写し絵とは?
始まりは約200年前
杉田玄白の「蘭学事始」のなかに、南蛮渡来の珍しきものとして、「トーフルランターン」という記述があり、 「現妖鏡」と訳されている。今日でいう幻灯機で、明和4,5年の頃(1767,8)にはすでに、大坂や江戸ではかなり知られていたらしい。
小規模な上映用に広く用いられ、ヨーロッパで広く普及した幻燈機。最初はロウソク、次第に小型オイルランプが光源に用いられるようになった。
このような形の幻燈は初期の旅回りの幻燈見世物に用いられ、のちには家庭用に普及したが、数世紀にわたってデザインはほとんど変わらなかった。ラピエール製(フランス)
江戸で見世物になっていた幻燈を見た上絵師がいた。亀屋熊吉、高級な着物に手描きで模様をつける、現代で言えばデザイナーであり、師匠にもついて本格的に落語を語る趣味人である。芸名は都楽。
初代亀屋都楽が映像による劇を初演したのは享和3年(1803)。
これは、ヨーロッパでロベールソンが「ファンタスマゴリア」で幽霊を飛び回らせてたいへんな評判を取った、そのわずか数年後である。
闇の中に、極彩色に描かれた人物が輝いて登場し、説経節や義太夫節で語られる情念の世界を、様々な立ち居振る舞いで演じた。
「描いた絵が動くなんて、これはキリシタン・バテレンの魔術ではないのか」と江戸庶民は驚き、熱狂したという。
写し絵は、映像に語りと音曲を加えて劇を演じた、映画に百年も先行した芸能だった。
単に映像を映しただけではない。
南蛮渡来の幻灯はおそらく金属製で、当時のスライドは、マホガニーなどの木枠にはめ込んだガラス板に、色鮮やかな透明顔料で、物語や風景、コミカルな顔などが手描きされていたと思われる。 スクリーンには布が使われた。
写し絵の道具には、 木と紙、という日本的な素材を使う。 杉または桐でつくられた幻燈は軽く、機動性のある操作ができる。 特に桐は非常に軽く、しかも燃えにくい。
種板は薄いガラスに色鮮やかに描かれ、これも桐の板にはめ込まれた。
半透明の和紙は、裏側からの映写に適したスクリーンになる。 映写機とその使い手たちは、スクリーンの蔭に隠れてしまうので、上演の仕掛けは、客からは見えない。
「幻燈」が「写し絵」になるためには、この材料の違いが決定的な役割を果たした。
欧米でも、初期の大型幻燈機はしばしば木製で、主流が金属製になった後も、イギリスではマホガニーと真鍮を用いた重厚な幻燈機が尊重された。だが、これらの幻燈は重く、あるいは熱くなる。卓上に固定しての使用が前提だ。
都楽以前に見世物として使われた日本の幻燈も、木製だったかもしれない。しかし、「軽い木製の幻燈」が持つモバイルな可能性をはじめて的確に理解し、幻燈を写し絵というリアルタイムアニメーションにしたのは、都楽だった。
幻燈の和風化
忠臣蔵、勧進帳、番町皿屋敷、葛の葉、日高川入相桜、三庄太夫、小栗判官照手姫、傾城阿波の鳴門など、説経節や文楽、歌舞伎、落語などから題材を得て「写し絵」向きに直して演じたほか、コミカルな「だるまの夜這い」などの演目も大いに受けた。夏の夜に演じられることが多かったため幽霊や妖怪の出る物語は歓迎された。各地方の伝説、民謡に振り付けた踊りもあった。
見る間に花が開いたり、盆栽の楓が紅葉したり、枯れ木に瞬時に花を咲かせるといった細工の面白さを見せる演目は 欧米の幻燈とも共通性があるが、このアイディアが外国から入ってきたのか、それとも同時並行的に案出されたものなのかは、分からない。このような「花もの」、物語、滑稽話などを合わせて、一晩の興業を行っていた。
明治時代に入り、欧米から改めて導入された「幻燈」は、マジックなどの娯楽もさることながら、教育や啓蒙の重要なツールとなった。ニュース映画の先駆けともなっている。幻燈と写し絵が実は同じ仕組みだということが分かると、その演目は混じり始める。幻燈は「日清戦争」の戦況などをいち早く舞台にかけ、日露戦争の頃から家庭にも普及して大衆映像メディアとなっていった。
江戸時代、写し絵は油皿に立てた芯を点して明かりとした。そこで得られる明るさでは、100名の客に観せるのが限度であり、それは寄席芸としては妥当だった。
その後映画が輸入されるにおよんで、興業としては成り立たずに衰退していった。
江戸、明治、大正と庶民に親しまれた芸能だった写し絵は、映画が地方にまで普及した昭和初期に終焉した。
「写し絵」研究書
写し絵を研究し、その全体像をまとめた小林源次郎の私家本「写し絵」が中央大学出版部から刊行されていて、 写し絵に興味を持った一市民が手探りで次第にその全容を明らかにしていく過程のドキュメントとして読んでも、たいへんおもしろい。
小林源次郎の研究に最も寄与したのが、最後の写し絵師、玉川文楽である。
山本慶一「江戸の影絵遊び」(草思社、1988)は、影絵に関連した江戸時代の文化を熱かった優れた研究書で、 写し絵と錦影絵についても述べている。
注
※<説教節>
説経節は中世、僧が仏の教えを広めるため諸国を遍歴し、民衆に経を説いたのが始まりとされる。
町の辻や祭礼などのなかで、筵を敷き、傘を立てた下で、「ささら」をすって説経節を語った。
後に物語を語る芸能に発展し、「三庄太夫」「小栗判官」などの、仏の教えに導かれた作品を完成させ、今日に伝えられる。
※<上演の実際>
絵は、4センチ角位のガラスに描かれ、薄い板でできた一枚の種板に2〜6枚ほどはめられている。風呂を抱え、種板を手でスライドさせ、コマ送りすることで、瞬間に絵を変化させることができた。スクリーンは和紙で作られ、寄席では、1.8m×5.4m 程度の大きさであった。語り(説教節、落語家等)と楽曲と風呂を操作する8人前後で一座を組んだ。
写し絵師が「光を操り」、映像を自在に操作して劇を演じたのが「江戸写し絵」である。
絵を動かす原理は今日のアニメーション映画と同じで、その基本技術はすでに江戸時代に考案され、劇に生かされていた。
映画などのフィルムに固定された映像ではなく、客の反応に受け答えする「生」の映像と言えるだろう。