第二の世界 Part 2
The Second World - Part 2 -


草原真知子

What does "Interactive Writing" mean?
By combining multimedia database and interactivity, contents can be created by participants. Multimedia can provide us the basis to share knowledge and creativity. Technology to support nurturing cultural mime is needed. Artists can help people discover such possibilities through their daily activities.
Analysis and thoughts from "Interactive Writing" Conference, Paris, 1996 and ACM Multimedia, Boston. 1996.


By Machiko Kusahara, media theory researcher, January 1997.



 ネットワーク上の豪奢な生活を楽しみ、変身願望やバーチャル恋愛やネット上の民主主義社会を実現しながらしっかりオンライン・コマースでビジネスに乗せよう、という「第2の世界」。
 昨年10月にパリで開かれた「インタラクティブ・ライティング」(対話的手法によるストーリー制作を意味する)と題する会議では、この他にも、富士通の「テオ」や、VR(空間センサーなど)で音楽を生成するMIT メディア・ラボのトッド・マコーヴァーの「ブレイン・オペラ」(日本でも11月に上演された)や、セザンヌの描いた南仏エクス・アン・プロバンス周辺のスケッチから発想したバーチャル・ランドスケープ(そこにリンクを埋め込んで感性的なデータベースを作る)などが紹介された。
 私は第1日目のまとめのセッションで、日本のアーティストによるプロジェクトとして安斎利洋らの「連画」、八谷和彦の「視聴覚交換マシン」などについて触れた。

 「インタラクティブ・ライティング」(会議は昨年に引き続き2回目だった)とは、まだ聞き慣れない言葉だ。が、これはマルチメディアの今後の展開、というよりマルチメディアがこれから文化をどのように変えていくのかを考える上でカギになる概念であろう。
 日本で、マルチメディアをめぐる話題というとゲームやバーチャルモールやオンラインバンキングなどビジネスに直結した話か、クリエーターの不足を嘆き、豊富な映画のストックをリソースに持つハリウッドをうらやむ、というパターンになるか、どっちかのような気がする。それは、マルチメディアが映像やストーリーやゲームやビジネスをパッケージ化した最終的な商品(CD−ROMのような実際のパッケージでも、あるいはネットワーク上でも)としてしか扱われていないことでもある。

 しかし、発想を転換してみれば、マルチメディア(特にインタラクティブ・アート、ネットワーク・プロジェクト、バーチャル・リアリティなどのように対話性、リアルタイム性が高いもの)をできあがった映像の出口として考えるのではなく、新しいコンテンツを生み出すための場としてとらえることは可能ではないか。
 つまり、消費されるためのモノではなく、生産するための場としてマルチメディアをデザインする、ということだ。

 インターネットは誰もが情報の発信者になることを可能にしたしたというが、現実には、作り手と受け手の間には厚い壁がある。プロのクリエイターの多くは、前と変わらない自己完結的な制作プロセスの中で、時間に追われながらソフトの制作と供給を続けている。
 それはアマチュアの世界でも変わらない。ほとんどのホームページはリード・オンリーで、せいぜい感想をメールで送る程度だ。

 2年ほど前、映像作家デイビッド・ブレアはインターネット上に自分の制作した実験映画「WAX 」を提供し、それを自由に再編集してフィードバックするようユーザーに呼びかけた。
 周知の通り、映画は撮影したフィルムをどう編集するかによって全く別のものになる。監督は自分の思い入れ(あるいは思い込み)から自由になれないが、違った視点からみれば、そこには新たな可能性、別のストーリー展開が可能かもしれない。
 これは視聴者にとって別の映画の楽しみ方(=消費)を可能にすると同時に、それが監督にフィードバックされることによって新たな生産につながっていく。視聴者は監督が提供した素材を自分の考えによって再構成することで自分のナラティブ(ストーリー)を作るのだ。
 電脳小説という筒井康隆の試みも、マコーヴァーの「ブレイン・オペラ」も、参加者がつくりだした要素を組み込むことによってストーリー(演奏)が展開していく。これがインタラクティブ・ライティングということだ。

 そういう意味で、このパリの会議のスポンサーとして、文化省と並んでフランス脚本家協会がトップに名を出していたのは興味深い。
 「インタラクティブ・ライティング」とは、マルチメディアの特質を創造性に生かし、新しい形態の文化の創造の場を作り出そうという考え方なのだ。わかりやすい例で言えば、ひとりの小説家がネットワーク上の連載小説を毎晩必死に書くかわりに、小説の最初の発想や設定や場などを提供して読者に自由な展開を呼びかければ、逆に小説のネタがたくさん集まるだろう。
 ネットワークは著作の消費の場のかわりに生産の場になり得るわけだ(もちろん著作権などの問題は今後議論が必要だろうが)。

 さらに興味深いのは、テキスト、映像、サウンドを総括して「ライティング(執筆)」という言葉で表現していることだろう。もはやこれらの要素を別々のジャンルに分けることはできない。
 そういえば、映画「プロスペローの本」で最も印象的だった映像のひとつに、そこに登場する魔術の書(=タイトルそのもの)がある。ダ・ヴィンチを意識したと思われる機械や解剖学の書物は、ページがポップアップして画像が動き始める。
 まさにマルチメディアによる書物に未来像をシェークスピアの原作のイメージに重ね合わせたこれらの映像は、フランスで制作された。そこには、歴史を通じて蓄えられた今までの知識の集積を現代の先端技術がマルチメディアによって融合する、という予感がある。
 このようなフランスでは主流となった方向性(「ルーブル」などのタイトルにも見て取れる)は、今ではヨーロッパに共通する考え方といえよう。このような会議を脚本家協会というむしろ伝統的なジャンルに属する団体が後援するところにも、創造的なマルチメディアをめざした新たな展開がすでに始動しつつあることが見て取れる。


 パリの会議の翌月、今度はボストンで開催されたACM(SIGGRAPHの親団体でもある)のマルチメディア96に招かれた。数年前にSIGGRAPHから独立したこの会議でもまた、場としてのマルチメディア、新たなコンテンツを作り出すシステムとしてのマルチメディアが、テーマとなっていた。

 アートのセッションの議長はVRのアートと建築への応用で知られるベルリンのART+COMのモニカ・フライシュマンで、彼女が組んだセッションは、日本やアメリカで考える「マルチメディア」の定義からは想像もつかない幅の広さを見せていた。
 抽象的な建築物からなるVR空間のウォークスルーによって音楽が生成されるシステムを紹介するアーティストがいる一方で、ニューデリーの街路をシューベルトの歌曲を聴きながら参加者(インド人のグループ)と共に歩き、サウンドが風景をどのように変えるかを共に体験し、議論することから新しい視点を探ろうとするオペラ歌手がいる。「マルチメディア」とはコンピュータだけの世界ではない、ということであろう。

 一方、データベースの構築と共有に関するセッションの議長をつとめたのは北大の田中譲教授だった。ネットワークに新しい文化のミーム(文化の要素あるいは文化の遺伝子)を生み出すための場としての新たな可能性を見いだし、実際にネット上に共有の場を設けてアイディアや理論、設計図や方程式の共有と交流を可能にするシステムを構築したことで国際的に知られる研究者である。
 ここでもう一つ重要なのは、文化のミームとは誰かが考案して普及させるものではなく、ローカルな発明や判断が自律的に集積されたときに、そこから生じてくるものだ、ということだ。
 人間の心や生命の仕組みなど、今まで謎に包まれていた複雑なシステムの多くが、ひとつひとつはシンプルなはたらきが連合することで生じているのではないか、というのが最近の科学の趨勢だが、文化もおそらくそのようにして作られるものだ。我々はマルチメディアを手中にしたおかげで、文化の育て方に対して責任を持たなければならない立場になったといってもいい。
 知の共有財産としてマルチメディア・データベースを作り、今までわれわれが蓄積してきた知識やアイディアやイマジネーションの果実に誰もがアクセスできるようにする。
その中から新しい時代の文化のミームが生まれ、育っていく。われわれはそういう時代の入り口にいる。

 映画「バラの名前」で描かれた世界では、修道院の図書館が知識の体系を知るための鍵であり、書物を筆写することが知識を得るための手段だった。
 記号論(セミオティックス)の優れた研究者として知られる原作者のウンベルト・エーコがあのような物語を書いたのは、単に中世を舞台としたミステリー(としても十分面白いが)としてではない。
 科学技術、たとえばここでかかわりのある分野で言えば、残像効果をはじめとする多くの光学的な発見や、自動ドアや音楽演奏装置や自動販売機のような発明を持っていたギリシャ・ローマ時代の科学は、宗教が支配したヨーロッパではなく、アラブで文献に残され、それがルネッサンスによってヨーロッパに逆輸入された。(アリババの物語に出てくる「開け、ゴマ」は、ギリシャから伝えられた自動ドアではないか、とする説もある。)
 最先端の科学技術が異端の禁書として修道院の図書室の奥深くに隠されていたという事実が、あの物語の背景に実在する。

 いま、我々は、雪に閉ざされ、絶壁の上にそびえる修道院の図書室にもぐりこまなくても、世界中のあらゆる知識やデータをネットワークを介して見ることができる。
 しかし、それらをただ見て、ひとりひとりが使うだけでは、結局は、修道院の図書室となにも変わらない。また、そうやってネット上のデータベースを見て回るとしたら、情報量の飛躍的な増大のために、検索するだけで時間を浪費していくことになるだろう。
 前回述べたように、知識やイマジネーションを感性的に理解可能な直観的なデータベースに置き換えていかなくてはならない。

 知識の集積を、単に集積にとどめるのではなく、それらの結節点(ノード)から新しい物語(ナラティブ)、新しい知識や文化が生まれるようなシステム。ネットワークを消費するのではなく、ネットワーク全体を知のデータベースとしてとらえ直すこと。
 そのために、知識やデータやアイディアやイマジネーションを、修道院の図書室のラテン語の本のレベルから、汎文化的な視覚言語(あるいは聴覚も含め)によって記述し直し(これが実は記号論の本質的な役割である)、流通させること。それによって、新たな知識を生み出し、あるいは知恵を育て、あるいはイマジネーションの領域を広げていくこと。
 その中にビジネスも組み込まれていく。今、われわれに必要なのは、そのためのシステム作りであり、コンセンサスの生成である。

 多くの人々の知を意味論的なデータベースとして蓄積し、リンクを張ってそれらを結合させることによって、それぞれの結節点でそれ自体としてはささやかな変化や発見が起こり、物語が生じ、その集合がやがて一つの流れとなって文化をつくっていく。
 誰もがアクセスし、寄与できるオープンエンドなものとして構築されたそのようなデータベースこそが、これからの文化のベースとなっていく。そのようなデータベースの構築と運営こそが、これからの映像クリエーターに期待される大きな社会的役割であろう。

 そんな「場」のイメージに最も近いのは、実は、日本のフリーのアーティストたちが自主的に企画運営するネットワーク・プロジェクト「連芸座」かもしれない。
 連画の安斎利洋、中村理恵子がプロデュースするこのホームページには、いろいろな人の夢を集めて夢と夢との間にリンクを張った、夢のデータベースがある。この「夢鍋」は安斎らと同じ「ディジタル・イメージ」のアーティストである滝谷真樹が主宰して夢を収集し、他人の夢から生じたイメージのイラストレーション、そこから派生する別の物語、他人の夢のデジャ・ヴとして撮影された風景(「夢追写」は松本ジュディ・松本年男)などが「夢の木」として育っていく。
 夢という本来は最も私的な体験をデータベースとして構築することで新たなイマジネーションのストーリーが生まれ、それが視覚化されてさらに新たなストーリーを生み出す。今まで数多くの小説家や映像作家が夢を扱ってきたが、このような夢の共有の仕方があっただろうか?
 現在スポンサー探しの最中というこのプロジェクトが存続し、夢の木がより多くの果実をつけることを望みたい。

(映像新聞1997年 新年特集に掲載の後編)


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