耳がヌードになる時間
 ――「聴く力」について
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金 井 景 子

 朗読の新たな可能性を探るために、私自身が企画・制作・演出を手がけている「声の劇場」という試みがある。そこが学校の教室でも、民家の居間でも、夜逃げ屋本舗のしごとよろしく、たちどころに劇場空間にするという心意気で、三〇分ばかりでセットを建て込む。昨年は、朗読(内木明子)と一人芝居(今井清光)を組み合せて、幸田文の小説「おとうと」を取上げた。おとうとの碧郎役から、来年は、開場から開演までの間に、BGMを流したらという提案があった。音がなくて知らない人同士の気配だけがあるというのは、リラックスできず、いざ、本番が始まっても「声」に集中できないのでは?というのだ。
 私は一瞬、ぽかんとした後、「あの時間は、聞き手の耳がヌードになる大切な時間だから、音楽なんてとんでもない!」と答えていた。「ヌード」という語彙が自分のことばのひきだしの手前に入っていたことに苦笑したが、「声」を待ちうける、全身が耳になったような聞き手の身体をイメージすると、あながち荒唐無稽な比喩でもない気がしている。

 音楽は聴くのも演奏するのも好きだが、場つなぎに使うのは嫌いだ。おしゃべりもそうかと問い詰められると、折々、その場しのぎにことばを消費している自分に思い当たって、偉そうなことは言えないなと小さくなってしまう。けれども、ふっと対話が途切れて、耳ばかり聡(さと)くなるような状態が嫌いではない。その沈黙を踏みしめてそこから始まることを本気で大切にしようと思えば、対話は深くなり、関係も組み替わるような気がする。

 「語る技」が訓練によって上達するように、「聴く力」も鍛えれば強くなるのかどうか――朗読教育に興味を傾け出してから、ずっとそのことを考え続けている。まず、何よりも、「聴く力」というものをどんな能力としてイメージするか。

 英語教育における「ヒアリング」を思い浮かべるならば、相手の発音を正確にキャッチし、自分のなかで文脈を再構成して、文意を把握する能力だと言い換えていいだろう。聴き取る集中力とともに、聞こえてきたことばに対応し得る語彙力が要求されるのは、言うまでもない。子どもの頃からぼーっとし勝ちで、英単語の記憶容量がえらく低く設定されているとしか思えない状態だった私は、いまでも、ヒアリングの試験で頭の中が真っ白になる夢を見るくらいだから、そうした意味での「聴く力」について云々する資格はない。

 私が問題にしたい「聴く力」というのは、正確かつ強靭な読解能力と同じくらいに重要な、語り手が受容されていると感じるような、語り手のこわばりを解く能力――その受けとめ方で、語り手とともに理解を拓いていく力である。二十五歳のとき、一度だけ、野間宏という作家の書斎を訪ねたことがあるのだが、野間さんは類稀(たぐいまれ)な「聴く力」を持つひとだった。オーバーハングしていて今にも崩れそうな書物の山あいから、かわうそのような眼をきらきら光らせて、語ろうとする私に期待してくれた。その日の手応えに支えられて、専門でもないのに、『青年の環』(原稿用紙にして八千枚の大作)について論文を書くという暴挙に及んだことを思い出す。そこには、鷲田清一のことばを借りれば、「ことばを受けとめてもらったというたしかな出来事」(『聴くことの力』)を作り出す力があった。野間さんの、この能力については、大庭みな子をはじめ、さまざまなひとびとが言及している。

 竹内敏晴は、その著書『ことばがひらかれるとき』や『からだが語ることば』において、また独自のメソッドによることばとからだの実践を通じても、身構えることが習い性となった「こわばり」が、語ることと聴くことの双方を疎外すると指摘している。聞き手の「こわばり」というのは、耳が鋼鉄の鎧を着ている状態である。情報の鮮度や量を値踏みして、面白さを胡散臭さと取り違えまいとする賢さだと言い換えてもよい。時間内に最も近道をして何かをやり遂げることに追われていると(大人以上に、学齢期の子どもたちは、その只中にいる)、目の前の人や開かれたページから、思いがけないわくわくするような出来事が飛び出すかもしれないという予感が、失われていくのは、誰しも経験することである。

 誰が読んでも素晴らしいという折り紙付きの(=規範化された)作品を、暗誦あるいは朗誦することで身につく能力があるだろう。しかし、それにも増して大切なのは、個人の必然性の支えられて迸り出ようとすることばと、それを受けとめる「聴く力」を意識することである。冒頭に挙げた『おとうと』を、ラジオで全編朗読された白坂道子さんが、この作品は、とことん格闘しないと読めないと言っておられた。浅く聴けばメロドラマに収束させかねない陥穽を越えて、げんや碧郎の声に向き合えるか――「読む」ときだけでなく、「聴く」際にもまた、格闘を強いられることで、培われる力がある。

(『I feel 読書風景』、No.20、2002年春号に掲載)