このゼミでは,現代の日本経済が抱えるさまざまな問題を公共経済学の視点で考えてみたいと思います.具体的には,年金,福祉,医療,行財政改革,規制緩和,ゴミ,地球環境などです.これらの問題に対して公的制度を作るとか,当事者間の合意によりルールを設定することで解決しようとするのが,公共経済学的接近方法の特徴です.
ゼミでは,まず日本経済の問題群の中から自分なりのテーマを決め,テーマに従ってグループを作り,グループごとにテキストを決めて発表します.発表グループが進行役となり,議論を進めてもらいます.なお,『文献目録』を配布します.
ゼミの最終目標をゼミ論文の作成に置きます.3年次の終わりまでに論文のテーマを決め,春休みに関連文献を読み,4年次はじめに章立てを作成してもらいます.5月末までに第1次草稿を作り,数回の改訂を経て7月末までに完成させるという予定で進めます.そのつもりで研究計画を立てておいてください.参考に『論文の書き方』を配布します.なお,論文はワープロで作成してもらいます.
ゼミは通常の一方向的な講義と異なり,皆さんが主役です.主役たる皆さん一人一人が積極的に参加しなければゼミは崩壊します.自分なりのテーマを持って自分で研究する態度を養い,他の人と大いに議論して下さい.
新しいゼミ生を迎える前に,ゼミの基本方針を再確認しておく必要があると思い,文章にして残しておくことにしました.皆さんからのコメントをお待ちします.
ゼミの目的は,学問研究を通じた各自の人間性・品性の陶冶であり,生涯にわたる自己実現のプロセスの中で最初の一歩を踏み出すと同時に,その方向付けを与えることです.平たく言えば,しっかりとした人生設計を立て,その第一歩を踏み出すこと,またその中で必要となるさまざまな知識や技術を習得すること,さらにそれらを束ねるあなた自身の価値観・人間性を鍛えておくことです.そのために,基本方針で示す原則が重要な役割を果たします.さらに,ゼミのみんなとの話し合いにおいて客観的に自分を見つめ直す訓練をしていただきたいと思います.
まず,これまでに何度か語ったゼミの基本方針について,まとめておきましょう.僕自身はこの方針に則ってやってきたつもりなのですが,多少の誤解もあるようなので,この点の確認は必要でしょう.
@ ゼミ生の自主性を尊重する.基本的にはこの3つです.この基本原則に従ってゼミの活動を行う,あるいは研究テーマを選ぶことにすれば,どんな問題を扱おうとも,どんな研究テーマを取り上げようと,すべて公共経済学に結びつくので大丈夫だといったのです.さらに,ゼミの目標を「卒業論文の作成」におくといいましたので,それも加えてよいでしょう.僕自身はこの点を単なる勉強のこととしてでなく,かなり広く説明したつもりですが,ここでは次のように言い換えておきます.
C 学問研究を通して主体性を確立する.この基本方針の背後にある僕の願いは,ゼミの目的に書いたように,ゼミ生の皆さん全員に,どんな困難に直面してもそれをしっかり受け止め,自分の頭でその困難に対する合理的な解決策を探り,自分の意志と責任で行動するという,主体性を持った人間になってもらいたいということです.1年間のゼミを終えて皆さんがどのような感想を持っているか分からないし,僕自身も十分なことができたと満足しているわけでもありません.それでも,2年間をともにゼミで過ごしお互いに切磋琢磨していけば,全員が社会に出て一人の自立した人間として生きていく将来において,必要となるはずの自主独立の精神を身に付けてくれるだろう,という期待の下にやってきました.皆さんにもこの点を理解してもらいたいと思います.
基本方針に述べられた言葉は理解できても,その意図が正しく伝わるのかどうか不安ですので,少し補足説明をしておきます.
順を追って補足説明する前に,ここでの言葉の使い方について述べておきます.自主性とは,自己の価値基準に従って行動する自由が与えられており,その下で最善の行動をとることです.ここで,価値基準とはあなた自身の心の中にある正邪善悪の判断基準であり,他人から強制されるものではありません.易きに流れれば,単なる自己利益の追求に堕してしまうでしょう.自己責任とは,自分のとった行動・態度の結果に対し,法的責任だけでなく社会的・精神的責任をとることです.場合によっては他者に対する補償を含むこともあるでしょう.また,主体性とは,人生のあらゆる場面で自主性が保証され,自己責任の原則の下に意思決定し行動することができる状態を指します.つまり,一個の独立自由な人間として自律している状態が,主体性に込められた意味です.
自主性が尊重されるのは,自分の頭で考えないと何も身に付かないし,人間的な進歩がないからです.自主的にテーマを選ぶ,自主的に資料を集める,自主的に研究する,自主的に発表する,自主的に質問する...このような当たり前のことが当たり前にできなくなってしまっているのが,皆さんです.長い義務教育の期間,受験勉強の期間に皆さんは自ら進んで考えることをしなくなりました.皆さんの前に出されるのはいつも答えの用意された問題ばかりです.解けることは分かっているのですから,他人より早くその答えに辿り着いた者の勝ちということになります.全く単純なルールです.こんなルールで競争させられてきたのですから,頭がうまく機能しなくて当然です.これを何とか修正し,普通の人間,自分の身に将来降りかかるであろう問題を適切に処理できる人間になりたいと思っている人が前提です.そのような人にとっては,自主性を認めてくれることこそが不可欠の条件なのです.
自主性と表裏一体の関係にあるのが自己責任の原則です.無責任の自主性は破壊,ゼミの崩壊をもたらすことになるでしょう.したがって,自分の行動に対する責任を明確にし,常にその責めを負う覚悟が必要なのです.封建制度の下にあった昔の日本人は,それこそ自分の命を懸けて行動しました.その世界では責任をとるとは命を捨てるという意味であったのです.現代では,責任を全うするために命を捨てろとは誰もいわないでしょうが,それくらいの覚悟は必要かもしれませんね.
注意しておくべき点は,自己責任という言葉が,自主性と同じく安易に使われてしまうという現実があることです.何をやっても,自己責任なのだからと話を終わらせてしまうことがよくあります.すべて自己責任というと聞こえはいいのですが,その中身がよく分かっていないと困った問題を引き起こします.遅刻しようがカンニングしようが自己責任,欠席しようが発表をすっぽかそうが自己責任というのでは,社会生活は成り立ちません.自分の行動によって影響を受ける他者が存在する以上,自己責任はその他者への補償を自分で負担するということになるはずです.自己責任は責任放棄の方便ではありません.自己を厳しく見つめ自らの行動を常に反省するという態度を要求します.
公共経済学の考え方のも特徴は,問題が生じたとき当事者が自発的・自主的に合意形成を図るか,あるいは政府のような主体による強権の発動(法による強制)によるかして,ルールの形成・適用を通じて問題を解決するということです.公共経済学の授業の中では,市場の失敗とその解消策,それらの施策の基準について話したのですが,この観点さえ忘れなければ何を卒業論文のテーマにしてもよいといいました.日本経済の問題なら何を取り上げても,必ず公共経済学的な視点が問題解決の中で必要となるからです.ゼミの運営に当たっても同じ発想をしてほしいと思いますが,自主性・自発性・自己責任・ルールの形成という視点をもう一度考え直して下さい.
公共経済学の授業で最初にお話しする「囚人のジレンマ」を,ゼミに当てはめて考えてみましょう.ゼミが一つの集団であることから問題が生じます.ジレンマに陥る人は次のように考えるのです.ゼミでは,みんなが真面目にやっているなら自分一人くらい手を抜いてもゼミ全体に影響を与えることはないし,他の人が真面目にやらないのなら,自分一人が真面目にやっても損をするだけだから手を抜こう,と考えるのです.その結果全員が手を抜いてしまい,ゼミが崩壊するのです.楽をしていい結果を得たいと思っている人たちの集まりでは,このようなジレンマ状況が発生するでしょう.このような人間の集まりになってしまったら,自主性と自己責任などとお題目を唱えていては,全く問題の解決は図れません.教師が厳しいルールをつくり強権を発動して上から従わせるか,みんなで話し合いによって自分たちを監視してくれる当番を決めるかしかないのです.これこそ,公共経済学が与える解答なのです.
もちろん,賢い皆さんはもっと別の答えにたどり着けますね.そうです,このジレンマに陥るような人間にならなければよいのです.単なる自主性・自発性・自己責任・合理性を超えて,より高度な目標に向かって突き進むのであれば,このようなジレンマに陥らなくて済みます.みんなの道徳性を信じて,「みんなが自分のことをしっかりやれば,問題なんて起きないよ」というのです.ただし,各人の道徳性に訴えるこのような方法は,常に,易きに流れて最悪の状況に陥るという危険性を持っていることにも十分注意しておいてください.
3つの基本原則に従って学問研究にいそしんでいただけば,いかなる人間性が開花するかは,想像に難くないでしょう.真理を求める真摯な態度を忘れず,社会の問題を自分の問題として受け止め,その解決策を探ろうとする人には,必ずそれに見合うだけの報酬が生涯にわたって支払われることになります.目先のことにはとらわれずに常に遠くを見つめながら自分の頭を鍛えてあげて下さい.
その他,いくつか注意しておきます.自己責任の原則の下に自主性・自発性を尊重するといっても,ルールが不要だということにはなりません.まず,自主性を尊重するというルールが必要なのは明らかでしょうが,みんなの自主性がゼミ全体に悪い結果をもたらすようなら,同じ自主性の原則から,新しいルールの形成への自主的な話し合いが生まれるはずです.もしそれが不可能な状況に陥っているなら,僕がゼミの主催者としての強権を発動して新たなルール(法に匹敵する)を作り,「上からの強制」を行うまでです.これは僕の本意ではありません.可能な限り,皆さんの自主的な話し合いによって適切なルールが作られ,問題の解決が図られることを期待します.
このゼミナールの特徴は,皆さんの自主的な議論を活発にするために,研究室を開放していることにあるでしょう.でも,研究室を使うに当たって,いくつかの約束事があります.それは絶対に守ってもらわなければなりません.必要最低限のルールは,周囲の研究室には決してご迷惑をおかけしてはならないということです.自分たちの採る行動が負の外部性を発生させるかもしれないという点に,常に十分気をつけてください.また,これに準ずる常識的な行動規範は守ってください.
ここでは,別の種類の約束事について書きたいと思います.研究室での議論(雑談は省く)の中身に関する約束事で,次の3つです.
@宗教活動やそれに類する活動はしない.
Aどんな意見に対しても聞く耳を持ち,頭から否定してはいけない.
B論理性を最大の拠り所とすること.
これまで,事あるごとに言ってきたルールはこの3つに集約されるでしょう.みんな日ごろは意識しないくらいにこれらのルールを尊重して議論してくれているので,いまさら説明する必要もないかもしれませんが,ときどき基本に戻って考えてみるといいでしょう.このルールのおかげでみんな対等の人間として発言することができ,誰もが意見をを尊重してもらえると期待して参加することができるからです.このルールの恩恵にみんな浴しているのです.
さて@のルールは,かなり誤解を生みやすいものです.僕の宗教的偏見からこんなことをいうのだと思う人があるかもしれませんが,そうではありません.このままでは分かりにくいかもしれないので,もう少し詳しく説明します.宗教という現象を学問として研究することは,この研究室で当然やってよい行為です.それは宗教を社会科学の手法で分析し理解しようという営みであって,学問的論理的作業です.それに対して宗教活動は,自分の帰依する宗教に勧誘することが目的であって,たとえその人を幸福に導きたいという心底相手を思う気持ちから出たものであっても,客観的分析の対象として,また論理的理解の対象として議論の場に提供しようとする意図はありません.ありていに言えば,論駁されることのない絶対的なものなのです.その人にとっては,絶対的真理かもしれないし,絶対善かもしれないし,全知全能・絶対知かもしれません.これらの前提は,学問をする態度と真っ向から対立します.それは合理的な説明を拒否するのです.だから研究室に持ち込んではならないのです.
誤解のないように言っておきますが,僕は宗教を否定しません.皆さんがいかなる宗教を持とうが,関与しません.宗教活動を行うかどうかは個人の心の問題で,議論すべきものではありません.信念の問題であって,是か非かを問う問題ではありません.宗教は常に人々の安寧と救済を追及し,神あるいは絶対者への帰依を要求します.このように,宗教は学問とは目指す方向が違います.その点に注意して欲しいと思います.それから,ここでは宗教と似非宗教との区別もせずに話をします.僕は宗教は尊重しますが,似非宗教は拒否します.ここでは科学的思考とは異なるロジックを持っているという側面だけで,両者をひとくくりにして考えています.
では,研究室で行うべき議論とはどのような性質を持った議論なのでしょうか?それは論理的思考に基づく合理的なものでなければなりません.論理的思考の鉄則は,いかなる信念の下に絶対的真理を認識・大悟していようが,ひとまずそれを横に置き,すべての命題は反証可能なものであると想定すること,そして論理的にたどり着いた結論はとりあえず正しいもの,一応の真理として受け入れるという態度を貫くことです.反証可能であることと並んで重要な性質は,一言でいえば論理性です.他者を説得する場合,論理以外には頼らないという態度が重要です.これは,体系性,無矛盾性,明晰性,説得力とも言い換えられるでしょうが,できるだけ厳密に使ったほうがいいし,経済学のように仮定-命題の体系として理解したほうがいいかもしれません.
もう少しこの方法を説明しておきましょう.いま自分が真理だと思っていること,正しいと思っていることは,別の説明,別の優位な対象がないからとりあえずそうだと納得しているのだと考えるのです.したがって,もっといい説明,もっと結うな対象が現れれば,それに取って代わられることになります.例えば,皆さんが親しんでいる経済学の体系を考えてみましょう.現段階で最も説明力が高いとして存在しているだけで,それでうまく説明できない現象に遭遇したとき,既存の体系の修正が行われたり,新たな経済学が開発されることになります.そちらの説明力が大きいということであれば,古い体系を捨て,新しい体系に乗り換えるのです.それが学問の進歩です.
企業経営でも同じことが成り立ちます.現在の経営手法はいま自分が置かれている経済環境(消費者の思考・所得水準,社会的ニーズ,仕入先の技術水準,労働者・従業者の資質や生産能力など)の下でベストなものとして選択されてきたものであるはずです.しかし,環境が変化すれば,経営手法(経営モデル)も変化を要求されます.1つの経営モデルが有効であった環境のある部分に変化が生じたり,全体に影響する外的ショックがあると,今までの経営モデルをそのまま適用することは不可能になります.そのまま使いつづけると,経営組織のあちこちに歪が生じて損失や非効率が現れてきます.それゆえ何らかの手を加えることが必要となり,経営モデルの修正が行われるのです.外的ショックが小さければ経営モデルの修正はわずかですが,そうでなければ発想の転換が必要となり,経営モデル自体の再構成さえ要求される事態に陥るのです.したがって,当初最善だと思われた経営モデルはいまや非効率で克服すべき対象と認識されることになるのです.例えばトヨタのカンバン方式も,アメリカではそのままでは適用できなかったし,いっそうの一般化が必要になりました.その結果,リーン生産方式と呼ばれる進化系へと発展していったのです.さらに,多くのビジネススクールで研究される中で,さらに大きな汎用性を獲得していきます.
以上の経営モデルの事例においてよく見られる失敗の原因は,既に使用に絶えられなくなった経営モデルを後生大事にしながらそれにすがって生きる経営者の無知です.しばしばそのような欠陥が社内外からも指摘されながら,自分の有り余る権限ゆえにそれに気がつかない振りをして,あるいは実際に気がつかないで,会社を倒産の危機に陥れます.(山一でも,雪印でも,ダイエーやマイカルでも,不良債権処理を誤って消えていった多くの金融機関でもいい.具体例を自ら考えてみてください.)新しい経営モデルへの移行は保守的な経営者には極めて困難な作業ですから,常日頃から情報の流通が速やかで権限の分散した組織作りが必要だということを強調しておきましょう.
経済学や経営学の例を取り上げて伝えたかったことは,絶対的真理はないという前提の下で,可能な限り合理的に議論し,少しでも望ましい方向に近づけるよう努力する姿勢が,学問研究を行う上で重要だということです.何か絶対的なもの,反論・批判を受け入れないものを想定したり,暗黙のうちに仮定してしまえば,宗教と同じです.この態度はわが研究室での議論には馴染みません.常によりよい説明を求めること,常に望ましい方法を探すこと,常によりよい対象を見出そうと努力することが,この研究室に所属するものとして要請されるのです.
人はしばしば偏見に囚われます.信念が強いほど,その信念にそぐわないものは正確に認識できなくなるし,しばしば正確に認識しようとしなくなる,さらにはこちらは全面的によく,あちらは全面的に悪いという一方的な判断をしやすいという傾向が出てきます.客観的,合理的であろうとするならば,自分の判断がそうなっていないかどうか,常に自己点検する態度が必要です.ではどうすればいいでしょう?えこひいきは人間につきものです.それを分かってあえて公平で中立的な立場に立とうとしなければなりません.利害関係がなければそれも可能でしょう.でも,多くの場合われわれは利害関係の真っ只中にいます.そのようなときには他者の立場に立ってい見ることしか,中立性を担保する方法はありません.いずれも絶対に正しいとはいえない,ひとまずお互いの意見を承認し合い,相互に受け入れ可能な結論は何なのかを考えてみなければなりません.そうすれば,みんなが納得できる合理的・論理的な説明以外に歩み寄る方法はないことに気がつくでしょう.
以上のように,自分の考え・意見・信念を,他の人に分かる合理的・論理的に説明する努力を怠ってはなりません.相手を論理的に説得しようとして行う議論からは,多くの実りある成果が期待できます.みんな大いに議論してください.