諫早湾干拓事業における行政の対応とその問題点

 

公共経営研究科1年 野口宏志

 

<はじめに>(問題意識)

 

私は、住民が行政に参加していくことの可能性と問題点を研究したいと考えているが、その前提知識として、そもそも行政運営とは実際にどのようなものなのかを把握しておく必要を感じた。そして、一番初めのテーマとして私が研究テーマに興味を持つに至った諫早湾の干拓事業を調べることとした。諫早湾干拓事業は、1950年から計画され、紆余曲折を経て1997年に施工された。なぜ計画は50年近くにわたって止まらなかったのか、その原因を経緯・特徴・問題点の3つのくくりから検証していきたいと考える。

 

<経緯>

交渉の経緯とともに、全部で7期に分けて説明していく。

 

T 1950〜1970

1952年に、西岡竹次郎長崎県知事が長崎大干拓構想を発表した。1950年に国土開発法が制定され、全国的な食料増産に必要な農地の確保のためというのが主要な目的であった。大規模な干拓によって周辺農地の拡大の期待があるとして周辺農民は推進を唱えた。一方、諫早湾周辺漁民は当時有明海沿岸のノリの養殖業が飛躍的な発展を開始していたこともあり、干拓事業に強硬に反対していた。1964年末の国予算で事業の1965年度着工が認められた。1965年度に工事予算5億円が計上。その後1969年度まで毎年10億円の予算がつくこととなった。しかし、1970年に長崎知事選が行われ、「対話の県政」をスローガンとする久保勘一新知事が圧倒的大差をもって当選。この新知事により長崎大干拓事業の中止が決定した。

 

U 1970〜1973年

久保知事が、長崎大干拓事業を多目的干拓への転換を表明。その中身は@農地造成(従来の水田から畑・酪農地へと転換)A工業用地造成B淡水湖造成による都市用水・農業用水の確保 という「長崎南部地域総合開発事業」であった。1973年、政府予算に事業費50億円が計上された。しかし、干拓に伴う漁業補償の問題で農林省の補償と漁民の主張との間に開きが大きすぎたために地元漁民との間で折り合いがつかず最終的に長崎南部地域総合開発事業は「休止」となった。

また、73年には南総反対の住民組織となる「諫早の自然を守る会」が会員30名で結成されている。

 

V 1974〜1976年

74年6月に、久保知事が干拓農地のうち2000ヘクタールを工業・住宅用地に転用する「長崎県南部地域総合開発事業」の再開を表明。最終的な長崎南部地域総合開発事業計画小案では総事業費は1389億円。内訳は国981億円、件142億円、受益者負担176億円、都市用水の水道事業団90億円となった。肝心の漁業補償の問題では76年に73年の135億円を大きく上回る245億円という補償額を漁民側に提示、諫早湾内12漁協と大筋合意とりつける。同時にこの時代、環境庁が「計画は干潟をつぶすものであるかぎり基本的に認められない」と計画推進に待ったをかけた。

 

W1977〜1982年

77年、国の予算折衝によって南総着工が本決まりとなった。しかし、佐賀県有明海漁連・熊本県漁連・福岡県漁連が「有明海の宝庫・諫早湾が消える」として南総反対の声明を発表した。79年九州農政局による南総計画に関する環境アセスメントの結果、漁協に対して損失を与える場合は「本事業で漁業補償を行うほか、有明海の魚介類の増殖を積極的に推進することなどにより、影響は最小限にとどめることが十分に可能である」との評価が出た。一方、佐賀県が九州農政局とは別に社団法人日本水産資源保護協会に委託し進めていた「南総開発が有明海漁業に与える影響調査」の最終報告取りまとめが、同協会の環境影響調査委員会の手によって発表され、「南総開発が実施されれば、有明海農業は大きな打撃を受ける」との評価が出された。この状況に長崎県は事態打開の方策として南総の規模縮小を検討。熊本・佐賀・福岡各県と長崎県、事業主体である農水省九州農政局を加えた5者会議を開催。

一方、80年に九州農政局は、公有水面埋立免許の出願を久保長崎県知事に提出した。これは、他県との調整がつかなくても事業を着工できる言わば最後の切り札とも言うべきものであった。これに対し、佐賀・熊本・福岡の各県当局と漁民たちは一斉に反発した。

80年末、南総計画についてぎりぎり10億円の予算がついたが、その際高田長崎県副知事が「1977年から毎年国の南総予算がつきながら、諫早湾内外の反対で着工できず、予算は事実上の凍結。財政難のおりに南総だけは優遇するわけにはいかないと大蔵省の姿勢は固かった。今年も決着を延ばし、もう一度予算交渉となれば、新たな工事費は到底つかないはずだ」と表明。危機感をあらわにした。

81年、長崎県は諫早湾内12漁協に対し、公有水面埋立法に基づく漁協総会を開くことを要請。漁業権放棄に必要な組合員3分の2以上の同意を必須条件として埋立同意を求めた。結果として12漁協から同意を取り付けることに成功したが、小長井町漁協と瑞穂町漁協は当初同意が否決されその後、県側が補償金の上積み案を提示し再度総会を行った結果同意にこぎつけるというかなり強硬なものであった。

82年、鈴木善幸内閣に変わり中曽根内閣誕生。農林水産大臣に長崎県選出で長崎県議会議員時代から南総計画に批判的だった金子岩三氏が就任。南総計画の打ち切り、代わって規模を縮小した上での諫早湾岸の洪水高潮対策として防災事業を実施することが決定した。

 

X1983〜1989年

農水省が、諫早湾防災対策検討委員会を発足させた。締め切り面積について農水省及び長崎県は3900ヘクタール案を支持、対して佐賀、福岡、熊本の3県漁連は3000ヘクタールを主張。これに対して、佐賀県選出の三池信、福岡県選出の稲富稜人両衆議院議員は3550ヘクタールの縮小案を提示。3県漁連は縮小案を受託した。さらに高田県知事は諫早湾内12漁協との話し合いで漁業補償として243億円を提示、同意された。

その後、諫早湾内各漁協は次々に諫早湾干拓にかかる公有水面埋め立て免許に対する同意の決議を得て長崎県は、農水省から提出された公有水面埋め立て免許出願に対して免許を与え、法的手続きは完了。89年11月に国営諫早湾干拓事業の起工式が行われた。事業は、事業主体が農林水産省、総事業費が1590億円、事業目的が農地の造成及び高潮、洪水等の防災対策となった。

 

Y1989〜1997年

工事着工後、堤防外の漁場で大型の2枚貝タイラギの不漁が続き、タイラギ漁を水揚げの中心とする小長井漁協青年部が海上デモを行うようになる。さらに、96年自然保護団体らが中心になって事業の事前差し止めを求める諫早湾自然の権利訴訟(いわゆるムツゴロウ訴訟)を長崎地裁に提訴。

97年、3月環境保護団体らが反対する中堤防で湾の奥を閉め切る工事(いわゆる潮止め)が施工。

 

Z1997年〜

その後、民主党の菅直人・鳩山由起夫民主党党首や様々な議員が諫早湾を訪れることとなる。さらに国内外の環境保護団体や科学者グループが排水門の開放と事業見直しを政府に要求。国会の場では民主党の鳩山代表が、橋本総理大臣に対して「とりあえず排水門を開けて干潟に水を入れ、生き物を生かしながら事業が必要かどうか議論すべき」と申し入れ。これに対し、橋本総理は水門を開けることはできないと拒否したが、防災面の不十分さについては検討すると回答。また、梶山官房長官も会見で、「災害防除の必要性と干潟の生き物への影響への兼ね合いがある。何が重要で何が必要なのか検討したい」と表明した。さらに政府が閣僚懇談会で「水門は開放しない」という統一見解を申し合わせた。

98年2月の長崎知事選挙では、前知事である高田勇氏や幅広い団体の支援と自民党の強力な後押しを受けた前自民党衆議院議員の金子原次二郎氏が当選、02年2月の県知事選でも再選を果たしている。

 

<計画目標の変更>

この50年以上に及ぶ干拓事業の経緯を俯瞰してみると計画目標の変更が幾度か行われていることが見て取れる。 

当初(T期1950〜1970)諫早湾大干拓事業として主に農地の造成がその主要目的であった。しかし、米の供給過剰による減反政策が採られてからはその目的は@畑・酪農地の造成・A工業用地の造成・B淡水湖造成による生活用水・農業用水の確保、に変更される。そして、最終的には諫早湾岸の洪水高潮対策として防災事業へと変化していった。さらに事業の規模も着工段階では当初の予定より大きく縮小されている。

なぜこのようなことになったのか。この点に関して、諫早湾淡水湖水質委員会の末広富太郎京都大学工学部教授(当時)は1976年5月号の「経済評論」に「公共水システムの復権」という論文を発表し、水質委員会の経過について以下のように論述している。諫早湾淡水湖水質委員会は諫早湾淡水湖を上水道の水源として利用することの可能性について究明するために設置された委員会である。

「2年にわたる検討の過程で“とにかく飲めると答申せよ”という圧力がいろいろな形で私にかかってきた。宍道湖の場合とも共通して言えることは、わが国の各府県は、工業開発、過密分散や環境、福祉、水資源の何でもよい、当面の社会目標に同じ開発計画を短絡させながら中央政府の金を引き出そうとしていることである。

 

<問題点>

以上を踏まえた上で問題点を指摘していきたい。

50年の間に事業計画を止められた機会は少なくとも3回存在した。しかし、そのたびに計画目的を変更して計画を生き長らえさせている。地方自治体が事業を行うために目的は後付けでもよいから、何とか国の予算をつけてもらおうとしているように感じられてならない。このような公共事業が止まらない理由のひとつにいわゆる補助金適正化法(国庫補助金等に係る予算の執行の適正化に関する法律)がある。本法の18条において、「各庁の長は、補助金等の交付の決定を取り消した場合において、補助事業等の当該取り消しに係わる部分に関し、すでに補助金等が交付されているときは、期限を定めて、その返還を命じなければならない。」とされており、すなわち、一度計画した事業を途中で止めてしまうと国からの補助金を返還しなければならず、さらにその際の金利も10%を越えるものになってしまうのである。地方自治体にとってこれは大きな負担であり、だったら、そのまま公共事業をなにかの理由にかこつけて続行させようという意図がどうしても働いてしまうであろう。

しかし、補助金適化法第10条第1項においては、「各省各庁の長は、補助金等の交付の決定をした場合においては、その後の事情の変更により特別の必要が生じたときは、補助金等の交付の決定の全部若しくは一部を取り消し、又はその決定の内容若しくはこれに付した条件を変更することができる。」と規定されている。さらに、1998年5月に閣議決定された「地方分権推進計画」では、長期にわたり実施中の国庫補助事業を再評価した結果、当該国庫補助事業等を中断するに際して同法の10条の適用がある場合には、事業執行が済んだ部分について補助金の返還を求めることはないとする新たな関係を確立した。この新しい関係では、第一に再評価システムに基づく中断の結果であること、第二に補助金適化法10条の適用があることが要件とされている。そして、この「再評価に基づくシステム」とは、第三者機関を通じた評価システムを示している。これにより、国にも地方自治体にも影響されない公平中立な評価が可能になるであろう。だが、一方で最終的には国の補助金適化方10条の適用判断に委ねられることになっていることから、結果として再評価システムの判断が制約される可能性も否めない。

また、公共事業を止めるシステムとして近年脚光を浴びたのが、北海道の「時のアセスメント」である。これは長期間停滞している施策などについて「時」という客観的な物差しをあて、施策の役割や効果について改めて点検・評価を行い、時代の変化に対応した道政を実現するため1997年に導入された。このような地方の動きに押されてか、国においても公共事業の再評価が検討されるようになった。1997年には当時の橋本首相が「再評価システム」を国にも導入し、」すべての公共事業の見直しを図るように公共事業関係六省庁に指示した。公共事業を止めるシステムが地方自治体のみならず国においても検討・実行されるようになっているのである。

最後に、私見ではあるが、このような地方の中央への依存体質を解決する手段としては国からの援助を断ち切って各自治体が各自の財源の中で有効に活用することを考えるようにさせること、税金の払い手とその税金による行政サービスを受ける者とを一致させることによって納税者にコスト感覚を呼び起こさせること、などが必要であると感じる。この点は補助金廃止・地方交付税削減・税源移譲のいわゆる三位一体の改革の論点につながっていくであろう。「脱ダム宣言」で揺れる長野県。