闇から光へ ー 影絵と幻燈の150年
From Shadow to Light: 150 Years of Shadow Play and Magic Lanterns

草原真知子
Machiko Kusahara


光を求めて


 80年代、日本にはまだアーティスト向けのCGの教科書のようなものがなくて(CGという言葉もまだ知られていなかったが)、英語で書かれた本を使うしかなかった頃の話だ。タイム・ライフ社から届いた図版の多い美しい本(注1)のページを繰って最初に目に飛び込んだのが「ついに我々は光で描く方法を手に入れた」というフレーズである。日本でCGという最先端技術を使ってきた中で発想したことのない文章に出会って、一瞬、思考が止まった。

 そう、確かに西洋美術の歴史とは、光を求め、光につきうごかされてきた歴史であると言えよう。まだ深く暗い恐ろしい森に覆われていた中世のヨーロッパで、教会の高い窓からステンドグラスを通して降ってくる美しい色の光は神の恩寵の象徴だった。(注2)天井に青空や天使を描いてあたかも天まで届く吹き抜けのように見せるトロンプ・ルイユ(騙し絵)も、天上の光への渇望の所産に他ならない。エル・グレコもレンブラントも光を表現しようとしたし、オランダの画家たちは本物と見まがうような精細な花や果物の表面に、光を宿した水滴を好んで描き加えた。
光を描くこと、光そのものを表現することは画家のあくなき欲求であり、ゴールでもあった。

 特にドイツの黒い森や北ヨーロッパの長い冬の中で、闇の中から射してくる光は希望であり、生命の光であっただろう。今回展示されるクリスタ・ソムラーとロラン・ミニョノーの作品"Phototropy"には、そうしたヨーロッパの概念が息づいている。クラシックな形をした懐中電灯で森の底を思わせる闇を照らすと、魂の象徴のような白く繊細な蝶たちが生まれ出て(注3)、光を追って群れ飛ぶ。光を失ったとき、彼らは1羽また1羽と命を失って落ちていく。生命と光、死と闇の関係が、彼ららしい洗練されたバーチャルリアリティ技術と生物に対する愛情によって提示されている。

 カメラ・オプスクラの登場は、自然の風景に満ちた光を集め、風景画の下絵に使うことを可能にした。装置によって自動的に生成される画像 ー それは、現在のCGやバーチャルリアリティのはるかな先駆けをなすものでもある。
 写真カメラの前身という知識が邪魔してか、見逃されがちなことなのだが、カメラ・オブスクラのうつしだす映像はリアルタイムの動画像なのだということをあらためて指摘しておきたい。かつて人々は暗い小部屋のなかで、外の風景が小さな映画のように見えるのを驚き、楽しんだ。それが不思議な娯楽として成り立った時期があったのである。今もカリフォルニア、サンタモニカの近くの海岸には、そうした見せ物としての大きなカメラ・オプスクラが残っている。また、見事な藤棚で知られた千葉県野田市では、暗くした室内の明かり障子に外の風景を映して客を楽しませてくれる茶店があって、藤棚一面に垂れる藤の花が上下逆さまに見えることから「野田の上り藤」と呼ばれたという。その藤の花は、リアルタイムで風に揺れていたはずだ。

 写真の発明は、光そのものによって風景や人物を忠実にうつしだすことを可能にした。絵画がリアルな光(あるいは光のもたらす陰影)の表現という呪縛から解放されたとき、モネら印象派の画家たちが試みたのは、新たな視点から光をとらえることだった。
 光学という自然科学の分野が西欧において芸術表現や大衆の娯楽といかに深く関わってきたか、我々にとっては想像することが難しい。小さなガラスでできたレンズは、天文学から生物学、文学、美術、大衆の娯楽である幻燈や覗き眼鏡まで、文化のあらゆる分野に変化をもたらし、ものの考え方を変えていったのである(注4)。
 科学がいわば確立した分野として明治時代にどっと入ってきた日本と違い、西欧では科学という概念が分化する以前の過程があり、そこでは芸術も技術も混在していた。例えば虹の七色を合わせたものが太陽の白色光であるという、プリズムによってもたらされたニュートンの光学的な発見は西欧の文化人の間に一大センセーションを巻き起こした。というのは、この発見は全てを統べ賜う神の完全性の証明であると考えた人が少なくなかったのだ。詩人たちは神とニュートンを讃える詩を盛んにつくったし、ゲーテが色彩についてニュートンと論争したことはよく知られている。

  それにしても、日本の文化がたどってきた道筋は西欧のそれとあまりに違う。たとえばデューラーの版画「寓意」に登場するような製図器具が、日本美術に登場し得るだろうかと考えてみれば、すでに西欧美術と日本の美術が幾何学や装置に対してまったく異なった眼差しを持っていたことに気づく。


影絵とシルエット


 影もまた光学現象の一つである。どんな土地であろうと、どんな昔であろうと、天気のよい日や月夜に影の存在が目につかなかったはずはない。もっとも、立ち並ぶ街灯や商店の光がいくつもの影を重ねる都会の夜では、もはや影踏みも難しくなったが。
 江戸後期、手ぬぐいや手近な道具をあしらって面白い影を障子にうつしてそれが何だか当てさせる影絵は、吉原の粋人たちのお座敷遊びであり、広重や国芳といった当代一流の浮世絵作家が、そうした影絵をあつめて描いている。

 一方、ヨーロッパではシルエットが18世紀半ばから19世紀末にかけて爆発的に流行した。影絵のような表現それ自体は洞窟画にも残っており、ギリシャ人が影絵を楽しんだという記録もある。しかし「シルエット」という名が当時のフランスの蔵相に由来するということは(注5)とりもなおさず、それまではこの技法に名がつけられるほど普及してはいなかったことを示している。シルエットの起源についてはあまり明快な資料が残っていないようだが、時期的に見て、オランダ船員がヨーロッパに伝えて大流行した影絵芝居(ombre chinoise)と、同じく東洋から伝わった中国のせん紙(切り紙)とがシルエットという新しい表現方法を生み出したのだろうと考えられている。
 影絵芝居はパリの寄席的なカフェとして有名なシャ・ノワール(黒猫)がフランス革命を題材にした出し物で人気を集めたが、顔の輪郭線によって観客が登場人物を推測する影絵芝居は、政治向きの出し物のリスク回避の手法としても適していたらしい(注6)。

 肖像画がわりに横顔を切り抜いたシルエットは、ベルリンやパリなど欧州の都会では、写真スタジオならぬシルエットスタジオで作って貰うことができ、身近な人のシルエットを額に入れて机や壁に飾ったりした。現在でもプロのシルエット師は少数だが活躍していて(彼らはマジック・ランタンのショーマン同様、プロフェッサーという称号を名乗るしきたりだ)、大きなパーティーに招かれては、その場で人々の横顔を切り抜いてボードに貼っていく。よくあるようにポラロイド写真を撮ってまわるよりずっとおしゃれな演出として、パーティーを盛り上げるわけだ。
 人物を切り抜いたシルエットは特にウィーンでは音楽と結びついて流行したようで、コンサートのプログラムの表紙などにひんぱんに見受けられる。一方、生い茂った森や動物、遊ぶ子供たちなど、複雑な風景を切り抜く凝ったシルエットには、切り紙の影響が明らかに認められる(図版参照)。

 西欧で市民社会が成立した時代に、それまでは貴族階級の贅沢であった肖像画や風景画を小市民たちもまた求めたいと考えるようになり、それが写真の発明と時期的に結びついて、写真の急速な普及とCDV(carte de visite)の大衆化が生じた、とよく言われる。シルエットはそうした小市民の欲望を、写真に先だって満たしていたのではないだろうか。

 しかし、である。なぜ、シルエットは18世紀になってはじめて見出されたのか?なぜ影絵は日本の美術の中に江戸中期以降になってやっと登場してくるのか?


魔術としての影


 文字どおり「光で描く」ことを写真の発明以前に可能にしたのが、幻燈(マジック・ランタン)である。あるいはむしろ、光と影によって、と言った方が正確だろう。幻燈の発明と普及によって、人々は、実在しないイマジネーションの世界を映像として目の当たりに見られることを知ったと同時に、それまでは意識にのぼらなかった、あるいは光に敵対する邪悪な存在として無意識下に恐れていた影を、ポジティヴなものとして捉えるようになったに違いない(注7)。

 幻燈は、写真が発明されて写真スライドが一般化するにつれ、その意味あいを大きく変えるのだが、最初はガラス板に絵を手で描いていた。ロベルトソンがファンタスマゴリアで工夫したように、手描きの幻燈スライドの秘訣は、人物などの絵の周囲を黒く塗りつぶして光をさえぎり、絵だけを浮き出させることにあった。そして、部屋の中は暗くなくてはならない。まさしく、影が映像をつくりだすのである。西欧の映画前史の研究に「光」よりむしろ「影」という言葉が目につくのは、絵画では光の欠乏の表現でしかなかった、そして宗教的にも世俗的にも邪悪さや恐怖と結びつき、前面に登場することのなかった「影」が、ここではじめて積極的な重要性を持ち始めるからではないだろうか。

 「クロモ」と略称されるフランスの多色石版刷りのおまけカード(図版参照)に、幻燈や影絵を描いたものがある。それらを見て推察されるのは、古くは旅の幻燈師が家へやってきたとき、そして後に家庭向きのマジック・ランタンが大量に出回ってからはもっとひんぱんに、子供たちは幻燈の合間に指影絵を楽しんだだろう、ということだ。また当時は影絵のテキストやプロの影絵師も存在した。事実、これらのカードには「影絵から幻燈へ」と題されたものが見受けられる。
 これは私にも覚えがあるのだが、小さい頃、うちには幻燈機があって、夕食後、何かにつけて上映を楽しんだ。スライドがセットされる前のひととき、われわれ子供が争うように手を出して影絵をつくっていると「ほら、もう始めるから手を引っ込めて」と母親が注意する。子供にとって、影絵は幻燈の前座とも言える楽しみだった。そして、明るい光の輪の中の手の影はもはや恐くはない。3枚1組のレンズと反射鏡を備えた幻燈機は、18世紀末から19世紀にかけての最も優れた集中光源でもあった。資料が乏しいために推測の域を出ないが、幻燈の発明と普及によってシャープな影絵が安全に手軽に楽しめるようになったことが、影という有史以来存在していたものが、ヨーロッパでこの時期にはじめて見直され、流行したことのひとつの要因ではないかと私は考えている。

 それでも、クロモの中には時に不思議な図柄もある。フライパンに小ウサギ(なぜか生きたままで、ちょこんと座っている)を入れて料理しようとするコックの頭上に大きな手影絵があらわれて、コックが思わずフライパンを取り落としている絵。あるいは、羊を掴んで飛んでいく鷲を、さらに大きな鷲の手影絵が上空からおびやかす図。
 おそらく、影の持つ魔術的なイメージが人々の記憶の中にまだ残っていて、それが、魔術幻燈に映し出される、今ここにはない情景と結びついたのだろう。子供たちは、自分の手の影が仮想の風景の中で不思議な役割を果たし、小ウサギやヒツジを助け出すお話を夢見たのではないだろうか。


影と「かげ」


 日本画には本来、影も陰影も描かれない。これらが登場するのは、幕末に西欧絵画が入ってきてからである。
 日本のように明るい陽光を持った国で影が無視されてきたのは不思議な感じを受けるが、陰影と透視図法によるリアルな表現を追求した西欧絵画に対して、東洋の絵画はまったく異なる方向を進んだ。空間表現やリアリティ全般について、異なる認知システムを形成したのである。私はかつて師について古典的な南画を学んだことがあり、きわめて興味深い経験だった。遠近法や陰影が日本でどのように捉えられ、それが蘭画の到来と文明開化によってどのように変化したかについては長くなるので、詳しい分析はここでは避ける(注8)。

 西欧美術の「影」が光の反対物として文字通り暗い影を引きずっているのに対して、日本語の「かげ」が含む概念はずっと明るい。日本人がもともと「かげ」という言葉に込めてきた意味は、「面影」「花影」「お陰で」「陰膳」などの言葉からうかがい知ることができる。つまり、「かげ」とはイメージそのものなのだ。「かげ」とは光の欠如をあらわすネガティヴな概念ではなく、ものの形が地面に落とす「影」も含めて、実体のないものでありながら本物に対応し、それをあらわすことのできる、ポジティヴな存在である。これが今回展示される近森基+久納鏡子の"KAGE"のテーマになっている。

 このように「かげ」をシャドウ(影)あるいはシェーディング(陰影づけ)ではなく、イメージそのものと同一視する日本の伝統的な視覚は、2次元的な表現を主体として発展してきた日本美術の伝統と不可分の関係にあり、そこからは影それ自体に対する意識は育たなかったであろう。
 幕末から明治初期にかけての浮世絵で陰影づけが悪役や異国人の表現に限定するかたちで使われた例があるが、このことは陰影に対する当時の日本人の違和感をあらわして興味深い。日本の視覚は西欧からの影響によって、影を再発見したのである。
 

写真は真実を映す


 1862年、開国を先延ばしにする交渉のために初めてヨーロッパの土を踏んだ幕府の外交使節は、シーボルトの進言もあって、訪問先の各地で先端技術の視察を行うことも目的の一つにしていた。好奇心旺盛な使節団がパリで最初に訪れた先の一つはナダールのスタジオだった。行く先々で名刺写真を交換するという当時の流行に苦もなく馴染んだらしい彼らは、ベルリン、セントペテルスブルグなど、各地のスタジオで写真を撮影している。

 列車の速さや電信技術などに目を丸くした彼らが非常に驚いたことの一つに、西欧絵画のリアルさがあった。
記録魔といっていいほど詳細な記録を残した一行の市川清流は、ルーブル宮を訪れて「左の方の壁のうえには、当時の国王ルイ=ナポレオンの、右の方には皇妃の写真をかかげている。いずれも生きている人間のようで、その筆さばきは絶妙である(注9)」といい、ロンドン万国博で見た静物画などについても同様の感想を残している。

ここで写真といっているのは写実的な絵画を意味する。幕末から明治にかけて、写真とは必ずしもフォトグラフィーを指すとは限らず、文字通りリアルな画像の意味でも使われた。そして写真という言葉はときに写心とも置き換えられる。
 浮世絵の人物像に見られるような様式化された表現に慣れていた日本人の目には、ひとりひとりの表情を立体的に陰影づけて描き出す西欧絵画は、写真と同様に人の心をも写しだすものとして映ったのであろう。「写真」という言葉は単に技術や技法の名称としてではなく、いわばメタファーとして用いられ、それまでにない表情や感情表現を試みた浮世絵には時に「写真」という目新しいタイトルが織り込まれもした(注10)。

 明治期の代表的な錦絵作家である周延に「幻燈写心鏡」というシリーズがある。
 その一つ「洋行編」(図版)では、鹿鳴館風の服装の若い女性が、洋書を手に想いにふける。美しい色彩で丁寧に描かれたドレスの生地や花瓶の菊の花は開化以後の錦絵らしい表現になっている。壁には幻燈がヨーロッパの寺院のような建築を映し出しているが、それは実は洋行に憧れる女性の心の中を映しているのだ。
 今ここにない風景を映し出すものとしての幻燈をイマジネーションにだぶらせ、幻燈という新しい映像がかきたてた明治時代の日本の想像力を伝えている。


最先端映像装置としての幻燈

 
 幻燈という呼び名がスライド・プロジェクターに変化し、さらにたいていの画像はビデオか、さもなければパソコンからモニターかデータ・プロジェクタに出力して見るようになった今、マジック・ランタンという言葉の持つ「魔術」の響きが戻ってくることはもう二度とないだろう。
 しかし、今からわずか100年ちょっと前、マジックランタンは最先端の映像メディアだった。当時、幻燈がどれほどの意味を持ったのか、考えてみるのは悪くない。

 つい先頃、ハンガリーのブダペストの日曜の大きなフリーマーケットで、幻燈機用の35mmのアニメーションフィルムを並べて売っている家族が何組かいた。それを選んで買っていく子もいる。知人の家を訪ねたら、市場で見たのと同じ流線型っぽいレトロなデザインの幻燈機があった。
 テレビの普及が遅れた分、幻燈機が現役の娯楽装置として持ちこたえているのだった。

  日本でも まだテレビがなかった時代、幻燈は学校や公民館の必需品であり、雑誌のおまけについてくるようなブリキ製のものも含めて、家庭でもそう珍しくない種類のものだった(注11)。
  幻燈機自体の原理は、出現当時からほとんど変わっていない。最も初期のモデルは、キルヒャーの時代から19世紀初めまでほとんど変化がない。しかし技術の変化で光源がランプから電気に変わり、ガラスのスライドだけでなくフィルムがかかるようになった。これは映画技術の進歩の一部でもある。

 幻燈機のサイズは昔から、家庭用のトイ・マジック・ランタンと業務用の大型のものに大別できる。
 戦後すぐに占領軍が持ち込んで「民主主義とは何か」を日本人に教育するために用いたという映画・ガラススライド兼用の軍用の大型幻燈機を見たことがあるから、1950年代にはこれが最新の映像機器だったのだ。フィルムとスライドを掛け替えるアタッチメントがあって、当時、映画館では広告や予告編はガラスのスライドで見せていた。なにも動画にする必要はないと考えたわけで、確かにこの方が手軽に安価に制作できる。
 家庭用の幻燈機でもフィルムがかかるものがあり、1コマずつ見るタイプと、連続画像が見られる本格タイプとがある。日本でも「鞍馬天狗」などの人気映画は、そこからコマを抜き出して幻燈用に再編集したものが作られて売られた。ポパイなどの人気アニメの海賊版幻燈フィルムらしきものも見受けられる。こうした時代は第二次大戦後も続いた。まさに、現代のテレビやビデオの果たす役割を、当時の幻燈機がつとめていたのだ。

 各国の映像博物館や骨董店、蚤の市をたんねんに巡って、横にいくつかの絵を並べた初期の長い板状のスライド(スライドという言葉はここから生まれた)や、公的施設での映写に使われる規格として確立した8cmx8cmあるいは8cmx10cmのガラスのスライド(仮に大型正方形スライドと呼ぶ)を調べると、18世紀末から20世紀半ばまでの150年以上にわたる長い間、幻燈が人々に何をもたらしてきたのかが見えてくる。

 手描きの長いガラススライドには、グリムやラ・フォンテーヌなどの物語や、各国の港の風景など、お話を語るために使われたものが多い。その家庭版にも、赤ずきんちゃんやシンデレラ、後にはドリトル先生などが登場する。長い板の他、円盤状にして画像をつぎつぎに見せやすくしたタイプもある。いろいろな仕掛けで画像の一部を変化させたり、動きをつくるメカニカル・スライドもある。これらのスライドは映像工夫館にもかなりのコレクションが収められている。
 一方、大型正方形スライドを見ると、教会や学校で使われたらしい宗教教育用スライドは定番で、フランスの代表的な幻燈機・スライドメーカーのMAZOが多く出版した。ドレの聖書挿画による美しいガラススライドやスライドフィルムが日本にも入ってきている。驚くことにお寺の仏教講話にも幻燈は使われたようで、美しい手描きの種板のほかに、ありあわせのガラス板を切って墨書したお経があったりする。

 意外に思われるかもしれないのは、膨大な量に上る科学関係のスライドだ。手描きの美しい蝶や幼虫、海洋生物は、博物誌の時代に幻燈が登場したことをあらためて認識させる。一方、顕微鏡の普及のおかげで壁一面に拡大して映し出される蚤や細菌のスライドは、衛生教育という以上に人々にビジュアルなショックを与えたに違いない。
 馬琴作・北斎画の「標注そののゆき」の巨大で細密な蜘蛛の図からは、レンズがもたらした西欧の知覚世界の拡大が幕末日本に与えた影響が読みとれる。


戦争と娯楽


 日本における幻燈の最盛期がちょうど日露戦争から第一次世界大戦に重なったために、これらの戦争は幻燈という形で時々刻々と報道された。これらの種板は各地に残っている。
 個人の家に新聞や号外を通じて届くビジュアルな情報より、公的な場で大きく拡大されて映し出される戦果のほうが戦時中の気分を高揚させるには適していたことは想像に難くない。戦場で映画を撮影する困難に比べて、手描きや写真から起こしたガラスのスライドは、手軽かつスピーディーに、センセーショナルな効果を上げることができる。
 第二次大戦でも「欲しがりません、勝つまでは」といったセルロイド製スライドが戦意昂揚に使われた。これはもちろん西欧でも同じで、クリミア戦争、南北戦争、第一次大戦と、戦争はガラススライドを通じて再生産され、イメージとして民衆に伝えられた。軍服姿のヒトラーの手彩色ガラススライドを見たこともある。ガラススライドが先端メディアとして長い間重要な地位を占めてきたことが窺い知れる。

 しかし、幻燈がひとつ前の時代の最先端映像メディアであったことを最も思い知らされるのは、まるで今のレーザーカラオケみたいな、歌の内容に合わせたカラフルで美しい絵に1行ずつ歌詞が入ったガラス板のスライドかもしれない(図版参照)。
 これらのスライドは、映画館や公民館や教会の集まりでみんなで歌うのに普通に使われた。日本でも戦後、歌謡大会などを開いて楽しむために、流行歌を歌詞つきで35mm幻燈フィルムに仕立てたものがたくさん作られた。

 テクノロジーは変化しても、人間がそれで何をやりたいのかはそんなに変わるものではない、ということを、これらのスライドは見せてくれる。というより、そうした人間の不変の欲望が映像テクノロジーをこうして進歩させてきたのだということを、影絵や手描きのガラススライドからバーチャルリアリティに至る映像の歴史は示しているのではないだろうか。


草原真知子 (ディジタルメディア論、メディアアート研究)
数学、科学史、美術を学ぶ。CG、通信、VRなどのディジタルメディア、ディジタルアートが文化に及ぼす影響を研究。現在、神戸大学助教授。
 


<注>

1. "Computer Images" 監修Carl Machover他。TIME/LIFE Understanding Computerシリーズ
2. ゴシック様式の特徴的な柱は木々の梢を表していると言われる。「魔王」や「ヘンゼルとグレーテル」に出てくる深い森は中世の中部・北部ヨーロッパでは「そこに在るもの」だった。
3. ギリシャ神話のプシュケの物語では、蝶が魂の化身として描かれている。プシュケ(=霊魂。「心理」をあらわす「サイケ」はこの別の読み方である)の恋人がエロス(キューピッド)というのも興味深い。
4. 望遠鏡の開発がガリレイの地動説を導いたことだけでも、レンズの果たした役割の大きさがわかる。また顕微鏡による人間の精子の発見(レーヴェンフック)も当時の哲学思想に大きな影響を与えた。
5. 18世紀初頭の政治家。これについては、シルエット氏が影絵を切り抜くのを趣味としたからという説と、彼の過酷な倹約政策のせいで肖像画さえ切り詰められたという皮肉をこめての呼称という説の2つがある。
6. "Chat Noir " Le Livre du Musee d'Orsay
7. 西欧文化が影を独立した概念として捉えるように至るプロセスとその頃の感覚は、シャミッソーの小説「影をなくした男」(1814)に象徴的に表現されている。
8. 江戸から明治にかけての日本の視覚文化の変化と西欧文化との相関関係ついては最近、興味深い研究が多く出ている。岡泰正「めがね絵新考」筑摩書房1992、タイモン・スクリーチ「大江戸視覚革命」、馬淵明子「ジャポニスム」ブリュッケ、1997、安村敏信「近代画への転生を育んだ百花繚乱の表現世界」(朝日美術館「幕末・明治初期の絵画」、朝日新聞社1997)、諏訪春雄「日本人と遠近法」ちくま新書1998、横地清「遠近法で見る浮世絵」三省堂、岸文和「江戸の遠近法 浮絵の視覚」剄草書房など。日本の視覚システムが現代のディジタル映像に与えている影響についてはMachiko Kusahara "Flora and Fauna: Japanese Games and Traditional Culture" (Flesh Factor, Springer,1997)など。
9. 市川清流・著、楠家重敏・編訳「幕末欧州見聞録」、新人物往来社 1992 P67
10. 当カタログに収録の岡戸敏幸氏のテキストを参照
11. 教科書にも出てくる宮沢賢治の短編に「幻燈やまなし」という作品がある。大正から昭和の半ばまで、幻燈といえば誰でもイメージを共有できたに違いない。

(1999年)

東京都写真美術館企画展「影ー写像としての世界・光ー仮想としての世界」カタログに収録
From the catalogue of the exhibition "KAGE - Shadows, Projected Images / HIKARI - Lights, Virtual Images", Tokyo Metropolitan Museum of Photography, 1999


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