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私のコンピュータ環境

さて、準備は整った。そういうわけで、私の使っているコンピュー タ環境を整理すると、図10.1のようになる。じつのところ、私 は研究室に滞在しているほとんどの時間をコンピュータの前で 過ごしているわけであるが、その多くは、画面に向かって文書 を作成することに費やしている。もちろん、その「文書」は電 子メールだったり論文原稿だったりするが、ホームページ用の ファイルやデータ処理プログラム、あるいは私個人の文献デー タベースも「文書」の一種と考えれば、文献検索などの外部デー タベース(ホームページも含む)にアクセスしているとき以外 はすべて「文書作成」しているといっても過言ではない。いづ れにしても、この原稿を書いている私自身を自省してみると、 「研究する自分」と「コンピュータに向かっている自分」とい う二つの集合は、そのほとんどの領域が重なっているように感 じている。


図: 私の利用しているコンピュータ環境。括弧内および 枠外のゴシック注記は、私が使用しているツールを表している のだが、私に固有のこれらのツールを除けば、多くの人に適用 できる枠組みなのではないかという気がする。

ところで、この図を書くにあたって、私はあくまでも自分の環 境を記したつもりなのだが、その関係(あるいは枠組み)につ いては私以外の多くの人にも当てはまる(あるいは、今後当て はまるようになる)のではないかという気がする。それはさて おき、ここでは、便宜上、コンピュータに向かう私を真ん中に して、「現実世界」と「インターネットの世界」とに区分して いる。コンピュータに向かう私のどこまでが現実でどこまでが インターネットかを区別するのは困難なので、その媒介として コンピュータ上の作業を位置づけた。このように、世界を三分 割すると、「インターネット」という虚構の世界の位置づけが できるような気がした。つまり、現実世界の私が「本当の私」 で、インターネットの世界の私が「分身」だとすると、コンピュー タに向かう私は、その「現実」と「分身」とのインターフェー スといえるのだ。

差し障りのないところから説明すると、日々の電子メールでの やりとりはまさにインターネットの世界との交信である。もち ろん、たいていの場合は相手の顔が思い浮かぶものの、見知ら ぬ人との交信もよくあるしgif、実際のやりとりは文字だけが全 てであるから、感情に触るいわゆる「微妙」な言い回しは困難 だし、やはり、(コンピュータによって表現できる程度に限ら れるという意味での)「私の分身」と「相手の分身」との交信 だと理解した方が安心だろう。

インターネットの世界から抽出する「文献検索」もやはり、メ ディアとの交信の一例である。もちろん私には物理的な「紙」 の形態での論文を読むことを好む性癖があるため、一度は図書 館へと身体を動かすが、一旦読んでしまうと、その文献情報は 私の記憶とデータベースの中に埋没してしまう。かつては、自 分の記憶だけが読んだ後の論文を探索する鍵だったのだが、自 分のデータベースに入れてしまえるようになってからは、たと え斜め読みだとしてもタイトルや著者や刊行年などのあいまい な情報だけでその論文をいつでも引き出せるという安心感から、 「抄読しなければ…」という危機感が薄くなってしまったので ある。コンピュータのディスクに自分の記憶の一部を代替させ ることができるように感じてしまったというわけである。とこ ろが、インターネットでの文献検索を多用するようになると、 自分の個別のデータベースを作成する意義さえ薄くなってしまっ た。つまり、自分専用の文献データベースを自分のパソコンの 中にわざわざ構築しなくても、いつでも所望の情報を机上から 引き出すことができるようになったからである。記憶の 代替としてのハードディスクの置場所が、自分のパソコンから インターネットに移行したというわけである。いやいや、それ どころか、インターネットに潜在する情報があたかも「思考の 代替」という機能を持っているかのような錯覚さえ感じる。こ れは、思考の危機なのだろうか。

実験と論文の関わりについては、もっと興味深い。実験や調査 のデータは机上で整理されながらコンピュータに入力されてい き、様々なデータ解析ツールを経て、統計解析(sas)されたり 図表(gnuplot & LaTeX)にされたりする。その過程で、現実 の世界(のはずだった)データはコンピュータで処理されるべ き記号の集積へと変化するgif。 そして、プリンタに出力した図表をスライドにして人前で発表 すれば、その「データ」は現実に回帰するのであるが、その履 歴は同時にホームページ上に記録され、私の分身を形成するの である。もちろん、その履歴が「自動記録」されるようには設 定していないのでその「分身」は完全ではないが、それにして も、一度コンピュータの世界に入ってしまうと、現実の世界へ の出力と、インターネットの世界への出力は、スイッチ一つで 切り替えるように容易に選択できるのであるgif

もちろん、従来のように、「学会」とか「出版」を前提とした 生身の人間関係だけが学者の評価基準であるならばgif、図10.1右 下に記した(プリンタを介する)「現実世界」への回帰だけが 本流で、インターネットへの「分身」は副次的なものに過ぎな いのかもしれない。ところが、その「インターネット」というメディアでの評 価体系が整備されたとしたら、そのスイッチをどちらに入れる かという事に優劣の差が無くなるかもしれないし、インターネッ トこそ本流になるかもしれないのであるgif

いったいこれは、いかなる問題を私たちに突きつけているのだ ろうか…(以下、次号)。



Yoshio Nakamura
Mon Dec 27 10:02:29 JST 1999