書評:「戦場のテディ・ベア」ー ストーリーテリング、について考えたこと ー


-"Book" Revue of "Operation Teddy Bear" by Edouard Lussan -

by Machiko Kusahara (curator, media critic)


草原真知子(メディア論、神戸大学)


 コミックとアニメの違い、が、以前から気になっている。両者は本来、異なる文法に基づいているはずだが、人気コミックがアニメ化されると、いかにもアニメらしい作りになる。つくる側、見る側には違和感はないのだろうか、と思うわけだ。

 手塚治虫の作品に「展覧会の絵」というかなり長いアニメーションがある。ムソルグスキーの曲に合わせたオムニバス形式で、終曲の「キエフの大門」ですべての登場人物が結集してクライマックスになだれ込む。すでに財政難に陥っていた虫プロの記念アルバム的制作で、アニメーターがそれぞれ独自に挿話を担当しているから、キャラクターもストーリーも良く言えばバラエティーに富み、悪く言えば全く統一がない。しかし、市場性を意識してパッケージされた手塚のTVアニメとは対極にあるこの作品には、滑らかな動画に対する違和感があるように思える。
 映画のダイナミズムを感じさせるマンガを描く、と評され、事実アニメーション作家として成功した手塚は、逆にコミックの強さをどうしたら動画に生かせるか模索していたのではないだろうか。晩年の「おんぼろフィルム」や「ジャンピング」は、まるでコマ割りの妙をアニメに生かしたような、意表を突く傑作だ。


 で、本題である。ノルマンディー上陸作戦前夜のフランス。レジスタンスにかかわった者が次々に処刑されていく中で、知らぬ間に重要な役割を負うことになる少年とテディベア、彼らをめぐるさまざまな立場の人々。インタラクティブに読み進むスリリングなコミックに、当時の状況を示す豊富な資料が埋め込まれている。
 きれいな色使いと手描きの雰囲気、ユーモアのセンスが効いていて、余計な重苦しさを感じさせない。フランスで出版された直後から、今までにない良質のエデュテイメント作品として評判になった。

 たしかに、CD-ROMはふだんからかなり見ているが、近頃これほど引き込まれるタイトルに出会ったことがない。モニタの前に釘付けになり、一気に読んでしまった。ストーリーの結末までたどり着いてようやく一息つき、改めて目次に戻って資料編をあちこち探索して回った。コミックとして読んでいる時に出てきたいろいろな知識の断片が、資料編では体系的にまとめてある。同じ画像やテキストを別のアプローチからデータベースとして構成できるマルチメディアの特質がうまく使われている。

 CD-ROMを読むというのは変な語法かもしれないが、実際、この作品の本質はコミックだ。コミックの基本をしっかり押さえながら、紙メディアではできなかったことをやろうとしている。あくまでも画面を区切るコマ割りという形式が、コミックが本来持つダイナミックなストーリーテリングの力を発揮させている(と同時に、テーマの持つ悲惨さを救っている)。
 その一方でコミックの形式への侵犯も仕組まれる。コマの中に部分的に仕込まれた動画だけでなく、ひとつのコマから人物のシルエットが浮かび出して、それを次のコマに移動させると物語が展開する仕組み。突然、枠を横切って飛んでくるリアルな(3DCGが効果的に使われている)飛行機は十分に意表を突くし、戦場で一晩のうちに飛行場を作るシーンや、避難民の列が延々とスクロールしていく場面は、映画的でさえある。

 しかし、そうした多様な要素を総合しながらコマ割りに固執したところに、ディジタル・コミックの持つ可能性が浮かび上がりつつあるように思える。コミックのアニメ化ではない、インタラクティブ・シネマとも違う、紙とディジタルの相互侵犯による新しい表現形式が、これからいろいろな分野で出てくるのではないだろうか。

 マルチメディアは何でもできます、静止画、写真はもちろん、動画もテキストも音声もインタラクティブに扱えます、と言った途端、マルチメディアは秋葉原駅前でいつも実演販売中の万能調理器みたいに、何にでも使えるけれど本当には使えない、他の道具の代替品の集合でしかないものになっていく。コミック、という伝統芸(?)の世界とデータベース型教育ソフトというマルチメディア御用達の世界をちゃんと表裏に貼りあわせた「テディ・ベア」には、いろいろな意味でディジタル時代の職人芸を見た思いがする。

CD-ROM「戦場のテディ・ベア」1996 Flammarion
日本語版発売元(株)ブレイン、販売元(株)SMEインターメディア
(1997年11 月執筆、季刊「本とコンピュータ」掲載)


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