軽やかに接続するメモリーボード

Light-heartedly Connecting Memory Boards: On Hiroshi Ishii and "Tangible Bits"




草原真知子 (2000年5月、"Tangible Bits"展カタログ)

by Machiko Kusahara, May 2000
 

  三角形の小さなメモリーボードを人々が次々に接続することで情報が連結されていくという石井裕の「トライアングル」がアルス・エレクトロニカで展示されたとき、「これはテクノロジーであって、アートとは違うのではないか。なぜこれが展示されるのか」という反応が少なくなかったように思う。
 にもかかわらず、あの三角形のパネルは強く記憶に残った。それは、記憶や知の蓄積、コラボレーションといった情報に関する人間の知的な営みがディジタル技術のなかではどのように実現されるのかという、誰もが一応納得はしながら直観的に理解しかねている事象を、三角形のパネルがストレートに可視化していたからであろう。
 そして、あれから数年を経たいま、「タンジブル・メディア」という概念に基づく石井と彼のチームによる一連の作品は、テクノロジーとアートという区分を超えたインパクトを与えている。

 誰もが情報に取り囲まれ、情報を交換しつつ生きている現在でさえ、情報という概念、あるいは情報の総体と人間を結びつけるものとしてのメディアを直観的に捉えることは容易ではない。
 明治時代、はじめて電信線というものが引かれるというので、大いに喜んだ人々が電線に手紙を結びつけて、それらの結び文が移動するのをこの目で見ようとじっと待っていた、という話が伝わっている。紙に書いた電文の、テキストだけが情報として送られるということの原理が理解できなかったのだ。
 しかし、果たしてこれを笑い話と片づけられるほど、メディアという環境に対するわれわれの適応は進んだのだろうか? あるいは、問題はわれわれの側にではなく、ブラックボックスのままに発展してきた技術の側にあるのだろうか?

 日常生活の経験に基づいて想像力を働かせることのできる、直観的なインターフェイス。「クリアボード1」に始まる石井の一連のプロジェクトで実現されたシステムはどれも、リアルであると同時にイマジネーションを誘発する広がりをもつ。
 デジタルという不可視的な技術をベースにした現代の世界に、それは確かに必要とされている。同時に、アートの本質が人間の無意識的な思考や記憶を引き出し、それにヴィジュアルなかたちを与えるプロセスから出発するとすれば、ここに示された三角形のメモリーボード=「トライアングル」やガラスの小瓶=「ミュージック・ボトル」、巻き尺=「ハンドスケイプ」といった物体は、そのようなプロセスのためのインターフェイスに他ならない。
 なぜ石井裕の一連の作品あるいはプロジェクトが、単なる技術としてではなくコンテンツとして評価されるのか、そのようなインターフェイス、あるいは環境がどのようにアートと結びつくのか考えていくことはそのまま、テクノロジーとアートとの関係について思考をめぐらせることであり、メディア・アートの本質を考えることでもある。

 いかにも最先端技術を応用したアートという趣の作品よりも、明確なコンセプトによって開発されたテクノロジーの方が面白い、という経験はよくある。アートであろうとして夾雑物が混じった作品や、入手可能な技術をひねくり回したような作品よりも、コミュニケーションの本質に対する洞察に基づいたテクノロジーのほうが、われわれの想像力を刺激し、新たな思想を引き出すからだ。
 これはインタラクティヴ・アートの本質、言い換えれば作品という概念の定義にかかわる問題を引き起こす。これは単なるツールか、それとも作品か、という議論はアルス・エレクトロニカの審査のプロセスや会場で、あるいはSIGGRAPHのアートショーやEnhanced Realityの会場で繰り返される。そのときに、これはツールか、それともアートか? という設問の仕方はあまり意味をもたない。

 テクノロジーとアートとの関係そのものを再構築しようとするならば、「それはアートか否か」を問うても得るところは少ない。インタラクティヴであることの意味を追い求めていけば、システムとコンテンツの境界に直面するのは避けられない。その微妙な線引きに直面したとき、システムから思想が立ち上っているかどうか、その思想にインパクトが感じられるかどうか、がその線を左右する。それは結局のところ、作者の世界観の強度とその実現の度合いによってくる。

 石井裕の仕事には一貫した姿勢があり、そこから個々のプロジェクトが発生しているのは明白だ。それは前述したように情報と人間との関係性の可視化であり、われわれの認識のプロセスの分析に基づいた意味づけの作業であると同時に、意味づけのプロセスを逆にたどることによって人間と事物との間のナチュラルな関係性を再建することでもある。
 そのことは、石井が自分の発想の原点としてそろばんを引き合いに出すことと無関係ではない。そろばんはきわめてシンプルな道具であるが、だからこそ、子供にとっては乗り物にも楽器にも見立てられる自由さをもつ。シンプルで、しかも使い手が自分の好きな使い方を直観的に編み出すことのできる、使い手のイマジネーションを喚起する道具。人間とメディアテクノロジーを媒介するインターフェイスもそのようであるべきだ、という石井裕の思想のシリアスな核心を表現していると同時に、そこにある遊びの要素を見逃すべきではないだろう。
 三角形のメモリーボードやガラスの小瓶には、楽しさと、情報の未来へのポジティヴな眼差しがある。「ポスト・ペット」や「ケータイ」がコミュニケーションを遊びとして捉え直すことで成功したという事実はメディアに対する認識やアーティストの姿勢について改めて考えさせるが、その意味で、石井には岩井俊雄や八谷和彦との共通点が感じられる。クリティカルであることを求められてきた西欧型の現代美術の規範から逸脱したところに、インタラクティヴ・アートの新しい可能性が広がっている。

 石井はそろばんを楽器や乗り物に見立てた。
 本来は違うはずの何かを、別の何かに見立てる。枯山水や荒川修作の「養老天命反転地」はそうした見立てのうえに成立する空間の意味づけである(私は茶の湯には無縁だが、李朝の飯腕とか明治時代の型押しガラスの器のような日用雑器が、見立てることで立派な茶道具になってしまうというのは凄いと思う。ものの本にそう書いてあるだけでなく、ときどき立ち寄る骨董品店で主人と客の会話を聞いていると、そんな見立ては案外ふつうのことらしい)。

 そのもの本来の成立の経緯に制約されずに、見る側、使う側の感覚に基づいて、本来は意図されていなかった意味をそこに見出すことによって、見立ては成立し、新たな価値が付加される。そこには二つの要素が認められる。一つには、作った側の論理や意図に従うのではなく、既知の価値や役割を裏切ってみせることによって出現する意外性のおもしろさ。もう一つは、その意外性は実は、言われてみればまるでそれが当然であるかのように納得できるだけの、潜在的な意味や論理をはらんでいなければならない。 

 朝鮮の古い食器が茶器として通用するのは、茶器としての用(美的な要素を含めて)がそこに認められるからであり、枯山水はそこにあるべき水を見る側のイマジネーションに想起させることで機能する。見立ては、われわれがあるものの本質をどのように認識しているかを抽出し、記号化することで成立する、可視化のプロセスであると言えよう。なにがしかの共通の基盤がなければ見立ては成立しない一方で、均質な見方しか存在しない文化には見立ても起こらない。見立てとはそのような知的遊びであり、発見の面白さである。

 メディア・テクノロジーが社会や文化を変革しつつある時代に、情報と人間との関係性をさまざまなメタファーに基づいて見立てていくことで可視化し、人々のあいだのコミュニケーションに豊かなかたちを与え、情報を楽しむことのできる環境を作り出していくこと。過去と未来、個と社会、ヴァーチャルな空間と物理的な触覚とを自由に軽やかに接続することで、石井裕と彼のチームは、われわれがアートとテクノロ
ジーを接続していくための環境を可視化したのではないだろうか。

(くさはら・まちこ――神戸大学大学院自然科学研究科助教授/メディア・アート・ キュレーター)


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