仮想空間における生命概念の曖昧化

草原真知子 1998.4  
(VR学会、3D FORUM合同研究会びおける招待講演。その後、「画像ラボ」に掲載)

1.はじめに

 10年前にはほとんどの人にとって、CGでキャラクターや風景を作ることや電子メールをやりとりすること自体が驚きであり、それらが生活の一部に入り込んでくることなど考えてもいなかった。しかし最近の画像処理・生成技術の急速な発展と通信環境の普及は、日常と仮想空間との境界をシームレスにしつつある。
 わずか数年前までは、技術的限界によるディジタル映像の不自然さがかえってもてはやされ、そのような映像がバーチャルリアリティの代表的イメージを形成してさえいた(注1)が、実写と3DCGの融合やモーションキャプチャ技術によって、違和感のないキャラクターやリアルな風景をCGで作ることは容易になった。さらにインターネットの急激な普及に加えて、インターネット上でアニメーションやインタラクティブに操作できる擬似的な仮想空間(注2)を提供する技術が進んだ。ネットワークによって形成されるバーチャル・コミュニティがきわめて空間的な認識をもたらすことは、すでに80年代のテキストベースによるパソコン通信の時代から知られている(注3)。現在のディジタル技術は、CGや通信をはじめとする諸技術の統合により、高度に視覚的なリアリティを伴う仮想世界の表現や体験を可能にしつつあると言えよう。
 一般に、技術がある程度成熟した段階ではじめて、それまでは技術的課題の背後に隠されていた新たな問題点が見えてくる。ディジタル画像について言えば、画像生成技術が十分に発展していない段階では、画像の不自然さは誰の目にも明らかであり、その不自然さの種類や程度を判別することは一般には難しい。しかし、画像としてのリアリティに違和感が少なくなればなるほど、それらの画像の持つ記号的な意味、すなわち社会的・歴史的背景から生じるその画像の「見え方」の問題が浮かび上がってくるのであり、この「見え方」はそれぞれの社会によって異なる。精緻なモデリングと正確な光学的計算に基づいて生成された画像がリアルと感じられるとは限らない。人は仮想空間のどのような要素にリアリティーを感じるのか、言い換えれば、どうしたらリアルさを感じさせる(心理的な没入感を与える)仮想空間を構築できるか、という現実的な問いに対して、画像としてのリアリティの背後に潜む心理的要素、文化的要素を考慮する必要が生じる(注4)。つまり、仮想空間におけるリアリティを実現するには、画像生成・処理技術そのものの進歩だけでは不十分あるいは非効率的であり、技術的な可能性とこのような社会的・文化的洞察とのマッチングが必要なのである。CG制作などの現場でアートディレクターとテクニカルディレクターとの「言語の違い」がよく指摘されるが、これは画像のリアリティについての意識がその出発点において異なることに起因する。
 ここでは特にエンターテイメントに見られるキャラクター表現を中心に、日本文化が育んできた「見え方」の伝統と日本人の持つ生命概念がディジタル映像にどのように反映しているか、逆にディジタル技術が仮想空間における生命の概念をどのように変えつつあるかについて歴史的考察を踏まえて述べる。対象としてエンターテイメントを選んだのは、アカデミックな研究やアートのような分野では個人の興味やテイストが大きくものを言うのに対して、エンターテイメント分野に見られる動向はその本質として社会・文化のあり方をよく反映しているからである。

2. 生物学における生命概念の多様化と人工生命の概念の発展

 近年における生命概念の変化、特に人工生命という概念の成立の背景には、分子生物学、遺伝学、免疫学、進化生物学等の発展と、同時代的に起こったコンピュータ・サイエンスの発展がある。
 すなわち、ワトソンとクリックによるDNAの二重螺旋構造の発見からクローン技術の開発や遺伝子治療などによって、生命現象を化学反応として理解し、操作することが可能になった。一方、バージェス頁岩の層から発見された現存する生物とは異質な形態の(奇想天外にさえ見える)多様な生物の化石は、生物が必然的な進化の結果として現在の種に至ったのではなく、生命の進化には他の道筋と結果があり得たかもしれないことを示した。また遺伝学、生態学、動物行動学などの分野はゲーム理論や「ライフ・ゲーム」の出現に大きな影響を受けた。もともとこれらの分野では観察に基づく研究によってデータを集めるだけで長い年月が必要であり、すべて現実の生物を対象として研究を行うのは不合理であるだけでなく、異なる条件下で仮説を検証するには困難が伴うことから、コンピュータ・シミュレーションの導入は不可避である。
 一方、冷戦下のアメリカでは軍事訓練のためにフライト・シミュレータで自然景観を高速に生成する必要からアルゴリズムによる樹木のCG表現が求められ、またハリウッドでは「ET」に代表されるSFものの隆盛によって高度な特殊撮影(SFX)の需要が高まり、特にCGによる生物(特に動物)の自然な表現が将来的に必要なことは明らかだった。CGでは1970年代末頃から、それまでの幾何学モデリングと手作業による動きの振り付けではなく、生物の成長過程や行動様式や力学に基づいたアルゴリズムの開発によって自律的な形態や動きの生成を得ようとする試みが各地で始まった(注10)。
 このような中から、従来の生物学が歴史的な進化の結果として現存する生物や生命現象を対象とするのに対して、さらに理論的な普遍性を持った研究分野としての生物学、つまり「あり得たかもしれない生命」にまで対象を拡げた生物学の構想が徐々に生じてきた(注11)。このような「メタ生物学」(注12)は現実の生物のみを対象としていてはできない。これらの結果として生じたのが"in vitro"から"in silico"へ、すなわち試験管の中の生命からシリコンチップの中の生命、すなわちコンピュータ・シミュレーションへの移行である。
 「あり得たかもしれない生命」の生物学として人工生命を提唱したサンタフェ研究所のクリス・ラングトンが招集した第一回人工生命学会には多様な分野の研究者が集まったが、その一人はCGで群のアルゴリズムを開発したクレイグ・レイノルズであり、レイノルズのプログラムは現在もハリウッド映画でリアルな鳥や魚の群れの生成に使われている(注13)。
 「ブラインド・ウォッチメーカー」で盲目的な進化のプロセスが結果的に人間に至る多様な生命体を作り出したことを示し、自らパソコンのプログラムを組んで、単純な2次元図形に突然変異を起こさせることで現実の生物を思わせる複雑な形態が生じることを証明したリチャード・ドーキンスも、この第一回の会議に参加した。ドーキンスはさらに「利己的な遺伝子」で生物を遺伝子の乗り物(vehicle)とみなし、生物学のみならず現代思想に大きな影響を与えた。これは生命の主体と存在目的に関する古典的概念を崩壊させるものであり、古くはデカルトに遡る人間機械論の新たな展開でもあった。さらに最近は、同一のDNAを持つ個体が完全な分業社会を営むアリの社会について、全体を超個体ととらえる考え方が出てくるなど、生物学的にみた生命概念の多様化がさらに進んできた。
 一方情報処理の分野でも、並列処理やニューラルネットワークやインターネットなどの分散処理型の考え方が普及し、ソフトウェア開発に遺伝アルゴリズムが用いられる。エキスパートシステムのようなトップダウン型・合目的的なシステムに対して、自律的・生物学的なシステムの持つ柔軟さや長期的に見た場合の発展性が高く評価されるようになった。このようなコンピュータの使い方は、人間がコンピュータに命令を下してその通りに作業をさせるという従来の考え方とは異なる。
 すなわち、1985年代後半から次第に明確な形をとって現れた生命概念の変化の根底にあるのは、生物学の分野における大きな変化とコンピュータ・サイエンスの急速な発展が一致したところに生じ、それが専門分野の枠組みを超えて社会思想や文化に影響を与えたプロセスである。これが映像表現に代表されるビジュアル・コミュニケーションの分野(アニメ、テレビ、ゲーム、インターネットなど)での変化に結びついた結果として、アカデミズムや研究開発の世界における変化とは比較にならない規模で、一般社会における生命概念の変質が生じている。そして、このような変化が日本で急速に起こった背景には、日本文化の特質がかかわっていると考えられる。


3.日本的空間知覚の特質 ー 歴史的背景

 1997年は日本の映画界にとって画期的な年であった。「もののけ姫」が配給収入の記録を塗り替える大ヒット作となったが、低迷する日本映画の中でも非主流のアニメ映画が洋画を上回る成果を上げたことで、その数ヶ月前に世間を賑わせた「エヴァンゲリオン」に続く日本のアニメーション(ジャパニメーション)の強さに注目が集まった。子供やいわゆるオタクだけではない広い層の観客がアニメに感情移入し、実写にまさるリアリティをそこから感じ取ったことは特筆すべき文化現象である。
 一方、この年は「たまごっち」と「ポケットモンスター」が爆発的に売れ、それまで一部の研究者の関心事であった人工生命が大衆的エンターテイメントとして定着した。これらのキャラクターはドットや線で描かれた単純な画像であるにもかかわらず、実在感をもって多くのユーザに受け入れられた。また「ポケモン」のTVアニメ化と光線の点滅による騒動は周知の通りである。この2つの現象は無縁ではない。まず共通するのは、それが日本で作られ、海外にも大きな反響を与えたこと。いずれもディジタル技術の成果だったことである。ではなぜ、これらの映画・商品は日本で生まれたのか?
 まずキャラクターの視覚的デザインの面から見てみたい。ジャパニメーションのキャラクターの特色として、描線に囲まれた平面的な色使い、変形(デフォルメーション)された上で類型化された表情と体型が挙げられる。デフォルメが激しいのは顔の描写で、巨大な瞳と小さな口を持つヒロインやヒーローの典型的な顔を適切な骨格に基づいた3次元モデルに還元するのは困難である。また一般に、立体感を出すためのグラデーションは用いない。(セルの色数の問題はもちろんあるが、外国のアニメーションには、もっと立体感を持った表現は少なくない。)キャラクターを3次元のオブジェクトとして表現するという方向性がそもそもない。だからこそ「たまごっち」の単純な線描きキャラクターも十分リアルに受け止められるのである。
 これらの特色は、実は源氏物語絵巻の時代からほとんど変化していない(注5)。日本画の基本は輪郭線で、その輪郭線の間をほぼ単一な色で埋める(注6)。陰影は用いない。陰影=色の変化で質量を表現する方法は日本では発展しなかった。一方、日本の絵巻物が編み出した空間表現として、一見したところ単一の空間の俯瞰図が、その上部に描き込まれた雲によって実は異なる時間帯に区分されることは知られている。これは絵巻物そのものの特質を極端な形式にまで完成させた表現で、描かれた空間の位置関係は、空間ではなく時間の変化に対応する。日本の伝統的な空間的知覚については他にも、盆景、箱庭、回廊式庭園などにも西欧とは異なる空間の置換を見ることができる。
 これは東洋において透視法がついに発見されなかったことと関係がある。消失点を基準とした幾何学的な空間構成によって現実の空間を写し取ろうとした西欧の絵画と異なり、東洋画では遠方の物体のサイズが小さく見えるという概念はなかった。幕末に西洋から伝来した透視画法を最も早く使いこなしたのは北斎や広重などの浮世絵作家である。中国から朝鮮半島を経て日本に伝わり、日本美術の基礎となった伝統的な南画(墨絵)の手法では、手前かつ重要なものを濃い墨で描き、奥にあるものを薄墨で描く。そのかわりグラデーションによるdepth cueingによって空間を表現した。グラデーションは陰影ではなく奥行き表示に使われたわけだ。
 このことは「かげ」すなわちshadow(影)とshade(陰)に関する認識の違いにも関わる。shadingによる立体感の表現は西欧絵画の基礎であって、これはCGの基本原理ともなっているが、東洋画では普通shadeもshadowも描かない。これは温帯地方の日差しは物体に十分な影を落とすことを考えると不思議に思われるが、日本語では「かげ」はimageでもあり、物体そのものの輪郭である。この概念は面影、陰膳、おかげで、などの言葉に残っている。逆に西欧には影によって本体を表すという概念がなかったため、ジャワの影絵芝居が紹介されると一挙に、影絵芝居やシルエットの大流行が起こったのである。一方、陰影を用いる画法は遠近法同様、日本には幕末に到来し、浮世絵では特に西洋人や悪役の描写に用いられた。当時の人々には陰影表現はきわめてエキゾチックに映ったためである。
 このように、西欧絵画が空間の正確な再構成と陰影処理による立体的な表現を追求してきたのに対して、東洋絵画は線とフラットな色面と誇張された表現を柱とする、きわめて2D的な表現を構築してきた。そのため幕末から明治時代始めにかけて、一方で日本の浮世絵がヨーロッパに持ち込まれて西欧絵画変革のきっかけになり、他方では写実的な銅版画や写真が日本に持ち込まれて日本人の空間認識を変える、という状況が同時に起こったのである。それでもフラットな2D的表現や描線を好み、そのような表現から十分なリアリティを感じることのできる日本の文化的伝統は現在に至るまで保たれており、それがマンガやアニメーションからたまごっちに至る日本独自の表現の土壌となっていると考えられる。
 
4. 「動きの文法」と日本の伝統文化

 ゲーム製作などでは大量のCGキャラクターアニメーション生成が必要になるが、近年、動きのデータの生成にはモーションキャプチャが広く使われるようになった。従来、 MITやカリフォルニア工科大学などを中心に開発されてきた力学シミュレーションによる動きの生成アルゴリズム開発が自然なアニメーション生成の王道と考えられてきたが、これに対して電子版ロトスコープ(注7)ともいうべきモーションキャプチャがより手軽かつ確実な手法として普及したわけである。これはいわば大容量メモリとパフォーマンス向上による力技をベースにした現実のデータの仮想空間への移し替えであり、80年代後半に自然法則のシミュレーションの方向に大きく前進したCG技術が、安易な現実模倣へと後退したのではないかという批判あるいは危惧がある(実はテクスチャ生成とテクスチャマッピングとの関係も同様である)。
 モーションキャプチャ技術を使えば現実の人間の動きを忠実にCGキャラクタに振り付けることができるので、従来のようなアニメータの勘と力学シミュレーションによる動きの生成に比べて、即物的にリアルな動きができるはずである。ところが実際に制作されたアニメーションには期待通りの自然さが感じられない。これにはいくつかの要因が考えられるが、その一つとして動きに関する日本の伝統文化が注目されている。この2年ほどの間に文楽の動きや人形遣いのインタフェースをCG制作に取り入れる動きがテレビ、ゲーム、アニメーション映画で相次いだ(注8)。日本人が人形に求めるのはスムースな動きではなく、むしろ様式化された動きや止めの動作や間合いであることを考えれば、仮想人格であるCGキャラクターもそのような文法に基づいて動かすべきだという発想から、日本の古典芸能が見直されたのである。
 これは歌舞伎のハイライトが役者の「見栄を切る」瞬間にあることとも通じる。ダイナミックな動きの見せ場の最中に静止することでかえってその動きを表現し、この静止は観客の喝采とかけ声の間、持続するのである。このことは「もののけ姫」が手の掛かった大量のセル画とディジタル処理を併用して複雑な俯瞰シーンとノンストップに近い動きを実現したことに対して一部の観客から「クローズアップのシーンが少ない」「動きすぎる」というネガティブな感想があったこととも共通する。ジャパニメーションの特色として顔のアップと口パクの多用(limited animationの一種)があり(注9)、それに慣れた観客の反応だったが、クローズアップと部分的な動きによるアクションの表現はマンガ、特に劇画にも共通する手法である。本来は制作コスト削減と制作時間短縮のために工夫された手法がジャパニメーションを特徴づける美学にまで到達したこと自体が、日本の文化が持つ動きに対する認識に起因すると考えられる。このような文化的特質を踏まえて考えると、日本人がキャラクターの動きについて感じるリアリティーが、必ずしもモーションキャプチャによる現実の動きのリアルな再現からは得られないだろうことが納得できる。
 歌舞伎も文楽もアニメも、それが虚構の世界であるという約束事の上に成立している。だからこそ、現実とは異なる時間や空間の扱い方が求められたのであり、様式化という現象が生じた。ディジタル画像に即してみると、それが実写に基づく映画などの中で特殊効果として用いられる場合には、モーションキャプチャ等を用いたできる限り現実に近い表現が適切であり、そうでなければ違和感を生じるだろう。しかし、それがアニメーションなどの「キャラクター」として、つまり虚構の世界の登場人物として認識される場合には、その表現や動きについても実写とは異なる「見え方」が発動され、現実とは一線を画した動きにかえってリアリティーを感じることになる。キャラクター(=虚構の世界の人格)に対するこのような感覚が、人間の形を取らない生命体に対しても同様な現れ方をすることは、自然な帰結であろう。

5. 「育てゲー」と仮想キャラクタの死

1986年から87年にかけての「たまごっち」の大流行、そしてTVアニメでの失神騒動まで引き起こした「ポケモン」の大流行は、つい先頃までは専門的な語彙でしかなかった「人工生命」という言葉を広く一般にまで普及させた。
 これらのゲーム自体について改めて解説する必要はないであろう。しかしここで注目したいのは、
(1)これらのゲームのキャラクターがシンプルなものである
(2)たまごっちの「死」をどう扱うかが社会問題にまで発展した
という2点である。
 (1)については、3で述べたことの帰結であると考える。すなわち、ドットで描かれたような2Dでシンプルな記号的表現によるキャラクターに感情移入をすることが容易だったのは、日本文化の特性がそこに反映しているからであり、このようなゲームが日本で開発されたことの原因の一つもそこにあるのではないか。商品開発の動機として、ゲーム開発分野での日本の優位性だけでなく、このようなキャラクターにリアリティを感じるという文化的コンセンサスが根底になければ、このような発想とその商品化は困難であろう。
 (2)についてもう少し詳しく見てみたい。携帯できる小型ゲームに一種のペットを飼うゲームとしては、数年前に女子小学生を中心に流行した電子手帳がある。この時は、世話が行き届かない場合にペットを死なせるかどうかで開発チームの中で議論があり、最終的にはかわいがってもらえなかったペットは「家出する」という設定になった。
 「たまごっち」では世話が不十分だと(ちゃんと世話しても生後1週間位で死ぬケースが多い)死んで、十字架のついた墓の前で額に三角巾をつけた幽霊になってさまよう。ゲームにリアリティを与えたのが大ヒットの一つの要因であったが、同時に、手を掛けた仮想ペットの死を単なる電気的符号の変化としては受けとめられなくなってしまった多くのユーザが生じた。そのためインターネット上に「たまごっち」の墓地が開設され、「たまごっち」の葬式も出現した。さらに「天使のたまごっち」が発売されたが、これは死んだ「たまごっち」が実は「天使のタマゴ」として仮想世界で待っており、これを悪魔の誘惑に負けずに天使になれるよう育ててやると、無事に天に旅立っていくというもので、仮想ペットを死なせたユーザの心理的救済を図る製品である。十字架とお化け、天使のタマゴという東西文化の混交も興味深いが、それについてはここでは触れない。さらに通信を利用した「ブリーディングタイプ」の「たまごっち」(「おすっち」「めすっち」)も登場した。これは過去10年ほどの間に根付いたコミュニケーション・ツールとしてのゲームの役割を反映しているが、通信を通じて仮想ペットが2台のゲーム機を行き来して子供をつくる、という概念が抵抗なく一般大衆(特に若い年齢層)に受け入れられるようになったことを示している。
 97年に若者の間に大ヒットした通信ソフト「ポストペット」は、ネットワーク上に広がる仮想空間と、そこに生活し、通信を通じて行き来することのできる仮想ペット、という概念が広く一般に受け入れられるようになったことを端的に示している。このソフトウェアは「メガ日記」や「視聴覚交換マシン」などの作品を通じて仮想空間における主体の感覚の変質を取り上げてきた若手アーティストの八谷和彦氏のアイディアによるもので、ユーザのデスクトップ上にペットの部屋があり、ペットがメールを配達に出かける。キャラクタは3DCGによるものだが、決してリアルではない。同じソフトを使っている知人にメールを出すと、実際にペット(テディベア、ネコなど)が部屋のドアを開けて出ていき、先方のデスクトップのペットの部屋に手紙を持って現れる。先方のペットと遊び始めてなかなか帰ってこないと、その間はメールが出せない。ペット同士が仲良くなると、飼い主(ユーザ)の代わりに勝手にメールを交換し始める。飼い主はペットの世話をする他、部屋の模様替えを楽しむこともできる。それぞれのペットの自律的な生活をユーザが楽しむという点では、コンピュータ内の仮想キャラクタの原型として知られるCommodore社の"The Little People"に近い。すなわちこのソフトは実用目的というよりコミュニケーションを楽しむためにインターネットを使うユーザのためであり、確実迅速にメールを届けるためではない。ペットがユーザの命令通りには行動しない意外性の面白さ、仮想キャラクタがユーザとは独立した人格を持って主体的に行動する(ように見える)ことによる実在感が「ポストペット」の人気の理由である。よりリアリティを持たせるため、ペットの寿命は比較的短い。ペットが死ぬとインターネット上にある「ポストパーク」に行くので、ポストペット会員になればそこにかつての自分のペットを見に行くことができる。
 このように、人工生命的なコンセプトに基づく「育てゲー」と呼ばれるゲームやソフトウェアが人工生命の死後のケアを行うに至ったことは興味深い。これは、軽い気持ちで「飼い始めた」仮想キャラクタの死に直面したユーザの一部が、単なる作りものあるいはゲームとは割り切れない感情を抱いたため、メーカーがそれに対する心理的なサポートの必要性を認識した(それがまたビジネスになっている)ものであり、仮想キャラクタの墓地や天国がネットワーク上に置かれたという事実は、ネットワークが現実と非現実の間に実在する仮想空間として、仮想キャラクタに対応するリアリティを持って受けとめられていることを示している。

6. 日本文化における生命観とディジタル画像との関係

 東洋文化ではもともと人間と動物との境界があいまいで(これは神話や民話、仏教の民間伝承に色濃く反映されている)、人間と動物との関係が西欧とは異なる。たとえば動物の安楽死と捨てイヌ、捨てネコに関する西欧と日本との一般的な見解の違いは広く知られるところである。これは宗教的な違いによるところが大きく、長い歴史にわたって形成された文化的差異である。すなわち、西欧の文化的伝統では人間と他の動物との間には絶対的な違いがあるのに対して、東洋では時と場合によって変化し得る相対的な違いである。人間と動物との境界があいまいであることは、人間とマシンとの連続性にもつながる。かつて、日本の自動車組立工場のロボットにそれぞれ名前がついていることが海外で珍しがられたが、マシンを仲間として扱うという意識は西欧文化では異質である。日本のアニメは人間とマシンとの合体を繰り返し扱うが、先に述べた「エヴァンゲリオン」でも人間がマシンと一体化して戦う。「エヴァ」を最もよく操縦するのが人格的には最も未熟な少年であることは興味深い。
 理論生物学への試みであると同時に多様な科学の境界領域である人工生命が、エンターテイメントの分野として日本で実用化され、仮想キャラクタの死後の世界が準備されるという現象は、このような文化的背景から生じた。これは、日本文化が持つ特質が、他より一歩早い実用化を可能にしたと言える。日本人は仮想キャラクタに対しても、人間や動物との連続性を持った「生きもの」として捉えることができ、その場合の仮想キャラクタの外観と動きは、3及び4で述べたような文化的背景から、リアリスティックである必要はない。一方ローカルにあるいはネットワーク上でリアルな表現や動きをリアルタイムで実現するには、計算やデータ量の面でまだ制約が多い。ところが人工生命や仮想キャラクタの場合、自律性とインタラクティブ性に基づくリアルタイム処理が不可欠であり、そのために従来人工生命を扱った研究の多くがハイエンドなシステムを用いてきた。しかし今まで述べたように、日本文化がキャラクタ表現と空間知覚について持っているビジュアル表現の特性が生命観におけるフレキシビリティと結びつくと、映像的なリアリティを必要とせずに、仮想空間に存在するキャラクタを心理的にリアルなものとして受け入れることが可能になる。これはキャラクタを現実の人間や動物と混同することではなく、「ほんものである」という正当化を必要とせずにつくりもの=仮想の世界や人格を受け入れ、それに自己を投影したりのめりこんだりできるということである。これは日本のマンガやアニメーションと「オタク」と呼ばれる層との関係に等しい。「オタク」は自分の好きなキャラクタにのめり込むが、それらを現実と混同しているわけではない。しかしまったく架空のものと割り切ることもできないのである。現実の人格(あるいはキャラクタ)ではないが、非現実(=存在しないもの)でもない。いわゆる「育てゲー」の場合は、キャラクタを育てるという行為にユーザがかかわることで没入感がさらに強化される。そこで生じているのは生命概念の曖昧化である。
 「たまごっち」や「ポストペット」の成功は、ディジタル画像によって大衆的に支持されるリアリティを獲得するためには、画像技術の開発のみに邁進するのではなく、ユーザの心理や文化的背景を読み込むことが必要であり効果的であることを示している。一方、当然のことだが、文化的背景は変化するものであり、2、3で指摘した日本文化の視覚的伝統は、ディジタル技術の進展とネットワーク上の空間を代表とする仮想空間の出現によって変化しつつある。
 「もののけ姫」にはCGが効果的に使われており、今までのアニメーションにはないシーンの奥行きや複雑な物体の自然な動きを表現するのに貢献した。一方で、これらのCGシーンは徹底して2D的な表現にまで変換され、それによってセルアニメと違和感なく融合した。一方ポストペットの楽園は、いかにもぬいぐるみやおもちゃのような立体感を持った動物たちが遊ぶテーマパークである。これは日本的な空間知覚の伝統が一枚の絵ではなく奥行きを持ったものへと変化しつつある兆しかもしれない。

7.まとめ

 映像としてのリアリティや空間的な首尾一貫性が欠如していても、それを心理的に補完してしまう仕組みを、われわれ日本人の視覚は強く持っているように思われる。映像として表現されるキャラクターに対してもこのような仕組みが働き、現実の存在ではないが身近に感じられるもの、実在感のあるものとして受け取ることができる。さらに、このようなキャラクター(生命体)が存在しているはずの空間についても、もともと3次元的な空間表現の伝統が浅いため、その空間の構成があいまいなままに受け入れることができる。
 このような日本人の特性をうまく捉えて、シンプルでインタラクティブなキャラクターに人工生命としての性格を付与することに成功したのが「たまごっち」などのゲームである。さらに、空間としての位置や構成は定義することができないが、どこかに広がる仮想空間としての実在感をもたらすインターネットの広がりは、上に述べたようなキャラクタ、あるいは人工生命に対して、適切な住処を提供する。
 JAVA、VRML、ライブピクチャーなど、インターネット上のインタラクティブな映像表示ツールは急速な発展を遂げている。このような状況において、従来はアニメやゲームの「オタク」の世界のマイナーな現象として片づけられていた仮想キャラクタへの感情移入、ディジタルな世界での生命観の変化の兆しが、「たまごっち」を契機に、日本社会の広い層に見られたことは決して偶然ではない。これらのゲームや映像作品の成功の理由を分析することは今後のエンターテイメントの開発や画像技術の開発に有効である。が同時に、ディジタル画像技術の成果として生命に対する認識が変化していく可能性に対して、技術を開発する側が考えなければならない課題は大きい。
 




注1 映画「バーチャル・ウォーズ」に描かれたVRのイメージはその典型である。
注2 アニメーションGIF, QTVR, VRMLなどのスタンダード化された方法の他、JAVAなどによってインタラクティブな空間を作れる。
注3MOOなどが知られる。
注4 映像の与えるインパクトはこれらの要素が複合したものであることは、たとえばCM制作ではこのような検討は常になされることからも納得されるだろう。
注5 当時の顔の表現は引目鈎鼻と呼ばれるように目を細く1本の線で表したが、これはデフォルメーションの方向性が逆になったものと言えよう。
注6 近代日本画で西欧絵画の影響を受けて描線を用いない表現が始まったときには、これを「朦朧体」と呼んで非難する声が高かった。
注7 ロトスコープとは俳優等の動きをフィルムまたはビデオに撮影して、それに当てはめてアニメーションを制作する方法である。
注8 フジテレビの"Digital Chat"、ソニーミュージックエンターテイメントの「クーロンズ・ゲート」などが文楽を参考にして制作された。
注9 リミテッド・アニメの多用は手塚治虫のプロダクションが打ち出した。
注10 生物の形態の分野でこの先鞭を切ったのは河口洋一郎である。同時期にAlvy Ray Smith(ルーカスフィルムからその後独立してPIXAR社を設立、その後Microsoft社に移籍)も植物のprocedural modelingを開発した。1985年から1990年にかけてこれらの研究は実用レベルに達し、現在はシミュレーションによる生物表現がハリウッド映画で普通に見られるようになった。
注11 草原真知子「人工生命と自動人形」東京工芸大学芸術学部紀要
注12 「バットマン」シリーズのコウモリやペンギン、「クリフ・ハンガー」のコウモリなど多数

参考文献
「横浜版画と開化絵」 日本の美術 Vol.9No.328 坂本満/戸枝敏郎 監修 文化庁/東京国立博物館/京都国立博物館/奈良国立博物館 至文堂 1993.9
「幕末・明治初期の絵画」朝日美術館Vol.23 No.1 朝日新聞社 1997.1
「横浜浮世絵」 横田洋一編 有隣堂 1989.5
「明治事物起源」 石井研堂 ちくま学芸文庫 1997.8 (初版明治41年)
「ジャポニスム ー 幻想の日本」 馬淵明子 ブリュッケ 1997.9
「江戸の遠近法」 岸文和 Keiso Shobo 1994.11
「江戸の影絵遊び」 山本慶一 草思社 1988.12
「もののけ姫を描く、語る」別冊COMIC BOX Vol.3 1998.1
IEEE SMC 98 - October 11-14, 1998 IEEE International Conference on Systems, Man, and Cybernetics - Intelligent Systems for Man in a Cyberworld
Machiko Kusahara
Curator / researcher

BACK