自動人形とインタラクティヴ・アート
− 人工生命をめぐる考察 −



草原真知子(1995年)
(メディア論)


 <注>
 1994年12月から1995年1月にかけてこの論考を執筆しているとき、父が脳梗塞で倒れて意識を失い、家族が交代で夜も病室に詰めた。しんと静まりかえった都心の病院の深夜、見た目にも明らかに次第に「生気」が失われ、瞳が虚ろになり、死に近づいていく父の息づかいを耳でモニタリングしながら人工生命について書き続けるのは、たいへんに辛くまた不思議な経験だった。
 ある朝、けたたましくサイレンを鳴らしながら救急車が次々に到着して病院が騒然とし、テレビのニュースで、地下鉄で人々が倒れたことを知った。悪夢のような地下鉄サリン事件だった。人工生命や自動人形ではない生物としての人間の死の気配に覆われたあの日々は、忘れたくても忘れられない。
 このテキストは、当時勤務していた東京工芸大学芸術学部の紀要に掲載されたもので、読みやすくなるように改行を多く加えたが、本文内容は元のままなので、今となっては古いと思われる部分も少なくないが、そのままにしてある。




 人工生命(Artificial Life、 略してA-Life)という用語はまだ耳新しいが、実はその基本的な概念は決して突然に出現したものではないし、言葉の響きから受ける印象ほど現実離れしているわけでもない(注1)。
 自分が彫り上げた大理石の像に恋し、ついに神にその彫像を生身の女性に変えてもらったギリシャ神話のピグマリオンの物語以来、人間はいつも生命を作り出すことを夢想してきた(注2)。現実には存在しない生物や架空の人物の織りなす物語、あるいは人類とは無関係に存続する異次元の世界、というような設定は神話からSFに至る文学の、あるいは絵画・映像の世界では普通に見られるテーマである。

I. 人工生命の必然性

 従来はイマジネーションの範疇だったそうした事柄が、例えば遺伝子操作で作り出された新種の野菜というような全くロマンチックでない分野で、すでに現実のものとなっている。もちろん、このような生物は既存の品種の遺伝子を人工的に入れ替えることで創出されたキメラであって、現段階では無生物から生物を生じさせているわけではない。その一方では人工知能を持ったロボットやネットワークの中で増殖するコンピュータウィルスのように、われわれの常識では生物とは考えられないものが、きわめて生物的な振る舞いをする。
 実は現代生物学の到達した生物の定義は、必ずしもロボットやコンピュータウィルスを自動的に排除するものではない。数学に倣った言い方をすれば、ある物体が生物であるための十分条件は設定できるが、必要条件は設定できない。どのように設定しても例外が生じる。すなわち、れっきとした生物が条件に該当しなくなったり、明らかに人工的な物体が必要条件を満たすという事態が生じる。

 生物学の世界で進化や個体発生に関する理論の枠組みは近年大きく変化し、伝統的な決定論的考え方はすたれ、各段階での創発的(emergent)な展開こそが生物の融通無碍な適応の鍵だということが定説となった。つまり、最初から人間(とりあえず現段階で最も進化した生物として)というゴールがあって進化が起こったわけではないのと同様に、個体発生においても胚あるいはそれ以前の卵子や精子の段階で成体のすべてのデザインや機能が決定されているわけではなく(注3)、成長の各段階において順次、その次の展開が決まっていく。いわば現場主義である。

 興味深いのは、時期を同じくして科学技術の分野では、産業革命以来のエンジニアリングの手法に疑念が生じてきたことだ。例えば優秀なエンジニアが設計する高密度の集積回路は、もうその密度の限界に来ており、これとはまったく違った発想、例えばあるタスクを処理できる回路を競争させ、次々と与えられる課題に対する適応性を競わせて進化させることにより優れた回路を得ようというような試みが始まっている(注4)。
 人工知能の典型とされるエキスパートシステムの考え方に代表されるような、すべての可能性を人間が考慮して効率的に設計するトップダウン型の思考が行き詰まり、ボトムアップ型の考え方、つまりコンピュータに多様な選択を許し、周囲の状況に応じて自ら進化させるような生物学的な考え方に注目が集まる。従来型の設計思想ではない、創発的なシステムが必要とされているのである。

 フランスの分子生物学者フランソワ・ジャコブは「進化とブリコラージュ」と題した講演で以下のように述べている。

  自然淘汰の働きは、よくエンジニアの仕事に例えられる。しかし、この比喩はあまり適切なものとは言えない。
 第一に、エンジニアは、進化の最中に見られるのと対照的に、あらかじめ作られた計画に基づいて仕事をする。第二に、エンジニアが新しい構造を作るときには、必ずしも古いものからそれを作り出すわけではない。蝋燭から電球ができたわけではないし、内燃機関からジェットエンジンができたわけでもない。何か新しいものを作り出すとき、エンジニアは、個別の事情に即して書かれたオリジナルの青写真や、その仕事のために特別に用意された材料や機械を意のままに用いるのである。・・・・
 エンジニアとは違い、進化は、ゼロから新たなものを作り出すことはない。進化は、すでに存在しているものに作用して、ある系を新しい機能を持ったものに変換したり、いくつかの系をより複雑なものにすべく組み合わせる。・・・この過程は、エンジニアリングではなく、ティンカリング、フランス語でいうブリコラージュに似ていると言わねばなるまい。・・・・・ 
 エンジニアリングでは、別々の人間が同じ問題に取り組んでも、おおかたはきわめて似たような解決法に終わってしまいがちである。・・・逆に、ブリコラージュにおいては、同じ問題に興味を抱いても、出会った機会によって、それぞれの人間が異なった解決法に至るだろう。こうした解決の多様性は、進化によって生み出されたものにも言えるのであり、例えば、生物の世界全体に見出される、目の構造の多様ぶりもその一つである。・・・・(注5)
 
 コンピュータを中心とする科学技術は確実に進展しているが、フランソワ・ジャコブの指摘する通り、エンジニアリングとは特定の目的を最も良く果たすための技術であり、裏を返せば、設計図が存在するもの、つまり人間の予測できることしか実現できないし、状況が変化すれば新たにそれに応じた設計が必要になる。
 人間の脳のような柔軟性はエンジニアリングによっては生まれない。人間の脳を生み出したのは原始スープから長い年月をかけて人間を作り出した自然の仕組みであり、突然変異と遺伝子の交差と適者生存による変化と選択のシステムが多様な生物を作り出し、あらゆる環境の変化に対応して生命を進化させてきた。進化のどの段階でも、次のステップの設計図が存在したわけではない。

 しかしこのようないわば無計画な生命の創造というシナリオは、当然ながらキリスト教世界観とは相容れないものであった。18世紀のイギリスの神学者ウィリアム・ペイリーは、その「デザイン論」の中で、神が存在する証拠として石と時計の違いを例に引き(地面にある石は最初からそこにある自然の事物として認識されるが、時計は誰かが落としたものとして直観的に認識される)、また眼と望遠鏡の類似を指摘して、時計が明確な意図を持ったデザインの結果であることが明白であるのと同じく、(眼の機構を考えても解るように)かくも複雑な機構を持つ生物はなにものかの設計の結果であることは明らかである、とした。
 しかし当時の神学に大きな影響を及ぼしたこの議論は、その後にダーウィンが提唱した進化論によって、その論拠を崩される(注6)。「利己的な遺伝子」で知られ、80年代に仮想の形態進化シミュレーションをCGで行った最初の一人であるイギリスの生物学者リチャード・ドーキンス(Richard Dawkins)によれば、我々が現在知っている生物界を作り上げたのは、すべてを知る時計職人としての神、ではなく、盲目の時計職人である自然、なのである(注7)。

 このように予測を超えた発展と柔軟な対応を可能にする進化のアルゴリズムを高速で繰り返しシミュレートすることによって新たな技術開発の糸口が掴めるのではないか、という現実的な期待が多くの企業や研究者の目を人工生命に向かわせている。そのようなシミュレーションを可能にするのがコンピュータであることは言うまでもない。

 しかしながら、あまりにも性急な現実的な応用に対する期待とそのための技術の細分化は、人工生命という総合的な概念の持つ可能性それ自体を食い尽くしてしまう可能性がある。既にアカデミズム化の兆しは、人工生命という分野そのものを成立させた自由な発想を脅かしつつあるように見える(注8)。
 それに対して、コンピュータを駆使して生命のさまざまな位相を表現しようとするアーティストたちの試みは、生命活動というきわめて複合的な現象を独自の視点から切り取ることによって、サイエンスあるいはテクノロジーからのアプローチとは異なった成果を上げてきた。
 と同時に、これをアートの側から見るならば、B-Life(バイオロジカル・ライフ、現実の生命)からA-Lifeへの拡張は、テーマとしてきわめてインパクトを持つと共に、テクノロジーアートにおけるテクノロジーの意味に新たな必然性を付加するものでもある。ここでは現在までの人工生命の位置づけを文化史との関連において検証し、アートにおける人工生命の意味を考えるための足がかりとしたい。


II. 人工生命の誕生

 人工生命という新しい概念は、それまでいろいろな分野でばらばらに行われていた生物学、特に遺伝学の分野における近年のめざましい発展とコンピュータの登場とにより、然るべくして醸成されたものである。
 1987年にクリス・ラングトン (Chris Langton) が第一回のArtificial Life Symposium をSanta Fe Institute Studies in the Sciences of Complexity で開催したとき、そこには自分の研究がこのテーマと関係があると感じた人々が集まったが、リチャード・ドーキンス,  分枝して成長する生物の形態を文法という視点から記述したリンデンマイアー(Aristid Lindenmayer)とリンデンマイアーのL-システムをCGアルゴリズムとして実現したプルシンキェヴィッツ(Przemyslav Prusinkiewicz) (注9)らに混じって、CGによる仮想生命体を作ったりアニメーション制作のために魚や鳥の群れの動きのシミュレーションを試みていたアーティストやCG研究者の姿もあった(注10)。

 そもそも人工生命とは現実にとらわれずに生命の諸相をさまざまなアプローチから探る試みである。人工生命という概念は、多くの関連分野で同時代的に進行しつつあった意識の変革に共通の顔を与えたといってもいいだろう。それは生物学(動物、植物、生態、遺伝、etc.)や医学の関連分野だけでなく、人工知能、ロボット工学、情報科学にも密接に関係する。その中で例えば現実をシミュレートする数式のパラメータをイマジナリーな数値に置き換えていったら、あるいは数式を変形させたり、論理的には正しいが現実とは位相を異にする宇宙を作り上げていけば、それはシミュレーションとイマジネーションの接点である。
 このような置換によって現実を非現実に変える作業は、CGにおいて物理的空間のシミュレーションとイマジナリーな空間のシミュレーションがプログラムとしては全く同値であることと同じく、アルゴリズムの変更やパラメータの変更によって瞬時に変更可能な事柄である。コンピュータそれ自体に、現実とイマジネーションの区別はない。そしてこの接点はコンピュータの登場によって時空間上に広がりつつある。

 ヒエロニムス・ボッシュは奇怪な生物がうごめく世界を2次元の絵画として創造したが、現在のインタラクティヴCGやヴァーチュアル・リアリティ(VR)によれば、われわれは怪物どもが自律的な生態系を営むボッシュの世界に放り込まれることさえ原理的には可能である(注11)。
 生命の原理や人間の生理的な反応、動物の社会的な行動、エコロジー、種の進化といったようなテーマがコンピュータの中で人間の予測能力を超えて展開し、その結果をCGによってリアルタイムで可視化する、そのような手段をアーティストは手に入れたのである。

III. 自動機械と身体 ー 人工生命のハードウェア

 ピグマリオンの近代版とも言うべきコッペリアの物語では博士の「娘」に夢中になった青年が身を滅ぼすが、コッペリアは18世紀半ばから今世紀初頭にかけてヨーロッパで流行した自動人形(オートマータ)であろう(注12)。
 当時の自動人形の精密な機構と流行は、コッペリアのストーリーを生むに足るリアリティーを持っていた。オートマータとは人形と限らず自発的に動く装置を指し(注13)、自動人形は仕掛け時計やオルゴールと同様のカム装置の組み合わせにより、生きている人間(猿や鳥などの場合もある)そっくりの行動をしてみせる。

   有名なジャック・ド・ヴォーカンソンが1738年に作ったアヒルは当時の新素材であったゴムの伸縮性を巧みに使い、鳥が首を曲げて餌をついばみ、消化吸収して糞をするという生理的メカニズムをシミュレートして評判を呼び、見せ物に使われた。最も不思議がられた餌がこなれて糞に変わる部分は実はトリックであったことが明かされたのはそれから100年以上も経過して、高名なマジシャンでロベール・ウーダン劇場を開いたウジェーヌ・ロベール=ウーダンがこのアヒルを修理した折りに手にとって見る機会を得てからである。(注14)。

 ヴォーカンソンのアヒルの示した機能はむしろ例外に属し、踊る、手品や曲芸をする、タバコを吸う、楽器を演奏するなどの動作を見せる自動人形が多かった中で(アヒルも最初はフルートを吹く人形と太鼓を叩く人形と並べて展示された)、ジャケ・ドロス父子の書記人形やギュスタヴ・ヴィシー作の字を書くピエロのように知的作業をシミュレートする試みもあった。
 この中できわめて有名なのはフォン・ケンペレンの制作したチェス人形で、ナポレオンを負かしたという話もある。が、駒をつまみあげて盤に正確に置く作業こそ精密な機械仕掛けだったが、思考する部分、すなわちチェスの手を決めるのは実は箱の中に隠れた人間であった。(注15)ケンペレンは他にも100語以上を明瞭に発音するという機械を考案し、そのために発声のメカニズムを研究しているが、この装置を見たゲーテはその感想を「やさしい言葉をいくつか、とてもきれいに話した」と記している(注16)。
 発声装置に手をつけたのはケンペレンだけではなく、ファンタスマゴリアの興行で知られるエチエンヌ・ガスパール・ロベルトソンも「フォノルガノン」と名付けた発声装置を発明している(注17)。これらのオートマータは世紀末になると、劇場の見せ物や富裕な家庭の飾りものとしてのステータスを失い、ビジュアルな面白さという面では電気仕掛けのショーウィンドウのディスプレイへ、技術面では各種の自動販売機やエジソンによる「話す人形」の量産のような実用レベルへと変化していく。

 この時代に自動人形がこれほどまで人々の関心を惹いたのは、あらゆる現象は理性と技術とによって解釈し、シミュレートできるはずだという時代の雰囲気があったからである。時計に始まり、蒸気機関の発明によって一気に加速したマシナリーの発達と、天文学と医学に始まる科学の発展は、急激な知の拡大をもたらした。
 この時代の幕開けとも言えるハーヴェイによる人体の循環系の解明は、生命の神秘までが血液の流れという力学的な命題に依存していることを示して大きな衝撃を与え、デカルトの人間機械論の根拠ともなった。

 カント流の絶対性を拒否して空間を計量する方法を編み出したデカルトは、生命の定義についても客観的な標準を提案する。彼は動物もまた一種のオートマータであると考えたが、人間とよくできた自動人形との判別方法としてデカルトが挙げた2つの条件が「言葉を用い、決まった応答ではなく状況に応じた意志疎通ができる」ことと「行動に応じて装置が必要なのではなく、ただ一つであらゆる種類の出来事に応じられる」ことであるのは興味深い(注18)。
 この第一の条件はのちにコンピュータと人間とを区別するための命題として(より正確に言えば、コンピュータが人間の頭脳と区別できない状態にまで達したかどうかを知るためのテストとして)チューリングが提案したものと同じことを意味する。
 第2の条件は冒頭に引用したフランソワ・ジャコブの指摘と軌を一にする。しかもこの時代にはコンピュータはもちろん、まだそれほど精密な自動人形も登場していない。

 メカニカルな機構によって生物の運動や生理的な機能だけでなく知的振舞いまでシミュレートしようとした自動人形の試みは、力学を情報に、カム装置をコンピュータに読み変えればそのまま現在のロボット工学に共通する。そして、どのようにして柔軟な対応のできるロボットを設計するかということが現在のロボット工学の最大の課題の一つであり、そのような知能ロボットは人工生命によって可能になるかもしれないと考えられている。
 そうしてみれば、デカルトは一方では古い生気論を引きずり(注19)、一方では力学的な身体像を説きつつ、生命の本質が情報と創発性にあることをおどろくほど早くから見抜いていたと言えよう。

IV. フランケンシュタインと遺伝子組み替え  ー ウェットウェア

 パラケルススに代表される中世の錬金術師は、各種の物質を調合することで人間を人工的に実験室で製造できるはずだと考えた。この人造人間ホムンクルスは、機械仕掛けの自動人形ではなく有機的に合成された生命であり、異端のそしりを免れないものであった(注20)。
 メァリー・シェリーの書いた「フランケンシュタイン」では、フランケンシュタイン博士は実験の結果人造人間を作り出すことに成功するが、その結果生まれたのは世にも醜い失敗作であり、哀れな人造人間は悲劇を引き起こす。
 フィリップ・K・ディックの小説「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」(あるいはその映画版である「ブレードランナー」)では反対にアンドロイドたちは完璧な完成品であるが、人間より完璧なアンドロイドは、まさにそのために短い寿命しか与えられず、人間に反逆する。

 自動人形やロボットのような機械仕掛けによる生命のシミュレーションがわれわれの世界観に比較的問題なく受け入れられたのに対して、生物、特に人間の身体を構築する物質と同じ材料を用いて生命を作り出すこと ー すなわち人工生命のウェットウェア ー に対しては、現在に至るまで、倫理的な問題が提起される。神を冒涜する所業であると考えられるからであろうか?このような罪の意識が「人工生命」という言葉に対する抵抗感の要因の一つでもある。

 しかし一方で、現実にはすでに、自然には存在していない生物を作りだす試みは行われている。
 試験管的プロセスを用いずに古くから行われてきた例は、馬とロバの交配によるラバの生産で、ラバは馬とロバの長所を合わせ持つ頑丈な動物として知られるが、繁殖力はない。系統の異なる品種間の一代雑種や、突然変異によって(植物の品種改良では放射線による変異の誘発はよく行われる)大型の花や果実をつけるが繁殖能力のない品種の人工的な生産は、野菜等の栽培では普通に行われている。このような技術は古いものであり、とりたてて騒がれることはない。

 このように自然でも稀に起こるレベルでの育種ではなく、遺伝子操作による新種の発明と固定、細胞増殖による大量生産もすでに実用レベルに移っている。自然に発生した突然変異が一つの新種として固定するまでにどれほどの時間がかかるかを考えれば、このような育種の持つ人為性の意味は大きい。
 このような遺伝子レベルのウェットウェア技術が倫理的な問題としてそれほど論じられないのは実用性というエクスキューズもあるし、これがフランケンシュタインとは決定的に異なる点として、先に述べたようにここで行われているプロセスは生物の間の変容であって無生物から生物を発生させるものではない、ということがある(注21)。
 しかし人間は生物について一種のランク付けをしているのであり、キャベツと白菜の中間種が作り出されても倫理的な問題とは感じないが、人間あるいは人間に近い動物で同じことが起これば、それが生物間の変容であっても(あるいはそれであればこそ)きわめて大きい論議を引き起こすに違いない。
 
V. 生命概念の客体化

 生きている生物体の空間的境界の内部で起こる時間的・空間的事象は、物理学と化学とによってどのように説明されるか?・・・今日の物理学と化学とが、このような事象を説明する力を明らかにもっていないからといって、これらの科学がそれを説明できないのではないか、と考えてはならないのです。  (E.シュレージンガー)  (注22)

生命が客観的で論理的な事象として説明できるはずだ、というシュレージンガーやニールス・ボーアらの主張は、分子生物学・生物物理学を先導した。それは一方ではワトソンとクリックの二重螺旋の発見によって始まった情報としての生命という概念を導き、もう一方ではエネルギーという計量可能な単位を統計的に扱うことによってミクロからマクロまでの生命現象をトータルに包括することを可能にした。
 統計的に、ということは、生命現象の時間的展開の結果は一意的に定まるものではなく、その変化は複雑系に属することを意味する。

 生命現象を物理的に解明しようとしたのは、もちろんシュレージンガーが初めてではない。
 生命の諸相を物理的な要素に還元して統一的に説明した最初の物理学者はアリストテレスであり、それはかなりの社会的成功を収めた。人間の体質から性格まですべてを4元素の組み合わせで賄ったギリシャ流生命論が長い間西洋医学の基本となり、また錬金術を経て近代化学を育てたことは周知の通りである。この、ある意味ではきわめてディジタルなギリシャ式生命論は(そしてその流れを汲む西欧の生命論は)、生命の有無に関しても二元的立場を取った。
 その代表的なものは生気論であり、物体は生気(アニマ)(注23)の存在によって生き、それを失えば死ぬ。但し、アリストテレスも生物が一律に生気に満ちているとは考えにくかったらしく、生物の種類や状態によって生気の量が違うとしている(注24)。生気の物理的な量によって生命の段階が得られるという見方である。

 一方、古く中国では知性・理性を司る魂と動物的な生命力である魄とを分離して考えていた。「魂魄相半ばする」(注25)というような中間状態が存在するのが中国的考え方であった。

 一般的には、ある物体が生物であるか否かは容易に判断できそうに思える。生物と非生物とを分かつ条件、ギリシャ人の考えた「アニマ」の正体は何なのか。われわれは何を証拠にある物体(物理的存在)が生きている、あるいは生きていないと判断するのか?生命は果たして二元論で捉えられるのか?

 結論から言えば、シンプルで明解な生命の定義はない、というのが現代生物学の到達点である。
 生物の諸条件として考えられるもの ー 外界から分離可能な物体、自律的な変化、外界からの刺激に対する反応、代謝、熱力学、自己増殖、遺伝情報の存在 ー はどれも、それぞれ全くの無生物にも当てはまるか、生物なのにその条件を満たさないものがあるかのどちらかであり、生物は結局、これらの条件のいくつかを満たすものという定義しかできない。

 人工生命という考え方が成立する理由の一つはここにある。上記の条件のすべてを満たさない生物が現実に多く存在するのならば、同じ程度に条件を満たす人工のシステムも、一種の生命と考えてもいいのではないか(注26)、という論理が成り立つからだ。

 人工生命という概念を成立させるもう一つの重要な要素は、他の自然科学の分野(数学、物理学、化学など)と異なり、生物学という分野は生命が地球という特定の環境で辿った歴史的な展開の上に成立している、という事実にある。
 すなわち、我々の知っている生物学とは、あり得たかもしれない別の展開(もし氷河期が訪れなかったら、もし恐竜が絶滅しなかったら、etc.)を捨象した、あくまでも今の地球を前提にした研究分野である。そして先に述べたように生命現象の時間的な展開は、原因と結果が一対一対応する因果律の世界ではなく、拡散する確率的な可能性の中からどれかが実現するカオス的世界である。
 だとすれば、ユークリッド幾何学が非ユークリッド幾何学の、ニュートン力学が相対性理論のローカル版となったように、地球という枠に縛られた現在の生物学をそのローカルなバージョンとして内包する、メタ生物学があってもいいのではないか(注27)、という主張は的外れとは言えまい。
 クリス・ラングトンが第一回のアーティフィシャル・ライフ・シンポジウムをサンタフェ研究所で開催した際に宣言した"Life as it could be"、すなわち「あり得たかもしれない生命」が人工生命の対象なのである。

VI. ソフトウェアとしての生命

 地動説に続き、進化論はそれまでのキリスト教的自然観を覆し、現代科学の基礎を築いた。人工生命という考え方によって生物と非生物との間にあると信じられていたア・プリオリな区別を取り払い、地球中心主義、あるいは炭素化合物中心主義の生物学から脱却することは、いわば生物学におけるニュートン力学から相対性理論への転換であるといえよう。

 人工生命という概念を提唱したクリス・ラングトンの思考の基礎となったのは、コンウェイが考案した「ライフ」という単純なコンピュータ・ゲームであった。
 一見オセロゲームにも似て碁盤上に並べられたコマは、周囲の条件(別の色に囲まれているかどうか)によって色が決まる。一つのコマの色が反転すれば、その影響は周囲に及び、変化は次々に伝わる。

 この原理は生物がコロニーを作る時の経時的な変化と共通しており、CGでは早くからセルラー・オートマータとして知られる。ルールは単純だが盤面が大きくなれば各ステップの計算量は相当なものになる。実際、ネットワーク状になった相互関係の変化に伴う計算量の多さは、生態学シミュレーションの最大の問題である。
 生態や進化のような生物学上の問題を、現実に固有の種の間で発生した現象や今後発生し得る現象のシミュレーションとして研究するのではなく、それらを抽象化し、炭素化合物上の化学変化ではなくシリコンチップ上の情報として研究の対象とするのが人工生命のソフトウェアとしての展開であり、それを何らかの形で可視化するためにはCGが使われる。

 コンピュータ上に仮想の生物マップ、すなわち生態系を作り、CPUタイムを生態維持に必要なエネルギー源として設定し、このエネルギー源=食物を獲得するために生物が生存競争を展開した結果、寄生種、共生種など多様な種が進化することを示したのがトム・レイのTierraであり、一方、アラン・ケイの思想に基づいてラリー・イェガーが構築したPolyworldでは異なる種からなる300以上の個体が一つの系を構成して常時変化する。
 これらの研究のプレゼンテーションでは、各個体は一定の色を持ったピクセルの集合として表示されるが、このような系を生命体の集合として見た場合、スクリーン上に表示される色やポリゴンは単にそのリプリゼンテーションとしての仮の姿に過ぎない。その人工生命としての実体はプログラムであり、その生態とはコンピュータのCPUの中を高速で飛び交う電気信号である。異なるレンダリングを施せば、その見かけの姿は全く別のものになり得る。

 我々はまだ、生命の本質が情報という抽象的なものにあることは認めても、生命体それ自体が定型的な外観を持たない抽象的なものとして成立する、というような概念には慣れていない。
 遺伝学の基本概念によれば、生物は遺伝子型と表現型とに分けて考えなくてはならないのであり、遺伝子型がその生物の生まれつきの形質を決定する情報であるのに対して、表現型とは誕生と成長の結果として得られた生物の外観あるいは物質的な存在である。CGの用語で言えば、人工生命の場合、遺伝子型はプログラムの中のパラメータであり、表現型はモデリング、レンダリングの結果である。

VII. 可視化と表現  コンピュータで生命のあらゆる要素を扱うことはまだ困難である。現実の生物を扱う生物学がさまざまな分野に分かれているのと同様に、人工生命の研究も生命活動のある要素を取り出して対象とすることになる。ドーキンスが試みた形態進化のシミュレーションのように形態に関する情報自体が対象となる場合もあるが、形態を捨象した抽象的な生命として扱う場合も少なくない。実際、TierraにしてもPolyworldにしても、現在のところは、コンピュータの能力の限界のためにごく単純な表示を用いている。
 しかし、コンピュータの更なる高速化がよりリアリスティックなレンダリングを可能にしたときにどのような表現形態が取られるようになるかは興味深いところである。
 SFに登場する地球外生物の殆どは地球に発達した炭素系生物のアナロジーから脱していないという指摘がしばしばなされるが、生命の抽象化による理論生物学として構想された人工生命がビジュアルな表現を伴うとき、我々は、抽象的な生物というものの姿をイメージできるのだろうか。

 可視化=ビジュアライゼーションは、理論の直観的理解をもたらすと同時に、その理論に否応なく視覚的な形態を付加する。
 最初はBASICで書かれたドーキンズのバイオモルフが単純な線画で表現され、本来のモデル以上の印象を伴わないのに対して、現在われわれが手にしているCG技術は、ある意味では危険な誘惑をはらんでいると言えよう。
 例えば物体表面のテクスチャのような細部のリアリズムの完成度が高まるにつれて、視覚は本質的に重要でないリアリティの感覚に捕らわれやすくなる。ソフトウェア、あるいはシステムとしての人工生命がCGというツールボックスを通じて可視化される以上、それが最終的にどのような表現として伝達されるべきであるか、研究者とCGデザイナーが熟慮することが今後は特に必要となってくるだろう。

VIII. インタラクティヴ・アートと人工生命
 
 生命現象をより抽象的かつ論理的に扱う、という人工生命の概念は、アートに大きな影響を与えつつある。コンピュータの高速化によってリアルタイム性、インタラクティヴ性が増大し、立体視などを含めたバーチャルリアリティ化の進むテクノロジーアートの世界では、人工生命を目に見える形で提示することが可能であり、すでにこの分野から優れた作品や今後の発展を期待させる作品が出現してきている。

 音楽や文学などアートの他のジャンルについても同様であろうが、視覚芸術は人間の目から見た人間の本質あるいは人間を取り巻く環境(自然的なものも社会的なものも含めて)、それらの間のコミュニケーションの上に成り立つものであり、それらを抽象化して新たな視点から捉え直す人工生命という概念や、現実のエコロジーに束縛された形を持たない生命体によって構成される動的な系は、アートに新しい実験の場を提供するものであろう。

 一方、コンピュータがアートに与えた大きな変化の一つに、インタラクティヴ・アートというジャンルの成立がある。
 ここでインタラクティヴ・アートそれ自体について論じるゆとりはないが、作家は最終的で完全な表現形態を提示し、観客はそれを見る(もちろんそこで観客が受け取るものは個別に異なるわけであるが)、という伝統的なアートの様式から、作家は時間軸とその時々のインプットによって異なる結果を導くシステムを提示し、観客(もはやそれは観客ではない)は参加することによって作品の制作過程に組み込まれていく、というインタラクティヴ・アートへの変化は、決定論的宇宙観から進化論的宇宙観への変化に対応している。これは作家自身の意識のありようと密接にかかわる問題でもある。

   たとえば進化をテーマにした人工生命アートの場合、形態であれ知能であれ、進化は環境との間の相互作用によって引き起こされるものであるから、そのプロセスをインタラクティヴ作品として提示するか、それとも作家の考えに沿った展開のみをセレクトしてノン・インタラクティヴに提示するか、その2通りの場合があり得る。生態系を扱う場合も同様である。それは最終的には作品のどの部分に作家性を求めるかという問題でもあり、これはCGで早くから存在する2つの異なる態度、すなわちビジュアルな結果に作品の本質を求めるのか、それともそこに至るプロセスやアルゴリズムに価値があるのか、という論争と同じ延長線上にある。
 とはいえ現在はまだ技術的な問題からインタラクティヴにしたくてもできない表現が多くあるが、そのかなりの部分は今後数年間の技術的発展によって解決するだろう。その時、人工生命という新しい命題をアーティストがどのように捉え、提示していくのかが問われることになる。(1995年1月)
 

注1 A-Life というもともとの英語の意味するところは確かに人工生命であるが、言葉のニュアンスと実際に研究の対象となる分野を比較すると、「生命」だけでなく「生活」すなわちエコロジカルな要素も意味する英語に対して、日本語では生命を作り出すという要素が強められ、いささか印象がずれる面がある。
注2 ビザンティンのピロによる機械仕掛けの女性像やアレキサンドリアのヘロ(ヘロン)が設計したといわれる各種の自動装置の図、「イーリアッド」に登場する鍛冶の神の仕事場の記述、トロイの木馬の存在などは、古代ギリシャにおける機械装置への関心と技術的蓄積をしのばせる。
注3 レーウェンフックによる精子の発見後、精子の中に完全な人間のモデルが存在しているはずだと考える男性優位主義的な精子論者によって、精子中にうずくまる微小かつ完全な人間ホムンクルスが顕微鏡下に「発見」された。
注4 このような遺伝アルゴリズム(GA)のコンピュータサイエンスへの応用は、人工生命の分野で最も性急な応用分野である。
注5「可能世界と現実世界」pp44-48
注6 時計は当時としては最も精密な機械であり、メタファーとして大きな意味を持った。
注7 リチャード・ドーキンス「ブラインド・ウォッチメイカー」(上)pp22−26
注8 1994年にサンタフェからMITに場所を移して開催された第4回人工生命国際会議が従来よりアカデミックに運営されたことに対してその是非が論じられている。
注9 リンデンマイアーらが提唱したL−システムは、チョムスキー文法のリニアーな構成を脱して枝分かれアルゴリズムに基づいた多元的で非決定論的な発展を可能にする。これは、成体の設計図が胚の状態から組み込まれているのではなく、細胞の分化のそれぞれの時点でいわば次のステップの設計図が起動され、不必要な機能スイッチがオフになる、という現在の生物学の定説を構造化した理論であり、実際に生物の形態シミュレーション(植物、貝殻など)では最もリアリスティックな成果が得られるモデルとして知られる。
注10 単純化された植物の生長モデルを用いてイマジナリーな植物を創っていたPeter Oppenhimerや、鳥や魚のような群の行動を模倣するシステム(これは"Batman Returns"Cliff Hanger"等の映画にも使われている)を開発した Craig Reynoldsらが参加した。
注11 このような自律的「世界」はすでにゲームやアート作品として出ており、立体視とインタラクティヴ性を備えたVR作品も出現している。現在最大のネックは演算速度と、自然な感覚で使える立体視装置の開発である。
注12 日本でも「茶運び人形」や祭りの屋台のような精密なからくり人形が作られたことは周知の通りである。
注13 であるから、のちに述べるセル・オートマトン(セルラー・オートマータ)もそのように命名された。(なお、オートマトンの複数形がオートマータである。)
注14 時計職人の経歴を持ち、自分自身もオートマータあるいはオートマータのように見えるもの(一見オートマータだが実際には動力伝達装置で動くのではなく、手品の手さばきであたかも自動装置のように見せるもの)を制作して舞台で見せていたロベール=ウーダンは、1845年にこのアヒルの片方の翼の修理を依頼され、そのトリックを1868年に出版された著書の中で暴露した(「魔術師と映画」pp20-24、"Automata at Bagatelle" pp15-16)。 この暴露の結果、ヴォーカンソンのアヒルは顧みられなくなり、朽ちるに任された。しかし前述したように、ベイリーらによればロベール=ウーダンも同じテクニックを使っていたのである。当時、魔術からオプティカルな見せ物、そして映画への移行と並行して、マジシャンの手業がオートマータの隆盛と結びつき、一種のロボットを含む自動装置が舞台の重要な一部となっていた。
注15 この人形は1769年に制作されたもので、チェス盤を前にして座ったトルコ風の風采の男であることから「鉄の回教徒」とも呼ばれた。
注16 "Automata at Bagatelle" pp17-19
注17 同上 
注18 デカルト「方法序説」第5部 pp69−70 ここで「種々雑多な自動体」と訳されている部分は原文では「種々雑多なオートマータ」である(p224 訳注43)。
注19 同上 pp68-69
注20 注3参照
注21 地球から絶滅したと考えられる天然痘の病原体に関して、そのDNAが完全に判明していることから、現在保管中の実物サンプルを破棄するという決定がWHOによって先頃下された。このとき最後まで問題になったのは、DNAが判明していても現在の我々にはそれから生命それ自体を復元することができない、ということであった。
注22 E.シュレージンガー「生命とは何か ー物理的にみた生細胞ー 」p2
注23 CG動画という意味でも使われる「アニメーション」とは、まさに「本来生きていない物体に生気をふきこむ」ことであり、そういう意味ではわれわれは未だにギリシャ式生気論から自由にはなっていないのである。
注24 Claus Emmeche " The Garden in the Machine" (1994) p25
注25 たとえば中国の古典的怪談「牡丹灯篭」では、この状態の死者(というのだろうか)が問題を引き起こす。魂が離脱したのちも魄がしばらく身体にとどまる結果、理性や良識が失われた状態で本能的な情動に従って身体的な機能が発揮されることになる。これは、現代の科学では脳の異なる部位の果たす役割として説明されるものを二種類のタマシイの分業として考えたわけで、人間の精神活動が停止した状態でも生命活動が持続するような各種の状況にも対応できる実際的な解釈である。
注26 もし長い間休眠状態を保つ古代ハスの種子と自動車とを比較すれば、自動車の方が多くの条件を満たすだろう。コンピュータウィルスも多くの条件を満たす。
注27 フランスの動物学者でありアーティストであるルイ・ベック(Louis Bec)は「理論的に存在可能な」生物体をCGで制作してその生態をシミュレートするが、その目標は、進化の編み目の穴を埋めることによって、より総括的な動物学体系を構築することにあるという。(IMAGINA 93 Proceedings) これは理論生物学の立場から人工生命を包括する考え方として代表的なものと言えるだろう。

参考文献
デカルト 「方法序説」 落合太郎 訳 岩波文庫 1953 (原著 1637)
"Artificial Life" edited by Christopher G. Langton , Addison Wesley 1989
"Artificial Life II" edited by Christopher G. Langton, Charles Taylor, J. Doylne Farmer, Steen Rasmussen, Addison Wesley 1992
"Artificial Life III" edited by Christopher G. Langton, Addison Wesley 1994
"Artificial Life " edited by Rodney Brooks and Pattie Maes, The MIT Press 1994
"SIGGRAPH 94 Prodeedings" ACM SIGGRAPH 1994
"IMAGINA 93 Proceedings" INA/IMAGINA/CNC 1993
リチャード・ドーキンス「ブラインド・ウォッチメイカー 上・下 」
 訳:中嶋康裕・遠藤彰・遠藤知二・疋田努 監修:日高敏隆   早川書房 1993
フランソワ・ジャコブ 「可能世界と現実世界」 田村俊秀・安田純一 訳 みすず書房 1994
レオ・レオーニ 「平行植物」 宮本淳 訳 工作舎 1980
T-Brain Club/HUNANMEDIA編 「人工生命の美学」 洋泉社 1994
Claus Emmeche "The Garden in the Machine - The Emerging Science of Artificial Life" Princeton University Press 1994
Przemyslaw Prusinskiewicz, Aristid Lindenmayer "The Algorithmic Beauty of Plants" Springer/Verlag 1990
Rudy Rucker "Artificial Life Lab" Waite Group Press 1993
Christian and Sharon Bailly "Automata at Bagatelle" AAAPJA Paris 1993
E.シュレージンガー 「生命とは何か」 岡小天・鎮目泰夫 訳 岩波新書 1951
柴田崇徳・福田敏男 編 「人工生命の近未来」 時事通信社 1994
北野宏明 「進化するコンピュータ」 ジャストシステム 1993
桑原茂夫 「からくり百科」 筑摩書房 1984
エリック・バーナウ 「魔術師と映画」 山本浩 訳 ありな書房 1987