第8回 ありがとう、Q太郎 後編

金 井 景 子   

(1) 視界の外に出ていた子

 ハッピー(上の猫)の腎不全が進んで、点滴治療の病院通いが3日に一度くらいの頻度になったころから、ハッピーが 亡くなるまで、Q太郎がどこにいたのかを思いさせない。むろん、その間どこかに預けていたわけではないから、一日二度きちんきちんとゴハンを食べて、私の傍で毎夜眠っていたのは違いないのだけれど、あのKY(空気の読めなさ)で鳴ら したご仁が、どうしたわけか気配を消して、私と同居人がハッピーを看取る障りになることを一切しなかった。あれだけ 餃子寝が好きだったQ太郎なのに、辛くて体勢を変えることがようやっとのハッピーを遠巻きにして、看取りの視野から きれいに外れていたのである。
 そのことに改めて気づいたのは、ハッピーを送って骨上げをしたあと、どうにも悲し過ぎて家にいたたまれず、骨壺を抱いてなぜか梅も咲いていない青梅に出かけ、もっと寂しくなって家に戻って、玄関に迎えに出てくれていたQ太郎の顔 を改めて見たときのことだった。ちょこんと坐って真直ぐこっちの眼を見て、「おかえり」という顔をしていてので、嬉しくて懐かしくて申し訳なくて、号泣したのを覚えている。4年前の4月はじめのことだった。

(2)熱海での日々

 その日から3ヶ月後、わたしたちは生活の拠点を熱海に移した。ハッピーよりは若かったとはいえ、すでに11歳になっていたQ太郎にとって、平面のマンションから3階建てへの転居は負担だったろうと思うのだが、いちばん最初に「猫階段」(2階から3階に上がるためにリビングの正面の壁に取り付けた猫専用の階段である。いまは、胡蝶蘭の鉢が点々と置いてある)から勢い余って滑り落ち、足を引きずったことがあるほかは、元気いっぱいに家の中を駈けずり回る4年間だった。
 最初の頃はペット・シッターさんが見つからなくて、毎週のようにクルマで東京?熱海を往復していたが、どういうわけか移動中、ボサノヴァを歌う小野リサのCDをかけるとご機嫌であった。多賀に住む訓練士の田平さんとご縁が出来て面倒を見てくださるようになってからは、上限3泊くらいは留守番もできるようになった。
 高円寺時代は大勢のお客さんだと半日でもベッドと壁との間に隠れて、接待の一切をお兄ちゃんに丸投げしていたやつだったが、役割が人ならぬ猫を創るというのか、ゼミ生たちが15、6人でやってきて大騒ぎしていても、猫好きを満足させる手練手管を弄してホスト役をなんなくこなし、「また、Qちゃんに会いたいから行かせて」と熱烈なファンをたくさん持つに至った。ハッピーがもしまだ元気でいたら、内弁慶の末っ子を決め込んでいただろうと思うと、つくづく猫も関係の生き物だなあと思う。
 面白かったのは、義父に対してだけ、なぜかかつてのKYぶりを全開にしていたことである。義父は幼児の頃に近所で犬に噛まれたことがあったそうで、以来、人間以外の生き物が大嫌いという、はなはだ気の毒なひとであった。
 高円寺のころから、義父は我が家に来ると、傍にやってきたハッピーやQ太郎を嫌そうな目付きで睨みつけ、あからさまに「シッ、あっち行け!」と追い払う。ハッピーなどは、初対面以後、義父の半径2メートルには決して近寄らなかった。Q太郎も右にならえをして敬して遠ざけていたのだが、熱海の家に義父が来るようになってからは、義父がどんなに追い散らしても、そっと背後から迫って、へばりついたりする。さんざん追い払っていた義父も、次第に根負けして、脇腹や背中に猫をくっつけて、日だまりで2人ならぬ1人と1匹が居眠りをすることもあった。
「あんなに厭がられてるのに、何だろうねえ」
「何かいいことでもあるのかなあ」
とわたしたちは面白がっていたのだが、老人同士、仲良くしましょうやというところだったのかもしれない。

(2) 三途の川の渡し守

 あまりにも暑かった2010年8月の末、Q太郎のファンでもある我が友人たちが泊まりに来ているにもかかわらず、Q 太郎は珍しく大儀がって一度も顔を見せなかった。前日まで1階から3階までの階段を一気に上り下りしていただけに、急に食事を口にしなくなったのが不思議でしょうがないと、医者に連れて行ったら、末期の悪性リンパ腫との診断を受ける。それからきっちり10日間、Q太郎は叶う限りの抗ガン治療を受けた。
 ショックで座り込みそうだったが、まったく座り込むどころではなかったのは、Q太郎の最期の日々が始まって間もなく、肺炎で緊急入院した義父が、いきなり病状を急変させて、重篤な状態に陥ったからである。同居人は東京の病院にいて、Q太郎の看病の主軸は私が担うことになった。
 まったく食事がとれず、水を飲んでは嘔吐するQ太郎はみるみる痩せていき、抗がん剤の点滴治療を受けることにどれだけの意味があるのかと悩みつつも、水分が供給されると少し楽にはなるようなのだけがほんの小さな救いであった。本能的に体力の温存をはかっているのか、仕事部屋の一隅でうづくまってほとんど動かなかった。東京でのしごとがキャンセルになるなどいくつか偶然が重なって、私はQ太郎の最期の時間を見守るめぐり合わせとなった。
 東京の義父の容態は緊迫し、Q太郎の残り時間も読めぬながら、生きてほしい気持ちと裏腹に、それぞれの苦しみからは早く解放してやりたいと思う気持ちが半ばして、私自身も食欲をどこかに置き忘れてしまい、仕事部屋のQ太郎の傍で寝起きせずにはいられなかった。いま、思えば、私こそ、からだが極点まで辛いQ太郎に対して、そっとしておいてやれない、KYな飼い主だったと思う。
 仕事部屋の隅でうたた寝をしていたとき、ふと、Q太郎が動く気配がした。
 よろよろとした足取りで、階段を1段ずつ昇って、3階にある寝室の、私のベッドににじり寄る。どこにそんな力が残っていたんだろうというように、ひょいっとベッドに乗って、私を待つ顔つきをした。病気が発覚する前、いつも一緒に寝ていたときの通りである。つられて横になると、私と同じ目線に顔を寄せて横になり、グルグル喉を鳴らした。それはるで、子守唄を歌っているようであった。1週間近く、ベッドで寝ることを忘れていた私は、Q太郎にあやされて眠りつくことができたのである。
 翌朝、気がついたら、Q太郎は仕事部屋の隅で、前よりもぐったりとしていた。昨夜のそれは明らかに、義父とQ太郎と両方の看取りが重なって、訳が分からなくなりつつあった私の、世話をやいてくれたのであった。
「ありがとう」
ということばがぴったりの、Q太郎のもてなしであった。人間は人間の寝るべきところで疲れをとって、最期までちゃんと見届けてよと言われた気もした。
 その2日後、最期の力を振り絞って2階のリビングにやってきたQ太郎は、ゆっくり一周した後に、食料庫の棚のしたに潜り込んで、明け方に旅立った。
 東京の病院で、同居人からQ太郎が逝った知らせを聞いた義父は、最初の危篤状態に陥り、苦しい息をしながら、「そうかい、あんまり可愛がってやれなかったけど、面白い猫だったねえ。先に逝ったQちゃんに、三途の川の渡し守、してもらうか」と冗談を言ったそうである。同居人も、
「あいつはおっちょこちょいだから、ハッピーを呼んでくるまで待ってたほうがいいよ」
と冗談で返したらしい。
 義父はそれから20日間後に、旅立って行った。
 友人のハチモリさんところの、21歳になる老猫・ギューちゃんも、Q太郎と数時間違いで天寿を全うした。連日、それぞれの猫の病状を電話で知らせ合うのは、看取りの苦しさを分け合う得がたい体験であった。
 勝手な空想にすぎないかもしれないが、88歳の義父と、人間でいったら70代のQ太郎、そして100歳をはるかに超えたギューちゃんという、オールド・ボーイ三人組が、三途の川を超えていくところを思い浮かべると、悲しさではなく、「ごくろうさまでした」という思いで胸が一杯になる。
 

蘭ちゃんずとQ太郎 

 Q太郎とおやじさん


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