【小説】 かよわき/南 壮一郎

 祖父は愛の人だった。私はそんな祖父が嫌いだった。
 祖父は稲作を生業にしていた。「人が愛で育つように、米を育てるのも愛だ」というのが口癖で、優しくていい人だと近所でも評判だった。それがなんだか気に入らなかった。
 「優しい祖父」が嫌いになったのは中学校の頃だったように思う。先生の、これからは自然をみだりに破壊することなく共生することを目指さねばならない、という言葉に、クラスで一番勉強のできた友人が次のようなことを言いだした。
 「先生、農業は共生ですか。それとも人間による都合のいい搾取ですか。」
 先生の返事は覚えていない。軽く流していたような気がする。だが、私の中でははっきりと答えが出た。農業は自然に対する搾取だ。人間が自然を好き勝手にいじり倒し、一方的に利益を得ているのだ。皆祖父の自分勝手さに気付いていないのだ。
私はこの考えにすっかり取りつかれた。ちょうどこの頃から、私は祖父の笑顔を直視できなくなった。祖父が他界したのは高校2年生の時だったが、祖父の笑顔は小学校の卒業式が見納めとなってしまった。
 祖父が嫌いなまま死に別れたことを悔いたのは、祖父が亡くなってしばらく経ってからのことだった。何気なく祖母のもとを訪れ、祖父が死んでから初めて祖父の田を見た。田には様々な緑が所狭しと生い茂っており、これが本来あるべき姿か、と思った。荒れた田に嫌悪感はなかった。ただ、そこに稲の姿が見えないことを寂しく思った。黄金の原はもう見られないのだ。稲はなんと弱々しいのだろう。
 ふと思った。共に生きるとは、強大な自然のなかでちっぽけな存在が生きていくために寄り添うことではないのか。稲は弱いが人の力もまた弱い。何十年も営んできた田もほんの数年で荒れ果てる。大きな天災には抗えない。搾取など出来ようはずもない。そんな人という弱い種族が、大いなる自然のなかで生きていくために、稲という弱い種族と寄り添い支え合うことが農業であり、共に生きることであり、ゆえに共に死ぬことでもあるのだろう。
 ふいに田に立つ祖父の姿を思い出した。その目は優しい光を湛え、その手つきは柔らかい。人が人に注ぐ気持ちとは違うものであったかもしれない。しかし、祖父の稲に対する気持ちを言葉で形容するなら、それは愛に違いない。
 愛に生きた祖父は死んだ。それでも、愛は形を変えて在り続けるのだろう。今は私の中に。そしていずれは私の子の中に。

   
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