双羽黒、ベン・ジョンソンと天皇陛下

Training Journal:クリティカルエッセイ'89「科学とスポーツ」を再掲 (89年 3月号)


「裕仁陛下の御逝去を悼み、謹んでお悔み申し上げます。」

 もちろん、私も日本国民の一人であるから、憲法に定められ た我々の象徴である天皇陛下に対しては、日頃から敬愛の念を 抱いたことでもあり、その死に際しては深い悲しみを禁じ得な い。こんな感想を持つ人たちがいても、全くおかしなことでは ない。

 それはさておき、大相撲の昨年の話題は、なんといっても千 代の富士の53連勝であった。最後の九州場所は彼一人の独壇場 と化していたし、大相撲への興味も彼のおかげで低迷すること はなかった。協会としてもまさに千代の富士サマサマというこ とになる。私としては、ひそかに旭富士の躍進に期待をかけて いたのだが、稽古不足という親方集の評価を覆すことはできな かった。

 ところで、私にとって昨年の大相撲の中には忘れられないで きごとがあった。それは、双羽黒の廃業である。正確には一昨 年の末のことになるのだが、部屋を失跡した横綱に対し、日本 相撲協会は廃業という英断を下したのであった。横綱とは面識 がなかったので、報道を通じてしかその姿に接することはなかっ たのだが、常人の意識からするとずいぶんとわがままな男と映っ たようだ。しかし、彼は、強かった。その強さは、一年後の九 州場所のテレビでも再認識することができた。千代の富士に対 する勝率が最も高い力士ということでその名があがったからで ある。

 ちょうど千代の富士が48連勝を達成した次の昼、我が早稲田 大学所沢校舎の誇る教員食堂で、私と相席していたスポーツ心 理学専攻のとある教授は、思わず、「バカ羽黒を呼べ!」と、 叫んだ。「もう、千代の富士に勝てるのはあいつしかいないよ。」 そう感じた人は、きっと少なくなかっただろう。しかし、彼が 復帰することなどありえないのも周知の事実であった。

 さて、ここで本論に入ろう。私の今回の主張は、「協会が所 属を認めた力士でなければ大相撲には参加できない」というこ とである。あたりまえのことであるが、もはや双羽黒は千代の 富士と対戦することはできない。たとえ、「アリと猪木」の対 決みたいな形だとしても、絶対に起こり得ないのである。千代 の富士が引退した後でも、土俵以外の場所であってもそうなの だ。大相撲は、閉じた社会の中でのできごとであり、そこの構 成員たちはその社会の規律に従うことが要求される。千代の富 士が大相撲の構成員である以上、北尾光司君とは相撲をとるこ とはできないのである。双羽黒関は廃業の記者会見で、「この 世界は、師匠に逆らった時点でもう弁明の余地はなかった」と、 残念そうに語ったようだが、強いことよりも従順であることが 優先されるということが理解できなかった北尾君は、いくら強 くても力士でいつづけることはできなかったのだ。つまり、 「強いだけでは、相撲はできない」ということになる。

 話をオリンピックに転じよう。「より強く、より速く云々」 などといううたい文句を聞いていると、あたかも最も強い選手、 最も優れた選手を競い出すために競技会が行われているように 感じる。そこでは、最高の能力を発揮して、他の誰もが達成で きなかった成績を残した選手に、金メダルの栄誉が与えられる。 でも、それは本当なのだろうか。ソウルオリンピックの100m走 決勝では、ジョンソンの方がルイスよりも速かったことは誰の 目にも明らかだ。その時、彼は最も速い男だったのである。し かし、ドーピング禁止というルールのために、彼の金メダルは 剥奪されたのだった。彼の場合、成績以外の要素であるドーピ ング禁止規定によって排斥されたのである。

 大相撲の場合も同様である。相撲界の体質に同調できないも のは、もはや力士としては生き残れない。すなわち、大相撲は、 体制に従順な力士以外を排斥した上で相撲の技を競わせている 興業なのである。

 「体制」に従順などというと聞こえは悪いが、これを「ルー ル」と置き換えるとスポーツらしくなる。すなわち、スポーツ の世界では「ルール」が絶対なのであって、それに従えないも のは、どんなに強くても競技に参加することは許されない。ま た、万一参加して勝ったとしても表彰されることはないのであ る。ベン・ジョンソンの場合がそうであった。ルールは、世の 中の憲法と同様にみんなで擁護していかなければならないもの であり、私たちがふだん何気なく使っている、「勝つ」とか 「強い」という言葉の中には、「ルールで定められた制約の中 で」という条件が暗黙のうちに想定されているのである。

 ところで、「ルールに従う」といったときの「ルール」とは、 必ずしも条文に明記されたものとは限らない。たとえ禁止リス トに載っていなくとも、いかがわしいと判断されるような勝ち 方をした場合には、処分されてもやむを得ない。これは、勝ち 方だけではなく、考え方や生き方にまで影響がおよぶ。古くは、 草野球のアルバイトをしたことがわかってメダルを剥奪された 陸上選手もいたし、企業との関連を問題にされてオリンピック 出場を許されなかったスキー選手もいた。これらは、禁止事項 の一つとして予め定められていたものではなく、アマチュアリ ズムなどといった大ざっぱな概念規定によって処置されたもの なのである。もし、スポーツのルールを法律のようなものだと したら、これは、その解釈に依存するような問題であろう。あ るいは、不文律といえるものによる処置といえるかもしれない。 そして、大切なのは、その当時多くの人々がこの不文律に対し ては異論を唱えず無条件で受け入れたということである。しか も、それらの主張は積極的に擁護されてきたのである。

 ここで私の意見を明らかにしておきたい。私は、スポーツ大 会というのはそれを主催する団体の統括のもので行われるもの だと思っている。そして、その団体を統率している権力が一つ の体制を作っている。スポーツのルールには、その団体の中の 憲法のようなものもあるが、中には時の体制が定める法律のよ うなものもある。そして、その中の不文律は、時として「倫理」 と呼ばれることもある。しかし、そのようなスポーツの倫理は 普遍的なものなではない。実はそれは、そのスポーツ団体のみ んなが共通して持っている認識に支えられているものであり、 「みんながそう思っているはずだ」と信じることによって安心 していられる拠り所のようなものなのであると、私は考えてい る。

 したがって、私の理解によれば、日本相撲協会が双羽黒関を 廃業させたとき、また、IOCがベン・ジョンソンの金メダル を剥奪したとき、それはそれぞれのスポーツを主催する団体の 中で、それを支える体制を維持させるために必要不可欠なこと であった。もし、横綱に自分かってな「相撲道」を振りかざさ れたら、みんなが大切にしている大相撲の歴史や伝統が壊され てしまうかも知れないし、薬物乱用を放置しておいたら、オリ ンピックがつまらなくなってしまうからである。

 ところで、スポーツ団体には縦の系列がある。例えば、日本 陸上競技連盟に対して日本体育協会は上位団体にあたる。そし て、下位団体は上位団体の体制支配を免れることができない。 各団体は、その所属選手に対して「ルール」あるいは「倫理」 という形で、その体制を堅持することを義務づけ、それに従え ない選手を排斥することを不可欠としているのだから、「体制 擁護」が必須命題であることは明白である。そして、日本体育 協会の上に国が位置づけられるならば、その影響がおよぶのも また当然である。

 陛下の御逝去に際しては、多くのスポーツ大会が中止あるい は延期という形で弔意を表した。大相撲も一月八日に初場所初 日が予定されていたが、一日繰り延べることとなった。「みん な」と違ったことを避けたいという心理が日本国民の中に浸透 している以上、あえて大会を強行するにはよほどの覚悟が必要 だということも確かであろうが、一様な自粛はまた、それぞれ の団体に対しての陛下あるいは国家の影響の大きさを示すもの でもあろう。

 陛下の御逝去にともなう自粛は、陛下を敬愛するみんなの一 様な気持ちの現れであることは疑うべくもない。しかし、双羽 黒事件、ベン・ジョンソン事件を振り返り、スポーツの体制構 造に思いを馳せるとき、モスクワオリンピックのボイコットは、 「みんなが一緒」というスポーツ界の体質から生じた必然であっ たのではないかと思えてくるのである。もちろん、断わってお くが、スポーツの好きな私は、このような「みんな」の体制を 擁護している一人なのである。


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