幻燈 ー 19世紀のニューメディア

草原真知子


Magic Lantern: The New Media of the 19th Century
by Machiko Kusahara

Magic lantern was the most advanced new media technology of 19th Century. We can see how children were excited by magic lanterns and projectors through old textile for KIMONO from 19th and early 20th Centuries. Although it is mostly forgotten today, magic lantern was widely used for scientific education, advertisement, propaganda, and all sorts of visual communication. It was an important step in the history of imaging, which leads to technologies we appreciate today such as virtual reality.



しゃれた服装の女の子が、踏み台に上って大型の幻燈機のハンドルを回している。幻燈機が映し出す雄大な山とはるかに続く平原に向かって、幼児が「こんなに大きい!」というように両手を伸ばしている。たぶん、外国の家庭で幻燈を楽しんでいる情景だろう。絵本の1ページを思わせるのびやかな絵だが、これはおそらく1920年代の子供の和服の端切れである。別の端切れには、シャツを袖まくりした男の子3人が小型の幻燈機を操作している図柄。子供たちの真剣な表情がほほえましい。これは明らかに日本の子供たちだ。

 かつて、こんな柄の着物を着た子供たちがいたのだ。他にも、三脚に載せた木製のカメラの上にちょこんと乗ったリスが「ウツシマス」と言っていたりして、庶民の着物の斬新なテキスタイルデザインには眼を見張る。裏地や長襦袢に大胆な意匠を凝らした江戸の心意気の名残だろうか。とは言え、私は服飾デザインの専門家ではない。

 実は、インターネットなどを含めたディジタル技術、特にディジタル映像が私たちの生活や文化をどう変えていくのか、というのが私の研究テーマなのだが、その過程で幻燈の歴史に興味を持った。というのは、私たちが当たり前のように享受している映像文化は、そもそも幻燈によって始まっている。実物がそこに存在しない幻としての映像がはじめて出現したとき、人々はそれにどのように反応したのだろう。今のバーチャルリアリティ(仮想現実)と同じくらい、あるいはそれ以上に不思議な体験だったはずの映像は、どのようにして当たり前のものに変化していったのだろうか。

 国語の教科書にもよく使われる宮沢賢治の短編「やまなし」は、幻燈によるお話という体裁をとっている。今では忘れられているが、映画が普及するまで、あるいはその後も数十年にわたって、劇場や公民館に巡回してくる幻燈上映会はポピュラーな娯楽だった。洋の東西を問わず、幻燈はイマジネーションやイリュージョン(幻影)の代名詞だったのだ。ファンタジーや勇ましい物語、世界の秘境、珍しい動物や風俗。幻燈はいわば想像力の旅を可能にするモダンな乗り物であったからこそ、飛行機や自動車と並んで子供たちの着物の柄になったのではないかとも思えてくる。

 幻燈は17世紀半ばに出現し、18世紀末には見せ物としてたいへんな人気を博した。幻燈の発明者とされるドイツの学僧、アタナシウス・キルヒャーは「幻燈は悪魔を上映することによって、神を無視する者どもを正道に連れもどす、すぐれた手段である」と述べたが、建前はともかく、お化け屋敷の魅力は200年前も現在のディズニーランドも変わらないと見える。

幻燈は19世紀の最先端映像メディアとして君臨し、ビクトリア朝時代には最盛期を迎え、360度映像、揺れる甲板上での船の旅、シベリア鉄道の旅など、今のバーチャルリアリティを先取りするような大がかりな上映装置が評判を呼ぶ一方、家庭にも急速に普及した。今のテレビやビデオの役割を果たしていたといってもいい。19世紀半ばに写真が発明されると、あらゆる種類の報道写真が幻燈になっただけでなく、富裕な家では家族のスナップ写真も幻燈で楽しんだ。

 もっとも、初期の幻燈は科学者とプロの興行師しか知らない特権的な技術で、大衆が知らないのを幸い、インチキ降霊術を企む者もいたらしい。あの世で故人を探すためとか何とかいって家族に肖像画を持ってこさせたのだろう。それをガラス板に模写してこっそり映せば、死者の亡霊がおぼろにゆらめいて出現することになる。
1800年、観客には仕掛けが見えないように幕の背後で幻燈機を動かしてダイナミックに「悪魔を上映」するファンタスマゴリア(魔術幻燈)の手法がヨーロッパで発明され、動き回る幽霊に観客は魂の消し飛ぶ思いをした。車輪つきの大型幻燈機と手で動かす小型幻燈機を併用することで、悪魔や亡霊が近づいたり飛び回ったりする。光源は蝋燭やランプで、のちの映画とは比べものにならない暗さだっただろうが、それを中世の修道院の廃墟で上映したのだから、さぞや怖かっただろう。

 とりあえずの口実にしても最初は宗教色の強かった幻燈だが、時代は急激に変わる。19世紀後半には幻燈機を背負って村や町を回る芸人がヨーロッパ各地にざらに見られ、小型の家庭用幻燈機がフランスやドイツで大量に生産されてアメリカなどにも輸出される。幻燈はもはや魔術ではなく、仕掛けが判った上で、みんなで絵や物語を楽しむための装置として普及しはじめた。グリム兄弟が民話ブームを起こした時代でもあり、それまでは存在しなかった子供のためのお話というジャンルが形成されて、おとぎ話の美しいスライドがたくさん作られた。
 また、科学への関心、特に博物学への興味が広まり、植物や鳥、昆虫、海洋生物などの美しい版画が次々に出版されたが、これらもスライドに作られ、教師用のテキストが添えられて学校で盛んに使われた。ちなみに初期のスライドは主として、8センチx30センチ、大きいものでは10センチx35センチもある横長のガラス板に色鮮やかな透明顔料で手描きしたものだ。その後、石版画による量産も普及したが、現代のスライドとはまったく別物で、絵本やイラストを映像で見る感じに近い。もちろん、その頃は写真はまだ発明されていない。普通は1枚のガラスにいくつかの絵が並べてあり、レンズの前でこのガラス板を左右にすべらせて絵を変化させるので、スライドという呼び名が生まれた。その後、木のホルダーが工夫されて細長いガラス板の必要はなくなり、8センチ角あるいは8センチx10センチが標準サイズになった。

 一方、幻燈の持つ魔術的要素は、2枚以上のガラス板を重ねて絵を変化させる工夫として発展した。いわば動く2コママンガだが、初期の典型的な図柄の一つに、縄跳びをする女の子がある。縄の位置が上下するだけの単純な変化だが、当時としては、動く映像自体がよほど新鮮だったのだろう。私の手元にあるスライドの一つは、10センチx18センチのマホガニーの厚板にガラス板を3枚重ねてはめ込んであり、ゆっくりずらすとカーネーションの蕾がしだいに開いて大輪の花が咲く。19世紀後半のものと思われるが、手描きの絵はなかなか美しい。
 映画やテレビのなかった時代、目の前で花が咲くという映像の魔術は、それだけで人々を魅了したのだろう。西欧でも江戸日本でも、幻燈ショーの定番の一つがこの「花もの」だった。他にも、雪が降ったり、惑星が太陽の周囲を回ったりと、どうやら、動くもの、変化するものは何でも対象になったらしい。より複雑で長く確実な動きを一人で操作できるように、西欧の幻燈にはギアやシャッターが組み込まれて機械装置化し、明るい光源も開発された。こうした改良を元に、幻燈機は映写機へと発展していく。

 私の仕事部屋の棚には、18世紀末から今世紀始めまで使われたずっしりした業務用の大型、凝ったつくりの家庭用や子供用の簡易型などの欧米や日本の幻燈機、それにいろいろなタイプのスライドが並んでいる。海外や国内の骨董市で見つけてきたものだ。古典的なランタンの形状そのままの初期の幻燈機から、おそらくはサロンに飾ったであろう美しく彩色を施したフランス製の小型のもの、マホガニーの木目を生かしたどっしりしたイギリス製、パーツが全部分解できるアメリカ製など、同じ機能のためにつくられたものなのに、デザインがそれぞれの時代や文化、お国柄を反映していて面白い。
 大正時代の家庭用の幻燈機はドイツ製に似せたつくりと地味な色で、箱には「高級最新装置・幻燈両用・活動寫真機」とある。片手で持てるサイズのブリキ製だが、光源に電灯を使い、35mmフィルムが上映できるところが、高級で最新なのだろう。家庭で見る映画も「活動写真」だったのだ、と妙に納得する。当時、ヒットした映画が家庭用フィルムになることも多かったから、幻燈は今のビデオの役割も果たしたわけだ。
 一方、戦後間もなく作られたらしいブリキ製の幻灯機は、青、緑、ライラックなど鮮やかな色に塗られ、メーカー名が英語で書かれて、開放感とアメリカの影響が如実に感じられる。


 幻燈機は日本にはオランダを通じて入り、杉田玄白が「蘭学事始」に紹介した頃には、大阪ではメガネ店で市販もされていたらしい。幻燈の仕組みは簡単だから見よう見まねで作れただろう。長崎にはレンズ職人もいて、当時、すでに望遠鏡は西鶴の「好色一代男」に登場、円山応挙も写生のために使っていた。幻燈については馬琴が触れているし、馬琴の小説の挿し絵を描いた北斎も、舶載あるいは蘭学者の作った幻燈スライドを見たと思われる節がある。玄白の蘭学仲間で戯作者・画家でもあった平賀源内や、典医の家柄なのに戯作者としても活躍した森島中良などを中心に、蘭学者と戯作者や浮世絵師の間には意外に交流があって、流行作家たちはけっこう最先端の科学技術に触れていたようだ。

 そうはいっても一般庶民には手が届かないから、大衆にはその仕掛けはわからない。覗きからくり同様、幻燈もさっそく見世物に使われたが、興行師たちは仕掛けを明かさぬよう気をつけた。
 欧州でファンタスマゴリアが発明されてわずか3年後には同じ原理による写し絵(関西では錦影絵)が上演され、たいへんな人気を集めている。当時、日本と西欧の間には技術力に差がなかったことになる。

 日本では桧や桐製の軽い幻燈機「風呂」が作られ、種板(スライド)も浮世絵師や絵心のある見世物師の手によって制作された。板ガラスが高価だったからだろうか、種板は西欧に比べたらずっと小さい。3センチ角ほどのガラス板に描いた浮世絵風の人物や風景に、糸などを使って複雑な仕掛けをほどこし、数人で息を合わせて器用に操った。映写幕に和紙を使い、お神楽や歌舞伎、文楽の演目の一部を三味線や謡と共に演じるようになって、日本の芸能に完全に同化した。
西欧のようにシステム化されたり、一般家庭に浸透するかわりに、日本の幻燈は秘伝の「芸」になって明治を迎えた。

 一枚の浮世絵がある。鹿鳴館風の服装の若い女性が、洋書を前に物思いにふける。壁に映し出されたヨーロッパの建物は、洋行に憧れる彼女の心象風景だ。上流階級の生活を描いて人気があった明治期の浮世絵師、楊州周延の「幻燈寫心鏡」は、文明開化と共に改めて西欧から入ってきた幻燈が呼び起こすイマジネーションを描き出している。

 しかし結局のところ日本の幻燈は、映像が自然な形で広がった西欧と違い、市民の日常的な欲求に沿って自由に発展する機会をついに逸したのかもしれない。明治時代から第二次大戦中まで使われたスライドを見ていくと、修身教育と戦意昂揚、そして日清戦争から第一次大戦までの戦争のシーンを描いたものが実に多く、ジャンルの広がりに乏しい。映画に比べてはるかに短時間で安く製作でき、教室でも辺地でもどこでも上映できる幻燈が、国策の一端を担うメディアだったことを窺わせる。

 真剣な顔で幻燈を映していた、あの布地の中の子供たちは、何を見ていたのだろう。

 骨董品店で見つけた錆びついた幻燈機の箱に、あちこち破れた細長いハトロン紙が入っていたことがある。本のカバーか何かを切ってつなぎ、2人の男の子が自分たちでアニメを何本も作っていたのだ。そういえば以前、スウェーデンで見つけた幻燈機にも、ガラス板に描いた素人のアニメが入っていた。

個人でも手軽に作れて、人に見せることができるという意味では、幻燈は今のインターネットと共通する点があるかもしれない。世界中に広がり、実に多様な使われ方をしながら、その全容があまり掴めていないところも似ている。
映画100年を機にヨーロッパでは幻燈の歴史が見直されてきたが、まだこの分野は足で調べなければ、当時の人々が何を考え、何を感じていたのか掴みきれない。しかし今に残る多彩な幻燈スライドが映し出す物語や科学知識、あるいはプロパガンダや社会風刺、そして端切れの中で幻燈に夢中になっている子供たちを見ていると、100年前の最先端映像メディアは、確実に私たちの文化の一部をつくったのだと思う。

(岩波書店「図書」2000年4月号掲載)


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