耳で読む/目で聴くためのレッスン
――朗読教育のために考えておきたいこと――

金 井 景 子

(1)はじめに

昨今、テレビはトーク番組が花盛りだが、いつも引き込まれて目を(耳を)離せなくなる番組に「アクターズ・スタジオ・インタビュー」がある。同時代で活躍する映画監督や俳優たちを招き、これから映画人を目指す卵たちを聴衆にして、ジェームス・リプトンが一問一答形式で、その人物の仕事について聞き出すという仕掛けである。インタビューの最後に、どのゲストにも聞くという「10の質問」というコーナーがあるのだが、そこでのスティーブン・スピルバーグ監督の言葉は忘れがたいものだった。

 「どんな人が嫌い?」という問いに対して、「話に耳を傾けない人」と答え、「天国があるなら、着いたとき神様に何と言われたい?」と聞かれて、「話に耳を傾けてくれてありがとう」という返答をしていたのである。

 『未知との遭遇』や『E.T.』、『太陽の帝国』、そして近年の『A.I.』に至るまで、一貫して「子どもの視点」にこだわり続けるスピルバーグの作品は、同時に観る者の聴覚を「子どもの耳」にチューニングすることも求めてくる。怖がりのくせに好奇心の塊で、音のする方へ身体ごと乗り出してしまう、あの感覚。主人公の子どもたちが、彼らの想像力を超えたものに出会うその時にみせる、目を見開いてほんの少し口を開いた表情は、対象に向かって耳を全開にしている表情でもある。

 また、「話に耳を傾けない人」というのは、これから起こることに対して自ら確かめることの手間を惜しんで、予見によって聞く聞かないをすでに決め勝ちな、かく言う私をも含めた大多数の大人の謂である。スピルバーグ自身が、数々の作品を通じて、あれだけ明解で豊富なメッセージとイメージを発信し続けている自己の主体のありようを、神のことばに耳を傾ける受信装置だと置き換えてみせた点は、インターネットでの送受信が日常化したことで個々人が膨大な情報処理能力を不断に要求され、文字通りマルチメディア時代に突入した二十一世紀に入ってなお、人の出す声とそれを聞き届ける耳の存在にこだわり、朗読の可能性について考えようとする者にとって、示唆的だ。表現へと結実するメッセージやイメージは一方的に配信されるに止まらず、相手が誰であれ――たとえ神であったとしても(!)――互いの口と耳との間で相互のキャッチボールが行われ、表情を確かめ合いながら、ひとりよがりではない確かなものになっていく。

 論を進めるに際し、まざまざと受け手を意識しながらテクストが送り出される教育現場にあって、メディアとして朗読の可能性に着目した論として、坪内逍遙の「読法を起さんとする趣意」(『国民之友』、一八九一・四)に言及したい。

 同論で逍遙は、リテラシー教育の普及と印刷術の発達によって、古来から朗読は他者への情報伝達の役割を終え、作品理解の手段として活用されるべきであると提唱した。「文の情と相応相伴して句点(pause)に注意し声の抑揚高低弛緩(emphasis)に注意し哀傷奮激等の情を其声にあらはさんとする」「美読法」によって、当該作品を読者が十全に理解したことを確認するのである。前田愛は「音読から黙読へ」(『国語と国文学』、一九六二・六、のち、『近代読者の成立 前田愛著作集第二巻』、一九八九、筑摩書房)においてこれを、黙読による享受方式が支配的になる大勢を前提に、今まで習慣化していた享受方法としての朗読(情報伝達としての)をいったん否定し、改めて演劇表現に繋がる朗読(読み手の作品理解が凝縮したものとしての)を再評価しようとしたものと指摘している。

 このことは、学校教育の中で、一九〇〇年代から一九一〇年代にかけて、学業習得を対外的にアピールする場としての学芸会で、「朗読」から「対話」へ、そして「劇」へと展開が見られたこととも符合している(冨田博之『日本演劇教育史』、一九九八、国土社)。

 作品に発声という身体性を関わらせることにより、個の「読み」は第三者に向けて否応なく発信される。こうした「美読」としての朗読は、読み手の「読み」の到達点であると同時に、聞き手にとっては未知の「読み」への出発点になるという構造をもっている。逍遙の論から一一〇年を経て、黙読という習慣が読書行為として徹底化したいま、朗読は、個の「読み」の開示(作品解釈の提示のみならず、発話についての責任感や美意識を伴なうものとしての)であり、かつそれを聴く者の「読み」を触発するものとしての自律性を確保したと考えるべきであり、さまざまな試みがなされてよい。

 増田信一『音声言語教育実践史研究』(一九九五、学芸図書)をひもとけば、その実践の舞台として「国語の時間」が、時代の影響を強く受けながらも、多くの画期的な指導者たちの試みよって彩られてきたことがよく解る。しかしなお、杉藤美代子は『日本語音声の研究 第七巻 教育への提言』(一九九九、和泉書院)の「日本語音声における韻律的特徴の実態とその教育に関する総合的研究」において、国語教育における朗読の問題点を、「アクセント、イントネーション、ポーズ、リズム、テンポ等の特徴が省みられなかったこと」を欧米のそれと比較し、「たちおくれ」として捉えている。

 先に逍遙の「読法を起さんとする趣意」を引いて、読み手の個の「読み」のプレゼンテーションとして朗読を再評価する起点を示したが、ここで見逃すべきでないのは、個の「読み」といっても、そこには対象となる作品が厳然と存在しており、朗読という営為が、読み手と作品との絶えざる対話を前提にしているということである。「美読」として朗読を捉えるということは、字面を音声に変換して読む技術である前に、作品に内在する――作品自体が要求する「アクセント、イントネーション、ポーズ、リズム、テンポ等の特徴」になによりも耳を澄まし、用いられていることばをまざまざイメージすることからはじめられなければならない。発話するのは読み手であるが、すでにその「読み」は、対象作品との対話を内に孕んでいる。作品を媒介に思いを伝えるという営為は、読み手が聞き届けた「声」を聞き手に添え書きして再送するという営為だと言い換えてもよい。

 経済圏のグローバリゼーションを基底にした国際化は、日本の場合も今後、急激に拡大することは必至で、それに見合うコミュニケーション能力がますます要求されるのは言うまでもない。朗読は今後、価値観を共有しない対象に向っても発信可能なプレゼンテーション能力を養い、発生した問題の解決に向けて有効な対話や討論をなしうるためのプログラムとも競合することになる。そうした状況の中、これからの朗読に必要な観点はどのようなものであるか、自身のささやかな実践も踏まえつつ、考えてみたいと思う。

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