校舎の間を更に進むと、都電線路に出合う直前に、右側に大鳥神社がある。


大鳥神社

 いつもは鬼子母神ほどの賑わいではないが、年の瀬の酉の市では、夜遅くまで人が集まり煌々と明かりが灯り、売り声が響く。

大鳥神社の酉の市




都立雑司ヶ谷霊園

 大鳥神社から都電線路を渡り左に線路沿いに歩道、路地と進めば雑司ヶ谷霊園に出る(あるいは、池袋のジュンク堂書店の近くにある路地、東通りをずっと歩くと都電荒川線の雑司ヶ谷駅に出て、線路を越えた先が霊園)。管理事務所で貰った案内図に、有名人の墓の位置と、江戸の昔は薬草園だったという、霊園のあらましが書いてある。

 もと雑司ヶ谷旭出町墓地を東京府が引き継ぎ、明治7年9月1日雑司ヶ谷墓地として開設したものである。その後明治22年東京市に移管、昭和10年に「雑司ヶ谷霊園」と改め現在に至っている。・・・
 また、夏目漱石・泉鏡花・小泉八雲・竹下夢二・永井荷風など多数の文化人が眠る墓所があり、散策に訪れる人も多い。

永井荷風墓 夏目漱石墓 泉鏡花墓 小泉八雲墓 安部磯雄墓 窪田空穂墓 大町桂月墓 鷹匠部屋跡

 この霊園の首都高速を挟んで隣が、護国寺で更にその先は小石川・・と本郷や御茶ノ水・水道橋など近い。東京大学など当時のお雇い外国人などの住居や墓があるのも頷ける。


大隈公墓所@護国寺

 雑司ヶ谷霊園の都電とは反対側の車の音がする方角に、首都高速道が上を走る。下の道を横断すると護国寺の端。雑司ヶ谷霊園とは比較にならぬ大層な造りの墓所と、爵位の入った墓石が続く。本堂の右側に鳥居があり早稲田大学の銘。門は閉じられている。墓碑への両側には憲政会と大学の銘が読める。

大隈墓所@護国寺

 護国寺の門前の音羽通りには、宗門を示す高校や講談社はじめ出版社が、江戸川橋まで続く。尚、「護国寺は元和元年(1681)徳川5代将軍綱吉の生母、桂昌院の発願により建立。銅板葺き単層入母屋造りの真言宗豊山派の大本山。左手にある書院造りの月光院は桃山時代のもの」とガイド本(BLUE GUIDE『東京街歩きガイド』実業之日本社)にある。


旧雑司ヶ谷町と薬罐(夜寒)坂、幽霊坂

 護国寺から不忍通りを目白方向に歩く。右手路地を下った所に、清土(せいと)鬼子母神があり、入口に「鬼子母神尊出現所」の石碑が立つ。その石碑の後ろ、銀杏の木の横に石の道標「文政六年/これより右みのぶ山ひながた七面堂きしも神出現所道」がここに移されてある。そして、永禄四年(1561)に畑仕事をしていた里人が土中から発見した仏像が洗われた星の井戸が左手にある。仏像は前出鬼子母神に祀られている。

 不忍通りに戻り、横断歩道の反対側に、坂道の路地が見える。これが薬罐(夜寒)坂で、左右を嘗て武家屋敷と矢場に挟まれた野犬や狐(野干)が出る淋しい坂だったというが、大町桂月や窪田空穂など文人が住んだところでもある。そちらへは入らずに、不忍通りを上り、目白通りの合流点まで歩く。

青戸鬼子母神 星の井道標 星の井 薬罐(夜寒)坂

 途中、ここ文京区目白台町が、昭和41年まで雑司ヶ谷町であったという案内版がある。

 延享3年(1746)、町名がつけられた。町名の由来にはいろいろある。/昔、小日向金剛寺(法明寺とも)の支配地で物や税を納める雑司料であった。また、建武のころ(1334〜36)、南朝の雑士(雑事をつかさどる)柳下若狭などがここに住んだので、雑司ヶ谷と唱えたという。(『新篇武蔵風土記』)文京区
 不忍通りが目白通りと合流する直前に幽霊坂があり、日本女子大学の境の塀伝いに目白通りへショートカットする。目印もなく、多くある他の坂とは違って勾配もなく意外。幽霊坂という名は余所にもあるという。

幽霊坂@旧雑司ヶ谷町



稀に見る雁(清戸坂から清戸道、目白坂へ)

 窪田空穂先生終焉の地に寄るために、不忍通りを護国寺方面へ戻っての途中に、鋳物製の坂名表示が建っているのに気づく。清戸坂@不忍通り道路側に清戸坂とあり、歩道側の裏面に説明がある。「目白台上の目白通りは、江戸時代清戸道といった。中清戸(現清瀬市内)に御鷹場御殿があり将軍が鷹狩に通う道が造られた。これが、清戸道である。/この清戸道から護国寺に下るわき道が清戸坂で清戸道へ上る坂ということで坂名がつけられた。/坂道の北側に雑司ヶ谷清土村だったので青土(せいど)坂とも呼ばれた。」。
窪田空穂先生のお住い

 文京区目白台二郵便局から不忍通りを挟んだ斜向い側の狭い路地(自販機に隠れて町名由来板あり)に入り、少し歩くと階段。上って突当り左手に先生のお宅がある(前述の薬罐(夜寒)坂を上って最初の路地を右手に入る行き方もある)。文京区観光案内ホームページにはこうある。

歌人・国文学者として知られる窪田空穂(1877〜1967)の旧居跡。長い生涯の文筆活動は多彩で、短歌、小説、随筆、歌論、評釈等に活躍の場は広範囲にわたる。坪内逍遥の推薦で母校早稲田大学に勤務し、講師、教授として多くの人を育てた。
 ご近所迷惑にならぬよう、足早に路地を目白通りへと抜ける。目白台の名所(次回)を見ながら椿山荘の先を本通り(新目白坂)から離れて、音羽通りの江戸川橋方面に下りて行く。関口台小学校や浄土宗のお寺などがある長い下り坂。大泉寺の先にここが目白坂との説明板があった。
 西方清戸(清瀬市内)から練馬経由で江戸川橋北詰にぬける道筋を「清戸道」といった。主として農作物を運ぶ清戸道は目白台地の背を通り、この辺りから音羽谷の底地へ急斜面で下るようになる。
 三代将軍家光が目白と名づけ、坂の名はそれに由来。
 この坂の南面に元和4年(1618)大和長谷寺の能化秀算僧正再興による新長谷寺があり、本尊を目白不動尊と称した。
 かつては江戸時代「時の鐘」の寺として寛永寺の鐘とともに庶民に親しまれたが寺も明治とともに衰微し、不動尊は豊島区金乗院にまつられている。

   目白台の空を真北に渡る雁/ 稀に見る雁の四、五十羽かも  窪田空穂(1877〜1967)

目白坂

 あの不忍通りの清戸坂から清戸道(現・目白通り、解説文中のお百姓は早朝野菜を運び、帰りに下肥(おわい)を運んだのでおわい道とも)を経て、目白坂へ。そして、金乗院に移った目白不動尊が元あった関口村の新長谷寺がこの近辺にあったのだ。窪田空穂先生のお導きに感謝。
 関口駒井町にあった新長谷寺の「時の鐘」のイメージが、文京区教育委員会『ぶんきょうの町名由来』にあった(出所:『新撰東京名所図会』)。

今はない目白不動の「時の鐘」


旧町名(高田老松町から関口台町へ)

 日本女子大から目白通りを江戸川橋方面に歩くと、あの、ブルーならぬグリーン・プラークの旧町名由来板(ロンドンではウェッジウッド製)が民家の壁にある。付近の消防署(小石川消防署老松出張所)に名を留める旧高田老松町についてこうある。

 明治5年、高田四ツ谷町の内と高田四ツ谷下町を併せ、さらに旧土井能登守(越前大野藩6万石)、小笠原信濃守(播磨安志藩1万石)、細川越中守(肥後熊本藩54万石)の下屋敷と武家地を合併した。そして町名を高田老松町とした。
 旧高田老松町76番地の細川邸の門前にむかし2株の老松があり、鶴亀松といった。左手の松は見上げるように高くて鶴の松といい、右手の松はやや低く平なのを亀の松と呼んだ。
 町名は、この縁起のよい老松からとったといわれる。鶴の松は明治38年頃枯れ、亀の松は昭和8年頃枯れた。
 この消防署と元細川領の和敬塾の間にもう一つの幽霊坂があり、下ると新江戸川公園へと出る。
 目白通りをさらに江戸川方面に進むと歩道に蕉雨園(旧田中光顕邸)への案内板。胸突坂に出る直前に蕉雨園と永青文庫が左右にある。永青文庫の門前には文京区教育委員会の説明があって、上記の由来に納得し、広大さに驚く。
 この地は、中世室町幕府の管領家の一門であり肥後熊本54万石の大名であった細川家の下屋敷跡である。細川家がここに入ったのは幕末で、当時は3千坪であったが、その後少しずつ拡張し、新江戸公園・永青文庫を含む神田上水から目白通りに及ぶ約3万8千坪の広大な敷地であった。・・・・
 胸突坂を下らずに目白通りに戻ると、講談社野間記念館東京カテドラル、そして椿山荘(イメージは街路樹の椿)。

高田老松町 もう一つの幽霊坂 蕉雨園 永青文庫 胸突坂 講談社野間記念館 東京カテドラル 椿の街路樹

 椿山荘の先の目白坂。関口台小学校の手前に「幸神社」がありその傍に、目白台は昭和41年まで関口台町と称していたとの案内板。

 もと、関口村の内で畑地であった。元和2年(1682)町屋を開き、享保5年(1720)から町奉行支配となった。町名は、関口村の高台(目白台地)にあったので、関口台町と称えたといわれる。
 関口の名称は、むかしからこの辺りに奥州街道の関所があったからとも、また神田上水の分水のための大洗堰があったからともいわれる。明治5年、旧細川越中守、黒田豊前守(現・椿山荘)、柳生播磨守ほかの武家屋敷および寺地を併せた。
 目白台下に、松尾芭蕉ゆかりの芭蕉庵がある。西隣の胸突坂下には、神田上水の守護神であった水神社がある。
 芭蕉庵や水神社の一帯を椿山(つばきやま)といった。鎌倉合戦のころこの辺りに伏兵を入れたとあり、そのころから椿が多かった。
「つばきやま」については椿山荘のホームページでも言及されている。
 林泉回遊式庭園の椿山荘は明治の元勲山県有朋公爵の命名によるものです。椿山荘周辺は古来より椿の自生する景勝の地として知られ、南北朝時代の頃から「つばきやま」と呼ばれておりました。江戸時代の浮世絵版画家安藤広重の作品『名所江戸百景』でも取り上げられています。(Garden&History より)
 椿も面白いが、やっと判った「関口村」の由来。


神田上水と水神社

 目白坂を下った先は音羽通りで、頭上には首都高、右手には江戸川公園入り口。神田川(旧称江戸川)を渡らずに、公園へ。公園の大滝橋(左から2番目のイメージは一休橋から望む)近くに大洗堰があって(左から3番目の大正年間の撮影者不明の図と、伊藤晴雨画の明治末の図)、江戸川から神田上水として江戸の都市へと水を供給したのだという。前述の目白坂にある関口台小の生徒が丹精込めた花壇があり、桜や梅の花見、散歩、遊び、昼寝、弁当、楽器練習と賑わう親水公園となっているが、そこの人工川に昔使われた堰石(左から1番目のイメージ)と近年発見された「大洗堰の由来碑」の碑文が展示してあり、それぞれ以下の解説板が付いている。

大洗堰の由来碑について

 かつて、この地には神田上水の堰があり、古来より風光明媚な江戸名所として知られていました。上水の改修工事には俳人松尾芭蕉も関与し、その旧居(芭蕉庵)は四百m程上流に復元されています。
 大正八年、東京市はこの地を江戸川公園として整備し、史跡(大洗堰)の保存に努めましたが、昭和12年になり江戸川(神田川)の改修により失われたので、翌年、堰の部材を再利用して由来碑を建てました。
 左の碑文は、その文面です。由来碑はすでに失われましたが、近年この碑文のみが見つかりましたのでここに設置致しました。
 平成3年3月 文京区役所 公園緑地課
神田上水取水口の石柱
 井の頭池を源流とするわが国最初の神田上水は、関口の大洗堰(現在の大滝橋あたり)で水位をあげ、上水路(白堀)で水戸上屋敷(現後楽園一帯)に入れた。そこから地下を樋で神田、日本橋方面に給水した。
 この大洗堰の取水口に、上水の流水量を調節するため「角落」と呼ばれた板をはめこむための石柱が設けられた。ここにある石柱は当時のもので、昭和八年大洗堰の廃止により撤去されたものを移した。
 なお、上水にとり入れた余水は、お茶の水の堀から隅田川へ流された。 文京区役所

神田上水取水口の石柱 一休橋から大滝橋 大洗堰写真・撮影者不明 大洗絵図

 公園を更に川沿いに進むと、関口芭蕉園。脇の胸突坂を上れば目白台の永青文庫、蕉雨園に出る。胸突坂の左手にひっそりと水神社がある。お殿様や著名人よりどんなにか大事なのだろう、ご近所の人が前を通る時、立ち止まって礼拝した。ご近所ばかりではない。昔は、大洗堰から水を供給された遠くからの参拝者があったという。水神社の案内板にはこう記されている。

 『江戸砂子』には、「上水開けてより関口水門の守護神なり。」とある。
 わが国最古の神田上水は、徳川家康の命により、大久保主水が開いた。井頭池からの流れを目白台下の現大滝橋のあたりに、堰(大洗堰)を築き、水位をあげて上水を神田、日本橋方面に通じた。
 伝えによれば、水神が八幡宮社司の夢枕に立ち、「我水伯(水神)なり、我をこの地に祀らば堰の守護神となり、村民を始め江戸町をことごとく安泰なり。」と告げたのでここに水神を祭ったという。
 上水の恩恵にあずかった神田、日本橋方面の人たちの参詣が多かったといわれる。また、このあたりは田園地帯で、清らかな神田上水が流れ、前には早稲田田んぼが広がり、後には目白台の椿山を控え、西には富士の姿も美しく眺められて、江戸時代には行楽の地であった。(文京区教育委員会)

神田上水の水神社

 水神社の前には駒塚橋。駒塚橋を渡って振返り、左に水神社、真中に胸突坂、右に芭蕉庵を望む。

駒塚橋から眺め

 駒塚橋を渡れば先に新目白通り。大学はすぐそこ。渡らずに神社前を更に道路沿いに車に注意して行き、神田川から離れて車道沿いを進むと、右手に旧細川藩下屋敷跡の新江戸川公園に辿りつく。道路沿いの塀の向うが公園。昔、院生時代、院生の待遇改善を求める要求の密談に書院を借りたことがあった。

紅葉の新江戸川公園


五月雨にかくれぬものや瀬田の橋

 よく知られるように芭蕉は、延宝5年(34歳)から同8年までの4年間に、この近辺に住んで神田上水の改修工事に関わったという。伊賀国(三重県)藤堂藩の武士であったこと、その藩祖高虎以来築城や土木水利の技術に優れていたことから推察されるようだ。とまれ、芭蕉は、歌心のない者にはちょっと想像つかないのだが、早稲田の田んぼを琵琶湖に譬えて好んだという。大洗堰から水神社に詳しい神田川芭蕉の会編『水神社と関口芭蕉庵』にこう記されている。

 むかし芭蕉の翁、この地に逍遥して景致を愛せしとて、夕可庵馬光といえる俳人、この庵中に翁の木像を設け、常に俳諧を興行せしゆえ、龍隠庵の名は唱えずして、芭蕉庵と呼び、詩歌の好きな人まで各集会せしなり。いまは賓客を辞して、花木深き禅房となれり。(『江戸黄檗禅刹記』より)
 五月雨塚  「さみだれの松」の奥にある。表面に「芭蕉翁の墓  夕可庵馬光書」、裏面に「祖翁瀬田のはしの吟詠を以て是を建てさみだれ塚と称す。寛延三年八月十二日  夕可庵門生園露什酒芬路」と刻してある。けだし翁はさみだれの松を背景とする、一面の青々とした早稲田田圃を琵琶湖に見立て、その風光を愛したので、後の俳人たちが遺吟「五月雨にかくれぬものや瀬田の橋」の真蹟を、遺骨の代わりにここに埋めて墓を築いたもので、芭蕉翁関東七墓の一つである。(関口芭蕉庵案内記より)

五月雨塚




岸の桜に

 今年2002年は春の訪れが早い。昨年の初冬から今年の2月まで、夕方の授業教室から見える外の明るさにロンドンの暗さを想い出して改めて驚いていたのだが、それに加えて気温も4月並という暑さ。桜見物の宴がまだ始まらない今頃の桜がいい。

面影橋からの桜並木

 昭和40年(1965)までは江戸川と呼ばれた神田川は、江戸時代は御留川といわれ禁漁の川だったという。また、現在は神田川の両岸には桜並木のウォーキングコースが整備されて、桜が辺りを明るく眩しくさえして華やかだが、面影橋より下流に明治期より桜並木があって有名だったと、文京区教育委員会の紹介本にはある。

 明治十七年頃旧西江戸川町の大海原氏が自宅前の土堤に桜の木を植えた。それがもとで、石切橋から大曲まで、約五百メートルの両岸に吉野桜・八重桜が多い時で241本。桜の名所となり新小金井といわれ夜桜見物の舟も出て賑わった。洪水が多く、護岸工事が大正二年から実施され、桜は切られた。
  • 江戸川の水かさまさりて春雨の/けぶり煙れり岸の桜に(若山牧水)
  • はつ桜曙をおぼめく江戸川や/水も小橋もうすがすみして(金子薫園)
(文京区教育委員会)


氷川神社の夏越祓

 2002年の6月末のこと、面影橋に近い氷川神社の前を通り掛かって驚いた。
 「夏越祓」である。以下の説明書きが貼ってあった。

 夏越祓「なごしのはらい」
 六月祓(みなつきのはらい)・夏越節供(なごしのせっく)ともいいます。
 中古には六月・十二月の晦日に、朝廷の親王以下文武官百官が朱雀門に集い、中臣氏が大祓詞を宣読して、大祓の神事を執り行いました。
 六月の祓を夏越祓といいます。
氷川神社の夏越祓
茅輪くぐり(ちのわくぐり)
 罪穢れ(つみけがれ)、疫病・病気を祓う神事です。茅萱(ちがや)を束ねて輪とし、神前に立ててこれをくぐり、祓を行ないます。
 輪の中に左足から入り、右足から出ることを三回繰り返し、
 みな月の夏越祓(なごしのはらひ)する人は、ちとせの命のぶというなり
と三回唱えます。
足をジタバタさせ縺れながら潜りましたが、足と唱えは一緒でなくても良いのでしょうか。


   




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