第10回  片付けものの時間 

金 井 景 子   

何を隠そう、私にとって「片付けもの」は特別な時間である。正確に言えば、「片付けものをしながら、そのモノにまつわる思い出に向き合う時間」を大切に思っている。

麻のように乱れているわが研究室に足を踏み入れたことがある人には、「片付けもののことを書くよりも、片付けものをしたほうがいいよ」と苦笑されそうではあるが、あれはあれで、まるで片付けていないのではなくて、「永遠に続く、片付けの途上風景」なのでご容赦願いたい。

2011年は、私の半世紀を超えた人生の中でも、最もたくさんの時間を割いて、「片付けもの」をした年であった。

相次いで逝った義父母の、家全体の片付けに加え、高円寺のマンションの全面リニューアル、そして研究室も大々的に模様替えを行った。

義父母の家は50年近くの歳月(そのうち、31年は私も折に触れては訪れて、さまざまな記憶を共有している)を経た大物、高円寺のマンションが16年、研究室は12年の月日を過ごした思い出深い場所である。
3箇所に共通するのは、尋常ではない量の本・本・本。
義父母の家と高円寺のマンションに共通するのは、着道楽だった義母とその影響を受けた私が溜め込んだ和服と洋服の数々。研究室には永年の間に漂流物のように寄り着いた雑貨類が埋蔵されていた。
昨今流行の「断捨離」にならえば、読まない本・着ない衣類・統一性のない雑貨などはいずれも裂帛の気合いでやっつけるべきベスト3なのだろうが、私はそれらと対話し、試されるのが好きである。

義母が遺した「龍(りゅう)の着物」。シボがしっかり立っているどっしりした生地で、地の色は月白(げっぱく)―ほんの少し青みがかった白。そこに薄墨色でもやもやと渦巻く、雲のような大きな文様がとび柄のように染めてある。
義母がこれを着たところを見たのは、たった1回きりだが、この着物を挟んで、ああでもない、こうでもないと話をした回数は、5回を下らない。

そのたった1回は、私が結婚する前、当時神戸にあった私の実家に、義父と一緒に結納のために訪ねてきてくれたときだった。

義母は163センチくらいあったから、昔の女の人にすれば長身な方であったが、龍の着物を着た姿は、遠見にも170センチくらいある感じがした。姿勢の良い人でもあったので、正直、格好良いなあと思った。茶色の綴れの帯も着物にしっくりと馴染んで、「大人の着こなし」だなあとほれぼれした。

あの日、自分も含めて誰が何を来ていたのかすべて忘れてしまったのに、今でもやってきたときの義母の姿、かえって行く帯付きの後ろ姿を、はっきり思い浮かべることができる。

義母自身も気に入っていたらしく、後でそのことを話したら、とても喜んでくれた。
衣替えを手伝うとき、「何かの折にはこの着物で決まりですね」と話していた。
あるとき、着物を挟んで義母と話をしていた脇を、たまたま通りかかった相棒(義母からすれば息子)に、
「この着物、結納のとき、素敵だったよね」
と同意を求めたら、
「着物? 覚えてないなあ。それ? うん、『極妻』みたい。昇り龍の柄だよね」
と一言。
ちょうど、岩下志麻主演の映画『極道の妻たち』が話題になっていたころだった。上手いこと言うなあと思ったのだが、義母はそれを聞いて、えらくショックを受け、以後とうとう門外不出の封印された着物になってしまったのである。

義母の世代(1920年代生まれ)にとっては、素人と玄人との区別は厳然たるもので、「素人」が粋がった(意気がった)格好をするのはものすごく恥ずかしいことなのだそうである。
ましてや、「いい年」をして、こともあろうに、「長男の結納」にお嫁さんになる人の家に着ていった着物が「鉄火場の姐さん」に見えたかもしれないというのは、取り返しのつかないことだと、覚えているだけでも5回くらい力説された。

私とすれば、あんなに似合うのに、なんで息子の暢気な一言でお蔵入りにしてしまうのか、残念で仕方がなかったのだけれど、義母は亡くなるまでとうとう一度も龍の着物を着なかった。
着道楽だったが、否、着道楽だったからこそ、無数のルールに縛られていた。

とはいえ私も、花火大会に行くらしい若い女の子たちが、浴衣にレースの半襟をつけていたり、結婚式場で花嫁さんが洋髪に打ち掛けを着ているのを見たりすると、心の中で「ありえない」(浴衣に半襟は暑苦しく見える、洋髪×打ち掛けはどんなスリムな人でもスノーマンみたいに見える、という理由で)と呟いてしまうから、学習したルールを刷新するのはなかなか大変である。

気がついたら、義母が龍の着物を着て私の家に来た時と同じ年になってしまったが、私にはまだ、何かが足りなくて、着こなせそうにない。

それから、「握り石」。うちの研究室は、朗読をはじめとして年間を通じてさまざまなイベントを行っているので、小道具を含めて雑貨も山ほどあるのだが、部屋の真ん中にあるのは10センチばかりの緑色の石であった。
手に取ると握り心地がとても良いので、勝手に「握り石」と名付けている。いまから7年ほど前、東京からの転居を考え初め、土地探しをしていたとき、有力候補の大磯で拾った石である。

その大磯に、こゆるぎの浜があって、延々続く浜辺には、さざれ石と呼ばれるいろんな色の小石が無数に打ち寄せられている。
「握り石」もそんな中の一つであった。手に取った瞬間に、これは絶対に離せないと思った。

どういうわけか、私は子どもの頃から石が大好きだった。お城の石垣ならどんなに長い時間見ていても見飽きないし、黒の碁石(那智黒という熊野で採れる石から作られていた)触り心地が好きでたまらなかった。砂利を踏むのも、石蹴りをするのも好きだった。
小石がある河原や浜辺に行くと、取り憑かれたように石を拾ってしまうので、帰りのリュックサックが重たくなり過ぎて休み休み歩いた思い出もある。

そんな石好きにとって、行ったことがある人はお分かりになると思うが、こゆるぎの浜は垂涎の場所である。
久しぶりに時間を忘れて、家に連れて帰る石探しに没頭した。あちこち移動した揚げ句、日が傾いて日没近くなり、「握り石」に出会った。右手に石を握って立ち上がり、目を上げたら、夕焼けに映える林があり、その先に日本家屋らしい一角が遠望できた。
『こんな家に住めたら、多少命が縮まってもいいなあ』
とため息を吐いて近寄っていったら、それはなんと吉田茂邸であった。

当時はすでに西武系ホテルの別館になっていたようだが、気韻のようなものが漂っていて、ぜひいつか、内部も見学したいと思っていたのだが、あろうことか2009年に漏電による火災で母屋が全焼してしまった。
「握り石」と吉田茂邸の間には何の因果関係もないのだが、「握り石」を握るたびに、会ったことのない吉田茂とそのお邸が浮かんで来るから不思議である。

犬を連れて散歩した吉田茂が、この「握り石」を踏んづけた可能性はある。そして、吉田茂が亡くなったようにいまはこの石の持ち主ぶっている私もいつかは死に、この研究室がある早稲田大学の16号館が消失しても、「握り石」はこのまんま、ころんと存在しているんだと思うと、なんだかあくせくしても仕方ないような、ほっとした気持ちになる。
子どもの頃、どんな気持ちで石が好きだったのかは思い出せないけれど、石に触ると落ち着いたのには、石から何か根源的な働きかけを受けていたからに違いない。
ただ、大人になると、そして大人をずーっとやっていると、モノと直接対話して感じたり考えたりしたことを忘れてしまう。研究室の真ん中にあった「握り石」を片付けようとして、やっぱり真ん中に置き直した。

たった二つばかり、モノにまつわる思い出を記しても、それに連れてさまざまな記憶が次々に喚起され、頭の中はスノードームを揺すったようになる。片付けものの時間は素晴らしい。

ちょうど、これを書いていたら、奈良に住む実母から、大きな小包が届いた。
中には、抱き人形(白人の子と、黒人の子)が2体と、大正期のお雛様のお道具がぎっしり。
80歳を目前にして、実母も片付けものに余念がないようだ。

これらのお話は、またいつかの機会に。

  


 
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