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メディア神経系

たとえば私が講演の場でスライドを使ったとする。その時、た いていはポインタを用いてスライド上の注目すべき箇所を指し 示す。このとき、私の意識はポインタの先端にあり、その先端 はあたかも私の身体の一部になっているように感じる。これは、 レーザー光線を用いたポインタの場合でも同様で、明らかに物 理的には離れているにも関わらず、その操作意識は照射された ポイントに集中しているのである。つまり、私には、手腕を操 作しているというというよりもむしろ、(自分の身体の一部と 感じられる)その照射点を操作しているという意識が芽生える のである。これはどういうことだろう?

先月号(15章)で、「メディアは<神経系>の一部である」と 述べた。これは、「皮膚こそが身体の境界である」という生理 学信念から自由になって身体の境界を拡張してみたとしたら、 あらゆる<(生理学的)外部環境>があたかも神経系のように 情報伝達を媒介できるということ、そして、それは生理学的意 味での<神経系>と融合するという意味である。そして、前記 のポインタの事例でもわかるように、スライドを指し示すとい う行為(意識)によって、手元を操作する体性(運動)神経と スライド上の指示(照射)点とが融合し、あたかもその「指示 ポイント」を操作しているように意識されるのだ。

ところで、この「ポインタ」の事例が示すのは、その<メディ ア神経系>の存在だけには留まらない。ここから提起されるも う一つの大切な問題点は、まさに私が把持している「手元の道 具」という媒介物質によってその「指示ポイント」が私の身体 の一部(先端)へと融合するわけであるとはいえ、「手元の道 具」と「指示ポイント」とは物理的につながっている必要がな い、ということなのだ。物理的に連結しているポインタ(指示 棒)とレーザーポインタの間には、「指示ポイント」の操作意 識の上では違いはない。すなわち、<メディア神経系>に置い ては、その情報伝達における<伝達物質>を物理的に特定する 必要がないということなのだ。これは、いってみれば当たり前 のことである。つまり、それが「メディア」であるかぎり、語 義からしてそれ自身が「媒介物」あるいは「媒質」なのであり、 そのメディアにおけるさらなる媒介物質を特定する必要がない のは当然のことである。だからこそ、その「道具」でさえも 「メディア」という概念で包含しているのである。

つまりこれが私の言いたいことである。ポインタを包含した身 体においては、それを操る機構の一部である手先と指示ポイン トの間の数メートルの<空間>は、情報伝達においてなんら支障に ならない。つまり、<メディア神経系>においては、その媒介 物質を物理的に特定する必要はない。だから、「笑顔の伝搬」 においても、その媒介を「物質」として特定する必要はないの だ。「あれっ、だってポインタの場合は『レーザー』という媒 介がありますよ?」と言うなかれ。それは光だ。そして、光が 「媒介」として物理的に定義できるということを前提とするの ならば、「笑顔」だってある特定の光の複合波長として相手の 眼に到達しているわけで、「笑顔の伝搬の媒介物質は何か」な んて問いかけ自身がなりたたなかったわけなのだから。

さて、これで問題は一つ片づいた。つまり、「光はメディア」 であり、それは<メディア神経系>の構成要素となるのだ。



Yoshio Nakamura
Mon Dec 27 10:02:29 JST 1999