写し絵の現在

 

みんわ座の32年

代表 山形文雄


32年前、世は大学闘争の激しい時代であった。

学生達が道路を封鎖して機動隊と渡り合う側を通り、最初の作品となる絵を画家と打ち合わせにお茶の水に通って

いた。

それが、影絵人形劇団みんわ座の始まりだった。

学校公演のままならぬ十年を耐え、稽古場ができてから全国を巡回するようになった。

写し絵に出会ったのは、二十年ほど前のことである。


これまで、「雨月物語」など、日本の古典を影絵芝居に作ってきた。

古典が読まれなくなった今日、その優れたものを作品にして子供たちに見て貰いたいと思っていた。

「写し絵」は説経節で語られ、演目に優れた古典を作品に持つ。

更に、手動で映像を動かす「からくり」の優れた技術を持っている。

江戸時代後期に始まったが大正時代に滅び、今は演ずる人がいないという。

なんと勿体ないことではないか。

劇を演じる「写し絵」の絵は、手描きのガラス絵である。

割れて欠落している絵が多く、なんとか上演出来るものはないか、博物館にあっても、完全はものは見つからない。

新潟、首都圏。西は鳥取、松江、倉敷と、探して歩いたが、そのままで上演に耐える作品を見つけることができな

かった。

東京都無形文化財・説経師、二代目若松若太夫師(現 武蔵大掾)の手元に、ほぼ完全に揃う「狐葛の葉 子別之段」があると人伝に聞いた。

8年前のことである。

師と会って包みを開くと、見事な出来映えの種板が現れた。

明治初期、優れた浮世絵師と知られた二葉太夫の筆になるものだった。

許可を得て復元し、創立二十五周年公演に上演して、みんわ座の「写し絵」、最初の作品となった。

これ以降、若太夫師の弟子、政太夫師に説経節を語って貰い、七つの作品を復元した。

復元調査の様がNHKTVニュースで放送された後、多くの情報が寄せられるようになり、調査や復元に協力してくれる方が増えた。

とても有り難いことだと思っている。


だが上演を続ける中で、新たな問題も見えてきた。

古典芸能の説経節は、現代の若者に詞章が馴染まない。

難しくとも、伝承のままで語って貰うのが良いか、他の道もあるのか。

今回、初めて説経節の詞章を現代語に近づけてみた。

若い人たちにも馴染んで貰いたいからである。

説経節にパーカッションが入り、リズムを刻む。

このような試みの延長線上に整理淘汰があり、写し絵の新しい創造が見えてくるのではないか。

しばらくこの道を模索したいと思っている。

大衆文化であった写し絵は、公的な保護や復興の対象にはならなかった。小林源次郎という民間の研究者の熱意がなければ、その概要がまとまった形で残されることはなかっただろう。(中央大学出版会 小林源次郎著 「写し絵」)

小林源次郎と、その娘で研究を積極的に手伝った芝綾子(旧姓 小林)は、写し絵の魅力を伝えるために奔走し、結城座やみんわ座に力を貸した。しかし、写し絵をただ原型のまま上演しようとしても、限界がある。(だからこそ、写し絵は他の映像エンターテイメントに勝てずに滅びた。)

写し絵が日本のアニメーションの原型として注目を集めるに至ったのは、みんわ座の努力によるところが大きい。

都楽が写し絵を考案したときの創意工夫を今に生かして、現代の上演環境に合うように技術革新を行ったことで、より多くの人々に写し絵を見せることが可能になった。

現在、江戸写し絵は劇団みんわ座により復元上演され、関西の錦影絵は桂米朝一門によって継承されている。関西最後の写し絵師から道具一式を受け継いだ桂米朝師匠が、一門の若手落語家に芸を伝えてきた。オリジナルの道具一式を用いるため、ごく薄いガラスが使用されている種板の運搬には最新の注意を要し、公演の機会は少ないが、落語家が掛け合いで語りながら風呂と種板を操作し、ちょっとした操作ミスも即興のネタにしてしまう、いかにもかつての寄席芸らしいライブ感が味わえる。

東京の結城座は、江戸時代より続く由緒ある人形芝居の劇団であり、隅田川に浮かべた屋形船での上演がたいへんな評判を呼んだ、写し絵の家元でもあった。しかし風呂と種板のすべてを関東大震災と戦災で失ってしまった。

結城座はアングラ演劇、アヴァンギャルド演劇に長くかかわってきており、それに写し絵の技法と人形劇を融合させた新しい演目を意欲的に創造・上演している。(http://www.youkiza.jp/mamejiten/utsushie.html

平成 玉川文楽 復活披露


江戸写し絵は、日本伝統の彩色影絵芝居です。

江戸時代・享和3年(1803)に始まり、明治20年代に最盛期を迎えました。


初代玉川文楽(薫森利三郎)は明治20年頃、すでに車人形の名手として知られていましたが、人気の「写し絵」を「玉川文蝶」に学び、「玉川文楽」の名跡で「写し絵」の上演を始めました。

 

種板の絵は浮世絵師を招いて、自ら車人形で劇的シーンのポーズを取って絵を描かせたものが多く、優れた種板を残しています。

初代の次男、亮氏が二代目を継ぎ、昭和の初めまで演じていました。


劇団みんわ座は、永く「玉川文楽」の写し絵の復元と上演に努めてきました。

三代目を継ぐ者がいなかった薫森家から、劇団みんわ座代表である山形文雄に、「玉川文楽」の襲名の打診がありました。

写し絵に関心のある方々からのお薦めもあり、写し絵の古様式の保存と現代的発展を意図し、「平成玉川文楽」復活披露公演を致す事となりました。