早稲田大学文学部    草原真知子

 200年前、オランダから伝えられた幻燈は、 関東では写し絵、関西では錦影絵と呼ぶ独自の演芸に発展した。島根では影人形、影芝居とも言う。

江戸後期から明治にかけて広く親しまれたこの芸能は、現在では、上方最後の錦影絵師から道具と技法を受け継いだ桂米朝一門と、江戸写し絵の技法を復活させ、コンピュータなどを用いて復元も手がける劇団みんわ座によって演じられるのみとなった。

写し絵・錦影絵を西欧の幻燈と比べると、さまざまなことが見えてくる。同じテクノロジーから出発しながら、文化基盤、科学技術のインフラの違いによって、その発展の方向性が異なり、差は次第に広がる。一方で、そこで人々が求めることには、民族や社会を超えた共通性が見受けられる。

写し絵・錦影絵の場合、社会・文化とメディアテクノロジーの相互作用は、西欧の幻燈にはない、アニメ的な表現を生み出した。一方、西欧の幻燈は、装置の機械化と写真の導入を経て映画へと発展した。

写し絵・錦影絵の基本は、17世紀後半に西欧で用いられるようになった幻燈機とスライド(ガラス種板)だ。

誰が幻燈を発明したか、いくつかの説がある。

有名なオランダの科学者、クリスティアン・ホイヘンスが最も早い時期から幻燈の原理を理解して制作し、実際に人に見せていたことは確かだ。外交官で詩人でヨーロッパ宮廷をリードする1人だったhistory3.tiffホイヘンスの父親は、この発明品がいたく気に入っていた。マジメな科学者だった息子は、父親の言いつけでしぶしぶ、悪魔や亡霊や天使が出現したり舞い上がったりする幻燈ショーを、しばしばパーティーの余興にやる羽目になった。

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幻燈を飯の種にするつもりではないホイヘンスは、人に聞かれれば幻燈animals.jpgの原理を教えてやったし、その後まもなく出版されたアタナシウス・キルヒャーの本にも幻燈は取り上げられた。

やはり17世紀後半、有名なイギリスの科学者で実験の名手、ニュートンのライバルでもあったロバート・フックは、科学教育のためkircher2.tiffに幻燈を用いようと工夫を凝らした。

こうして幻燈は各地に広まっていく。18世紀に入ると、幻燈の原理を知り、その製造や利用、改良に携わる人々は、欧米全体で数百人にのぼったと考えられている。

レンズ関連の技術で知られ、ホイヘンスの母国でもあるオランダと交易していた日本に幻燈が入ってきたのは、当然と言えよう。

「解体新書」で有名な杉田玄白 (1733-1817) が記した「蘭学事始」の中に、オランダから入ってきた事物として「トーフルランターン」(オランダ語で幻燈)について書かれている。

おそらく大名や蘭方医や富裕な町人は互いに貸し借りして楽しんだものだろうが、江戸や大阪で幻燈が見世物に使われていたことを考えると、 おそらく、少なくとも何台もの幻燈が日本に入ってきたに違いない。

しかし幻燈は、公式なオランダ船の舶載品のリストに載っていない。 なぜだろうか?

鎖国という特殊Fall&Hanabi.jpgな状況が続いた日本で、従来考えられていたよりは多く、西欧の事物が入ってきていたことが、最近の研究でわかってきている。公式な「舶載品」以外に、いろいろなものが持ち込まれたようだ。

ロンドン大学のタイモン・スクリーチは、「大江戸視覚革命」(作品社、1998)というきわめて刺激的な本の中で、江戸時代に日本に入ってきたレンズと、それを用いた一連の娯楽装置が、日本でどのように受容されたか、多くの浮世絵や当時の読み物から読み解いているが、彼はこの理由を次のように考える。これは確かに納得できる推論だ。

「遊びは旅する。近代の夜明け、航海は数ヶ月も要し、人々は退屈を慰めるものを必要とした。暇な時間の多い船長や士官は、今日のエグゼクティブ・トイとかデスクトップトイに相当するものを船室に持ち込んだ。説明も不要な、こうした分かりやすい遊びの道具は、言葉の壁を越えるための最適なプレゼントとなる。このようにしてヨーロッパから持ち込まれたものが東アジアに到達し、そこに留まり、そして帰途には東アジアの事物がヨーロッパに旅した。その結果、私たちはヨーヨーやじゃんけん(英語ではチン・チャン・チョンと呼ぶ)で遊び、あなたがたが写し絵や錦影絵を楽しむ。気軽なおもちゃの交換が、実は国際的な出会いの核心に私たちを導き、互いの文化に魅了される経験を生む。」 (2006年3月、写し絵・錦影絵合同公演に寄せたメッセージより。草原訳)

さて、日本に伝わった当時の幻燈は、どのようなものだったのだろうか?

初期の幻燈は、大型のものは木製、小型のものは金属製が多いようだ。

前頁の図(キルヒャー)にあるように、長い木の板に丸い穴をいくつもくりぬき、そこに手描きのガラス絵をはめこんだものが用いられた。

さらに、2枚のガラス板を組み合わせて、その操作で人間が骸骨に変化したり、糸と小さなハンドルを組み合わせてガラス円盤上の絵を動かしたり、金phantas1.tiff属製のレバーを組み込んでキャラクターの一部分を動かすような仕組みが早くから工夫された。

当然、日本にもこのような、動くスライドが入ってきたと思われる。

18世紀後半、西欧の幻燈の光源はロウソクからランプに進化、光量が上がって、より多くの観客に見せられるようになった。

今から200年前、19世紀の初め、ベルギー出身のfanatas1.tiffロバートソン(ロベールソン)が工夫したファンタスマゴリアは、 フランス革命後の混乱した世相にアピールした。

大型の幻燈機に車輪をつけ、ダイナミックな動きを可能にする。

暗殺されたりギロチンにかけられた著名人の亡霊や悪魔や天使が映写幕の上を飛びrobert2.tiff回る。

背後から映すリアプロジェクションは、仕掛けがわからないだけに、怖さを倍増させた。

ファンタスマゴリアの大成功は、ショービジネスとしての幻燈を定着させた。

車輪のない小型の幻燈をショーマンの腰にベルトでくくりつける方法も編み出された。「ファンタスマゴリア・ランタン」と呼ばれる幻燈機は、金属製あるいは木製の箱にレンズ筒がつき、煙を出すための煙突がついた、簡単な仕組みである。光が漏れるのを防ぐよう、また、ランプの煙が演じ手に直接かからないように、煙突が折れ曲がっていることが多い。専業メーカーが各地にでき、かなりの数が生産された。

これらの幻燈機は、かなり手軽な価格で買えただろう。タイモン・スクリーチの推理を信じるとすれば、ちょっとした高級船員だったら、そんな幻燈と種板の一式を船に積み込んでも不思議はない。今ならビデオやDVDを持ち込むようなものだ。

そして、これらの幻燈機の本体は、黒く塗ったブリキの箱にレンズと煙突をつけたようなデザインだ。金属板を薄い木の板に置き換えれば、写し絵の風呂そっくりのものができる。

種板も、板をくりぬいてガラス絵を嵌める、ガラス2枚の一方を引くことで絵が変わる、糸で丸いガラスを回す、などの仕掛けは共通だ。写し絵・錦影絵の風呂のレンズの前に黒い幕をつけ、その開閉でフェードイン・フェードアウトなどの効果をつくりだすところも、ファンタスマゴリア・ランタンと同じだ。

これは推測の域を出ないが、最初の頃に日本に入ってきたのは、まだ注文生産で幻燈機がつくられていた時代のものだろう。しかし、江戸末期には、安くなったファンタスマゴリア・ランタンが外国船の船員たちによって持ち込まれたのではないだろうか。

日本には当時、鉄で板金を作る技術はなかった。板ガラスを作る技術もなく、吹きガラスから平らな面を得るか、輸入されたガラス板を使うしかなかった。ネジは鉄砲鍛冶の秘伝だった。

欧米では、ガラスは大きく、それに見合う強い光源(芯が2本から4本もあるランプなど)が開発されることで、劇場での幻燈公開が可能になった。 8cm角(アメリカでは8cmx10cm)の大きなガラスに背景から登場人物まですべてを描く西欧の幻燈は、映画を予感させる。

それに対して、小さなガラスにキャラクター1人、あるいは背景の各部分を描き、何台もの風呂をチームワークで操ることでキャラクターを和紙のスクリーンいっぱいに飛び回らせ、大きな画面構成をつくりだす日本の写し絵・錦影絵は、実写映画ではなくアニメーションの発想に近い。というより、実は、リアルタイムアニメーションなのである。

西欧の幻燈が機械化、大型化の道を辿り、それが映画を準備したのに対して、写し絵・錦影絵はファンタスマゴリアの原型を残し、それに日本的チームワークを加えて、複雑な表現を編み出した。

さらに、その表現にはアジア諸国に発する影絵(ヨーロッパの影絵は、アジアから伝わったものである)の影響が加わり、文楽などの人形芝居の要素が入り、さらに説経節や落語という伝統的な「語り」と楽曲が結びついた。きわめてオーディオビジュアルなエンターテイメントが、写し絵・錦影絵である。

そこに見られる表現様式や発想は、 単に伝統文化を守るというだけでなく、われわれの文化を理解し、それを今後に生かすために、今、何をすべきか、多くの示唆を与えてくれる。

西欧の幻燈はシーン全体を一枚のガラス板に描き、その後、操作の機械化や光源の改良、写真の導入を経て映画へと発展する。仕掛けを隠して亡霊や悪魔を見せた初期ののファンタスマゴリア(魔術幻燈)の雰囲気を継承しつつ、より物語的要素を強め、中世以来民衆の娯楽として親しまれた説経節と結びついたところに江戸写し絵の特徴がある。浮世絵から切り取ったような人物の軽妙でダイナミックな動きはキャラクター1人を1人の遣い手が動かすことで生まれ、アニメへの連続性を感じさせる。手技とチームワークが写し絵の華だ。

写し絵と幻燈の対比は、メディア技術と文化の関係を考える上で大きなヒントを与える。実はみんわ座の写し絵再現や海外公演は、コンピュータや新しい素材の利用を自分たちで試みることで可能になり、国際的な評価をもたらした。表現への欲求が独自の現代的改良へと発展した。200年前の創意工夫と、今ここで起こっていること。あたかも一つの円環が姿を現したようにさえ思える。

この文章は、まだ執筆途中です。今後、内容が追加される予定です。

関連サイト:

http://plaza.bunka.go.jp/bunka/museum/kikaku/exhibition02/

http://www.magiclantern.org.uk/index.htm

http://www.visual-media.be /

http://www.well.com/conf/mirrorshades/

http://www.syabi.com/schedule/details/edo_utsusie.html

現代的な視点から写し絵を甦らせ、国際的に認知させるために協力しはじめて、すでに8年近くなる。その間、文化庁メディア芸術プラザに写し絵の特集を作り、みんわ座のイギリス公演を実現するために奔走し、微力ながら、動きをつくりだすのに一役買ってきたと思う。

幻燈と写し絵の関係、西欧と日本の関係を述べるにはもっとずっと多くのページ数が必要だが、これはとりあえずの、ノートである。