マラトンの戦い

 



 



























 BC 561年、ベイシストラトス、アテネの僭主となる。BC 527年に彼が死ぬと、 二人の息子ヒッピアスとヒッパルコスがその地位を継承。

 BC 514年、ヒッパルコスが暗殺され、3年後、ヒッピアスもアテネから追放されてペルシアのダリウス王の下に 身を寄せる。

 その間に、アテネでは、クレイステネスの改革(BC508年〜507年)。

 BC499年のイオニアのギリシアの都市のペルシアに対する反乱に、 アテネとエレトリアがそれぞれ20艘、5艘の三段櫂船の援軍を送ったことがきっかけとなって、 ペルシア戦争が起こる。

 ヒッピアス、僭主政治を再興の思惑から、ペルシア軍を先導。

地図は、ペルシア軍の進路 (Nicholas Sekunda「Marathon 490 BC  The first Persian invation of Greece」(2002年、Osprey Publishing)による)。
























 マラトンの海岸。この左手奥のあたりが戦場になった。

 遠くに見えるのは、キュノスラ半島。その手前の湾内に、ペルシアの600隻の軍船が停泊した。
























 戦いは、BC490年の9月11日に行われた。敵将ダティスの判断ミスか、結局、4万人の兵士のうち半分と騎馬隊が使用されなかったため、 ぺルシア軍2万人に、アテネ勢9000人、友邦プラタイアイ勢1000人のギリシア側1万人とが正面衝突した。

 スパルタは、 宗教上の理由から満月の前には動けなかったので、1日遅れて到着、戦いには間に合わなかった。

 ギリシア軍は、ペルシアの弓兵の射程200M〜300Mの間を 重装のまま全速力で突進し、左右翼で勝利、真中はぺルシアにやられたが、勝った部隊が戻ってきて反撃、大勝利となった。 (白がギリシア側、紫がペルシア側。)

 ペルシア側の戦死者約6,400人に対して、ギリシア側はわずかに 192人であったと言われている(ヘロドトス『歴史』)。































 兵士たちを祭った土饅頭。  





































 ギリシア、マラトンの野に立つミルティアデス将軍像。

 民主制のアテネ側には将軍が10人もいたが、 ミルティアデスのリーダーシップでペルシア軍に快勝、ペルシア側の戦死者約6,400人に対して、 ギリシア側はわずかに192人であったと伝えられている(ヘロドトス『歴史』)。

 アテネ市民が重装歩兵として活躍、専制国家ペルシアを撃退したことから、 10年後のサラミスの海戦における無産市民の漕ぎ手としての活躍とともに、 アテネの繁栄と民主制の全盛期をもたらすことになった。


 

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