インタビュー
監督:藤井光さん

今年の前夜祭に上映する映画『ASAHIZA』。
―南相馬にある古い映画館を視座にすると、何が見えて来るのか―
 監督の藤井光さんに伺いました。


藤井光監督 インタビュー


【1】「震災映画」から踏み出す
― 東日本大震災から4年が過ぎて、何をどう伝えて行くか、改めて問い直される時を迎えている気がします。さまざまなメディアが、ともかく「被災地」で何が起こっているのか現状を伝える、という状況は鎮静化する一方で、震災を扱った作品を「芸術」としてのみ批評の対象として云々するにはまだ、違和感があるような・・・「ASAHIZA」の撮影を開始されたのは、いつですか?

藤井:映画「ASAHIZA」の撮影が始まったのは2012年です。その頃は、震災を扱うドキュメンタリー映画が次々と発表されていて、すでに800本と言われた時期です。それほどたくさん見ている分けではありませんが、被災地でいったい何が起きているか現状を伝える表現が中心でした。例えば「ASAHIZA」に登場するチューリップ文庫には、震災前には10人から15人の子供たちが遊びに来ていました。ところが、僕が取材に行った時には子供が一人しかいません。その他の子供は避難してしまったからですが、映画ではそのことに一切触れません。そこに一人の少女がいる。それだけです。映画が公開されるのが2013年か2014年と予測していたので、その頃になると「震災映画」は見られなくなることは、2011年8月の段階で震災に関するテレビの全国放送が激減したことからも予測ができたのですが、被災地の厳しい現実を伝えることよりも、福島で起きている出来事を「私たちの物語」としてどのように組み替えるかを考える時期だと思いました。「フクシマ」はすでに過剰な程に表現されていましたし、震災映画として回収されないように意識的になっていました。佐藤真さんが『阿賀に生きる』で非日常の中の日常にこだわっていますが、この映画でも「被災地」や「被害者」といった見方で取りこぼされてしまう、そこに生きる人々の生活、記憶、歴史を見つめたいと思いました。

【2】生活と芸術が接合する場所
― 「ASAHIZA」が藤井さんの監督第一作目ですか?
藤井:映像作品は何本も撮っていますが、長編のドキュメンタリー映画は2作目です。最初は、「ASAHIZA」の音楽を担当した大友良英さんらアーティストたちが震災直後に立上げた「プロジェクトFUKUSHIMA!」という活動を追ったドキュメンタリーでした。その映画は、東京国立近代美術館の所蔵作品となりましたが、震災後の福島で音楽を中心としたフェスティバルを作っていくその過程を2011年5月から半年かけて撮影しました。
 それ以前にも、2011年3月の時点で、仙台に入って撮影をしていました。震災直前まで現代美術家として映像を展示していた〈せんだいメディアテーク〉という複合文化施設を拠点としたのですが、そこの学芸員らにこの事態を一緒に考えてくれないかと声を掛けられました。震災後の3週目です。震災の記録についての考察がそこから始まりましたが、被災地で起こる小さくささやかな出来事をどうのように記録できるかをメディアテークの人たちと考え、後にそういった議論が発展して「3がつ11にちをわすれないためにセンター」ができることになります。

― 「3がつ11にちをわすれないためにセンター」って、具体的にはどんなことをするんですか?
藤井:市民と専門家が恊働して、震災と復旧、復興の過程をそれぞれの視点で記録をするものです。それは映像であろうが写真であろうが音声でもよく、市民恊働のアーカイブとして保存、発信します。そういう活動に関わりながら、僕は被災地における芸術活動を撮影していました。具体的に言えば、海岸で遺体を探す若者たちが、それだけだときついから沿岸部の公園に集まって、楽器を持ち寄り演奏する。復旧のプロセスでそういう文化的な活動は自粛モードでしたが、生きる上で必要な活動だったと思います。政治的にも社会的にも無視されるような活動かもしれませんが、とにかくそれが僕の仕事だと思いました。そういう活動をしている中で、大友さんから連絡を受け、どうなるのか分からないけど記録しましょうということになり1作目の長編が誕生します。

【3】「朝日座」という場所
― そうした問題意識を持った藤井さんにとって、朝日座という映画館はどのような場所だったのでしょうか?
藤井:朝日座では震災後の早い時期に上映会を開始しています。放射線に関する不確かな憶測が飛び交っている頃で、観客にはマスクをした人々もいますし、避難した人々が一時的に南相馬に戻り同じスクリーンを共有する場所でもありました。災害時における芸術活動を撮影していた僕にとってはとても気になる場所で、90年前に建設されたにもかかわらず、壊されずに残っているということも魅力的でした。

― まだ壊されないですか?
藤井:何度も駐車場にするという話があったようですが残っています。「朝日座を楽しむ会」という、地元のおばさまたちが中心になって、あの手この手を打って、今日まで存続させています。

― この映画自体が一役買ってるんじゃないですか?
藤井:そうありたいです。そもそも、いろいろなものが壊されてしまった、壊されそうな時に「そこに在り続けるもの」というのはそれだけで希望です。映画に引きつけて言えば、朝日座が在ったからこそ、この映画がつくられたのですし、今ここにある現在を、記憶・歴史・過去へと想像力を向かわせ重層的なものとして考え直せました。それがもし、モノとしてない場合、難しくなります。

― 難しいですよね。生きていく中で普通に生活している分には、全然困らないんでしょうけどね。メンタルの部分で消えてしまったら、もう何か自分を否定されたみたいなことになるかもしれませんね。
藤井:ええ、それというのも、震災前と震災後という言い方をよく聞きますが、朝日座という場所を舞台とすることで、震災前と震災後の決定的と思われている断絶にゆるやかな連続線を引き込むことができたのです。

【4】「事故前」の今、何を考えるか
― 「震災前の状況に復興する」ということばも、個別の地域を額的に思い浮かべてみると複雑なものがありますね。
藤井:映画に登場する商店街は、原発三〇キロ圏内にある「フクシマ」の風景としてテレビで何度も紹介されました。「街から人々が消えた、無人の商店街」といった原発事故による被害の象徴として表現されていましたが、震災前からシャッターが閉じている商店は何軒もありました。街の「人離れ」は、実際には震災前から起こっている日常の風景だったのです。
 原発事故後、復興事業として除染に予算が集中投下されていることに住民が納得しないのも、街の本質的な復興は除染だけでは済まないからです。地方都市の疲弊、貧困という、日本社会の構造的な難題が背景にあるからです。映画では、震災前から空洞化する地域の現実だけでなく、相馬移民やブラジルやカルフォルニアへと出稼ぎに渡った日系移民について語るシーンが含まれていますが、「原発事故」を認識するには、その土地の歴史を知る必要を僕は感じていました。映画をつくることは、何か表現したいからつくるというよりも、認識を深めるための活動だと思うんです。

― 認識を深める?
藤井:撮影や編集をすることで漠然とした現実にフレームをあてがい認識できるようにしていると言えます。今回の映画制作では、朝日座の観客たちの記憶に導かれながら、街が繁栄し疲弊していく地方都市の現実が見えてきました。それは、日本という国のどこにでも遍在する風景と言えますが、言い換えれば、福島が被った原発事故も偏在的な脅威であり、各地で起こる可能性を潜在的に残しているわけです。今は「次なる事故の前」とも言えます。

― 今、事故前とも言えますよね。
藤井:そうです。過去と現在を繋ぎ合わせるとおのずと、未来について考える土台が現れます。映画を通して、震災前と震災後の断絶に連続性をもたせようとする理由がそこにありましたが、もう一つとても意識したことがあります。それは、被災地と非被災地の空間の断絶です。そこに連続性を持たせたかった。

【5】バスに乗込む
― バスツアーのシーンは、観ているこちらも「一緒にバスに乗込む」みたいな、作品世界に誘い込まれる感じがありました。
藤井:バスツアーをオーガナイズしました。新宿駅を深夜に出発して、被災沿岸部を通り、開通したばかりの20キロ圏内に入る。そこにある歴史的名所を訪れ、最後に朝日座で朝日座に関するドキュメンタリー映画を地元の人たちと共に見る。

― そういうツアーなんですね、あれは。原発や被災された状況を知るためのツアーじゃなかったんだ。
藤井:それも含んでいます。被災の現実を観ると同時に…ダークツーリズムではないというか、あの地域からは縄文土器も発見されているし、何百年も前から培われた文化の厚みを感じて頂く。その流れで、90年の歴史がある朝日座に関する映画を見るというツアーです。

― 最後にこの作品をご覧になるんですか? ツアーのみなさん。
藤井:はい。まず朝日座に関するドキュメンタリー映画をつくり、今度はそれを上映する場面を撮影して、ひとつの映画にしました。

― バスツアーは、絶対に外せない要素ですね?
藤井:バスツアーがないと、映画としては成立しなかったと思います。というのも、バスツアーがなく、街の人たちだけの上映会の記録では、映画としてはダメだと思いました。実際に、地域住民に向けての上映会を開催しましたが、街のシンボルであった朝日座のドキュメンタリー映画ということで大勢の人が集まり、上映後のロビーでの会話も弾み、素晴らしい映会となりました。それはとても美しい情景とすら言え、ソクーロフの「マリア」を想起させるものでしたが、それではいけないと思いました。ばらばらになった共同体が自分たちの記憶・歴史・過去を振り返るという物語はそれで成立する力はあるのですが、「遠い街の物語」として完結してしまいます。被災地と非被災地の断絶はそのまま残る。そうならないための装置としてバスツアーは不可欠でした。

― それで朝日座で映画の上映しますけど行きませんかという誘いに、「はい!」「はい!」って乗り込んできた?
藤井:すごかったですね、人気が。映画のエキストラとして募集をかけましたが、定員50名のところ100名程の募集がありました。被災地に行ってみたいけれど、倫理的に気が咎める時期でもあったので、朝日座という設定が絶妙だったのかもしれません。

― ロードムービーですね?
藤井:バスツアーでは原発から13㎞まで行っていますが、まさかそこまで行くとは思ってない。

― 「えーっ!」みたいな? そんなの頼んでないみたいな感じで?
藤井:朝日座をよく知っているバスガイドの方が「20㎞圏内に入ります」と淡々と言いながら進んでいきますから、ドキドキした方もいらっしゃったと思います。

― あれは仕込まれてたんだけど乗客は知らなかった?
藤井:そうですね。エキストラといっても、実際に何かを演じるというわけではなくて、事実としてツーリストであり、映画を見る観客であり、ただ地元の方々とお話をしたり…。それだけなんですけどね。

― そこにツアー客の、どんな表情が写っているかですね。映画を観ることで、わたしたちもそのバスに乗込むんですね。
藤井:ぜひ、体感して下さい。

終りに
 藤井監督に、作中に描かれた朝日座行きのバスツアーが今後再募集されることはあるかと、聞いてみた。実際にお客さんから要望もあって、「検討中」という回答であった。朝日座に映画を観に行くつもりが、映画に撮られているという入れ子状態は、ほんとうに面白い。そして、映画の作中人物たちが、自身が登場する映画を、また観る機会を持つことを想定すると、物語は永遠に終わることはないのだと思う。
 インタビューをしながら感じたのは、藤井監督の静かな意志——わたしたちが、しでかすと同時に巻き込まれてもいるいま/ここの危機(震災や原発事故を含む)に、安易な幕引きを許さないという意志であった。

(聴き手:飯田光代、金井景子 構成:金井景子)



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Vol.28(2012年)
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